2001.7/11-20

すちーぶ@駅構内出発信号機 - 01/07/20 23:07:19 電子メールアドレス:stephano@nyc.odn.ne.jp
遊歩さんが、司祭の立場から、具体論を出されています。 祈りましょう。何とも、十年もかかってしまった問題が、解決出来るかも知れません。
大草原の小さな家から「ものみの塔」が勝手に出て行った。
韓国、純福音から、自分が牧師長になりたい陸軍軍人出身者が軍で習った方法を使って、霊感商法を続けて分裂して行った「統一協会」。
密教比叡山の近くに勝手に、まともな宗教の名前を盗用した「**教」。
仏教・キリスト教・密教、いい処取りで、お目が悪いのを人のせいにした過激グループ「オウム真理教」。
いずれの事例も、分裂直前は、それぞれの宗教における理論と実績は最高だったと言うこと。
別の言葉で言うならぱ、ナチスドイツの、嘘も百ぺん。
既存の仏教やキリスト教よりは、直裁的にまともなことを言うので遊歩さんの手法は手ぬるいと思います。
が、ここは、プロの司祭に任せましょう。何かが地殻変動しているかのようです。
高松司教区に住んでいる信徒の皆さんに取っては、夜明け前が一番暗いのだろうと思います。
お祈りの輪が一番、サタンには堪えるはずなのです。皆さん、祈りましょう。それが、一番強い、支援の方法だと思います。



CBM - 01/07/20 22:24:00
遊歩さんへ2。
モモだよりの最後の部分「何であろうと神様のお手のうちで生きようとしている方たちがより神様のお気に召すべく始めたことでしょうから。結論は神様がお出しになるはずです」
神様がお出しになる結論の日まで、わたしたちはともに祈り、助け合い、許し合い、励まし合い、あるいは話し合って、問題解決のために、協力努力しましょうよ。


CBM - 01/07/20 22:11:33
遊歩さんへ。
「誰かの著者からの引用ではなく」とおっしゃいますが、問題解決のために本当に役立つという信念よりいでたるものならば、文章引用の自由をこの掲示板で制限すべきではないと考えます。


ぷー - 01/07/20 22:10:58
私は今の時点でこの問題の解決を求めるのは時期尚早と思います。まだまだ、問題を討議し、さらに広報していく必要があると思います。


遊歩 - 01/07/20 21:19:44 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
このBBSも誕生以来かなりの時間が経ちましたが、正直言って問題解決への前進が殆ど見られません。もうそろそろ終結へ向けての行動に入ってもいいのではないでしょうか。
そこで提案です。先ず、高松教区の問題については、教区の当事者の方々にお任せしましょう。
ついで、日本の教会全体の問題として、第一に、今までなされて来なかったと私には思われる重大な検証を行うこと。これには、2点あります。
1)は、新求道共同体が真実何を主張しているのか、それは、教義的に問題はないのか、と言うことです。
そのためには、誰かの著者からの引用ではなく、共同体の責任者の責任ある発言を求めるべきで、責任者は、それを明らかにする義務があると思います。
万一教義的に問題があれば、たとえ教皇の賞賛があろうと日本の教会として、はっきり日本の信徒に向かって否定の意思表示をする必要がありましょう。
2)共同体独特の典礼について、聖堂の仕様を含めて、たとえ、教義的に問題が無くとも、それぞれの小教区に受け入れるか、否か、或いは条件付とするかの決定を任せることを公式に表明する必要がありましょう。
この場合は、かなり柔軟に考える必要があります。小教区も心を広くして色々な典礼の形があることを容認すべきだと思います。
この問題を現状のまま放置すれば、日本の教会の一致と福音宣教とに重大な結果となると思われます。
日本教会の司牧の責任をおっておられる方々の慎重な、しかし迅速な決断をお願いいたします。


すちーぶ - 01/07/19 11:27:00 電子メールアドレス:stephano@nyc.odn.ne.jp
遊歩さん、ここの場所で氏に論を入れることはどうかとは思うんだけど聞いて下さい。
本文に入ります。ここに、プロテスタントから改宗した頃のカトリック要理があります。かなり赤線を引いてます。新教から転会したついでに、堅信してますから、読み上げます。
1989年1月19日、****教会で受洗した右者は1996年5月26日布池教会において野村純一司教より****を代父として堅信の秘跡を授かったことを証明いたします。
主任司祭・岩崎一二三。ずばりカテキズムですよ。カトリック広しと云えども、これを骨格にしてないと意味ないじゃないですか。
いいですか、遊歩さん、すべてのカトリック信徒は、宣教師たるんじゃなかったっけ。これが出来ないんとは、なっさけないです。へんなのが入って来て、その歴史は分かりました。
一番困ることは、ロザリオ続けているような私らです。イエス・キリスト様の御復活。十字架を証しする信徒。ここが試されるみたいな気がして、暗澹としています。まとめに入ります。
十年一昔と言うけれど、あっちへ行ったりこつちにふらついたり、し続けて来ました。だけど、イエス・キリスト様への絶大なる信頼と、母マリア様への熱き思いは変わってません。
なんとか、彼らの為に、祈らせて欲しい。これっきゃないような気がしているのです。


すちーぶ - 01/07/19 11:00:13 電子メールアドレス:stephano@nyc.odn.ne.jp
N小教区の神父様も書いておられますのね。


すちーぶ - 01/07/19 10:56:19 電子メールアドレス:stephano@nyc.odn.ne.jp
んんん、経験がないので、どう評価論出せばいいかまず、貴団体がどのようなものであるか知らなかったので、メールでは警戒して未信者としましたが、かなり実績を持っている者です。
あすぐすちぬ港教会・平信徒。名古屋司教区です。
ホームページリンクについて名古屋司教区では、小教区公認あるいは許可のホームページについては、カトリック者がやっている個人ページであっても、リンクは許可制となっています。
どうしてだろうか。私は、賛美歌を編曲したり自作の曲を書いたりして、リンク先で友達となればよし。これだけなんですが。
ずーーと調べて行きましたら、鹿児島問題と高松問題が、重くのしかかっています。カトリックには聖書が必要ないんでしょうか。典礼はいらないんでしょうか。
この要素を外したら、グレゴリアはおろか典礼聖歌も無意味になってしまいます。
ただねぇ。皆さんのお気持ちは分かるだけに、私のやれることは、ネットを通じて情報を拡散させることのみ。
具体的な信仰生活をどうしなさいとは申すことが出来ないのがもどかしい。
祈ることしか出来ないのです。 野村司教傘下、信徒会長を選挙投票で決め、おみどう建設の為に行商する。あうぐすちぬ修道会ですよ。
まるでふらんしすこ会みたいな、謙虚さでイエス・キリストを宣べ伝える小教区。
港の私には、信じられません。 が、正直な処です。


CBM - 01/07/18 23:11:09
ぷーさんへ。どうもありがとうございました。デルコル神父様も天国でお喜びのことでしょう。


ぷー - 01/07/18 22:26:36
デルコル神父さまのマボロシの「ご存じですか?」61巻(新求道運動とは)の出版差し止めに、高松司教が関わっていたとゆうことです。
となると、遊歩さんが挙げられたネオのカテキズムの問題点を、高松司教は知っていたのではないか、という憶測も成り立ちます。
しかし、これだけ、netにより情報公開の進んだこの時代、いつまでも、不正義を隠せ通すわけはありません。
やはり、神は真実を明るみにだしておられる。デルコル神父さまの果たせなかった遺志をついでいきましょう。


CBM - 01/07/18 15:22:28
ぷーさんへ再び再び再び。
「新求道運動とは」がまぼろしになってから、デルコル神父様は、ご存じですかシリーズ第66巻として「教会を破壊する悪魔的な大計画」を出版されました。
愛心館さんで扱っておられますので、どうぞお読みになって下さい。1冊200円。まぼろしの第61巻と内容的に何か似ています。
書き出しは次のごとし。
「なんか月か前に、わたしの診療所に、かなり大きな包みを誰かが忘れたか、あるいはわざと残したか分かりませんが、わたしは、これに気付きました。2か月たっても誰もこれを探しに来なかったので、いったい何が入っているのか調べようとして、包みを開いてみました・・・驚いたことに、分厚い原稿がでてきて、なんと、その題は、教会を破壊する大計画と記されていたのです。」


CBM - 01/07/18 14:53:15
ぷーさんへ再び再び。デルコル神父様から、「新求に賛成する」と、私は1回たりとも聴いたことがありません。
別府カトリック教会での、デルコル神父様のお通夜、葬儀ミサ、告別式、埋葬式と全行事に参列いたしましたが、その際にも、周囲の司祭方やその他の方からも、一言もそのような発言はありませんでした。


CBM - 01/07/18 14:42:06
ぷーさんへ再び。「他者の」というより「上層部の」といったほうが正確です。しかもそれは高松の司教とも関連があるのです。
デルコル神父様は、どんなお気持ちで、この本を回収されたのか、胸中察するにあまりあります。


CBM - 01/07/18 14:23:25
ぷーさんへ。「新求道運動とは」全ページコピーの上、日向さんに送付済みです。


ぷー - 01/07/18 12:40:32
CBMさん、たぶん当HPの管理人さんもその本を見たいと思われるのではないでしょうか?ですので、本のコピーを日向さんに送られたらいかがですか?
一つお尋ねしたいことがあります。理不尽な圧力で、マボロシの第61巻が回収されたのは、デルコル神父さまの意志ではなく、他者の圧力によるものだったのですね?
デルコル神父さまは、最後まで、ネオに反対されていたのですね?


CBM - 01/07/17 22:55:57
コメント:
再び再び再びぷーさんへ。コピーしてでも送りたいです、この本。どうしたらいいのかなぁ・・・


CBM - 01/07/17 22:46:38
再び再びぷーさんへ。デルコル神父様は1995年10月19日にご帰天になられました。でも、神父様は私に送られた1冊まで回収しようとはなさいませんでした。


CBM - 01/07/17 22:41:13
再びぷーさんへ。なぜ「まぼろし」になってしまったのか? それは、私もはっきりと申し上げたいのですが、控えます。理不尽な圧力によって回収されてしまったのです。


CBM - 01/07/17 22:21:15
ぷーさんへ。当該書籍は、ごぞんじですか?シリーズ第61巻として発行されました。ところが突然、第61巻は「煉獄について」という本に差し替えられました。
「新求道運動とは」という本は「まぼろしの第61巻」になってしまったのです。


ぷー - 01/07/17 22:07:36
CBMさん、そのサレジオ会のアロイジオ デルコル神父さまの「新求道運動とは」とゆう小冊子、入手したいのですが、どのようにしたらいいでしょうか?


CBM - 01/07/17 21:35:14
大分教区においては、サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父が、1992年9月15日というきわめて早い時期に1冊200円の値段にて発行の著書「新求道運動とは」で次のように述べています。
「現代カトリック教会にとってこの運動は最も恐ろしいわなだといわねばなりません。
ある司教団は警戒するように呼びかけていますが、あるものはこの運動の危険性をみぬかないで、その罠にかかっています。
ご聖体に対する不敬と聖母信心の否定はこの運動の根本的な謬説です。」


遊歩 - 01/07/17 18:23:35 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
いよかんさんが紹介してくださった文書の中で、新求道共同体の主張とされている諸箇条のうち、以下の命題は、カトリック教会の教義に抵触すると思われます。
当の文書は、10年前のものですから、既に修正されているかもしれません。
また、当然新求道共同体の側からの弁明の機会を与えるべきで、既にそのような手続きはなされているのかもしれません。
しかし、万一そのような処置が無く、現時点においても共同体が以下の各条を固執しているのであれば、いかなる高位聖職者もそれを容認することは許されないと思います。
はっきりと信仰箇条に反すると判断し、カトリック者は、このような教説を正統なものとして受け入れることができないし、また、受け入れてはいけないと明言すべきです。
但し、私は、異端としてそれらを断罪すべきだといっているのではありません。カトリックの信仰に抵触するから容認できないと言うべきだと言っています。
以下に問題点と思われる命題を列挙します。
○キリストはいかなる贖いも成就しなかった。
○人は罪を避けることが出来ないので罪と言うことはあり得ない。
○人は罪を犯し得ないので聖寵と自由選択能力の間の関係には、いかなる問題もない。
○イエズス・キリストは世の罪のためのいけにえとして自らを捧げなかった。十字架の上でキリストはいかなる「犠牲」も捧げなかった。
○イエズス・キリストはいかなるいけにえも捧げなかったので、祭壇の上ではいかなるいけにえも捧げられない。
○御聖体(ユーカリスチア)におけるキリストの真の・現実の・実体的な現存は受け入れることが出来ない。
○御聖体の現存は否定され、そこから生じる礼拝に関するすべての実践は、虚しく馬鹿馬鹿しい。
以上。新共同体サイドからの弁明を期待します。


ぷー - 01/07/17 12:27:40
>単なる中傷的な内容であることを祈りたいですが、<あのネオ批判文書ですが、出典先が明示されてますから、中傷文書とは考えにくいと思います。


CBM - 01/07/17 01:25:42
1995年、仙台教区内の教会の文集に掲載された文章より。
G会所属司祭は、「キリスト教の本質は復活した主である」といって、祭壇上から十字架をとっぱらった。
「ご聖体のなかに何かがあると思ってはいけない。ご聖体はミサ中に拝領されなければ意味がない」初金曜日のミサのあとでの邦人教区司祭の発言がこれ。
「これらの司祭たちはキリスト信者でしょうか?」と書いた著者に「人を裁くのはよくない」と、この教区司祭は説教で攻撃したという。


CBM - 01/07/17 00:46:10
今になって思い返せば、以前から聞いていた数々の逸脱典礼や冒涜教義説教等は新求の影響だったのかと、改めて驚いています。
京都府南部の女子信徒より1992年頃に聴いた話。県を跨いで奈良のM会司祭司牧教会にいったら、直径20センチ以上もあろうかと思われるホスチアを聖変化していた。
ふくらし粉を使っていると見えて、ホスチアの分割の際、「神の子羊」と唱えられるたびに、ホスチアの断片、かけらが祭壇上にも下にもボロボロとこぼれ落ちた。
司祭は平気で靴で踏んづけていた。ごミサのあとで彼女が飛び散ったホスチアの断片を拾ってかごに入れたらかごがいっぱいになってしまった。
彼女が帰ろうとすると、信徒たちは聖堂にいつまでも残っている。
これから「アガペ」という食事会をやるという。参加を勧められて断った彼女は、司祭から「あんたはアガペに出ないからいけん」といわれ、さらに「あんたは外食するからいけん」といわれた。
「外食」とは、自分の所属教会ではない教会で、聖体拝領をすることをさしていたのである。


- 01/07/16 23:22:51
司祭不足の解決のためならと、ネオにカトリックの教義に反する点があっても、ネオ賛成派のお偉方は黙認しているのではないでしょうか?
>黙認できる程度の内容ではないでしょう。お偉方には絶対に分からないように旨くやってきた?ではないですか。


CBM - 01/07/16 22:12:00
ぷーさんへ。連絡がいくと思いますので今しばらくお待ち下さい。


- 01/07/16 21:39:36
遊歩さま、司祭不足の解決のためならと、ネオにカトリックの教義に反する点があっても、ネオ賛成派のお偉方は黙認してるのではないでしょうか?


ぷー - 01/07/16 21:32:39
あいしん86号、の司祭職に関するキコの考え方ですが、なるほど、そうだったら、誰でも簡単に司祭になれますよね。どうりで、雨後の竹の子のように司祭が誕生するわけだ。


ぷー - 01/07/16 21:08:22
CBMさん、すみません。「ももだより」7月号とはどうやったら、入手できますか?


CBM - 01/07/16 19:45:34
「モモだより」7月号に、新求とは知らずに、新求主催「復活徹夜祭」に連れていかれた女子信徒の体験談が載っています。
彼女はこうつづっています。「神学も哲学も分からないけれど、こんなごミサは蔓延してほしくない!!」私も同感。


遊歩 - 01/07/16 15:52:54 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
いよかんさんが、7/10付けで紹介しておられる新求道共同体批判の文書は、その発信元の信憑性は別として、内容そのものは、深刻なことを述べています。
本当に共同体の主張するところなのか、或いは、単なる嫌がらせの中傷なのか、共同体を支持しておられる方々、特に教導職にある方々は、はっきりした判断を公表されるべきだと思います。
私は、それは、そのような方々の当然の義務だと考えます。
教会内の或る活動を容認するかどうかと言う「司牧的な」事柄を越えた問題だと思います。
単なる中傷的な内容であることを祈りたいですが、万一、幾つかの教義に反すると思われる点を意識的に容認されるのであれば、私たちカトリック信者としては、重大な決意をしなければなりません。
日本の司教団としてもはっきりした判断を示すべきだと思います。


ぷー - 01/07/16 12:14:31
あいしん86号とは、どのような雑誌ですか?どうやったら、手にはいりますか?


CBM - 01/07/16 01:41:33
私が新求と高松教区の深刻な問題を知るようになったのは、この「あしたにむかって」HPを読んだからです。
「日本の教会はついにここまできたのか」と、衝撃と怒りとで、どうすることもできませんでした。
「ミレニアムの虚構」を読んで、それが頂点にたっしました。
新求は、なぜ、高松や大分の兄弟姉妹たちを迫害するのですか?どうしてですか?



CBM - 01/07/15 02:25:00
初めて書き込みします。私もぷーさんの意見に大変近い考えです。私は、新求は、ローマカトリックではないという考えです。(あいしん86号参照) 
それは、典礼や教会内装がただ単に新求様式であり、それが外国のやり方を無理に日本に導入しようとしているだけではなく、キコの教えそのものが、ローマカトリックの教義と全く相容れないからです。
はっきりいったら、異端です。米国クリフトンのマーヴィン司教による宣言文には「新求道運動の道は今後中止される」とあります。
私たちには、護教の義務もあると確信いたしております。


ぷー - 01/07/14 22:50:14
エンリコ ゾッフォッリ神父さまの新求道期間運動の異端と呼ばれる著作の一部ですが、等HPのリンク先の一部に日本語訳がされて、掲載されております。
それを読み、考えたことは「ネオ共同体」は、カトリック教会とは別のキリスト教団として認識するべきであるということです。
ですから、ネオのカテキズムによる養成を受けた司祭は、「ネオ司祭」として、カトリック教会の司祭と区別するべきであると思います。


アサさん - 01/07/14 16:38:27 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
蛍さん、ちょっと振り返ってみてください。このネオの問題が起こらなかったら、それはそれで良かった。しかし、そのことによって、私は逆に得たものがある。
こんなにも自分はカトリック教会を愛し、こういう教会であって欲しいという将来の明るい教会へのビジョンを持っていたということに気がついた。再発見したということ。
その意味で私はネオにたたき起こされたという感じがいたします。そして、これだけ多くの人が、この問題を考え、闘い、解決しようとしている。それは素晴らしいことだと思います。
それが本当に愛に基づいた、心からの行為であれば、人に理解される行動や思いはどちらかということは自然に明らかになると思います。


蛍 - 01/07/14 13:09:41
アサさん、ありがとうございます。私は教会を守るのを優先すればと言ってるわけではありません。教会と信仰どちらも大切にしなければならないと思っている者です。
私の誤解釈かもわかりませんが、この四国内に今ある教会を何もない白紙の状態から土地を買い、教会を建ててそれを守って来た神父様や信者さんの今までの苦労は、一体何だったのかと思うのですけれど。


アサさん - 01/07/14 12:40:16 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
螢さんWrote>でも本来のカトリック信仰を忠実に守っていくには、その傲慢さもある程度必要であります。信仰だけで宗教が成り立つとは考えられないです。
拠り所の教会を守り、そこを拠点にして後世の者に教えを伝承させていくのが使命であるのですから、その過程の中でおこる外的摩擦と攻撃から教義、教会、信者を守る良心の甲冑としてある程度の傲慢 感は必要ではないのでしょうか。 私はキリストに倣った生き方がしたいと念じております。
宗教を信仰よりも大切と思ったことも、教会が個々の人の信仰よりも大切と思ったこともありません。
人がキリストに倣って生きたいと思うとき、それは結局人を通して伝えるものだと思っています。


蛍 - 01/07/14 10:34:14
コメント:
でも本来のカトリック信仰を忠実に守っていくには、その傲慢さもある程度必要であります。信仰だけで宗教が成り立つとは考えられないです。
拠り所の教会を守り、そこを拠点にして後世の者に教えを伝承させていくのが使命であるのですから、その過程の中でおこる外的摩擦と攻撃から教義、教会、信者を守る良心の甲冑としてある程度の傲慢感は必要ではないのでしょうか。
ネオの問題は、同じカトリック内で発生した後発者にもかかわらず、本来のカトリックの教えをベースとし、絶対こちらの方が正しいと言い張り、傲慢の程度を逸脱して、限られた枠の中で強引に勢力範囲を塗りかえようとする、言わば人のふんどしで相撲をとる狂信的寄生虫みたいな集団であると思われます。
そのうち必ず分派していくのは明白でありましょうが、それをいつまで私たちに我慢せよというのでしょうか、無責任にもほどがあります。高松教区の地獄沙汰はかなりのところまで来ています。


アサさん - 01/07/14 08:24:33 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
漬物石さんがネオによる「取り残された疎外感」について言及されています。
私は、その指導司祭から「ネオをやる仲間が仲良くして、その結束が固ければ固いほど、周りの人はうらやましくなって、仲間になりたくなります」と言うのを聞き、その傲慢さに腹が立ったことを今でも憶えています。
彼らがその傲慢さに気がつくのは実に難しい。私たちにもそうした傲慢さがないとは言い切れないから・・・・・


アサさん - 01/07/14 08:19:33 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
悩み苦しみは色々あるだろう。それはその人のものであり、他の人にとっては大したことではないかも知れない。
しかし、そうした苦しみの救済(癒し)と心の秘密が一切ない!というのは違うと思っている。何でもかんでも実に臆面もなく人に話すようになったことを喜ぶ人もいるだろう。
しかし、私はちょっぴり秘密のある人間の方が「人間らしい」と感じる。本来人間とはそうしたものだと思っています。


蛍 - 01/07/14 00:00:27
アサさんが体験したことと同様なことを創価学会でもやっています。
学会では自身が抱える悩みや、過去乗り越えてきた苦労話を会館内で満員の聴衆を前にして一人一人が大声を出して告白します。
普通なら恥ずかしくて口にも出せない個人の体験談や秘密事を大衆である信者に聞かせるのですから、当然ながら互いに秘密を共有することになります。
脱会の困難はそういうところにもあります。後は何かにつけての地獄攻めですね。地獄の恐ろしさを嫌というほど心に叩き込まれます。 


蛍 - 01/07/13 23:00:16
突然すみません。
山岸さんたちの方で猛威を振るっているらしき創価学会の信者とカトリック信者の大いなる相違点に触れたいのですが、あちらは信者個々が異常なくらい自立しており、それがほぼ一人も欠けることなく、事あるごとに結集して問題に対処していきますから、こちらから見て「これは絶対解決出来ないだろう」と思われる問題でもどうにか解決してしまう。
教義の違いは攻守であると言い切れるほど正反対でありますけれど、少なくても信者の自立という面だけは見習うべきであると思います。


KENT - 01/07/13 21:55:08
自発的にネオから離れた信者さんの中には、自分の受けた体験を恥だと受け止めておられる方がいます。
ネオが自信をもって説く一流の霊性体験であるのに、何故それを恥と思われるのでしょうか?不思議でなりません。


たこぼん - 01/07/13 19:30:18
高松の旦那はん。あんさんちょっと見んまに、何さらしてけつかっとんねんな。ほないまでして裸の王様になりとーおまんのか?
無抵抗の羊や思うてなめとったら、後で泣きみまっせ。神さんはちゃーんとあんたのことも見とるさかいな。もっとしっかりしなはれや。
ほんま頼んまっせ。讃岐の信者はん、ちと遠いけど祈ってまっせ。体に気ぃつけや。


- 01/07/13 16:09:39
それがなくては生きて行けないようにするのが、いわゆる新興宗教などのやりかたです。それはまったくもて巧妙かつ周到です。
それはきっと強烈にそれを体験した者でないと分からないと思います。今、自分にとって何が一番大切かをもっと考える時だと思う。皆さんはどうですか?


名無し - 01/07/13 08:14:26
しかしながら、ネオのカテキズムがカトリックの本来の教えとして、全てのカトリック信徒に受け入れることを、求められるのなら、それは、大変な害毒であります。


あしたに向かって - 01/07/13 06:59:56
浜千鳥さん、ほんとうに良かったですね。みなさま、ありがとうございます。わたしたちの神に感謝


アサさん - 01/07/13 06:52:06 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
瀬戸内灯台さんWrote >ネオが信者のどういう弱さにつけ込むのか、そこを具体的に挙げていただければ幸いです。 
ネオの導入部を体験するとよくわかるのですが、人それぞれにどうしても乗り越えられない心の重荷(トラウマとでも呼びましょうか)を持っているものです。
もしそれが重いものであればあるほど、ネオの集いの過程でそれが少しずつ裸にされていきます。
そして、それを受け入れてくださるのは主だということを強く体験するように持っていきます。それを復活ということを通じて体感させる手法には強力なものを感じます。
こうした段階で多くの参加者は涙を流してそれを少しずつ告白するようになります。
こうした手法は新興宗教などで良く行われている方法で、人間の心理を実に良く心得ているものだと思います。
逆に言うとそうした部分(心の癒し)が、現教会に欠けているということができるかも知れません。今日はとりあえずここまでで。


アサさん - 01/07/13 06:41:21 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
ネオカテクメナートに恐怖を感じるという話にもう少し言及しますと、恐怖を感じるネオ体験者というのはある意味でネオとある程度距離を置いている人ということができます。
ネオの呪縛から完全に解き放たれていない人は、恐怖と言うより不安を感じていると思います。
ネオ体験なしに恐怖を感じるのは、まわりの不正確な情報による恐れでありましょう。
私は個人的にネオカテクメナートを体験して、違和感を感じましたが、共同体を指導する方々もそういう違和感を抱いている人間にすぐ気がつくものです。
私の感じたのは恐怖ではありませんでしたが、そうした「すべての人のためのもの」と彼らは言うが、「私には合わない」と感じました。
この運動の実態と本質を冷静に見抜くことは大切ですが、これがすべての人にとって害毒だとは、私は思っていません。
逆にすべての人にとって有益だと主張する彼らの傲慢さに反対している者です。このネオが無いと生きていけない人を数人知っています。
その人達に向かって「ネオは悪いものだ!」とは、私は主張できません。


浜千鳥 - 01/07/12 19:25:33
このホームページのおかげで人を救うことが出来ました。皆様ありがとう。神に感謝。


上天のメリー子 - 01/07/12 15:53:32
いよかんさん有難う。やはりそうだったのですね。驚愕しました。呆れて言葉が出ないです。


峰山の切支丹 - 01/07/12 10:11:47
溺れる者は、わらも掴むと日本の諺で申されております。ネオ導入の顛末を見る限り、奢れる者は異端を掴むというのが妥当な気がいたします。
この平和な四国にはあのような異端者は必要ありません。先に逝った仲間も上で悲しんでおられます。


漬物石 - 01/07/12 09:12:49
ネオの良い面はいくら考えても出てこない。つまり比較の対象にならないほど善悪を超越し、日本には全く必要のない、邪魔なだけの存在の団体である。功罪じゃなく犯罪。


しょうゆ豆 - 01/07/12 00:59:47
おもいがけず、皆さんのそれぞれのコメントから“恐怖心”の原因を知ることができたような気が致します。
意外です。思いもよらぬ形で意外なところに悪影響を及ぼしているのですねエ。


漬物石 - 01/07/12 00:29:52
ネオ非体験者>ネオ養成非体験者(失礼) 認可されようがされまいが、後ろ盾があろうが無かろうが、そんなのに臆して何が出来る。
信じるもの一つだけ。他に道はいらない。私はそれで天国に行く。偽の導き必要無し。


白鳩 - 01/07/11 21:26:04
人間的にも尊敬し、敬っている大好きな諸先輩方が横で朽ちていく様を見るのは悲しすぎる。これは実際自分が体験しないとわからないことなのかも。


漬物石 - 01/07/11 20:27:11
私はネオ非体験者の一人です。ネオの功罪、それはネオ司祭が入った教会では、同じ教会に通う今まで仲のよかった近隣の信者さんを互いに信用出来なくする。
そして本来の教義に反し、心卑しくも疑心暗鬼を芽生えさせてしまい、個人差にもよるが最悪ノイローゼ状態に追い込まれて行く。
ネオを拒否すると、その教会内にいる限り永遠とそれらが繰り返される。巧みに信者個人間の絆を操作され、取り残された者は疎外感の塊と戦うようになる。
彼らは間違いなく知っててやられている確信犯だと思います。これをカトリックと「呼べ、思え、従え」と言うのなら、私は即刻離れるでしょう。
紛らわしい偽装偽者異端集団はとっとと消えちまえ。


キルス - 01/07/11 20:01:01
アサさんの二つのご発言のうち、はじめのものは正しいご指摘です。
しかし次のものは「恐怖心を抱いた信者」ネオ体験の恐怖ではなく、ネオに反対を表明する事への恐怖である事を理解しておられません。
ネオも新興宗教も「人の作った」宗教でありながら、赤裸々に裸にされた自己との対峙を要求する体験を与える、そういう種類のカルトであるわけでしょう。
しかし、カトリックにも本来「人の作った」宗教の側面がないわけではない。つまり宗教組織としてのカトリックです。
多くのカトリック教徒はそこの部分に非常に依存しているのに、自分ではそのことに気付いていないのです。
ネオに反対することの恐怖心は組織としてのカトリックからの制裁への恐怖であり、この制裁によって自己とキリストとの結びつきをも断たれるという不安が恐怖心の中核でしょう。
この組織依存型信仰は別の意味でのカトリックのもつカルト性と言えない事もない。しかし、もはやそういう信仰は古い。組織そのものが音を立てて崩れつつある現状では。 
信仰の本質は組織依存ではなく、キルケゴールの教えた単独者としての信仰です。
カトリックの信経もはじめからCredoすなわち「われ信ず」であり、「われわれ(共同体)信ず」とはなっていません。


しょうゆ豆 - 01/07/11 12:16:53
アサさんのコメントに ネオ体験後「恐怖心を抱いた信者さんの、と書かれていますが、私が書き込みの時イメージしていた方々はネオ体験の無い方たちなのです。
恐怖の体験をされた方、それがどんなものかはわかりません。ネオの体験をされている方なら、アサさんのおっしゃっていることが成る程、そーなんだ、と思いました。
でも、ネオの体験のない方がおびえている、そんな方がいらっしゃるのです。


アサさん - 01/07/11 06:49:53 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
どなたかがネオ体験後「恐怖心を抱いた信者」さんのことに言及しています。
私は、それはネオそのものに対する恐怖心と言うよりも、赤裸々に裸にされた自分との対峙を要求するネオ体験によって、潜在的恐怖心を植え付けられたのだと思っています。
これは新興宗教などに共通する部分だと考えます。


アサさん - 01/07/11 06:44:44 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
時として、私はこの共同体運動はカトリックが忘れていた、本来の「人の作った」宗教の側面を表に出してきたものではないかと思います。
人の作った宗教的な側面では、カトリックが批判する「エホバの証人」や「その他の宗教団体」の本質と何ら変わらないとさえ思う。
瀬戸内寂聴さんが「良い宗教と悪い宗教の違いは、お金を集めるか、集めないかでわかる」と言い切っていますが、その程度の差しかないのではないかと思うことさえある。
宗教組織としてのカトリックではなく、キリストの愛の行為に倣いたい。


番町皿屋敷 - 01/07/11 00:46:33
以前、あるネオ司祭が赴任した‘ペンペン草教会’(仮称)で、入院患者が続出したという噂を流れ聞いたことがあります。
なんでもその教会には、他の教会のネオ信者と神学生を続々と送り込まれ、抵抗空しく全員取り込まれてしまったそうな。
しかもその手引きを地下でなされたのが筋金入りの古参信者であったといいますから、呆れるやら情けないやら。誤情報であるのを祈りたいですね。


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