2003.4/1-10

しょうゆ豆 - 03/04/10 13:21:26
管理人さんへ。
4月8日付けの「中外日報」の中に、このHPの管理人さんである日向さんの名前で(小豆島教会の信徒,日向育子さんによって)高松教区26教会の内8教会の信徒を対象にアンケートによる実態調査がこころみられたことが報じられています。
できれば、可能ならばこのHP上で少しでも結構です、照会していただけないでしょうか?参考のためにも。


@ぷー - 03/04/03 23:02:19
少なくとも谷口神父のいうようなことは、献金をもらう側が主張するようなことではありません。禅僧は托鉢でほんの少しでも頂いたものには頭を下げています。
貴重なお金をいただいてありがたいといった姿勢が谷口神父の文章からは微塵も感じられませんね。まあ、今に始まったことではないので、別に驚きもしませんけど。
しかしそれにしても、一向に教区報は発行されませんね。どうなってるんでしょうか?


しょうゆ豆 - 03/04/03 22:53:55
たぶん、小さな教会の会計係さんもしょうゆ豆と同じような思いなのではと感じているのですが、しょうゆ豆は高松教区ではこのような、信徒に信頼の無い司祭が公の立場で教区運営に深く係わり教区の会計をし切ってしまっていると言うことが問題だと言いたかったのです。
「高松教区立」神学院さえなければ一粒会積立金のことでとやかく言うようなこともなかったでしょうし、ささやかながら高松教区は平和であったと思います。
しかしながら、ものは考え様、神学校の仮校舎建築後のどさくさは信徒に覚醒の刺激となりつつあるかもしれません。


通行人C - 03/04/03 14:48:52 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
教会への醵金は、出す方の心構えとしては、T司祭の申されることが妥当だと思います。
しかし、受け取る側は、神様ではないわけですから、拠出した人の意向を尊重する義務があると思います。
よく○○のための献金と言う箱があって、自分が出した金がどこへ良くか分からない場合があります。やはり出した金がどこへ行くのかはっきりさせる必要があるでしょう。
たとえば箱を別々にするとか。それに、オウム事件以来、宗教団体とても安心できません。
自分が出したお金がサリンにならないか、拠出者も最後まで自分の献金の行方について責任を持たねばなりません。


しょうゆ豆 - 03/04/03 00:21:29
次の文章も、信徒協役員に届いた谷口幸紀教区会計担当司祭の文章の一部です。
「一粒会規約の扱い方について」、前略〜〜中略〜〜また、旧約聖書の世界で神殿と司祭たちに捧げられた生贄、収入の十分の一の捧げもの、現代の日本のカトリック教会の維持費、月定献金、堂内献金、様々な意向の特別献金、そして一粒会の献金は、国や自治体の「税金」、あるいは、クラブや任意団体・結社などの「会費」とは本質的に性格を異にするものであるという事実にも気づいてほしいと思います。 
税金や会費は納めたあとも納めた人のものという意識がつきまといます。使途をあらかじめ制限し、定められた目的に添って正しく支出されたかを監視し、監査するのは当たり前です。
しかし、「宗教的捧げもの」は違います。捧げたとたんに捧げた人の手を離れて、人間の次元から神の次元に移るのです。
(宗教法人法との関係で発生する世俗的側面は別ですが、宗教としての教会の司牧に関する限りは上の通りです。)
聖書に書いてある施しと同じように「施しをするときは、〜〜〜略〜(マタイ6:3−4を引用)などの精神からすれば、本来自分がいくら出したかさえ神と自分の間だけの秘密で、出した後のことについて最後まで追跡し監査しないと気が済まないというのは、世俗的な立場にのみとらわれているのではないでしょうか。〜〜〜…ですって。
それなら一粒会の収支計算書はなぜ存在したのでしょう?。それに捧げものも、神の次元に移る前に存在しようとする教区会計担当司祭に信頼があるのならまだしものこと。
そのうえ、みことばを、まるでおどし文句のように引用するでは信用などまったく出来ない。


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