2003.5/21-5/31

- 03/05/31 20:42:03
ヨハネの黙示録(3.14-16)ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。
『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」』


中島らも - 03/05/30 21:24:42
こんにちわ。中島です。ネオの方々でこれを読んでる方に一言。あなた達がやっていることは決して否定しません。しかしそもそもあなた達がネオに行っているのは何のためか。
それをもっと考えてほしいのです。自分たちのやっていることは正しい。たしかにそうかもしれません。しかし、それだけに満足してしまっては単なる自己満足の信仰ではないでしょうか。
もっともっと弱い人達に目をむけていき、そしてもっとみんなで教会を盛り上げて行こうではないですか。


信者 - 03/05/30 10:19:46
もうどうにもならないし、かといって今の古参信徒が牛耳っている教会ももうたくさんです。
いっそネオがすべてを掃除してすべてを壊して廃墟になってすべての問題が明らかになり新しい教会が出来あがるのだと思います。今は過渡期なのです。祈るしかないです。


“トンデモ話”の論理的な落とし穴・言い回しの罠 - 03/05/30 07:46:38
【◆ 無知に訴える / 虚偽だと証明されないものは真実だ、或いは、真実だと証明されないことは虚偽だという主張。】 
【◆ 観測結果の選り好み / 都合のよい話だけを強調して主張する。哲学者フランシス・ベーコン曰く、「当たりを教えて外れを忘れる」】 
【◆ 少数の統計 / 観測結果の選り好みの近似種】 【◆ 前提とつながらない不合理な結論を出す / 「関係のない話をする」ともいう。】 
【◆ 真ん中の排除 / 「虚偽の二分法」ともいう。中間の可能性もあるのに、両極端しか考えないこと。】 【◆ 証拠隠し / 真実の反面しか語らない。】 
【◆ 因果関係の強引なこじつけ】 【◆ 故意に意味をぼかす / 逃げ口上】 【◆ 相関と因果関係の混同】 
以上、カール・セーガン著「 科学と悪霊を語る」青木薫訳(新潮社)より引用


ルンペン先生さま - 03/05/30 01:12:34
初めてこのページを見て意見します。私はこの間ネオの分かち合いに初めて参加して、参加している人たちはとても深いところで自分の気持ちを表していると、とても感動しました。
集まっている人達の叫びはとてもつらいもので普段、私自身が避けたいことばかりです。見たくないものでした。
さて、今の日本の教会にここまで弱い人の立場に立っているところがあるのかなぁと思った。つらい人のありのままを受け取ってくれる人たちがいるの?
彼らの弱さについて素晴らしいと思った。悲しみの中にこそイエスはいるのでしょう。彼らはそのことについて身をもって知っている。少なくとも日本においての宣教の中で。
私が悲しいのは、彼らが自分の敵も悲しみがあり、弱さがあることを見ていないことだ。そして、私たちも、彼らのうちに弱さを見ていないことだ。
イエスは貧しい人のうちに栄光を与えるとはっきり言っているでしょう。幸せなひとにはあげないよって言ってるじゃない。
自分の内に貧しさを見、なぜそこにイエスが居らしゃることを信じないの?迫害を受けているなら喜べ。喜んで誰でも敵でも迎えることこそほんもの。
身内だけで仲良くするな。自分のなかの敵を見つけろそして愛せ。イエスを信じて。


@ぷー - 03/05/29 23:26:37
ネオのもたらす小教区の分裂とはネオの人の「自分たちの集まりこそが真のキリストの集まりでありこのネオの運動に共鳴、参加しないものは真のキリスト者とはいえない」といった価値観がもたらす不和といえます。こういった価値観は、程度の差はあれ、また意識しているしていないに関わらず、ネオの方は誰でも持っています。
ところでここの掲示板でネオに反対するという言葉は、正確にはネオ運動を日本の教会に導入することに反対ということを意味し、ネオ運動そのものを抹殺せよといっているのではありません。
そして教皇から正式認可がおりたのだ、ということを盛んにネオの方は主張しているようですが、認可がおりているのは別にネオだけではありません。
ネオは、ヨーロッパの非キリスト教化した地域で、再び人々を教会に回帰させるということで評価を受けているとは聞いています。
しかしながら、ヨーロッパとはまた事情の違う日本の教会において、ネオのような再福音化運動は不要でありそれどころか、教会内教会を出現させてしまうなど弊害の方が大きいのです。
ネオも教会を成り立たせる一部分ではあるのでしょうが、しかしながら、パウロの例えをかりるならば、耳があるべきところに指をもってきてもしょうがないのです。
目薬を水虫に塗ってもしょうがない。ネオを日本の教会に導入することは、木に竹を接ぐがごとき間違いなのです。
また、ネオに参加している人たちも個人としてはそれぞれ信仰の深い立派な方もいると思いますが、ネオという集団となるとおかしいのです。
ですから、ネオの人を感情的に裁いているのではありません。なぜ、ネオが導入されたことで、小教区に分裂が発生するということを問題視するのか?
それは「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令に従うからです。でなければこのように意見を戦わす必要などありません。矛盾する言い方かもしれませんがネオに参加している方々も愛しているからこそ、ネオ運動の導入に反対するのです。


中島らも - 03/05/29 22:44:02
小教区人さん。私はあなたがだれかはわかりません。しかしおそらく同じ教会の方であるということはわかりました。
こんなところでいじいじかいてないでこのことを教会でもっと発言してください。お互い本当のことを言いましょう。まってます。よろしく


アサさん - 03/05/29 22:21:22
私は教皇様がお認めになろうがなるまいが、キリスト教であろうがあるまいが、人間という存在、そして自分にとって良いと思われることは、受け入れるたちです。
教皇様がお認めになるのは、キリストを否定しない、聖書に基づいた活動だからでしょう。でも、それが私にとって良いか悪いかは別問題です。
教皇様がお認めになっているものは多いですから。
ただし、認めたという以上は新求道共同体のカリスマについて、口述ではなく、書かれたものが必ずあるはずで、それはオープンにされるべきだと思います。
もちろん、大分教区の司教様にも、主任神父様にも信徒のみなさんにも、知りたいと思われる方にはオープンにされる方が、より理解が得られると思ってはいます。


「マインド・コントロール」の理解をめぐって(3) - 03/05/29 18:28:40
■ カルトが人を惹き付けることができたのは、その人が持っている関心や悩みに巧みにアプローチできたからです。
それらの関心や悩みは人間として持って当然であり、その人を成長させる原動力ともなりえたでしょう。
ところが、カルトはそれらに真のガイドや解決を与える振りをして、その人を別の目的へと欺くことに成功したのです。
ですから、カルトをぬけると、"解決した"と幻惑させられたそれらの課題が、入る前と同じ、あるいは更に深刻な形で残されていることに気付きます。
それを利用、悪用したカルトには責められるべきものがありますが、カルトからぬけた人たちはそれらと再び向き合うことが必要とされるでしょう。
★ しかし、カルトの思考に縛られた人間は、問題に対処する能力を著しく奪われています。思考が硬直化し、1つの方向からしか問題を見つめられなくなっていることが多いのです。
そのために、「マインド・コントロール」がどのようにその人の関心や悩みを利用していったか、それらのプロセスを確認し、さらに、再び問題に取り組むことができるよう、受けた傷を癒し、能力を取り戻し、成長していく必要があります。
カルトの「マインド・コントロール」が効力を発揮できたのはこれらの関心、悩みがあったからこそであり、それらへの取り組みは、カルト経験を含めたその人の人生全体の課題となるのです。
カルト問題に取り組む良心的支援者たちは、残された個々人の関心や悩みを大切に扱います。それこそが元来の問題であり、根本解決に繋がることを知っているからです。
しかし、彼らはその人に必要な情報や考え方を教えることはしますが、"解答"を与えることはしません。
★ 健全な人間成長に必要なのは、その人が自分で人生を切り開く力を付けていくことであって、何か1つの物事に依存させることではないからです。
それをしたのが、すなわちカルトでした。カルト脱会者はそれらの経験を踏まえて、同じ轍を踏むことなく、逆にカルト経験を成長の糧とする必要があるのです。
紹介記事:引用元 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/rikai2.html


「マインド・コントロール」の理解をめぐって(2) - 03/05/29 18:28:05
■ では、なぜこれらの情報がカルト被害者に必要なのでしょうか。それは当事者が、自分がどのような状況に置かれたのかを客観的に理解する手立てとするためです。
自己の経験を整理する際、このような力が働いていたことを確認し、自覚しえない力に晒された事実を認める過程が必要なのです。 
例えば、ウィルスの感染から逃れるためには、それなりの予防措置が必要です。
ウィルスは誰にとっても脅威ですが、感染するには体力が落ちるなど、される側の条件が整わなければなりません。これと同じようなことが「マインド・コントロール」にも言えます。
つまり、「マインド・コントロール」が、ウィルスのように客観的に外界から働く一定の力であることは間違いないのですが、される側が、どうすればより感染を予防しやすいかを理解していれば、リスクは確実に減らすことが出来るのです。
逆に、そのメカニズムを理解しないままでいると、カルトに戻ってしまったり、あるいはまた別の、同じようなウィルスに"感染"してしまう危険性が残ります。
実際、「マインド・コントロール」のメカニズムを理解していない人に"カルト・ホッピング"(1つのカルトをぬけても、また次に別のカルトへと移り続ける依存状態)が多いことも知られています。
「マインド・コントロール」の理解は対処療法のみならず、予防医学の働きをするのです。 
● 付け加えるなら、これは"予防医学"ですから、カルトを経験していない一般の人にも必要な知識です。「マインド・コントロール」が効力を発揮するには、@ ウィルスと遭遇し、A ウィルスが感染力を行使できる状況が感染される側に整っている、という2つの条件が必要です。
「マインド・コントロール」されたことのない人は、これらの条件が揃うきっかけを無意識のうちに逃れていたことになります。
今後、「マインド・コントロール」されないようにするには、どう意識的に条件を整えるかを理解することが重要なのです。 
● 最初の問いに戻りますが、カルト経験者が「マインド・コントロール」を理解することは、過去の自分が無機物のように、機械的にメカニズムに組み入れられたと認識することを意味するのではありません。
それは、このメカニズムが有機的な人間関係や情動等、人間性の真っ只中でこそ発揮されるものだからです。
そこには家族や友人を始めとする人間関係、個人の経験、情緒、宗教的願望、罪悪感、理想や希望等、様々なものが混沌と存在しています。
「マインド・コントロール」は外界から影響を及ぼす非倫理的な圧力ですが、それがその人に受け止められるのは、その人にそれだけ豊かな有機性が備わっていることの証拠なのです。
ですから、「マインド・コントロール」を理解することは、過去の自分を無機的に捉える作業では到底ありえません。
逆に、自分が思っていたこと、悩んでいたこと、関心を持っていたことなどを総ざらいに整理する作業となるのです。
なぜ、あの時の自分に「マインド・コントロール」が作用できたのかを理解することによって、外界の力の存在を理解すると同時に、これから自分はそれらの課題とどう向き合うべきかを再び考える機会を与えられるのです。 
紹介記事:引用元 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/rikai2.html


「マインド・コントロール」の理解をめぐって(1) - 03/05/29 18:27:17
■ カルト脱会者同士でも、「マインド・コントロール」の度合いには個人差があります。
カルト・メンバーと言えど各々パーソナリティや個人的経験が違いますから、同じ組織に属していても組織への感情は当然異なります。
さらに、カルトは極めて非民主的、不平等な性格を持つ集団ですから、構成員がどのポジションにいるか等の条件によって、与えられる経験が著しく違ってきます。
★ 入りたてのメンバーと10年選手との間、管理職と非管理職との間では経験や感覚が異なりますし、カルトには、同じ組織内でもかなり自由裁量の与えられる立場と拘束の厳しい立場とが混在しています。
カルト・リーダーにとっては、組織全体として搾取構造が成立すればいいのですから、ガス抜きや飴を与える意味で、特定の人間に甘い汁を吸わせることもあるのです。
● このような理由から、実際にカルトがどの程度「マインド・コントロール」を施していたか、また、メンバー各々がどの程度それに呼応していたかについて、個人差があるのは当然と言えます。
そのため、例えば、客観的にもそれほど強い「マインド・コントロール」の影響下に置かれなかった脱会者や、外部からの圧力に比較的強いパーソナリティを持ち、リーダーから同じ要望や叱責を受けても他のメンバーより感応しにくい(気にしにくい)脱会者にとって、他の脱会者のカルトへの批難が被害妄想的なものに感じられることがあるようです。
そのため、その人たちが必要以上にカルトに対して責任を問うたり、擦り付けたりしているように見え、『私は「マインド・コントロール」なんかされていなかったのに、あの人たちは極端すぎる』と感じることもあるようです。
★ しかし、その脱会者個人がどう感じるかということと、属していたカルトが「マインド・コントロール」やそれに伴う人権侵害、犯罪行為を行っていたかどうかは別問題であり、後者が客観的に事実であれば、脱会者個人が被害意識を持っているか否かに関わらず、その集団が社会的に問われるべきであるのは言うまでもないでしょう。
● また、脱会者に「マインド・コントロール」されたという自覚がないことが、「マインド・コントロール」の存在を否定する証明にはなりません。
カルトが「マインド・コントロール」を行っているか否かという事実関係と、当事者が「マインド・コントロール」されたと自覚するか否かという認知上の問題とは、別次元のものなのです。
なぜなら、先述のように、「マインド・コントロール」はその人の判断力を自覚なしに奪うため、その事実に気付くには適切な情報やガイダンスが必要だからです。
「マインド・コントロール」の存在は学問上では証明できますが(社会心理学分野では、科学的検証が行われています)、個々人がそれを認知し、自覚するには、その人が置かれた状況によってどうしても個人差が生じるのです。 
紹介記事:引用元 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/rikai2.html


小教区人 - 03/05/29 17:53:51
ここに訪れる皆さんが何を持って「一致」と「分裂」を語られていらっしゃるのかは私の見解とは合い入れないと仰るやもしれません。
小教区内においてそれぞれの信徒が個人的にさまざまな集いに参加し、また各々に合った道を歩み、自分の洗礼の恵みそして霊的生活の刷新に燃えるというのは決して断罪に値するものでは無いと思います。
教会はキリストという頭を持ちながらも各々は「手」として「足」として働くのですから。「手」は「手」であり「足」にはなり得ません。
そして当然のことですがそのどちらが欠けても完全なる形にはなれないのです。
具体的に言うなら、「ネオ」の活動が正式な認可を受けたという事実の前に私たちはそれが教会の体の一部であるという認識を持つ謙遜さが必要なのです。
では、何が問題なのか?それは私たちにとってネオという存在がまるで「盲腸」のようなものだ、とでも言いえるでしょうか。
すなわち「そこに事実として存在してはいるものの、その価値その理由が理解しにくい」のです。
(私は医学的な知識に乏しいのでもし間違いがあったら笑って許してくださいね)けれどもこの私達のからだ一つとっても「不要」なものが存在するわけが無いのです。
何故ならそれを創られたのが「全知全能」の神ご自身だからです。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それらは極めて良かった。」(創世記1・31)
ですから私達はこの体に頂いたすべての臓器はもちろん一人一人に起きる出来事全てまで感謝して受け取るように教会から教えられます。苦しみでさえが「誇るべき十字架」だと。
ネオの司祭及びそれに従事する宣教師あるいは平メンバーの行いに不満を感じるのは「感情」として押さえ込まれるべきものでは無いのは確かです。
けれどもその感情に留まり相手を裁くことがキリストの愛なのでしょうか。キリストはファリサイ人の偽善を裁いた、という書き込みを読みました。
まさしくその通り、「裁き」はキリストのものなのです。自然に起きる感情を裁くことは出来ません。
しかしそこに留まるなら私たちは自ずと罪に陥る危険をいつも自分の中に含んでしまいます。「神の神殿」であるこの体に。さて話しがだいぶあちらこちらに飛んでしまいました。
・・・「小教区の信徒の一致」はもちろん「ネオの活動との一致」では無いと私も認識しています。そうでなければカトリック教会の普遍性に対して矛盾したものとなるからです。
様々な道、入り口がありつつも究極の行き先がキリストである限りそれらは一致しています。修道会がいくつもあり、典礼のやり方にお国柄があるように「形」は本当に沢山あります。
それぞれがそれぞれを尊重しあいながら平和のうちに過ごせるなら、それが一致ではないでしょうか。
誰かの罪を叫ぶ時、叫んでみたその後、あなたの心には平和が満ち溢れていますか。微笑んでいますか。歌っていますか。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わずかえって自分を無にして僕の身分になり・・・(中略)・・・このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2)
皆さん、私たちもキリストに倣って低い者となりましょう。かの日に神の御前で憩いましょう。
いつも皆さんの心がキリストの平和で満たされますように小さい小さい祈りですがお捧げします。


ヨハネによる福音書10、1〜13 - 03/05/29 10:45:42
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話がなんのことかわからなかった。 
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」


- 03/05/29 02:00:20
ネオが入り込んでまだそんなに年月が経っていない小教区なら、「一致」してやっていくことができるのかもしれません。
私の属している小教区は、〇〇年とこの問題を抱えています。
これまで、ネオでない私たちはいろんな行事や対外的な催しなどで積極的に一致しようとネオの人たちと協力してきたつもりでした。
しかし、結局彼らから言わせると「迫害」だったことが、最近わかったのです。一致して協力できていたと思ったのはただの幻想だったのです。
長い間にできた亀裂は、想像以上に深いものなのです。表面上穏やかでも、どんな小さなことでもきっかけがあると、一変に膿が噴出してくるようです。
絶望的なことばかり書きましたが、大分の方たちの小教区が本当の意味で一致できるように心から祈ります。


大分のアサさん - 03/05/28 22:28:46
小教区人さん、あなたも前回の信徒総会のみのりをお感じになったのですね。そのことをお互いに喜び合いたいと思います。
そして、ネオの活動を見ると、今の教会に不足している「癒し」と「祭」の要素を見ることが出来ます。あれほどまでにお互いを掘り下げ合っていくと、他の人が入っていく余地などありません。
でも本当はさらにその体験をプラスの方向で小教区の活動に還元してもらいたいと思います。
新たに教会に訪れた方々、見向きもされない方々、そうした方々に率先して近づいていくようにあなた方が先頭に立ってもらいたい。
私は、自分にあった霊的刷新を未だに求めています。しかし、それはネオではありませんでした。


大分の一信徒 - 03/05/28 22:20:56
大分の一信徒です。以前は大分のアサさんで投稿していました。同じ教会の信徒の方なら私に声をかけてください。最近当教会で信徒総会を開催しました。
そして初めて総会の中で新求道共同体と私たちの小教区の位置づけを主任神父に質問しました。
それまでタブーだったこのことをお互いに話し合うことこそネオの問題をリセットして始めに戻す作業だと思ったからです。そのなかで、多くの信徒の信仰告白を聞くことが出来ました。
それが前任の修道会司祭のときにはできませんでした。それのみがその司祭の判断ミスだったと思います。
そして、他の霊性を尊重するという部分は確かにあったにせよ、ご本人はネオこそ本物とおっしゃっていました。
実際、修道会の司祭であれ、小教区の主任司祭であるならば、その権限は強大であり、主日のミサの進め方などすべてを決める権限をお持ちでした。そして、まず歩んでください。
そうして体験して判断してください。(これは様々な新興宗教でも使われるやり方です)確かに体験しなければわからないことは多い。
しかし、なぜこれほどまでに他の教区(日本だけではありません)で分裂を引き起こしたのかを説明する責任があるはずなのです。
それを乗り越えないと、本当に根付くことはないと思います。大分の明野教会の一致の為にもこのプロセスははずせません。
現司教様が新しい活動を認めないことや、現グループを制限しないことなど、少なくとも明野教会の一般信徒は知りません。それをご存じのあなたは一体誰か知りたいところです。


大分の一信徒 - 03/05/28 17:00:11
私は「小教区人」さんとは違います。別人です。
私の教会では、一致への努力は始まりましたが、それはあくまでも新求道共同体メンバーの信徒との一致の努力で、新求道共同体運動との一致の努力ではありません。
まだまだ始まったばかりで、一致できたとおっしゃる投稿者の方の教会の実状を知りたいくらいです。


素朴な疑問 - 03/05/28 16:01:18
小教区人さま。当方の不躾な質問に対しまして、誠実かつ丁重なご回答をいただきましたこと感謝いたします。
そちら大分教区の他の信徒さんのご意見も伺えればありがたいのですが。。。


小教区人 - 03/05/28 13:55:24
前回こちらに書き込みなさっていたのは私とは別の方です。同じ小教区の方と思っていますけれどね。
前任の司祭もネオの司祭ではありませんでした(ある修道会司祭です)がネオや、その他第二バチカン公会議後の聖霊による新しい活動全般に対して好意的な見解を持っておられました。
彼のために申し添えておきますが、個人としての弱さを持っているのは当然のことで、霊的にはいつもたゆまぬ歩みの中におられる良い司祭でした。
今回赴任されてきたのは「教区司祭」で、我が小教区始まって以来の出来事です。私達の小教区は常に修道会司祭が主任としておられましたので。
今回の人事は司教様のお気持ちが良く現れていると受け止めております。
大分教区では、ネオの活動を「新たに」始めることは禁止されていますが、既存のグループにおいては、その活動を制限するものでは無いのです。
とはいえ、やはりこれも前任の司教様とはお考えが異なる部分というものももちろんおありになるでしょうから、ここは静観しつつ我が小教区でのケースをご覧になり最終的なご判断を頂けるのでは、と思っています。
ともかくキリストの息吹によって新しい動きが始まろうとしているのは素晴らしいことです。
今日までの小教区の苦しみが「産みの苦しみ」として意義有るものであったと、いつの日か笑い合えると信じています。神には何でも出来ないことはありません(ルカ1・37)から。
それからご質問の件ですが、在籍しつつもまったくごミサに与ることの無い方を除くと名簿上では訳80名が小教区に属していらっしゃいます。
そのうちネオの活動に関わっているのは10名ほどではないかと思われます。


素朴な疑問 - 03/05/28 12:08:31
「小教区人さま」と前回書き込みなされた「大分の一信徒さま」は同じ方なのでしょうか?入れ替わりで来られた司祭がネオの司祭か非ネオの司祭なのか?
教会のなかのネオ信者さんと一般信者さんの比率はどうなのか?小教区人さん、大分の一信徒さんのどちらの方でもよいので教えてください。


信徒 - 03/05/28 10:12:21
>私たちの小教区は新求道共同体との一致に向かって歩みはじめました。高松もそうなればこのHPの役目も終わることでしょう。 貴教区の発展と平和を心から祈ります。


小教区人 - 03/05/28 08:27:52
先週のミサ後の総会で新求道共同体についても話し合われました。
今まで言いたかったのに言えなかった事がある、というのをハッキリ発言出来たことで、私たちの小教区は新求道共同体との一致に向かって歩みはじめました。
主任司祭の入れ替わりと共に今までの全てを白紙に戻し、再建を目指します。聖霊が吹き荒れています。本当に素晴らしい!
私たち信徒一人一人の生涯養成の場として、これからは新求道共同体の道も「数ある道の中のひとつ」としてもっと皆に触れる機会が増えることでしょう。
「ネオ至上主義」などが存在し得ない事が確認出来たのは最も大きな収穫でした。司祭の個人的な感情でなされた発言がいかに信徒を苦しめていたか。
しかしそれはもう過ぎたことなのです。その司祭は小教区を去るときに「謝罪」の言葉を述べました。それで十分なのです。お互いに歩み寄り肩を抱きあう時が来たのです。
高松の皆様におかれましても、個々の心の傷を乗り越え、一致へと歩まれる勇気と愛を持たれることを切望して止みません。
「カトリック教会の明日」に向かって今、共に歩み出しましょう。貴殿たちの心の平和と教区の更なる発展を祈ります。


@ぷー - 03/05/27 22:55:17 電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
「例え裁判に信徒側が勝訴しても、私は司教の判断に従う」という意見がありましたね。司教は教区の代表者であり、対外的な教区の顔でもあります。
そのような地位にある人物がこともあろうに信徒の名誉を毀損したと仮に裁判所で判断されたとしたら、その社会的責任を問われなくていいのでしょうか?
国内法などによる「常識性」と信仰による「宗教性」とは、決して対立するものではなく、またどちらかを無視していいものでもありません。
両者は相互補完的に両立します、また、両立させなければなりません。国内法による諸制度も(いろいろ不備はあれ)それ自体はキリスト教的にみて「よい」ものです。
法的手段も平和を実現する一つの方法です。


通行人C - 03/05/27 21:05:14 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
ボストン大司教の解任?は、既に旧聞です。大司教は、教区民に対して説明責任はありません。問題点は、大司教を任命した方の任命責任は問われないのでしょうか。
高松教区の問題の根っこも教会システムのそんなところにあるのではないでしょうか。


今の高松教区は - 03/05/27 16:49:38
「真実を覆い隠し、真実を歪曲し、真実を改竄し、真実を否定する。」聖職者中心主義が齎す悪例の典型。
ネオの入った教会は、暗く重い只ならぬ空気に支配され、誰の顔にも本心から湧いてくる笑顔がない。正に生ける屍教会です。
そんな環境の許に、笑顔で求道者を迎え入れられますか?今の厳しい社会に順応できる信徒に正しく育成できますか?


信徒同士の固い結束力によるもの - 03/05/27 15:46:55
司祭の児童虐待報道でボストン・グローブ紙にピュリツァー賞 【CJC=東京】
全米メディアの優れた報道・評論活動に贈られるピュリツァー賞の受賞者が4月7日発表されたが、公益報道の部でカトリック教会司祭の「性的虐待スキャンダル」を報じたボストン・グローブ紙が受賞した。
「勇気のある、包括的な報道により、国際的に波紋を広げ、カトリック教会のあり方に変化をもたらした」としている。 
教会内部資料と被害者の証言を基に、マサチューセッツ州ボストン教区のジョン・ゴーガン元司祭らによる児童に対する性的虐待の実態と、極秘裏に和解金を支払うなどで監督者であるバーナード・ロー大司教(枢機卿)が事件を覆い隠してきた教会の体質を次々と暴露したもの。
同様のケースが他教区にもあることも判明、全米を巻き込んだスキャンダルに発展し、バチカン(ローマ教皇庁)の指導を受け米司教会議が対策を協議するに至った。
枢機卿は昨年12月に辞任、虐待に関与した司祭らは聖職者の資格を停止、はく奪される厳しい処分を受けることになった。


米国ボストン教区信徒の決心 - 03/05/27 12:18:33
◎ボストン教区のロー大司教が辞任 【CJC=東京】
米カトリック教会聖職者による児童への性的虐待事件で、ボストン大司教のバーナード・ロー枢機卿(71)は12月13日、バチカン(ローマ教皇庁)を訪問、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に辞表を提出し、受理された。 
同枢機卿は、30年以上に渡り100人以上の少年を虐待し、実刑判決を受けた元神父、ジョン・ゴーガン受刑者の行為を黙認し、他教区に異動させるなど事件の隠ぺい工作をしていた責任を追及されている。
今年4月にも辞表を提出したが、教皇はをれを認めなかった。
しかし同枢機卿への批判の声は高まる一方で、バチカンとしては、これ以上、大司教に留めていては、米国内のカトリック教会離れが進むと判断したものと見られる。 
同枢機卿辞任を受け、今後の焦点は枢機卿本人を含む関係者の訴追と大司教区による破産申請に移った。 
被害者と家族から450件以上の損害賠償訴訟を起こされている同大司教区にとって、悪化する財務問題の解決も急務。法的な破産申請が検討されている。
ただこれには被害者側弁護士が「賠償額抑制のための策略」と反発している。


エリザペト - 03/05/27 12:06:56
根本的な仕組みが司教への服従が大原則で、何も変わらないとは思いたくありません。その仕組みを突き動かすためにも自分の出来ることをしたいと思います。
私のような者が沢山集まれば、突き動かすことは可能となるのではないでしょうか。権力をかさにする者はいつかは滅びると思います。 
私はファリサイ派の人間にはなりたくないのです。


^ - 03/05/27 11:39:23
結局裁判で勝ち取っても根本的な仕組みが司教への服従という大原則があるので何も変わらないと思います。
だからあえて危険を冒してまで司教団もはっきりした意思を表明しないのだと思います。


アンナ - 03/05/27 11:31:33
△ 原告である森岡さんの陳述書に「私は、真実とは何か、真理を求め、真理に生きるとはどういうことなのか、ということについて自分に問いかけていこうと思いました。
自分の周りで起きたこと、あったことの事実を正しく伝えて、その真理にすべてを委ねたい。」と述べておられます。(5/8分のあしたに向かってさんからの転記)
△私は、真実を正しく伝えてもらいたいし、真実を知りたい者の一人です。
私の疑問は、@ネオの神父のいる教会では大きな分裂がおこっているのはなぜなのか。
A日本カトリック司教団では、この問題(新求道共同体)についてなぜ公に話し合われないのか。
B高松の神学校建設に係る不正を日本カトリック司教団はなぜ見過ごしているのか。 
△信徒側からみれば、すべてが極秘裏に動いているような気がします。 
△それでは、ますます教会から離れていく信徒が増え、今後求道者もいないと思います。 
△日本のカトリックの歴史が終わるのではないだろうかと危惧しています。 
△これらの問題を解決しない限り、以前のような心の平和はおとずれないと思います。真の心の平和がおとずれるよう祈りたいと思います。


- 03/05/26 22:29:16
聖マラキの予言 110番目の法王(現教皇ヨハネ・パウロ二世)太陽の労働 111番目の法王オリーブの栄光 112番目の法王オリーブの栄光の後を継ぐのはローマの人ペトロである。
彼はローマ教会の迫害の後に法王位につき、様々な苦難のなかで信者を導く。苦難が去ると、七つの丘の街は崩壊し恐るべき最後の審判が人々に下される。
そして終わりがやってくる。司祭召命が少ないことといい、ネオの問題といい、このままじゃ聖マラキの予言が本当に実現しそうだな!


- 03/05/26 14:20:27
■「そろそろここの議論にも「行き詰まり」を感じ始めました。」
□ ここは、個人の趣味趣向で開かれている掲示板でしょうか?
■「大分の一信徒さんが「一致」を叫んでいらっしゃるのに、それは徒労に終わるだとか無理な一致は云々だとか・・・。」
□ それは大分の一信徒さんのご意見であります。
大分の一信徒さんは高松教区に向けて、無理強いをするように決して一言も一致しなさいとは申しておりません。
また、問題の関連性を重視し、その詳細分析をする過程の中で、あくまでも高松教区の現実と照らし合わせて事実を申し述べたまでのことです。
■「ここに書き込みしてる方々はどうしても分裂をお望みのようですので、こちらとは別に「カトリック教会分裂への道しるべ」〜昨日に戻ろう〜でも立ち上げられてはどうです?」
□ 是非、あなたが「カトリック教会衰退への道標〜昨日に満足〜」と銘打ったHPでも立ち上げられますように希望します。


あの・・・ - 03/05/26 13:07:46
そろそろここの議論にも「行き詰まり」を感じ始めました。大分の一信徒さんが「一致」を叫んでいらっしゃるのに、それは徒労に終わるだとか無理な一致は云々だとか・・・。
ここに書き込みしてる方々はどうしても分裂をお望みのようですので、こちらとは別に「カトリック教会分裂への道しるべ」〜昨日に戻ろう〜でも立ち上げられてはどうです?


- 03/05/26 11:55:56
信徒の総意を得ない司教の判断は、非社会性と無責任の象徴だと思います。社会で生きるカトリック者は、当然、従うわけには参りません


- 03/05/26 11:13:51
争点さん、@司教の判断は信徒にとって責任がある。A信徒のみならず教会に対して責任がある。だからこそ祈りが大切だとあなたは言う。
では、なぜ高松教区では今、多くの信徒が教会から離れて、教会に行けなくなっているのですか?なぜ多くの人たちが苦しんでいるのですか?
司教は信徒にとって責任があるのでしたら、今、司教がしなければならないのは、教会から離れていった信徒(殉教者)のために、沢山祈ることではないでしょうか。


アンナ - 03/05/26 10:28:04
ヨハネ福音(10・11−13)
△「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。  
狼は羊を奪い、また追い散らす。  彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 
▲雇い人である司教に、羊つまり信徒はこれ以上だまされないし、従うことは皆無です。


争点 - 03/05/26 10:06:13
↑だぶってすいませんなぜ司教団が高松司教に干渉しないのかとうぜん司教たちはキリストをとうして堅い信頼関係で結ばれています。ですから直接ああだこうだは言いません。
ただ高松に共感して思い廻らし 毎日祈りをささげているのだと思います。信徒の態度としては静かに見守るしか無いのです。


争点 - 03/05/26 10:00:24
信徒のみならず教会に対しても責任があります。だからこそ祈りが大切なのです。裁判はたいして重要ではないのです。


争点 - 03/05/26 09:59:16
信徒のみならず教会に対しても責任があります。だからこそ祈りが大切なのです。裁判はたいして重要ではないのです。


争点 - 03/05/26 09:57:07
それだけに司教の判断は信徒にとって責任があるということです。私は司教を信じます。それがカトリックの信仰です。


無理な一致は拗れの元 - 03/05/26 08:24:43
高松教区の例を見るまでもなく、どこかに寄生しなければ体制を維持できない「組織体系」も、トラブルに結びついている要因の一つですね。
新求道共同体が「教区」「教区立」に固執しないで独自の力で運営していける団体であれば、未然にトラブルを防げたのにね。


現状では一致不可能 - 03/05/26 07:27:23
何故、他の教区でトラブルが起るか?・・私見です。
高松教区の場合を例に挙げますと、事前になにかと問題が多い(常任司教委員会の文書でも明らか)運動だと知っていたが、司祭不足の誘惑に遂に負けた「司教」が新求道共同体を受け入れてしまった日本で最初の教区であるということ。
当初、新求道共同体にとって高松教区は、日本で活動する上で足掛かり的な最重要拠点(新求道共同体司祭育成の神学院を保有)であり、また、新求道共同体(教義、司祭)の魅力と存在価値を他教区へ披露する、言わば当団体のモデル地区に相当する教区だと認知されていたのだと思います。
しかし、幾多の好条件が有るにもかかわらず、基盤の元になる肝心の体制固めが一向に捗らないので、それが、焦り、苛立ちを生み出す要因となり、数々の奇怪なトラブルとなって現われているのが、今の高松教区の姿ではないでしょうか。
要するに、当初の思惑が大外れしたため、辻褄を合せようと事を急ぎすぎ、自ら墓穴を掘ったということです。
高松教区でトラブルが発生したということは、元来、新求道共同体が保有していた性質の一面が出てしまっただけではないでしょうか。
新求道共同体がトラブルを起こすのは、日本限ったことではないということです。


一致をめざして - 03/05/26 06:40:32
古賀教会の信徒さんへ:あなたがおっしゃることが望ましい。
だけど「本当のミサ」とか日曜日のミサをより不十分なミサと感じるように導く部分があるとすれば、それは問題。問題点、疑問点をさらけ出して小教区で分かち合う作業がどうしても必要なのでは?
それができないとすれば、リーダーのミスリードが問題。


福岡県古賀小教区の一信徒から - 03/05/25 22:19:35
私は、福岡県古賀小教区の一信徒であり、また新求道共同体のメンバーでもあります。私たちは、小教区の主日のミサが「本当のミサ」です。
土曜日の夜のミサは、あくまで信仰を強めるための補助的なものです。小教区司祭も理解していただき、教会施設をお借りして霊的研究をしています。
同じ新求道共同体でよそではトラブルが発生するのか理解できません。


- 03/05/25 19:15:09
過去、キリスト教会の聖職者と信徒が、神の名、信仰の名の下で犯した犯罪はすべて狂信・盲信の信仰からです。歴史に深く刻まれた恐ろしい過ちを忘れては危険ですよ。
また、如何なるキリスト者も、宣教先の国が定めた法律を守るのは世の常識で、これに反する行為をする者が裁かれるのは衆知の事実であります。


@ぷー - 03/05/25 17:30:43
判決まで1ヶ月を待つばかりとなりました。
どのような判決になるのかは分かりませんが、大切なのは判決内容をよく吟味し、今後の高松教区の運営にどう資していくのかということだと思います。


争点 - 03/05/25 17:10:04
たとえ国の裁判で信徒が勝訴しても自分は司教の判断に従うしかありません。


大分の一信徒さんへ - 03/05/25 14:32:35
高松教区でも一致に向けて様々な試みがありました。けれども、思い返せばどれも徒労に終始し、ただの蛮勇行為にしかすぎなかったのだという感が否めませんでした。
しかし、問題はそれだけでは終わらないのです。
なぜなら、一般信徒側から働きかけた一連の行為が、彼らの共同体組織を以前よりも尚、もっと狡猾で意固地な集団へと進化させてしまうという、本当にどうしようもない弊害が残るのです。
せっかく一致に向けて話し合いをしてみても、その行為が彼ら共同体組織の更なる拡大(分裂の助長)や信徒同士の反目の材料にされるのであれば、最初からしない方がよいと思います。
彼らは自分たちの共同体の教えから外れることはキリストの教えに反するも同義という、自共同体組織内でしか通用しない重度の罪意識で出来上がっているのですから。 
大分の一信徒さんの教会の前主任司祭(ネオ)は、信徒が何か疑問をもって発言すると、目の色を変えて感情的になり、「迫害をするのか!」と興奮して色めき立っていたそうですが、これは、「ネオによる教会の私物化」と「組織としてのネオの矛盾体質」を自ら態度で証明しているだけです。
何れにしても、なんとも情けない司祭ですね。大分のみなさまのために祈っています。


傍聴人 - 03/05/25 12:14:33
「教皇庁内でも裁判沙汰が」の書き込みについて・・・その人はルイジ・マリネリ神父さんです。1997年まで45年間も教皇庁に勤められた方です。
共著書名は「バチカン、風と共に去りぬ」です。イタリア国内でベストセラーになった本ですよね。私の本棚にもありますが、実に読み応えがあります。


- 03/05/24 21:22:42
東京大司教区HPの掲示板に347番として高松教区の問題が掲載されています。
そのHPの掲示板に投稿するには、一端投稿内容を管理人が見るようになっているので、掲載されたということは、記事に特に問題なしと判断されたということです。
アドレスは、http://www.tokyo.catholic.jp/


ぶどうの木 - 03/05/24 14:55:48
マンモンに仕えるか?神に仕えるか?と新求道共同体のある司祭は表現しました。これは彼らにとっては重要な言葉であります。
なぜなら、信仰の深さの尺度を測る一つの指標として「お金(富)への執着」を用いているからです。
集いや様々な場、あるいは段階(ステージ)で、次の段階に進めるか否かの一つの尺度でもあります。ですから、集いではお金を集めることがある。
出せる人は出せるだけ、出せない人は出せなくて良い(しかし、持っているのに出さない人は、マンモンへの傾斜が強いと見なされます)彼らは、「金カネと言うんじゃねえ!」と言うかもしれない。
しかし、そうして巻き上げられたお金はマンモンのものだから、ネオのために使えば浄財となる・・・そんな考えなのでしょう。そのお金によって世界の宣教家族は宣教(教会外部ではなく内部への)を続けていくのです。
お金と初代教会の様子は、使徒行録5-1〜11にも現れています。それをそのまま現代によみがえらせることが正しいかどうか?


真実一路 - 03/05/24 13:12:26
新求道共同体では、土曜日の夜のミサが「本物のミサ(感謝の祭儀)」で日曜日は「つまらない」「死んだミサ」だから、あ〜あ早く終わってくれないかなと思って参加しているように見える。
彼らにとって日曜日は。土曜日の日没から日曜日の日没であり、土曜日の夜の感謝の祭儀が中心。一般信徒との摩擦を回避するために日曜日も出てきているということ。
復活祭も教会の公式のミサは「早く終わってくれないかな。これから本物の復活徹夜祭があるんだから・・」と思っている。ここから不一致が始まる。
彼らの祭儀や典礼が、日本の教会の基本的な典礼をより豊かにするために役に立つなら良いが、「こんなもの!新求道共同体の祭儀の方がはるかに感動的で、本物!」となるのであれば、百害あって一理なし。
一致も困難と言うことになる。そこは大切なポイントだと思う。


教皇庁内でも裁判沙汰が - 03/05/24 11:26:31
そういえば1999年の2月頃でしたか、約40年間教皇庁に勤めていた司祭が、教皇庁内部の金権腐敗に塗れた汚職体質やら乱れに乱れた風紀(聖職者の性問題)を糾そうと、「千年至福を信仰する者たち?」とかの著者名で本を出版されてましたね。
(残念ながらタイトルは忘れました) で、教皇庁はその影響力に恐れ戦き、大慌てで当司祭をバチカン控訴院に提訴し、それを受けた控訴院は予審よりも早く、著者である司祭と出版元に対し、本の回収を命じましたが出版元はこれを完全拒否。
出版物の回収命令も時既に遅く、ヨーロッパ全域に出回ってしまったと云います。
私がこの話を初めて聞いた時、「絶対不動」と思われていた聖座権威の失墜は、教皇庁周辺ですらどうにもならないところまで進行しているのだなと云うことと、カトリック教会内部に蔓延っている悪しき隠匿体質の終焉を感じました。
教皇の親衛隊?右翼的共同体?・・・論外です。


傍聴人 - 03/05/24 07:10:21
司教の裁判のことについて書き込まれている『争点』さん。あなたご自身は、どう判断なさいますますか?


- 03/05/22 22:23:56
司教という重責を担う役職に就いていながら、不特定多数の公の目に触れる公算が極めて高い教会の掲示板に原告を非難する文書を掲示するという行為が、以後、どういう重大な結果を招いてしまうのか?
こんな単純なことが何故、前もって予想できなかったのでしょうか?
教区のためを思い尽力していた原告たちを晒し挙げる目的で非難文書を公然と掲示板に掲示した、このことだけを取り上げても、高松教区の信徒と関係者が受けた心痛は取り返しのつかないほど甚大なのです。
この度の裁判の裏にネオ問題が関係している、この事実を覆す事は不可能です。公相手の聖職がよりにもよってその公を教会から遠ざける。
高松教区の各教会が受けた損失もまた、甚大です。


- 03/05/22 21:21:52
信徒ちゃんさんは完全に破綻してしまいました。


裁判所が - 03/05/22 20:53:53
判断しなくても、公の追求は免れませんね。


裁判所は - 03/05/22 19:55:52
下に書いてあることは判断しないと思います。


- 03/05/22 13:30:26
と同時に、問題の背後にある一共同体の特殊性を帯びた宣教活動方法が日本社会にとってほんとうに有益なのか無益なのか?
このことは日本の教会だけではなく、広く社会に向けて問われていくことになるでしょうね。
日本人に対して聖座の権威が通用しないこと、西欧発信の植民地主義的宣教観が引き起こす混乱、どれも慢性的な教勢の伸び悩みとなって証明されています。
このままでは、世間から独り善がりの異常な宗教団体だと認知されますね。(もう手遅れか?)そろそろ、本質を見つめなおす時期に差しかかって来ているのではないでしょうか?


争点 - 03/05/22 11:06:40
被告の行為は 原告がその集団に属している以上、 その被告が行った行為を  原告が「がまん」すべきものであるのか あるいはそうでないのか という点であると思われます。


それにたいして - 03/05/22 10:55:48
1 被告である宗教法人カトリック高松教区の代表深堀氏は2 自分がその集団に属する原告に対して行った行為は3 集団内での監督者として5 社会通念上許される
6 信徒に対する7 監督行為および8 懲罰行為だと思うので9 原告が提示した条件での和解には応ずる必要は無い。
10 原告の要求する方法での謝罪はしない。 11 金銭的な賠償には応じない。 12 との判決を裁判所に求める という答弁をした。


この裁判の具体的な内容は、 - 03/05/22 10:43:01
1 被告である宗教法人カトリック高松教区の代表深堀氏に対して 2 原告であるその宗教団体に所属する信徒が所属する集団内で 
3 被告である深堀氏がその団体の部下である複数の神父に対して 4 原告の名誉を毀損するような文書の掲示を 5 宗教的権威をもって指示し、 
6 その内容を信徒の会合など公衆?の面前で話すように 7 宗教的権威により指示をしたこと 
8 それにより 9 原告の名誉が被告の指示により毀損されたので、 10 原告が被告に対して原告が望む方法での謝罪の要求と 11 金銭的賠償の判決を求めたという内容。


- 03/05/22 08:30:27
「意思」は、「石」の間違いではないのですか。あなたの文章はいったい誰に向けて発信されているのでしょうか。
「新求道共同体」がどのようなものか、具体的にどのような活動をしているのかご自身の目で見たことがおありですか。司祭が変わったのに何故祭儀が続けられているのでしょうか。
「ネオ」に洗脳されていない司祭でさえ、それを承諾しているとは受け取れませんか?もしその司祭が中立の立場を取るとしたら、どうなさるおつもりですか?
また小教区からお逃げになるのでしょうか。「あの司祭は何も考えていない」とでも言いながら・・・。
あなた以外には誰もこの問題の解決に向けて考えを持っているというのは信じられませんか。
教皇さまの認可が下りた、と彼らが言うと躍起になって反論されますが、それは「ただの事実」です。そこをふまえて冷静にご判断下さい。
小教区の活性化のための議論なのです。決して自己を防衛するためでは無いのです。


信徒ちゃん - 03/05/22 08:19:44
ヨハネによる福音8章。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に意思を投げなさい。」このような教えはバカげたことです。悪いものは悪い。
マタイによる福音書18章「七回どころか七の七十倍も赦しなさい。」と言われても!ヨハネによる福音8章。「あなたたちは肉によって裁くが私は裁かない。」
??はぁ??この状況を裁かずにおられますか?「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。」
そうです、その通り、あなたは真実な方ですからあの共同体のことも正しく裁かれるでしょう。ただし、あなたの裁きが下るのはいつですか。もう待てません。
決して赦すことは出来ません。彼らは革新的、確信的な「悪」そのものです。
マタイによる福音書7章。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに何故


大分の信徒さまへ - 03/05/22 03:20:32
司祭の適切な指導が必要なのは言うまでもありませんが、自分の教会を守り、真に盛り立てていくのは信徒自身です。信徒が結束して、毅然としていることが大切だと思います。
私たちと違うことを信じている新求道共同体と完全に一致することはできません。無理に一致しようとあれこれ努力しても、彼らにとってそれは迫害にすぎません。
大分の信徒さんとその小教区のためにお祈りいたします。


大分の一信徒 - 03/05/21 19:23:34
大分の私の教会でも新求道共同体の問題を話し合おうと思っています。なぜ今か?というと。
彼らのすぐに言うところの「迫害」(これが強圧的に排除しようとする働きとすれば)を受けて、主任司祭にまともに「この運動は何なのですか?」「なぜ多くの問題を引き起こしているのですか?」などと聞けなかった、スターリン時代を脱出しなければいけないと思うのです。
そして、すべての信徒(新求道共同体であろうがなかろうがすべての当教会の信徒)が自由に、公平に話ができる教会にしないといけないと思っています。
今までは、信徒が何か疑問をもって発言すると、目の色を変え、感情的になり、「迫害するのか!」と色めき立つ、そんな状況でした。
司祭が替わったのを機会にまず自由な雰囲気を作りたい。その中で、一致を模索したい。新求道共同体を至上とする司祭のもとではそんな信仰の自由さえ制限されていたのです。
これこそ迫害ではないでしょうか。迫害から和解へ進みたいと思います。私たちのためにお祈りください。


@ぷー - 03/05/21 18:29:36
信徒ちゃんさんが何を仰りたいのかわかりませんが、悪いことをしたのにそれを見逃すことがキリストのいうところの「愛」ではないと思います。
キリストはファリサイ派の偽善は厳しく批判し、いわば「裁いて」いますよ。


【 宗教法人代表を逮捕 】 - 03/05/21 17:50:55
《信者からの借金、詐取の疑い 宗教法人代表を逮捕》
信者から借りた現金1500万円をだまし取ったとして、千葉県警市原署は13日、宗教法人「徳修寺」代表で僧侶の岩沼積相安こと岩沼壽晃容疑者(61)=千葉市中央区椿森6丁目=と、元妻でピアノ教師中田ひろみ容疑者(41)=札幌市清田区美しが丘2条7丁目=を、詐欺の疑いで逮捕した。
岩沼容疑者は12年前、テレビ朝日系列のワイドショー「森田健作の熱血テレビ」に霊能者としてゲスト出演していた。 
調べでは、岩沼容疑者らは98年6月初旬〜7月中旬、当時千葉県市原市にあった同寺へ通っていた静岡県富士宮市宮島の自営業女性(41)から、数回に分けて借りた現金1500万円をだまし取った疑い。 
女性はテレビ番組を見て岩沼容疑者の信者になり、「テレビに出た人だから大丈夫だろうと思って貸した」と話しているという。01年9月に被害届が出ていた。 
岩沼容疑者は「寄進してもらった金だ」と容疑を否認しているという。同署は墓の建設を約束して信者から金を受け取り、実行していないなどほかにも詐欺の疑いが濃いケースを把握しているという。
(05/13 19:46) 引用元 http://www.asahi.com/national/update/0513/029.html


信徒ちゃん。 - 03/05/21 11:25:33
キリストの平和がいつもあなたがたを支配しますように心から祈ります。一連の裁判を通してもたらされるであろうモノがその平和へと導いてくれるのですよね?
「互いに愛し合いなさい」とキリストは言われました。先に相手が自分を尊重し、認め受入れてからでなければその命令は実行できないですよね!
「先に相手が謙遜な態度をとるなら」という条件付きの愛。罪びとのためになんか死ねません。
怒りでエプロンを投げつけた瞬間に体を支配していたのはキリストの名のもとに許可された「正義の怒り」ですもの!!!


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