2003.6/11-6/20

和解などせずに - 03/06/20 20:10:20
判決をもらって白黒つけたほうがいいんじゃないの?


和解を祈ろう - 03/06/20 13:35:18
判決言い渡しまであと5日。私達は毎日ロザリオの祈りをささげてます。


セクト的集団の論理[5] - 03/06/20 12:32:23
[第1の論理の閉塞性] このように初めから、非常に巧妙なやり方で、一人の人間がセクト的集団に引き込まれていくわけですが、その課程には次のようなことが起こっているのです。
つまりその人が持っている、自分を超えたものとの「つながり」の意識であるとか、その人の目指す理想の意識といったものが、いつのまにか単なる表象、もしくはイメージといったものにすり替えられてしまう、ということなのです。
こうした実態に陥ってしまいますと、そのときから既に、彼は自分の存在のこちら側と向こう側、つまり、自分が生まれる前のこと、そして死んでからのことについても、自分はもはや知っているし、そのイメージを完全に思い描くことができる、と主張するようになってしまうのです。
セクトのメンバーは「自分の力でこのような探求を行っている」と思っているのですが、実際は、セクト的集団が自らの権威でそれらの知識を身につけさせているだけであって、それはいわば知的な詐欺であるわけです。
集団の中では疑問を抱くことが禁止されている、というのもそのことを如実に物語っています。
メンバーは、権威を持った指導者に「こうしなさい」と決められた命令にただ従っているだけなのです。
このようにしてメンバーになった者は先ほど述べた第1の論理に引きずり込まれ、閉じ込められてしまうのです。
この論理は、常に無意識的な領域で行われるのですが、メンバーは、自分がマインドコントロールされているということに決して気づくことはありません。
・『マインドコントロール』次にマインドコントロールについてお話ししたいと思います。
あらゆるセクト的集団は、共通して先ほどの第1の論理のプロセスの中に信者を閉じこめ、心理的に後退させようとするのですが、閉じこめられた信者はいわば同類の者だけで集まった城塞の中にいるようなもので、彼らは城の回りを敵に囲まれている、と感じるのです。
そこでは「他者」という存在はなくて、よそ者はイコール敵としかみなされません。
そして、布教活動を義務づけることによって、新しいメンバーを獲得し、そこから自分たちの信仰の正しさを確信し、またそれによって敵の悪どさをも確信するわけです。
同時にセクト的集団は、それ自体閉鎖的な集団ですから、信者から家族や文化、あるいは国家といった人間としての「自然なつながり」を奪い去ってしまい、そのかわりに彼らの固有の価値観を植え込みます。
そのことによって信者が持っていたかつての環境は断ち切られ、外の世界から遮断されてしまうのです。またここにおいては言語も大きな問題となります。
各セクト的集団はそれぞれに特有の言語空間を持っていて、それが信者にとって共通の言語となるのですが、それらの言葉は私たちが広く使っているようなものではなくて、信者にだけしか分からない堂々めぐりの定義で成り立っているような言語空間なのです。
彼らの使う言葉は単なるイメージであり、もはや象徴的な価値を失っていきます。イメージでしかないそのような言葉は、現実を包み隠してしまいます。
そして、現実にとって代わるような別の世界を作り上げるわけです。さらに信者は常に、急いでしなければならない仕事をたくさん積み上げられて、猛烈な忙しさを強いられます。
そのうえ、集団の中で雑居状態で生活しているので、一人で自分を見つめたり、自分自身をとりまいているものに対して距離を置いて見つめることができないのです。
メンバーは延々と単調な作業を繰り返すうちに、例えば、うんざりするような読書を続けたり、教義書を何度も暗唱したりしているうちに、一種の催眠状態に陥り、自らの人格を破壊していくことになるのです。
また精神的な側面においてだけではなく、肉体的な側面においてもそれは指摘することができます。
例えば、極端な節食や、睡眠不足が続くとか、過度の肉体的鍛練などが、人格破壊に大きな影響を及ぼすのです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


いい加減なこと言ってると恥を晒すだけですよ - 03/06/20 10:13:19
だれに言っているのでしょうか?このhpの情報から判断したまでですが。それが恥を晒すことなのでしょうか?まったく理解に苦しみます。


統治者の方針に公然と組織的に反抗したのだから) これは事実と違います。今まで何を見てきたのですか? あなたの目は節穴ですか? - 03/06/20 10:10:57
っていうかこの事件の流れを見れば そう解釈するしかないです。


- 03/06/20 10:02:50
こちらで話題になっていることは教会法に基づいて?討論されているのですよね。


信徒・Y - 03/06/20 08:21:48
信者でも教会法であれこれ言われることがあるんでしょうか。私は見たことがありませんが。教会の書棚にもありませんが。


- 03/06/19 20:12:46
教会法自体が実態にそぐわない陳腐化したものではないか?


- 03/06/19 08:19:26
教会法でがんじがらめになっているのに「自主自由」かネー


セクト的集団の論理[4] - 03/06/19 01:46:38
[二つの論理形態の有用性] 
以上のように私たちは2通りの論理の特徴を見てきたわけですが、第1の論理、つまり無意識の領域で行われる論理は、実は私たちが日常的によく使っているものです。
例えば、既に知っている物事に対して、私たちは自動的にこのような無意識の反応をしてしまうものです。
こういった直接的な反応の仕方はそれ自体は有用なもので、また主体の意識を分析するという意味においても注目に値するものですが、しかし、個々の自分という直接性から抜け出すためには、こういった論理は有害でもあり、不適切でもあります。
さらに言えば、その中に閉じこもってしまうようになると非常に危険な事態に発展してしまうのです。
これに対して、第2の論理ですが、それはジャック・ラカンの言う「鏡像段階」*2というレベルにおいて現れてくるものです。
このような論理形態こそ人間に特有のものであり、人間と動物をいわば分け隔てるものであります。
というのも動物は一歩距離をおいて客観的に物事を見ることはできませんし、真の意味において「意識的である」ということもできないからです。
つまり、人間は意識的であればあるほど人間性を持ち、人間らしくなるのです。例えば、人は「欲望」という原初的な欲動を「願望」という形に変換して意識的であろうとします。
また、「〜しなければならない」といった非人称的な命令(例えば超自我の命令)を、「私は〜しなければならない」というような主体的、意識的な形に変換しようとします。
哲学や宗教及び科学というものはこのような第2の論理を広く用いているわけです。
しかしそれに対して、全体主義的セクト的集団はもっぱら第1の論理、無意識の論理に基づいているのです。このことについて、さらにもう少しご説明いたしましょう。 
つながりの欠如 さて、まず「つながりの欠如」ということからお話ししたいと思います。
ここで、「つながり」というのはどういうつながりであるのかと申しますと、例えば家族とのつながり、あるいは政治のレベルでのつながり、また国家、社会、文化、言語共同体、また宗教的なレベルでのつながり、そういった様々なものとつながりながら我々は生きているわけです。
しかし、時に、ある人がそれらとのつながりを失ってしまう、というような事態が起きることがあります。
その理由として、例えばそれらと満足のいくつながりを持てなかったとか、あるいは、思うようにうまくいかない困難な状況に直面したとか、様々な理由が考えられます。
そしてそのような困難な状況に直面した人々は多かれ少なかれ、絶望して自分の持っていた理想というものが打ち砕かれてしまうわけです。
また、そのような理想が今度は、何の助けもないまま、自分を脅かすようになると思えてくることもあります。
こうした人々は例えば、死の向こう側にある理想というようなものに対しても、望みを持てなくなるわけです。
つまり、このような人たちは自分自身の直接的なあり方を越えて、自分を外に開いていくということに自信を失ってしまう、という事態に陥ってしまうのです。 
全体主義的セクト的集団が標的にするのは、こういった何らかの「つながり」において困難な状況に陥っている人々なのです。
この「つながり」というのは、いわばその人が何を大切にしているか、ということを映し出す鏡のようなものですので、彼らはそこにつけ込んで、誘惑し、その人たちの失ってしまった理想がいかに大切であるかを説くのです。
そして自分たちの集団の助けを借りれば、「あなたのその理想はきっと実現されますよ」と主張するわけです。
また、「あなたが今感じている不安はもっともなことですよ」と言う一方でその不安を増大させながら、それを解決するための秘訣をこの集団は持っているんだと説得していくのです。
そして、新しくメンバーになった者はただ黙って、その集団が持っている秘技なり力なりの修得に励まなければならないのです。
彼はそのうちに、自分の目の前に輝かしい道が開けたと思うようになり、いい知れない即時的な幸福感で満たされて、自ら進んであらゆる疑いの心を捨てていきます。
彼らはこのような集団の中にいることで、自分は理解されている、また守られているのだと感じていくのです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


セクト的集団の論理[3] - 03/06/19 01:45:47
[第二の論理] 
これまでのセクト的集団に特有の論理形態である第一の論理の構造を見てきたわけですが、今度はもう一つの論理形態である第二の論理についてお話ししたいと思います。
この論理形態をもつ集団とは、先ほど述べました存在に対する3つの問いの中でも「私はどこから来たのか」そして「私はどこへ行くのか」という2つの問題に自覚的であるような集団のことを指しています。
つまり、直接的な「今ここ」という私たち自身の存在を超えたところにその関心を向けているわけです。
第一番目の問い、「私はどこから来たのか」という問いかけは、突き詰めて考えてみると、私たちの暮らしている社会の基盤そのものはどこにあるのか、ということにつながっていくのです。
例えば、ある部族がトーテムポールを立てて、自分たちに共通の神話的祖先を祭ることがありますが、そのことによって実は、その部族の構成員はみんな同じ血でつながっているという友愛精神をもち、権利において平等であることを意識し、そしてその部族に属しているがゆえに自由であるという意識をもつようになるわけです。
結局はこういったことがデモクラシーであるとか人権といったものを可能にしている要素であるのです。 
今述べたことからわかりますように、このような思考方法は結局、私たちが現実の中で出会う不確かさ、偶然性といったものを超えたところを基準にしているわけですから、私たち個々人の主観性に惑わされない、しっかりとした判断基準を生み出すのです。
ですからこの第二の論理は先ほど第一の論理のように「類似性」というものを追求しているのではなく、様々な「違い」に対して意味を与え、理念的で抽象的な概念枠に常に照らし合わせている、そういった思考方法のうえに成り立っているのです。これこそジャック・ラカンによって示された「象徴的な言語」という思考法法と通じるものがあります。その「象徴的な言語」という概念が明かにするのは次のようなことです。
つまり、言葉というものはもはや現実を直接的な仕方で表すような単なるイメージではない、ということです。
そうではなくて、言葉というのは「差異(違い)」とか「ずれ」というものを含みながら、それを媒介として現実に結び付いていくような働きを持っているということです。
このような私たちは、現実世界で出会う直接的なもの以外にも、照らし合わせればならない基準を持っている。
こう考えたとき、先ほどの第3番目の問い、「私は誰なのか?」という問いに対しても、自ずとその答えは変わってくるはずです。
いうなれば、人はもはや「今ここ」の直接的な「私」(Moi=モワ)*1、現実世界と直接的にした関われない自己閉鎖的な「私」(Moi)という呪縛から解き放たれて、いかなる現実世界にも還元することができないある種超越的な「私」(Je=ジュ)を見いだすことになるわけです。
この超越的な「私」(Je)という概念はあらゆる宗教や哲学が持っているものであって、どんな描写を持ってしても語り尽くせない広がりを持った「私」(Je)であるわけです。
この現実世界の外側にある基準、そして超越的な「私」(Je)という要素は、第二の論理において欠かせないものです。
この論理において行われるプロセスを、フロイトは意識的機能を特徴づけるものとして位置付けているのですが、それは次の4つの操作によって行われます。
一つ目は「遠ざけること」、二つ目は「近づけること」で、これらは対象を把握するためにそれに対して好ましい距離を保つことです。
次に「統合」という操作で、異なる段階にあるものを同一のカテゴリーとして共有するということです。4番目に「否定」です。
この否定というのは理性的に否定することによって物事を理解しようとする態度です。 
ここで重要なことは、このような形の論理においてのみ、いわゆる「他者」という存在、つまり自分とは異なった考え方や世界観を持っているけれども対等の立場にある存在、が可能になるのです。
なぜならそこでは自己と他者は、個々人のレベルを越えた共通の源から発せられる友愛精神ともいうべき絆によって結ばれるからです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


プル - 03/06/18 22:11:37
神の子の自主自由な共同体です。 >>> 自由って難しい


信徒の手紙 - 03/06/18 20:45:55
神の子の「共同体」だったら「正義」というものが働きます。高松教区には「正義」も「真理」もありません。


何も知らないくせに - 03/06/18 20:12:55
いい加減なこと言ってると恥を晒すだけですよ


- 03/06/18 20:02:48
統治者の方針に公然と組織的に反抗したのだから)これは事実と違います。今まで何を見てきたのですか?あなたの目は節穴ですか?


今からでも遅くは無いから和解して訴訟の取下げを願う。 - 03/06/18 14:07:40
だからといってあなた方の主張が間違いだと全国の信徒から判断されるわけでも無し。逆に尊敬されると思う。


高松司教は独裁者ではない - 03/06/18 14:04:54
教区の統治者ですよ。統治者の方針に公然と組織的に反抗したのだから、司教の処置は仕方が無いです。ただし処罰の仕方や公衆の面前でも警告はちとやり過ぎ。


通行人C - 03/06/18 13:26:31 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
教会は民主主義ではない、ということは、独裁的全体主義であるという意味ではない。神の子の自主自由な共同体です。


セクト的集団の論理[2] - 03/06/18 12:59:36
[第一の理論] それではこのような第一の理論がどのような構造になっているかをもう少し詳しく見ていきたいと思います。
まず、このような論理は「類似性の追求」ということに基づいているのですが、それは、私たちに現れてくる様々な直接的な現実に対して、ただ部分的に理解できることだけをあてはめて満足してしまう、そういった類似性の追求だけで満足してしまう、という特徴をもっています。
この論理は私たちの無意識の領域で行われているもので、そのプロセスはフロイトが言う一次過程というプロセスと通じるものがあります。
そのプロセスは次の4つの基本的な操作から成り立っています。まず一つは「投影」と呼ばれる操作で、これは自分に関する不都合な事柄を他の人に与えてしまうことを言います。
2番目に「取り込み」という操作で、これは他の人に関することを自分のことであると考えてしまうことです。
3番目に「同類扱い」ですが、これは多様性があるにも関わらず、部分的に似ているということで同じものとみなしてしまうことです。
最後に「現実否認」と呼ばれる操作ですが、見たくない現実とか知りたくない事実を認めないということです。
これらの4つの操作は全て、客観的な視点というものを持たないので、現実の多様な姿、ニュアンスといったものを認識不可能にさせてしまうのです。
つまり、黒か白かどちらか一方しかないという状態で、全ての判断は、例えば、善良なものか悪辣なもの、また善であるか悪であるか、正しいか間違っているかのどちらかである、というような極端な二元論に陥ってしまいます。
こうして狂信的なファナティズムが生まれてくることになります。逆説的な立場から極端な立場へと予測不可能な形で態度を転換するという事態が起こり得るのです。
従って、このような論理においては「差異」、つまり「違い」ということに対して意味を与えることができません。つまり、世界には自分と同類の者か、よそ者しか存在しないと言うわけです。
このような考え方しか持たない集団においては、同類として同じ集団に属さない者はよそ者でしかあり得ず、従って理解不可能なものであり、潜在的に危険なものである、つまりは滅ぼすべき敵対者として現れるわけです。
ここでは「他者」、つまり違ってはいるけれども、全くよそ者ではない、というような存在はあり得ないということになってくるのです。
その結果このような集団にとっては、自分たちのグループに属さない外部の者に対して、公正であったり同情を持ったりするということは全く考えられない、ということになるわけです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


民主主義ではない - 03/06/18 12:35:09
同感。司教に従うべきだと思う。命までとられるわけでなし。小豆島の聖体拝領できなかった件も早々に和解すればなんということ無かったのではないのか。
次の司教が方針を変えたら、当然それに従うべきだろう。ネオの集会を禁止したら、彼らは何処かでこっそりと集会すべきだ。


セクトの議論をしてみても - 03/06/18 09:22:56
始まらないよ。どんな手段でも変わらない。司教が変わらなければね。無意味だ。引退して新しい司教に代われば可能性はあるけどね。
司教の方針が変わるように祈るか交代するまで我慢するか。(新しい司教が層でない事を祈るだけ。


セクト的集団の論理[1] - 03/06/18 08:23:50
まずはじめにセクト的集団がどういう集団であるかについてお話ししたいと思いますが、これらの集団がおしなべて主張するのはつぎのようなことです。
つまり、私たち個人個人が生きていく上で理想を実現する秘訣を自分たちは知っているのだ、ということです。
例えば、個々人に対して、精神的もしくは道徳的に完成の域に到達できるのだとか、健康や社会的成功の領域で理想を実現できるのだとか、あるいは理想的な政治組織をつくるにはどうしたらよいのかなどと、そういった秘訣を知っているのだ、と主張する。
しかしそのために、新しい解決方法を提示しようというのではなく、逆に、これらの集団の指導者たちが独占的に会得している教えを、そのまま疑問をもたずに実行することによって、そのような理想を実現することができるのだ、と主張するわけです。 
これらのセクト的集団は偏狭で硬直した主張を行い、常に常軌を逸した狂信的な態度、いわゆるファナティズムによって駆り立てられています。
またそのために攻撃的で不寛容であるということが彼らの基本的な態度です。
さらにこれらのセクト的集団は、いかなる批判も受け付けず、そして彼らを統率する権力というものが民主主義的ないかなるコントロールも認めない、また、その権力は信者の最もプライベートな領域にまで影響を及ぼす、という意味において、全体主義的であると言えます。 
彼らのイデオロギーの根底には、いかなる疑いも挟むことを許さないような確信、あるいは思い込みと言うようなものが存在しています。
このようなセクト的集団に対して、私たちはもう一つのタイプの集団をあげることができます。
それは、一般的な宗教団体や、あるいは学会のような哲学者や科学者で構成された集団です。
これらの集団の活動は常に研究のアプローチ方法に対して忠実で、自らの追求する理想に近づけるという確信を持ち、また、絶対的な真摯な態度を貫くという姿勢に支えられています。
この「真摯な態度」ということが何を意味しているのかと申しますと、すなわち、自分たちが確信している考えなり、仮定といったものは、その都度その都度常に問い直さなければならない、ということです。
このような態度は「科学的懐疑」と呼ばれるのですが、これがすべての科学や哲学を探求していく上で、不可欠な態度となっているのです。 
このような「科学的懐疑」をより有効にするためにはまず、個人的に得た研究の結果をほかの研究者のそれと突き合わせることをお互いに認めなければなりません。
また、それは利用されるあらゆる知識や情報の源が検証可能な形で公表されるということでもあります。 
以上のように私たちは2つのタイプの集団を見てきたわけですが、これらの2つのタイプの集団において、なにが決定的に違うのかということをもう少し深くお話ししてみたいと思います。
そのために、まず基本的な哲学の問題でもある3つの質問を通してそのことについて考えてみたいと思います。
この3つの質問とはよく旅人の対してなされるものですが、同時に我々がこの世界に存在しているというなぞを要約している問いかけでもあります。
その3つの質問とは、「お前はどこから来たのか?」「お前はどこへ行くのか?」そして「お前は何者なのか?」という問いです。
これらの問題に答えようとするとき、その答え方の論理というものは2つの種類に分けられます。
これからお話しする第一番目の論理がセクト的集団に特有のものなのですが、セクト的集団の論理には一つの特徴的な態度が見受けられる。
それは先ほど問いかけた3つの質問の中でも最後の問い、「お前は何者なのか」という問題にしか自覚的でないということなのです。
それでは、このセクト的集団に特有の第一の論理ですが、この論理は「直接性」ということを背景にして成り立っています。
つまりこの種の論理は、私たちの誕生から死までの存在の期間、もしくはその周辺のことだけしか問題の対象にしないという態度です。
多くの場合、このような態度は、私たちが生きている「今ここ」という直接的に自分に現れてくる現世的な問題にしか関心を示さず、それゆえ、そこにおいては過去も未来も来世も、現実の単純化されたイメージという形をとってしか現れてこないのです。
従って、こういう論理においては、「私は誰なのか?」という問題に対して、結局、目前の直接的な状況の中だけでしか考えられないので、単に状況中の自分の役割といったものを確認するだけにとどまってしまうということです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


なんで平信徒が口出しするのか - 03/06/18 07:21:43
不思議でならない。教会は民主主義では無いと大阪司教もパパ様もはっきりと言ったでしょ!!


傍聴人/K - 03/06/17 21:02:33
日本の「教区改革第3次計画」を立てること。まず第1次計画で、現在の16教区を13教区(司教も13人)に減らすこと。
従って高松教区は、通行人様の提案のように大阪教区に編入し、"教区管理者≠置いて宣教・司牧すれば、十分機能する。
第2次、第3次計画は追って提言する。
以上、現在開かれている定例司教会議の最終日に、長崎教区・大司教の選任同意案に引き続き、緊急動議を提案する・・・・・そうなるといいんだけど、さて・・・。


通行人C 様 - 03/06/17 14:35:27
特例区にし女性の叙階云々。これはやはり教区の分裂を招くのではないでしょうか。
この運動自体には共感するところもあるのですが、いっぺんこのような事例があると、気に入らないことがあると、また何かあったときすぐに信徒間での分裂が起きそうでちょっぴり不安です。
特にインターネットの掲示板は慣れないと怖いと思います。


バカチンに - 03/06/17 13:01:46
怒られますよ。ネオなら安全かつ効率的に増やせますよ。



通行人C - 03/06/17 12:15:36 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
そんなに司祭が必要なら、T教区を「特例区」にして、既婚者の叙階や女性の叙階を容認したらいかだでしょう。教区が分解するよりもましではありませんか。


本音は司祭がたくさん欲しいし - 03/06/17 06:59:18
20年ほど前の神学院の状況から想像すれば、 今の司祭の50%以上が神学院でミサがナによりも大切と叩き込まれてきたのでネオに反対しないのは、当然だと思う。 
何よりも典礼を充実させて司祭を増やすのが司教の責務と教わったのもほんとなのでしょう。


心情的には各司教はネオ支持派 - 03/06/17 06:53:29
だと思う。だから結論が10年以上出てこない。


通行人 - 03/06/16 23:38:41 電子メールアドレス:a0007973@hotmail.com
もう、うざい!高松教区は閉鎖、大阪大司教区に統合。四国には補佐司教を立てればよい。狭い日本に腐るほど司教がいすぎ!司教大バーゲンではない!


プル - 03/06/16 21:25:15
どこの馬の骨だか分からない人は、たとえ能力があっても 採用しません。>>> 
賛成です。というか当たり前でしょう。もっともいまどきどこのうまのほねだかわからないような人いないと思いますけど。


教会村の村長 - 03/06/16 18:39:33
典礼に詳しく、個人情報を守れて、身元の確かな (司祭や役員の兄弟や親戚が望ましい)人が望ましい。
どこの馬の骨だか分からない人は、たとえ能力があっても採用しません。 人事課。


というか - 03/06/16 14:55:52
どんな仕事でも「そつなく」こなすのは給料もらう最低条件ではないのか?「そつ」があっては困るだろね。


教区職員 - 03/06/16 14:52:02
典礼にも詳しい人であって欲しいし、個人情報もいろいろ扱うし、派遣はいかがなものか。
コネ採用の方が安心だと思う。もうけ仕事ではないと思われるので、そつなくこなせることが第一です。


今日区事務員 - 03/06/16 08:33:49
は派遣で雇うと安く上がる。教区職員なんて大抵はコネ採用。神父さんの親戚とかが大勢だから馴れ合いが起きやすい。
某中央協議なんとかも職員名簿見ると面白いよ。親戚だらけで仲良しで平和そのもの... まあ、仕事は公務員並に、そつ無くこなしているのでしょうが


他教区の神父 - 03/06/16 08:21:36
高松教区には「ネオの神父がゴロゴロするほどいるが、どれもこれも役立たない」なるほど。F司教がそのようなことを話していたそうだ。


プル - 03/06/16 00:40:45
リストラで、教区職員を辞めさせているので、教区事務局は大変だ。 
>>>まさにその通りで、大浦さんが担当していた事務の引き継ぎがどうなるのか、判決を前にして気ぜわしいこの時期に事務所は大揺れの模様です。
今日のお通夜には教区内から大勢の方が参列されました。本当に教区・小教区のために心を尽くして働かれた方でした。



教会が崩壊しても - 03/06/15 21:32:08
キリストは死なない。神父なんて誰でも良い。教会が腐れたら、また新しい教会を立てればよい。今は過渡期と信じたい。


目を丸くして見ている信徒 - 03/06/15 20:12:21
「今、我々に必要なのは」の書き込みについて。ちょっと難しいが、現実をよく理解・認識している人の意見として、歓迎されるべき貴重な意見である。
ただし「オブス・デイやネオの運動はプレ・バチカン公会議に戻ろうとしている回顧主義の感を免れない」ではなく、はっきり「・・・・戻ろうとする回顧主義であり、21世紀のカトリックに逆行するものである」としたほうが良いと思う。
現実にそうなのだから。


今、我々に必要なのは、 - 03/06/15 13:01:24
破壊から創造である。破壊された教会を再創造することである。刷新と言う言葉は弱すぎる。再建、建て直し、或いは聖書的に再創造と呼んだ方が良い。
実は、このことが第二バチカン公会議の第一のポイントであった。アジョルナメント(現代化)とは、現代の諸価値にこびることではない。
歴史を振り返り、中世という昔ではなく、もっと昔、イエスの時代まで溯って、現代の教会を根本的に建て直すことである。ある人たちは、「昔の教会は良かった」と言う。彼らにとってはその通りだろう。
しかし、彼らが言う昔とはトリエント公会議の場合が多い。それゆえ、彼らの「昔」は、中世なのだ。教会が最も権力を有した、ある意味で一番恥ずかしい時代。
大バチカン展(どうして「大」がつくのかは不明)と言う催しがあったが、それは絢爛豪華な教皇のバクルス(牧杖)やミトラを展示してあった。
それは、ある意味で教会が堕落したシンボルとして見られるべきであろう。だからこそ、福音の価値を取り戻そうとした多くの聖人と呼ばれる人たちを排出したのだ。
初代教会共同体は、使徒言行録に見られるように迫害下の教会である。文字通り命を張って、福音を宣べ伝えた。それだけの価値を彼らは見出したのだ。
一方、我々はどうだろうか。一言で言えば「混沌」とした状態のままである。まるで牧者のいない羊のようである。牧者自身が、牧者を必要としているように見える。
混沌の中で、新しい教会の動きもあるが、多くの場合、一時的な熱狂現象で終わるだろう。
これも叱責を承知で書くが、カリスマ刷新などは、ファンダメンタリズムに根差したプロテスタント系の運動のカトリック版で、自己完結的な、自己満足的な印象を持つ。
また、オプス・デイ(Opus Dei)や、ネオカテクメナーテ(新求道共同体)の運動も、多少の修正はあるにしても、Restorationism(プレ・バチカン公会議)に戻ろうとする回顧主義者の感を免れない。
その勧誘方法や、排他的な性質は、societas perfecta(教会は完全な社会)という古いぶどう酒を新しい皮袋に入れているように思える。
教会に集まって、良くお祈りし、修行を積んでから、さあ、社会に行って福音宣教しましょう、と言っているようだ。そうではない。福音の種は、既に社会の中にばら蒔かれている。
抑圧されている人々、社会の価値観によって打ちのめされた人、差別されている人、言ってみれば、我々の中の、寄留の外国人、孤児、寡婦との人間的ふれあいの中でこそ、祈りが生まれ、気づき、共に福音を必要とし、同時に、その宣教者になっていくのである。
宣教軍団は現代、必要がない。無理であると言うよりも、無駄である。


http://www.bekkoame.ne.jp./~sukke/info2.html - 03/06/15 12:59:34
お叱りを覚悟で敢て言うと、もう「ミサごっこ」のようなことはやめにしたほうがいい。「ミサの水割り」も意識してやめたほうがいい。
一部の人たちは現実が厳しいし、自分もその厳しい現実の憂き目にあっているので安らぎを求めて宗教に入る。宗教は彼らの心を暖かく受け入れ、現実離れした世界へと導く。
彼らだけは限られた時間と空間の中で「いい気持ち」になれる。信仰と現実生活は遊離していた方が都合がいいのだ。信仰と現実生活が遊離したままのミサは個人的である。
ミサは本来司祭が一人でささげても共同体のミサなのだ。ミサの「お参り」は、クリスマスだけで充分である。


成相神父のHP - 03/06/15 12:52:47
http://www.hvri.catholic.ne.jp/ ちゃんとありました。此方もリンクをお願いします。森英児さんの複写ピオのページも見つけました http://therese.fc2web.com/index.html
上記のサイトは反ネオで有名な伝統的保守的カトリック、サイトですのできっと「明日に向かって」への力になってくれることと思います。


聖ピオ十世司祭兄弟会非公式ホームページ - 03/06/15 12:37:28
http://fsspxjapan.fc2web.com/menu.html 小野田神父さんのページだと思うのですがリンクはしないのですか?


信徒会役員 - 03/06/15 11:39:58
リストラで、教区職員を辞めさせているので、教区事務局は大変だ。ネオ神父はごろごろするほどいるが、役立たず、教区報もだれもやる人がいないので大浦さんが全部手がけていた。
仕事中とのことで、過労死ではないのかな?専属の事務職員はTさん一人だけになったしもうた。


マザーテレサが死んだ - 03/06/15 08:01:19
次はだれが教会を指導する。ネオ司祭が指導するのか。それとも....朽ち果てるまで待つか。


日本の司教団は - 03/06/15 07:59:04
このままではネオ司祭を受け入れは避けられない。なぜなら彼らには大義名分があるから。自分はもう覚悟が出来た。その時が来るのを、祈りながら静かに待とう。


プル - 03/06/14 18:28:56
高松教区事務員の大浦様、心臓に持病を抱えていながら、ばりばりと教区事務をしておられました。
さまざまな行事で中心となって活躍しておられました。45歳での急逝、残念でなりません。ご冥福をお祈りします。


- 03/06/14 16:31:37
高松司教館に勤めておられた大浦さんが帰天されました。


強は土曜日 - 03/06/14 09:22:10
各地でネオ様式のミサ聖祭が行われる日です。ネオ反対運動の参考のために参加(観察)したい方は今日がチャンスでね。
どなたかどこの教会で何時ごろミサが行われているか調べていただけませんでしょうか。そしてこのhpに公表するのです。
これ以上ネオの被害を拡大させないためにも必要です。「明日に向かって」さんも宜しくご協力願います。


(↓) - 03/06/13 16:23:24
インターネット心療内科(医学博士 笹田信五) http://www.ikasareteruigaku.org/shinryo/


教員異動、現行の8年を3年に - 03/06/13 16:04:17
都教委が異動サイクルの短縮化に踏み切る理由には、教育現場で、“古株教員”の存在が、大きな弊害になっていることがある。
長期勤務の教員らは職員会 議で発言力が強く、校長から「思うように学校運営ができない」といった悩みが寄せられており、都教委では、「マンネリ化による教員の意欲の低下を防止する意 味でも、人事のサイクルを短くすることの意義は大きい」としている。&教会妖怪や古株信徒も同じだよね。
でかい顔して教会をのし歩く、神父さんはビクビク。何かあれば司教館に、「こっそり」と「陰で」「告げ口」だもんさ。


しかし私には - 03/06/13 10:33:35
捨てられないものが一杯ある。 お金、友人、親兄弟、恋人etc だから引き篭もっているんだけどね。 はやくうちの教区にもネオが来てくれないだろうか。
腐れた司祭がオドオドビクビクして古参信徒、ボス信徒の顔色を伺ってる教会を建て直してほしい。連絡を待っています。
カルメン、キコ様。深堀司教様、谷口神父様。佐藤司教様。その他ネオの支援者様。


教会に来ない若者も - 03/06/13 10:28:41
少なからずそう思っているのかも知れません。いまや教会は仲良しクラブと化しているのも現実ですよ。


だから自分も時々想う。 - 03/06/13 10:26:09
村八分が公然と行われている古参信者が幅を利かせて司祭が小さくなっている今の日本の教会をネオがぶっ潰してくれれば、全財産をお布施しても本望だと。
時々真剣に考えるときがある。


まぁ真実かどうかは当事者のみ知っているのでしょうが - 03/06/13 10:21:52
世界のカトリック教会だって混乱して阿鼻叫喚地獄なのは一目瞭然。世界を歩くといろいろ聞こえてくるけどね。ま、これも福音の世界の出来事だと思えば...


■ 枢機卿、大統領の再選望む? 【2003年6月5日 - 03/06/13 10:19:12
来年の大統領選挙には出馬しないと言明しているアロヨ大統領だが、マニラ大司教のシン枢機卿が大統領の再選を望んでいるという情報が伝えられていると報じられた。  
これは、韓国を訪問しているアロヨ大統領のある随行員が匿名を条件に明らかにしたといわれるもので、この情報筋によると、先月の米国訪問の際にもブッシュ米大統領がアロヨ大統領に対して次期大統領選への出馬を促し、 不出馬宣言については「女性と政治家に心変わりはつきもの」と耳打ちしたという


■ エドサ式典、過去最低の参加者 【2003年2月26日(水)】 - 03/06/13 10:18:06
エドサ聖堂における朝の国旗掲揚式に臨んだラモス元大統領は、「参加者が非常に少ないのは明らかな準備不足だ」と苦言を呈し、来年はさらに参加者が少なくなるとの見方を示した。
ただ、自身は来年も参加する意向。  
記念ミサでは、エドサ革命で重要な役割を果たしたマニラ大司教のシン枢機卿が「民主主義を守り、貧富の差を縮めるため共に戦ったエドサ革命の理想を思い出すよう」国民に呼びかけた。  
エドサ革命で大統領の座についたアキノ元大統領は、「問題の火種にするのではなく、国の問題を解決する役割を果たして革命の精神を思い出すよう」訴えた。


■ 政教分離裁判で宗教指導者の説明求める  【2003年2月12日(水)】 - 03/06/13 10:17:13
選挙で特定の政治家を支持したのは憲法違反だとする弁護士グループの訴えを受けたマニラ地裁は、宗教指導者5人に対し出廷して説明するよう求めた。  
召喚されるのはマニラ大司教のシン枢機卿、「イグレシア・ニ・クリスト」の指導者マナロ氏、「エル・シャダイ」の指導者ベラルデ氏、「ジーザス・イズ・ロード」のビリャヌエバ司教、「アン・ダティン・ダアン」の指導者ソリアノ氏の5人。  
訴えたのは弁護士らを中心とする「ソーシャル・ジャスティス・システム(SJS)」で、一部の宗教指導者が特定候補への投票を信者に義務づけたとされる件について政教分離を掲げる憲法に違反していないかどうかの判断を求めたもの。


■ 反戦集会に数千人が参加 【2003年3月3日(月)】 - 03/06/13 10:14:24
28日、ギンゴナ副大統領とバカニ大司教が呼びかけた「平和のための全国祈とう集会」に数千人が集まり、「米国主導のイラク戦争を支持しているのはアロヨ大統領ただ一人だ」と反戦を訴えリワサン・ボニファシオからリサール公園のキリノ競技場までデモ行進した。  
集会には学生や聖職者、国会議員、労働団体などが参加、ギンゴナ副大統領とバカニ大司教は米国のイラク攻撃に反対する国民の「統一した立場」を象徴した平和の垂れ幕を掲げた。   
(バカニ司教さん、保守派のわなに嵌められたかな?)


セクハラ疑惑の司教をエル・シャダイが擁護 - 03/06/13 10:08:49
宗教団体エル・シャダイの指導者マイク・ベラルデ氏は10日、セクハラ疑惑の渦中にあるバカニ司教に対する信頼は揺るがないと同司教を擁護する発言を行った。 
バカニ司教の家族とつきあいがあり、司教を個人的にも知っているとするベラルデ氏は、「バカニ司教に対する非難はカトリック教会に対する非難でもある」として司教を支持するようカトリック教徒に呼びかけた。 
この件についてアロヨ大統領はこの日、バチカンの調査が行われているとしたうえで、司教のプライバシーを尊重するようカトリック教徒に呼びかけ、マスコミの過剰報道に懸念を示した。
フィリピン日刊紙より


司教のセクハラ疑惑発覚 - 03/06/13 10:06:42
首都圏ノバリチェス管区のカトリック司教が女性秘書にセクハラ行為を行ったとする疑惑が伝えられ、信者の間に波紋が広がっていると報じられている。 
伝えられているところによると、この司教は事務所内で秘書にむりやり抱きつきキスをしようとしたといわれている。 
この司教は声明で疑惑を否定したながらも、「不適切な愛情の表現」をしたことは認めているという。この司教は謝罪すると同時に辞職の決意を表明したという。
なお、この司教は病気治療などのため9日から3週間の日程で渡米する予定で、この問題はバチカンも調査に乗り出す見通しだと報じられている。
フィリピン日刊紙より


でも現実に - 03/06/12 22:25:33
20万人以上の外国人信徒は日本で生活しているしね。いまだに司教さんたちは方針を示してない。信徒は無関心。なにより彼らを理解する努力もしていない。


ネオの司祭も - 03/06/12 22:20:52
古参信者から見れば、「日本に来たのだから日本のやり方で」とかいろいろ指図したり、言われる。特に外国人信徒(50%を占める)に対する対応も同じような排他的な態度を取る。


んで日本の器を - 03/06/12 22:16:32
飛び出しちゃったのですね。


日本のカトリックを憂う - 03/06/12 14:35:32
自らの声を上げられない始末。これが日本式民主主義、ですね。
>>>すみませんでした。日本を長く離れていると、「日本式教会のしきたり」も忘れてしまいます。
ただ、私が言いたかったことは、同じ器(会社、学校、団体、教会なども含めて、社会全体)の中にいる意見が異なる者も、唇を噛み締めながら大多数の者と同じ意見を持たねばならない。さもなくば「村八分」にされる。
「村八分」にされたが最後、その「器」の中では生きていけない(昔ほどの悲壮感は感じないでしょうが)。
そのような日本の土壌が育んできた「日本式」民主主義の中に、昔ながらの「同じ(ような)顔つき」、「同じ(ような)皮膚の色」、「同じ(ような)宗教」、「同じ(ような)思考回路」、「同じ(ような)物を着る(学生服が良い例)」などなど、「同一思考」を暗に強制する力が見えた、と言うことです。
また、その違いを脇において、同じ(ような)意見を持つことに同意したが、しばらくすると、その違いすら認めた本人が気づかぬ内に、脇においていた自分の本来の相違を忘れてしまう(喉元過ぎれば、暑さ忘るる、である)。
これは私自身も、日本を外から見て初めて見ることが可能になったことですが。


日本のカトリック信徒 - 03/06/12 13:25:04
日本のカトリックを憂う - 03/06/12 10:08:54 さんフィリピンではどうなのですか?


正統派で伝統的かつ保守的教会? - 03/06/12 13:21:51
これはつまりラテン語・東面式のトリエントミサをたてる教会ということなのかな?


んと優柔不断。司教様も大司教様も、枢機卿 様も、信徒の声を恐れて、自らの声を上げられない始末。これが日本式民主主義、ですね - 03/06/12 13:11:58
そんな、あからさまに掲示板で聖職者の悪口を言ってはいけません。そっと陰から忠告するほうが良いです。それが日本式教会のしきたりです。


腐れ信徒 - 03/06/12 13:09:37
ネオさんよ。さっさとこの腐れ長老信徒を叩き出してくれんかの。


羔 - 03/06/12 10:37:13
個人の信仰と教区(司教)の方針との間で苦しむ信徒の方々の苦しみジレンマはよくわかるし、自らの信仰をもってそれに対する陳情や抗議を上長に申し出ることは信仰者として理解できます。
しかし、司教と対抗するとか司祭を選ぶとか、そこまでいくともはやカトリック教会としての一致から外れているのではないでしょうか。
ネオはカトリックから分離して独自の信仰を保てばよいという意見を肯定するのであれば、会衆が司牧者を選ぶことを肯定する人々も、典礼はそのままで分派するしかないのではないのでしょうか。
信徒も司祭の人間ですから、合う合わないで小教区を移動することは人間の弱さとしてある程度理解できます。
が、対抗するとか退散させるとかいう論議は、一番中心におられるお方の姿を見失っているとしか思えません。


通行人C - 03/06/12 10:19:12 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
余所者の感想です。
問題は、「ネオ」とか「反ネオ」ではない様に思われます。現行の教会権力機構が信徒一人一人の「人権」を有効に守るように機能しているかどうか、それがポイントではないでしょうか。
これまで「神学教科書」の中だけで論じられていたことがようやくわが国でも現実の問題として取り上げられるようになったという感じで、明日の日本の教会のために喜ぶべきことではないでしょうか。


日本のカトリックを憂う - 03/06/12 10:08:54
このホームページを約1年半、海外からいつも見てきておりましたが、日本のカトリックは本当に自由?だと、感心しました。
小教区や教区のあり方にそこまで口出しすることができるとは!さぞや主任司祭の方々は、骨の折れることでしょう。
教区信徒の機嫌を損ねては、気を使いながら司牧しなければならないなんて。
要は、日本のカトリックの中にも、日本古来の「村八分」の精神が、厳然と残っていると感じ、背筋が寒くなる思いです。
その教区の大多数の信徒の考え方に合わせられなければ、「村八分」が待っている。これは司祭も例外ではないヨ、と。気に入らない司祭は来てもらわなくて結構。
私たちで気に入る司祭を見つけて、ミサを挙げてもらいます。日本の信徒の皆さん、そのような気持ちを持ち続けるなら、日本のカトリックの将来は目に見えてますね。
カトリックからプロテスタントに移行する信者もこれから増えるでしょう。司教協議会の力不足も大いに、責任があります。
なんと優柔不断。司教様も大司教様も、枢機卿様も、信徒の声を恐れて、自らの声を上げられない始末。これが日本式民主主義、ですね。本当にかわいそうです。
聖霊降臨の祝日を終えて、彼からも益々、皆様の上に聖霊の賜物が授からんことを。そして一日も早く、盲人が盲人の道案内をするがごとく、教区が信徒の独りよがりな民主主義の危険から救われんことを。主に祈ります。


海神セレス - 03/06/12 08:35:25 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
*その通り!(教区司教に対抗するのですから、其れ位しなければ・・・。)


同時に観想修道会 - 03/06/12 08:20:01
のシスターにも協力を仰ぎ、反ネオのロザリオの祈りを捧げてもらう。各小教区の共同祈願、説教、に反ネオの祈りを唱える。
これも全国規模で同じ日に行う。そこまで徹底すればネオも祈りの力に負けて協会から退散するでしょう。


全国の反ネオ派の人々も - 03/06/12 08:16:17
協力を仰ぎ、全国規模の平和な示威行動を起こす。もちろん原告の森岡さんは機関紙やビラを精力的に作ってもらう。
なにせ印刷会社の社長さんだからわけも無いでしょう。ビラの原稿は出来次第ここにアップします。


中島町小教区 - 03/06/12 08:12:59
は準備が出来次第、半ネオ派の信徒で占拠して独自の司祭を招き入れてミサを執り行う。
NHKや新聞テレビに事前に情報をリークしておいて取材をさせて情宣の一環として利用する。
そうすれば司教団もカトリック新聞社も正義と平和協議会も無視するわけには行かないでしょう。


ということは反ネオ派は - 03/06/12 08:09:02
ネオに汚染されていない教会に集結して、ネオに対抗する。修道会もそれを物心両面からサポートする。
そして正統派で伝統的かつ保守的教会をネオの似非伝統主義侵略から維持するわけですね。


海神セレス - 03/06/12 07:03:22 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
*江ノ口小教区は教区司祭、中島町小教区はオブレート会士の担当です。それ故、前者に親ネオ信徒が集まり、後者に反ネオ信徒が集まる結果となりました。
(親ネオのオブレート会士の異動に異議が出たのは、その関連でもあるとの事です。)


高知市での江ノ口小教区と中島町小教区の棲み分け状況に、倣うべきです! - 03/06/12 06:32:13
いつもセレスさんの投稿を楽しみにしてます。「高知市での江ノ口小教区と中島町小教区の棲み分け状況に、倣うべきです!」という具体的な情報をお願いします。


海神セレス - 03/06/12 06:04:24 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
*不評なのですが、愛媛県・中予地区での「ネオ派封じ込め作戦」を提唱します!
御互いの為に、受容れを承諾した中予地区の小教区に彼等を転籍させて、「棲み分け」を確立した方が良いですよ。
(高知市での江ノ口小教区と中島町小教区の棲み分け状況に、倣うべきです!)


海神セレス - 03/06/12 05:51:15 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
*両形態拝領の件ですが、ドミニコ会士・教区司祭ともに、大祝日や洗礼式・挙式・葬儀等々の重要行事のミサにて、必要に応じて実施中です。
個人的には、御聖体(聖パン)を口受け後に、御血(聖ワイン)を聖杯(カリス)から拝領するか、司祭が御聖体を御血に浸した後に口受けするのが好きですね・・・。
(所謂、欧州式です!)


海神セレス - 03/06/12 05:33:33 電子メールアドレス:fumikazu@dokodoki.ne.jp
*現在、今治小教区から松山小教区への転籍手続中の海神セレスです。(不評ながら投稿します。)
私の持論の繰り返しですが、「ネオ派潰し」を煽動した事は無く、その意思も無いのです。
只、「属人区ネオ・カテクメナート」の認可を取得して、高松司教区とは別団体に独立していただきたいのです!
(司教区は、各修道会・宣教会・属人区・教区司祭団の公平・中立的な調整機関であるべきです!)
そうすれば、一連の諸紛争は起こり得ないのです!早急に事態が解決出来ます事を!


プル - 03/06/11 21:55:44
なんだか不謹慎なことを書いてしまいました。失礼しました。


- 03/06/11 16:50:39
両形態での拝領を行っているのはネオに限らないでしょうから、これはなかなか重要な問題ですね。


なかなか神学的な - 03/06/11 16:32:12
議論になってきましたね。議論のたたき台としては最適ではないでしょうか。


もっとも - 03/06/11 15:11:48
正しいか間違っているかは神様が本人に直接教えてくださるだろう。
神と向き合ってよく考えた上で、そのことによって引き起こされるあらゆる問題を全て担っていく覚悟をして行動するというのなら、思うようにするがよいであろう。


そもそも - 03/06/11 15:00:26
司祭の執り行う神聖なミサ聖祭における行為が正しいのか間違っているのかを、ネットの引用情報だけを鵜呑みにして判断し、間違っているから上長に訴えるなどと先走ること自体が間違っているのではないだろうか。
まず自分で典礼総則を読むとか(ネットにアップされているものではなく、活字になっているもの)あるいは、例えば上智や南山のHPなどで、神学部の教授に尋ねるなどしてから正誤を判断するべきものではないか。


他教区の信者様 - 03/06/11 14:08:38
「>間違ったことを間違っていると責任部署に伝えるのは間違ったことですか?」
神様は、あなたにも自由意志をお与えになっている訳ですから、あなたがどのような行動をされようとそれは、あなたの自由です。
しかし、問題を解決するには順番というものがあります。長上に訴えると言うのは、最後の手段で良いのではないでしょうか? 
司祭に陰で忠告しても何も改善されないのであれば、教区長なり、教区本部事務局に訴えてもかまわないと思います。
それでも、納得されないのであれば、以下の主の御言葉に耳を傾けて下さい。
「兄弟が罪を犯す事があったのなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」マタイの福音書18章15節以下
今回の件とは、若干意味合いが違いますが、私が何を言いたいのか理解して頂けるかと思います。
しかしこの主ご自身の御言葉を読んでも、何も感じないのであれば、あなたの望むようになさって下さい。
私は、ちょっとした優しさを持って、司祭に陰で忠告する方が賢明だと思います。


宗教を考えるという掲示板でも - 03/06/11 10:07:17
http://www.makani.to/~kito/bbs/index.htm?brd=1 議論をして解決に歩み始めましょう。


ここは一度 - 03/06/11 09:50:14
医学的、心理学的、法的検証が必要ですね。 http://homepage1.nifty.com/kito/ マスコミで有名な紀藤弁護士が詳しそうです。
力になってくれと思います。是非相談なさってください。


一度ネオの支配が及ばないきちんとした精神科の先生方 - 03/06/11 09:45:21
一度ネオの支配が及ばないきちんとした精神科の先生方え!!!!すでに医療の世界までネオに汚染されているのですか??それは大変。


担当の医師 - 03/06/11 09:43:40
の協力が必要です。その先生はどこの病院ですか?一度話をお伺いしたいし以前に原理運動の調査したときも医師の協力を経た記憶があります。


信徒の人権 - 03/06/11 09:19:25
山下さん:
『3ヶ月ほど前、調子が悪いと心療内科に行った私の知人は担当の医師にネオの活動のことを話したところ、詳しく聞かれて、その活動に出ないようにと、きつく注意されたとのことで、その人は来なくなりました。
治療のためによくないと診断されたそうです。』
山下さんの勇気あるこの貴重な証言により、所謂高松教区のネオ問題に関します、重大且つ深刻な一面が露になった思いがします。
高松教区のネオ問題を傍から見ていて気づいた事なのですが、ネオと接触を持つ事で何処か体調を崩されたり精神面に何かしらダメージを受ける人は、何もネオの活動に参加している人に限定された事象ではないと思うのです。
またそれらは、個人の健康度とも無関係に発症しうるものと理解しています。ネオによって健康を害されるのは、程度の差はあれ健常者の信者とて例外ではないということです。
高松教区でネオ問題に苦しめられている人のために、一度ネオの支配が及ばないきちんとした精神科の先生方に、ネオの司祭が司牧に入っている教会の信徒全員を徹底的に診察してもらえますよう希望いたします。


多分司教もこれが最善では - 03/06/11 09:11:07
無いと、内心思ってるのかもしれません。
しかしもう後戻りも出来ないし、ネオと約束もある 「司祭を増やし、ミサを充実させる」という司教の至上の使命を果たすにはこれしかないし「反対派はこれ以上司祭はお金が掛かるから要らないと私の願いを否定するし、他の手段の提案もしてくれない」どうしたものか...と一人思い悩んでいるのかもしれません。


実際のところ - 03/06/11 09:03:13
平信徒が、どんな理由かわからないけど「司教の方針は受け入れがたい」と公に「調停」とか「抗議」の表明をしちゃったんで、最初、司教は「公衆の面前で俺に恥かかせんな」と怒り心頭に発し、同じく教会内で「反論文の掲示や説教」を司祭に指示したのだろうと思います。
司教のプライドがそうさせたのかもしれません。
「もう後戻りも出来ないし、司祭を増やす手段も他に無い。なんで信徒は自分の苦悩をわかってくれないんだ」とか思っているのかもしれません。


規則や規定を知った上で、規則や規定を破るような事を引き続く行うのならば、それは罪となります - 03/06/11 08:40:55
この高松の揉め事は平信徒、司教が双方が「規則や規定を知った上で、規則や規定を破るような事を引き続く行うのならば、それは罪となります」と言い合っている気もします。
もっとも双方は規則や規定は破っていないと主張するでしょうが。


間違ったことを間違っていると責任部署に伝える - 03/06/11 08:36:41
と、力のあるものや権威のあるものの 対抗処置として掲示板に張り出されたり、集会やミサで吊るし上げられたりします。やはり「陰で」「そっと」「忠告」が良いのかも知れません。


公衆の - 03/06/11 08:34:02
HPなどを使っての面前での忠告、公的機関への通報、裁判所への提訴、賠償金の要求、調停 etc  
おそらく司教さんはそれに「平信徒の不従順さ」を感じたので、このような裁判沙汰をも厭わない行動にでたのでしょう。
やはり司教さんは信徒に「陰で」「そっと」「忠告」がお望みだったようです。


司祭に陰で、そっと忠告するだけで十分です - 03/06/11 08:27:08
これぞ信徒の鏡。カトリック信徒はこうでなくてはなりません。
通報、裁判なんてもってのほか、そっと陰で忠告がいちばんふさわしく、かつ間違ってしまった司祭に対する忠実さを証することでしょう。
我々は平信徒ということを忘れてはなりません。


いいたいどこの - 03/06/11 08:23:15
司祭が一番忠実に典礼を行っているのでしょう私もそのごミサに預かりたいのですが。どなたでしょう?


結局下記の議論が - 03/06/11 08:19:59
この反対運動の本質を表しているのだと思います。なんと素晴らしい議論なのでしょう。神の代理、われらが敬愛してやまないパパ様もさぞお喜びだと思います。


- 03/06/11 02:27:10
好むとか好まないとかは個人の勝手ですが、間違ったことを間違っていると責任部署に伝えるのは間違ったことですか?


他教区の信者様 - 03/06/11 00:23:02
「通報しておきます」 ・・・私は、こういう言いつけるみたいな事は好みません。司祭に陰で、そっと忠告するだけで十分です。


プル様 - 03/06/11 00:19:24
「罰なしなら別にかまわない」とか、そう言う問題ではないと思います。
典礼や秘蹟を司祭や信者が好き放題、自分たちのやりたいようにやっていたらカトリック教会はメチャクチャになってしまいます。
しかし、そうならないようにカトリック教会は規定や規則を作っています。
ですからカトリック信者である以上、これらの規則や規定を守るのは信者としての最低限の義務だと思います。規則や規定を知らないでやってしまった事は罪ではないですが、規則や規定を知った上で、規則や規定を破るような事を引き続く行うのならば、それは罪となります。
また、これからも規則や規定を破るような事を止めないで悔い改めないのなら、主の御前に於いて責任を負う事になるかと思います。私は、言うべき事は言いました。
今後、教会の規則や規定を守り主に忠実になるか、あるいはこれからも破り主に不忠実になるかは、個々の判断にお任せします。
私は、もちろん教会の教えに従順に従うよう心から願います。


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