2003.7/1-7/10

- 03/07/10 22:40:53 ホームページアドレス:http://www.tokyo.catholic.jp/top.htm
東京教区掲示板でもいろいろ意見が出ています。


不良信者 - 03/07/10 21:19:11
大浦保樹さんのご冥福を心よりお祈りいたします。 今でも信じられません。教区にとっても私にとってもとてもショックなことでした。残念です。
教区事務のことですが・・・。桜町の信者さん答えてください。大浦保樹さんの後に教区事務員に採用されるのはネオ系の外国人なのですか??


- 03/07/10 13:45:08
私が感じたことを書いた者です。
今高松教区で起こっているさまざまな分裂の、大きな基が何かという事を、この裁判を通して、信徒一人一人が考え、カトリック信者として、今何をしないといけないかという事を、一小教区の者だけではなく、全教区の方々にも真剣に考えてほしい。
多くの方に正しく知ってほしいと思ったのです。
名誉毀損として司教さんを訴えなければならなかった原告の心情と書きましたが、一信徒が現職の司教を訴えるという事は、強い信仰と信念とがなければ出来ないと思います。
私には無理です。楽な方を選択し、その場から逃げてしまうと思います。
私が説明会で感じたように、多くの方々にも、この裁判は、原告の問題だけではないという事を感じとってくだされば幸いだと思いました。
この一連の問題は、私たちカトリック信者全員が真剣に考えなければならない問題だと思います。


- 03/07/10 12:46:28
名誉毀損として司教さんを訴えられなければならなかった ← ここんとこ ちょっと気になるのですが、名誉毀損で訴えることで何をしたかったのかを説明してくれるのですね?


私が感じたこと - 03/07/10 11:05:08
松山で開催された判決内容の説明会に参加した者です。
35ページと添付書類が3ページ、合計38ページにも及ぶ判決文を基に、解説してくださりとても意義のある説明会でした。(判決文は見せていただいておりません。)
名誉毀損として司教さんを訴えられなければならなかった原告の心情が痛いほど感じられました。
カトリック信者の全信徒に伝え、知ってもらいたい気持ちでいっぱいでした。
このホームページで、原告の森岡さんを悪く書いている方がおられますが、それは間違いです。とても信仰の強い方です。
そうでなければ、自分を犠牲にしてまでも(多分このことで沢山の迫害を受けたのではないでしょうか。)私たちを守って下さらないと思います。
ある神父様が森岡さんの事を聖人(殉教者)みたいな人だと言われました。私も今回の説明会を聞いてそう感じました。
以前このホームページでアンケートをとった時に、80パーセント以上の人がネオの問題で苦しんでいると回答してたそうですね。私は、これから正義を正していく為に、カトリック信者として自分自身で行動しなければと切に思いました。
12日にも、高松で今回の判決内容の説明会があるそうですね。
全国のカトリック信者のみなさん、是非この説明会を聞き、原告の方たちの人となりをみて頂き、今回の裁判が、今後の日本カトリックの道筋を左右する重要なものであったかという事を肌で感じてほしいと思います。


なんだかんだここに書き込む前に - 03/07/09 20:21:25
- 03/06/30 22:31:24 ご不満の向きは、ご自分で裁判所に問い合わせしていただきたい。電話番号は:089-941-4151 です。
判決文の一般公開は裁判所が公式に禁止したそうです。


- 03/07/09 18:13:27
松山地裁の判決がどうして公にしないの?


通行人C - 03/07/08 16:50:28 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
裁判も一応決着したわけですから、この掲示板もそろそろ本題に戻ったらいかがでしょう。何しろ希少価値のあるforumなんですから。


- 03/07/07 23:21:49
どうも教区当局はただ「嵐の過ぎ去る」のを待つといった姿勢のように思える


- 03/07/07 22:03:11
ロス疑惑の三浦和義氏の名誉毀損賠償額の最高額は1千万円です。つつしんで訂正させていただきます。
しかし、一般人で名誉毀損40万円はかなりの高額であることは間違いないと思います


あしたに向かって - 03/07/07 15:29:35
おしらせします。 7月6日付のカトリック新聞でも紹介されましたが、前代未聞の判決と云われるこの訴訟。実は、法廷で裁判官が述べられたのは判決の主文だけでした。
ものの2分ほどだったでしょうか。しかし、その判決文は35ページにも及んでいるのです。一般の名誉毀損にしては珍しく詳細なものだったそうです。
なのに、その内容の詳細については、法廷にいた私たちすらも知らないのです。この判決をじっくり味わって、「果たして、その判決が意味するものは何なのか!」 
知らないままでは、あまりにもったいない。そこで、法律の専門家から「判決文」を分かりやすく解説していただく「説明会」を開くことになりました。
松山では、もう済みましたので、あと高松だけが残っています。このような機会は二度とありませんので、みなさんふるってご参加ください。
日程は今週の土曜日、7月12日午後2時から4時まで。参加ご希望の方は、「あしたに向かって」にメールでお問い合わせください。
教区外の方もどうぞ。みなさま、お待ちしております。


やはりネオの司祭は資質に乏しく、司牧の姿が幼稚ですね。 - 03/07/07 12:30:23
↑こういう決めつけは、一致への妨げになると思うのですが、いかがなものでしょう。楢林さんがカトリック新聞に投稿されていた内容がこのサイトの目指すところだと信じます。
この目標達成のためには、たとえ敵であっても愛せという精神が絶対必要だと思います。
腹の中で思うことは、人間としてなかなか止められませんが、このような場所に書いてしまってはダメでしょう。
裁判の結果も出たことですし、お互いに相手が謝るのが先だという気持ではなく、なにか歩み寄る手だてはないのでしょうか?


- 03/07/07 12:25:02
昨日のT神父の説教のポイントは、「このような裁判がありましたが動揺しないでください。一致を目指しましょう」ということだったと思います。
金額の多寡についても話したかもしれませんが、力点を置いていたのは「分裂からの脱却」についてだったと思います。
そんなに悪い話では無かったですよ。が、私自身は「だれが分裂の原因つくっとんねん」と思いつつ聞いてました。笑


信徒の手紙から - 03/07/07 08:24:33
深堀敏・高松教区司教への判決「40万円(計80万円)の賠償」のことが低いとか,軽いとかミサの説教で出たそうですが、なんとも軽率というか愚かというか、話しになりません。
やはりネオの司祭は資質に乏しく、司牧の姿が幼稚ですね。


- 03/07/07 06:37:16
高松と松山で今回の裁判を解説する集会があるそうですが,掲示板でもお知らせをなさっては


- 03/07/06 23:25:19
桜町教会のT神父は今回の判決で、40万円という少ない賠償金であったことはそれだけの軽いものであった、と言った趣旨の説教をしたとのことですが、とんでもありません。
名誉毀損で40万の賠償額はこれはかなりの高額です。ちなみに日本において一般人の名誉毀損の賠償額は上限でだいたい50万です。
例えば中傷的ビラを配られたという事例で10万程度、あの三浦和義さんで、名誉毀損による賠償額は最高で100万円、最低で3万円でした。
それらを考慮するならば、今回の賠償額が決して軽いものではないことが分かるのではないでしょうか?
実際判決文の中で、かなり強い調子で名誉毀損があったことが述べられているのです。


裕子 - 03/07/06 19:04:02
7・6のカトリック新聞『声』欄の記事は、1面に掲載された判決の事実、高松教区の現実を見据えてみんなで考え「これからどうすればよいか」の提言だと思います。
このように信徒の建設的な意見が高まることを歓迎する一人です。だって、みんなのカトリック,私たちの教区なんですから・・・。


購読希望者 - 03/07/06 18:39:21
今週号のカトリック新聞の一面だけではなく< 偶々、2003年7月6日付のカトリック新聞に目を通す機会がありました。
仰るとおり、「声」欄の記事は勿論として、今回の「展望」に寄せられた記事は、高松司教区が抱える問題にも一脈通じるものと受け止められる内容でした。
やはり日本のカトリック教会の正規な機関紙なのですから、これからも積極的に、この度のような日本のあらゆる教会、信徒のおかれている「実際」に言及する「現実を直視」したスタンスで押して行ってほしいと願います。


ある他教区信徒 - 03/07/06 02:10:52
海神セレスさんのおっしゃるとおりだと思います。 ネオカテも属人区として活動すればそれほど問題とされないのでは。
日本では敬遠されても、カトリック国なんかではある程度の実りある活動ができるような気もするし。
ところで、谷口神父さまは「無実であることを証明するまで争うべき」とおっしゃられているようですが、そんなに何回も争えないことをご存知ないのでしょうか(日本は三審制)。
しかも、実質審理に乗せることを裁判所が肯定している以上、このルートでは、ネオカテ側にマイナスになることはありうるが、プラスになることなんてほとんどありえないと思うんですが…
最高裁までいって負けたらどうするんでしょうかね。 被告側には譲れるところは譲って、早く和解してほしいものです。
悪いことしたら悪かったと認めることは勇気あることだと思います。単に強引に強行突破しようとしても、逆効果になるだけだと思います。


- 03/07/05 20:51:40
今週号のカトリック新聞の一面だけではなく「声」欄にも今回の訴訟のことに関する信徒の意見が載せられていました。
全くあの意見のとおりだと思います。また、展望に載せられた記事も何か今回のことと関連があるように思えてなりません。


葡萄の実 - 03/07/05 11:23:38
>アサさん >土曜日の夜に感謝の祭儀を行う。これ自体は何の問題もな>いと思います。
>ただし、それは、ミサがその二つによって成り立っている>ことを十分にかみしめるためのものとしてやればいいと思>う。
全世界で主日(日曜日)に一致してミサに与るという>こと。  
私も土曜の夜に感謝の祭儀を行う事は何の問題もないし,但し,それは日曜日(主日)を守っている事です。
なぜなら,主イエスのころのパレスティナの時刻では,土曜の日没とともに日曜日(週の初めの日)がはじまっているからです。
だから,日曜の日出後にミサをとり行なっている世界の他の諸教会とその点では一致してミサは守られていると思います。  
むしろ,主の晩餐を記念するなら,ミサは晩に執り行われる方が伝統的でしょう。  
但し、ご復活を寿ぐという側面からすれば,「主は朝早く復活」されるまえの夕刻に感謝の祭儀をなす事の象徴性にかかわる問題はあるかもしれません。  
このあたり、ごミサを持つのに本当に相応しいのはいつであるのかという問題は、新求道団体の是非を超えて、ミサが主の晩餐の記念であるのか、主のご復活の記念であるのか、ユダヤ教の安息日の継承であるのか、といったごミサの本質理解にかかわる問題を提起しているように思われます。


あしたに向かって - 03/07/05 09:25:18
-03/07/04 12:19:19の書き込みにつきまして、申し述べます。
この書き込みで紹介された内容がすべて被告側から提出された文書であったとしても、その上で裁判所がじゅうぶんな審理を終えて、原告の訴えを全面的に認めたという事実に、「言っていること」と「行っている」ことの矛盾点が明らかになったと思います。


あしたに向かって - 03/07/05 09:08:46
- 03/07/04 12:18:12前後の書き込みについて、事実と異なる点をみつけましたので、少し申し述べます。
1993年9月13年に出された常任司教委員会の文書をご紹介いただきましたが、ほんの一部の他、ほとんどの文章がこの文書には見当たりません。
かえってこのように結ばれています。
「この共同体の運動に好意的といわれている現教皇が、その共同体の責任者たちとの謁見等において、教区や小教区との関係に配慮するよう、繰り返し言及している事実は、注目に値する。そこにこの共同体の問題点があるからである。」
「あなた方だけの輪をつくり、小教区や司教共同体から離れようとする誘惑に負けないように」(1983年、共同体の司祭たちとの謁見において)
「新求道共同体独自のプランを持たないように」(1985年、第二バチカン公会議の閉幕20周年記念謁見において)


-03/07/04 12:19:19さんへ - 03/07/04 22:35:37
わたしもあなたの投稿には疑問を持ちます。(資料−1〜3)と書いていますが、その資料は、裁判所に提出された資料なのですか?そうだとすると、おかしくありませんか?
今回の民事訴訟の判決では、異例の進行協議を5回も行ったこと。3名の裁判官の合議制をとったこと。
そのことから、裁判所がすべて異例の慎重な審理に心がけたとがうかがわれますよね。
あなたの投稿した資料もその中の証拠資料なら、裁判所は誤った判決をされたのでしょうか!
あなたの書いたことは、鵜の目鷹の目さんの言っているように、都合の良い部分だけを抜粋しているのだと私も思ってしまいます。
カトリック新聞にもこの名誉毀損訴訟判決の記事が出たそうですね。深堀司教さんも自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならない時が来たと思います。
私はこれを機に、正義が表面化することを心待ちにしたいと思います。


海神セレス - 03/07/04 22:21:39 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
*繰り返しますが、反ネオ・カテクメナート派の主張は、司教に反逆する事ではありません!
司教区の公金を目的外に流用して、司教区が破産の危機を迎える様な事を止めて頂きたいのです!
(神学校を開設するのならば、「属人区ネオ・カテクメナート」としての認可を取得して、堂々と、独自に宣教活動をすれば良いのです!
その方がバチカンから補助金も貰えるので、財政の厳しい高松司教区に依存する必要は無くなりますから・・・。)


- 03/07/04 21:09:31
負け犬の遠吠えにすぎません。気にする必要はないと思います。


鵜の目鷹の目 - 03/07/04 14:38:38
03/07/04 12:19:19コメントさんどういう意味で投稿されたか知りませんが、いつもの調子で権威を借りたうえ、資料と称すものの都合のいいところだけを抜粋して、あなたの論理を展開していますね。
どんな資料でも部分を取り出して編集すれば意図していることの反対を結論づけることが出来ます。
あなたはこのような投稿をされた限り、資料と称される@,A、Bの全文をこの掲示板に寄稿される責任があると思います。
それがない限り、あなたのこの投稿は閲覧者を戸惑わせるものとしてこの掲示板の管理者に対して削除を求めます。


[セクト的集団の論理資料]  - 03/07/04 12:51:29
1)グル(セクト的集団指導者)の典型的な心理的プロフィール 
あらゆる全体主義的セクト的集団の指導者を彼らの客観的な略歴、実際の行動、著作物から研究した結果、さまざまな違いは認められたにせよ、常にいくつかの特徴が挙げられます。
その特徴は、精神医学の領域で指摘される「ヒステリー性境界状態」(精神病と神経病の境界にある状態)において見いだされる。
主要な特徴は以下の通りである。 
広範囲にわたってこれらの指導者たちは、ほとんどもっぱら「第1次操作」によるプロセスに従って、作動している。
第1次操作とは「投影」(他人が〜である)、「取り込み」(私が〜であって、他人が〜ではない)、「同類扱い」(ある部分の類似だけで全く同じものであると信じ込むこと)、「現実否認」(私はそれを見たくないし、知りたくない)という4種類の操作である。
これらのプロセスはひたすら「類似」という現象を追求する。「類似」においては、あらゆる差異は現実否認によって消し去られる。
また、似ていること、同じであることを拒否するものも常に現実否認によって排除される。
これらの指導者たちが生活の中で広く優先的に行うことは、「行動する」そして「感じる」ということである。
たとえ彼らが自らのことを神秘主義者であるとか、感傷的理想主義者であるとかを主張したとしても、彼らは決してそうではなく、実際のところは物質主義者であり、享楽家である。倫理的なあらゆることは彼らにとっていかなる現実的な意味をもたない。
彼らは権力や支配に限りなく貪欲である。
彼らは誇大妄想狂、虚言症であり、そして自ら誘惑的な嘘を本当であると信じ込んでしまう最初の人間であり、そのことが自分自身に厚顔さと、ある種のカリスマ性を与えているのである。
かなり多くの場合に、彼らの誘惑の欲求は物質的な享楽の欲望に結びついており、それらは彼らの表面的な嘘の背後に巧妙に隠された性的異常となって現れる。
彼らはまた、注目を浴びたい、脚光を浴びたいという押さえがたい願望、広い意味での露出性をもっている。
それは言い換えれば、衣服、儀式や住居(様々な「神殿」、城、邸宅)への関心であって、セクト的集団の(そして指導者の)富を野心的に拡大するという意図に基づいている。
そして最後に彼らは扇動的であるという特徴をもっている。 
2)マインドコントロール 
マインドコントロールとは、第1過程の原理である直接性と類似性を自分のために用いることで、一人の人間をそこに閉じ込め、自分の思うように彼を導くことが目的である。 
『類似性』-
@あなたは私たちと同じであり、同じ関心を持ち、同じ理想を持っている、と信じ込ませること。 
Aあなたのことを私たちは理解している、またあなたがなりたい理想の人間像に対して、私たちは賛成していると信じ込ませること。 
B現実の多様性を部分的なイメージの単純性にすり替えること。 
C人工的なイメージで現実を遮断し、すり替えること。 
『直接性』-
人を直接性の中に閉じ込め、距離を置いて据えることを不可能にすること。従っていかなる質問も不可能となる。 直接性は次のことと関わっている。
@空間:集団における雑居性・時間:恒常的な緊急性、同じことの繰り返し(読書、詩、礼拝、その他) 
A時空:現実的、人工的な過度の忙しさ。用いられる論理はもっぱら第1の操作でありプロセスである。 
B一時的な類似性によって同類扱いにすること。 
C世界を絶対的な善(集団と指導者)と絶対的な悪(外部の者)に分けるために同一化の作業を行う(投影と取り込み) 
Dスケープゴートを作り出す(うまくいかないことは全て、外部かもしくは「裏切り者」の責任にする) 
Eあらゆる反論及び不都合なことを消すために現実否認を用いる。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


セクト的集団の論理[6] - 03/07/04 12:50:44
[結論] 最後に結論を述べてみたいと思いますが、これまで見てきましたようにセクト的集団は、個人や社会、国家に対して強力な破壊力、または腐敗させる力をもっていて、この力をあなどってはいけません。
しかし、一方でセクト的集団の違法な活動に対して何らかの形で戦わなければならないにしても、言論の自由というものを尊重しなければならないのです。
それゆえに、少なくとも彼らが自分たちの権限内で活動している限りは、私たちは信仰というものの領域、もしくは宗教団体や市民団体というものの領域に威圧的に介入していくことはできないのです。
だからこそ、最も賢明な対処の仕方としてはおそらく、セクト的な現象をしっかりと分析して、それを多くの人に伝えることが一番重要なのではないかと思われます。
*1 フランス語における「モア」(Moi)と「ジュ」(Je)の違いについて。フランス人は「モア」と「ジュ」の違いがはっきり分かるんですけど、日本語ではその違いがありませんのでもう少し説明してください。
非常に簡単な表現を用いますと、「モア」というのは、誰かに自分を紹介するために名刺に書いて表現できるような種類の「私」であります。また「ジュ」というのは私自身の「精神性」のことであり、これは名刺に書き込めるものではありません。
*2「鏡像段階」は幼児の発達段階の一つを言いますが、これはだいたい生後18カ月頃を指しています。この頃に幼児は鏡の中に自分が両親と共に映っているのを見ます。
そして幼児は鏡に映る自分自身が、両親と同等の立場である「誰か」であると認識するのです。
つまり誰か別の人間であると理解してしまいます。このときに、自分自身を対象化した幼児の中に「ジュ」(私)という意識が芽生えるのです。
この段階までは、幼児は自分のことを話すときには第3人称で話します。
例えば自分のことを「〜ちゃん」と呼ぶのですが、まさしくこの鏡像段階で、幼児は自分のことを初めて「ぼくは」(ジュ)として語りだすわけです。
日本の子供も同じであると思いますが、この頃から何につけても「いや」ということをいい始めるのです。
というのも、その子は第2次過程、つまり「否定」という段階へと到達したからです。
※マックス・ブーデリック:全体主義的なセクト的集団から抜粋


- 03/07/04 12:50:14
カトリック新聞、残念


- 03/07/04 12:19:19
福音宣教省長官トムコ枢機卿の高松司教宛ての書簡とその意味するところ 聖年と呼ばれ、和解の年と呼ばれる2000年の6月23日、愛媛県の道後教会の信徒と、松山教会の信徒が、二人の連名でカトリック高松教区長深堀敏司教を相手取って、高松簡易裁判所に神学院の建設差し止め等の決定を求める調停申立を行ないました。
幸いこの件は、両名の申立趣旨が調停の場になじまないとする調停委員の意見をもとに、裁判官が調停打ち切りの判断を示し、結局のところ9月12日の第二回期日を最後に何事も無く終りました。
教会内での相互信頼と愛に基づいた話し合いを尽くすことなく、信徒が司教を相手取って裁判を起こすと言う異常な事態に直面して、法廷での対決と言う最悪の事態を回避するために、司教は両名に対して申立を取り下げて教会の中での話し合いに応じるよう懸命の説得努力をなさいました。
また、駐日ローマ教皇庁大使アンブローズ・デ・パオリ大司教様も取下げと話し合いのために仲介の労を惜しまれませんでした。
しかし、両名は、司教の即時退任、愛媛地区4教会の信徒による自主管理などの受け入れ難い条件をかざして対決に突入しました。
教皇庁大使は、事態の重大さに鑑み,ローマの聖座に対してこの忌々しき事態をつぶさに報告され、その結果として、福音宣教省の長官ヨゼフ・トムコ枢機卿みずから行動を起こす必要性を感じられるに至りました。
そして、同枢機卿は7月8日付けの深堀司教宛ての書簡(資料−1)に続いて、7月10日付でより詳しい内容の書簡を同司教宛て(資料−2)と、「レデンプト―リス・マーテル」国際宣教神学院の院長ミゲル・スアレス神父宛て(資料−3)に書かれました。
これらの一連の書簡から明らかになったことは次の通りです。
(1)「高松におけるカトリック教会に対して責任のある唯一の人物はその司教、即ち、ヨゼフ深堀敏司教」であること(資料−1)。
このことは、司教の独立した権限に関連しており、誰からも犯されることはありません。
(2)「司教区の信徒の協議会は何らの決定権を持たず、或いは、司教区の名において発言する権限を持っていない」こと(資料−1)。
教区の宣教・司牧の方針を最終的に決定するのは司教であり、司祭団はその方針に協力する。
他方、世俗社会と接点を持つ事柄、つまり、土地、建物、教会財産などについては、宗教法人法に基づく責任役員会が判断し決定する。
また、宣教・司牧の方針にかかわることについては、信徒個人、又はグループによる無秩序な発言は慎まれなければならりません。
(3)「教会的観点からは、深堀司教は『レデンプト―リス・マーテル』神学院を開設するために必要な全権を持っており」、同司教は「合法的にそれを行使され」、またそれ故に「トムコ枢機卿自身そこに赴いて定礎をしました」(資料−1)。
司教が1990年12月8日付けで高松教区立「レデンプト―リス・マーテル」神学院の設立文書に署名した時、宗教法人法に基づく規則の定める責任役員会の決議や批准を必要とすることなく同神学院は適法に存在し始めたものであります。
(4)また聖座は「深堀司教が長い経験を積まれた司教であることを認知し、聖座の全幅の信任を享受しておられることを喜びのうちに確証」(資料−1)しました。
このように述べて、トムコ枢機卿は、教区内の一部の信徒が司教に対して取っている態度の行き過ぎに対して、注意をうながしておられる。
(5)「しかしながら『レデンプト―リス・マーテル』神学院はかねてより、そして今もなお、対立する意見の対象」(資料−2)であり、また、同神学院に関しては「かねてより荒々しい批判の声があり、或る者はその閉鎖さえ求めるほどになっている」(資料−3)ことも事実です。
聖座は、新求道共同体を忌避する人々が日本に存在する事実を認め、それが「レデンプト―リス・マーテル」神学院反対の背後にあることを知っておられる。
(6)にもかかわらず、聖座は「この神学院の設立を深堀司教に決断させた諸々の理由を理解し、この神学院が高松とその他の司教区のために、日本の教会において、他の地域におけると同様に、非常に必要とされている宣教精神を、再び燃え上がらせることのできる司祭の養成に貢献すること」を期待している(資料−2)とあります。
一部の反対意見にもかかわらず、聖座は神学院の設立を支持し、大きな期待を寄せられている。
院長に対する書簡(資料−3)では、「当省は、神学院の新しい建物の建設を肯定的に見ており、我々はその建物が、日本の教会においてかくも必要とされているあの宣教精神を再び燃え立たせることに貢献するものとなることを希望しています」と述べて、より明確にその計画を支持しておられます。
(7)言うまでもなく「新しい建設用地において、建物の建設事業が実現されて然るべき」であること。(資料−2)
この度の仮校舎建設に関しても、聖座はその必要性を認め、その実現を明確に支持しておられる。


- 03/07/04 12:18:12
日本の司教団が把握した「新求道共同体」 「新求道共同体」について日本の教会は公式には未だ何も決定せず、判断もしていないと理解されています。
然しながら、非公式には様々なことが言われ、それがあたかも正式のもののように言い広められているのも紛れのない事実です。
常任司教委員会が各教区司教に宛てた1993年9月13日付けの内部文書も、そのような性格のものとして、一時はかなりの範囲に流布されたものと思われます。
その文書の中で、「新求道共同体」は次の様に紹介されています。
「新求道共同体」の起源 「新求道共同体は、1964年にスペインでキコ・アルゲリヨによって始められた運動である。
キコは、シャルル・ド・フコーの模範に倣い、ジプシーやマドリッドの社会から疎外された人々を対象に、生来の音楽的才能を活かし、片手にギター、片手に聖書を持って福音宣教を開始した。
やがて多くの司祭や修道者たちの賛同を得るところとなり、「共同体」として発展。1968年にローマに、そして世界各地に広がり、現在は1万を超える「共同体」が世界各地に存在すると言われる。
19の教区に固有の神学院設立されている。高松教区に設立されたのもその一つである。」
その後の7年間で、全世界の共同体の数は約2万近くに増え、「レデンプト―リス・マーテル」国際宣教神学院という共通の名で呼ばれ世界各地の司教たちによって盛んに誘致されている神学校の数が19から43へと倍以上に増えたことを別にすれば、常任司教委員会の紹介の言葉はそのまま今日も有効であります。
「新求道共同体」をスペインで始めたキコは、ギターの弾き語りと作曲の分野で豊かな才能を発揮しているのは事実ですが、彼の本来の専門は画家で、20才台の前半からすでに将来を嘱望された新進の画家として、プロの道を歩き始めていました。
彼の初期の代表作として知られている聖母子のイコン画は、マドリッドの新しいカテドラルの脇祭壇の正面に飾られており、今も多数の絵画や聖堂内の壁画を精力的に描き続けています。
「新求道共同体」の目的と特徴 前述の常任司教委員会の文書によれば、「新求道共同体」の目的と特徴はおよそ次の通りです。
「洗礼志願者が受洗するまでの求道期間に初代教会が行なった養成方法を現代に活かして、小教区の信徒の信仰養成を行い、信仰生活を刷新しようとすることを基本目的とする。
週に二回定期的な集会を開き、聖書の勉強と黙想、そして分かち合いを行なう。土曜日の夜は共同体のための感謝の祭儀を行なう。
それはメンバーの信仰の養成の場であると同時に共同体としての一体感を深める場となっている。」 ここで言う週二回の集会とは、週の半ば(通常は水曜日の夕方)の「みことばの祭儀」と、土曜日の夕方の「感謝の祭儀」のことで、その他、月に一度の週末の合宿(又は日曜日帰り)の集いを持ち、日曜の朝は教会の祈り、午後は分かち合いを行い共同体としての一体感を深める場としています。
また、典礼の季節の変わり目ごとに共同告解を行い、聖木曜日には洗足式を、聖土曜日には復活の徹夜祭をします。「新求道共同」は、初代教会がユダヤ人以外の成人男女の洗礼志願者に施していた「求道期間」の養成(カテケージス)を、現代の洗礼志願者や洗礼を受けた信者ではあるが徹底的な信仰養成を受けて来なかった者に対する新たな養成として行なうもので、その意味で一般の「運動体」とは異なる性格のものであります。
それは、全ての人に開かれた養成の道であり、全てのキリスト者が辿ってきたはずの「求道期間」の道、福音的回心の過程をあらためて歩みなおそうとする試みです。
常任司教委員会の文書が示しているとおり、日本の司教団は1993年時点で、「新求道共同体」の内容と本質をすでに極めて正確に把握していたことが知られます。


- 03/07/04 12:15:50
「購い主の聖母」“REDEMPTORIS MATER” 教区立国際宣教神学院とは何でしようか?  この神学院は公会議が刷新した最も重要な実りの一つです。
第二バチカン公会議が、司祭の役務と生活に対する教令10条に、完全に新しい事実として念願していることが次のように書かれています。
「それゆえ、司祭は全ての教会について深い関心を持つべきことを忘れてはならない。。。
使徒職の条件が要求する場合には、司祭たちの適切な配置だけでなく、種々の社会階層に応じて専門化された司牧生活が、地方、国家、大陸を段階として、たやすく行なわれるようにすべきである。
したがって、この目的のために国際神学校を設置することは有益であろう。
全教会の善のために、司祭はこのような制度に所属できるが、その方法については個々の制度について定めるべきであり、また地区裁治権者の権限は確保されなければならない。」(P.O.10) 
1991年に教皇ヨハネ・パウロ二世は、世界の多数の地域に見られる深刻な司祭不足を解決するために国際委員会を設置されました。 
「公会議におけるこの思考は、“REDEMPTORIS MATER”“贖い主の聖母神学院”において実現しました。
ここでは新求道期間の道のプログラムに従って、新しい宣教のための司祭を準備します。
この道において司祭職の新しい形、司教区宣教師が生まれて来ました。」(1991年3月15日付、Osservatore Romano)  
“REDEMPTORIS MATER”“購い主の聖母神学院”は新求道期間の道を生活様式の規範として取り入れていますが、この神学院は実際に司教区立であり、司教に一任されています。
神学生は教区の他の神学生が受ける同じ神学の養成を受けます。彼らは司教から宣教に派遣される前に、助祭として一年間、司祭として二年間、小教区の司牧に参与します。
しかしながら、司教がもし司教区の中にある特別に難しい地域に緊急な必要がある場合は、彼らが叙階してから無条件でその司祭たちを役立てる事ができます。
“購い主の聖母神学院”の特徴はその国際性にあります。
それは、キリスト教が告げ知らせるように、若い人老いた人もなく、白人も黒人もなく、新しい創造、天的世界の地の果てまでもその適切さを示しているのです。 
キリスト者の生き方の入門としての新求道期間の道と、養成日程の結合の体験は、司祭志願者の心理的、感情的、及び人間成熱の養成に非常に大きな助けとなっている事を表しています。
(司祭になる前に、彼らはキリスト者として信仰の道において、交わりと祈りと十字架などの意味を学びます)。
そして叉、全てにまして、小教区とともに宣教する事。
そのために新求道期間の道は司教、主任司祭と一致して小教区生活をし、成人の宣教共同体を養成する事を目標にしています。


- 03/07/04 12:15:11
「新求道共同体」を全司教に推奨する教皇ヨハネ・パウロ二世の書簡  教皇様は、1990年8月30日に、全世界の司教たちに対して、「新求道共同体」の活動を推奨する書簡を出されました。以下にその全文を引用します。  
新求道共同体の使徒職の監督の任にある教皇庁信徒評議会副議長尊敬する兄弟パウロ・ヨゼフ・コルデス司教様 聖霊が教会の中に、福音をより忠実に生きようとする熱意を芽生えさせる度ごとに、それを表した新しいカリスマが開花し、またそれを実践する新しい共同体が生まれます。
トレントの公会議の後でもそうでしたし、第二バチカン公会議の後でもその通りです。 聖霊が我々の時代に生んだ様々な現実の中には、キコ・アルゲリオ氏とカルメン・エルナンデス女史(スペイン・マドリッド)によってはじめられた新求道共同体がありますが、そのキリスト教的生活の刷新に対する有効性は、私の前任者パウロ六世によって公会議の果実として次のように賞賛されています。
「あなた方とあなた方の活動は、私にどれほど多くの喜びと希望を与えてくれることでしょう。
この目覚めに生きそれを伝え広めることを、あなた方は“洗礼後”の道と呼んでいますが、それは、初代教会の洗礼準備期間中に実現されたあの信仰の成熟と深まりの効果を、今日のキリスト教共同体の中に蘇らせることを可能にするものです。」
(1974年5月8日の一般謁見におけるパウロ六世の新求道共同体に関する発言“NOTITIAE”1974,95-96,230)
私もまた、ローマの司教として、ローマの小教区における共同体とその牧者たちとの出会いにおいて、また、多くの国への使途的旅行をとおして、個人的回心の豊かな実りと福音宣教への情熱を確認しました。
このような共同体は、宣教する教会の小教区における見える印として、「初代教会において求道者が洗礼の秘蹟を受けるに先立って通過した全段階をたどった求道期間の道を提供することにより、キリスト教的な生活をほとんど放棄してしまった人々に福音を告げ、教会とキリストに立ち返る道を開こうとしています」
(“NOTITIAE”1974,95-96,229)
メンバーたちが教会の刷新に奉仕することを可能にしているのは、福音の宣教と小さな共同体での信仰の分かち合い、そしてグループごとに祝われる感謝の祭儀です。
(“新求道共同体の歩み”のグループ祭儀に関する通達、オッセルバトーレ・ロマー紙1988年12月4日号参照)
司教職にあって私の兄弟である多くの方々が、この“歩み”の成果を認めてくださいました。
しかし、ここでは、1964年にご自分の教区の中でご自分の在職中に生まれた新求道共同体を深い愛を込めて受け入れてくださった、マドリッドのカシミロ・モルシリヨ大司教様を思い起こすにとどめたいと思います。
五大陸に広まった共同体の生活が20年以上の歳月を経た今、
− 旅人たちの熱心な努力、その究極的姿である宣教家族たちのヨーロッパをはじめとして全世界の非キリスト教化した地域における福音を伝える働きから開花した小教区の活性化、使徒的精神の高揚、そして回心の実りをも考慮に入れ、 − 
この“歩み”から輩出した修道生活や司祭職への召命と,新しい福音宣教のための司祭たちを養成するローマの「レデンプト―リス・マーテル」のような教区立神学院の誕生に思いをいたしつつ、
− 貴下がご提示くださった資料をつぶさに検討した上で、 私は、貴下のお申し出の趣旨を喜んでお受けし、新求道共同体の歩みが我々の時代の社会におけるカトリック信者の養成の道として価値あるものであることを認めます。
そこで、これは私の切なる望みですが、どうか司教職における兄弟たちが、司祭方とともにこの新しい福音宣教活動を評価し、この働きがそれぞれの地域の司教方に対する奉仕の精神と交わりのうちに、また個別教会と普遍教会の一致の内に、創始者たちの提案どおりに実行されるよう援助してくださいますように。
この願いのしるしとして、貴下ならびに新求道共同体に属するすべての人々に,使徒的祝福を送ります。 1990年(教皇在位12年)8月30日バチカンにて


- 03/07/04 12:04:18
残念


しょうゆ豆 - 03/07/03 23:28:51
高松教区の信者の中には司教の司牧としての資質も問う者がけっこういるような気がしますが、何よりも部外者さんのおっしゃるように、宗務行政責任者としての瑕疵は今回の裁判によって浮き彫りにされてしまったと思います。


部外者 - 03/07/03 22:23:00
ちょっと浮かれすぎでは? まずは、勝訴判決を得られて、関係者の皆さまの感慨もひとしおのものと推察いたします。
しかし、勝訴判決は勝利でもなく、教団としては、司教に異議を唱えた信者の皆さんを交渉相手と認めざるを得なくなった、という段階にようやく達したのではないですか?
ご教義を貫こうとする皆さまの聖戦は、これから始まるのではないでしょうか。
この司教さんには、司牧としての資質を問うのではなく、宗務行政責任者としての瑕疵を追及するほうが、教団としても、皆さまの声を聞きやすくなるのではないかと愚考いたします。


毎日の祈り - 03/07/03 19:12:16
これをもって深堀司教が一日も早く退任し、高松教区が信徒の望みどおり、新しく生まれ変わる時が『勝訴』なのです。主もそのことをお望みになっておられます。


勝訴おめでとうございます - 03/07/03 18:12:36
カトリック新聞も東京教区の掲示板もここの主張を受け入れてくれました!!もう怖いものなしです。おめでとう!!
正義はあなた側にある。主は我々をお見捨てにならなかった。感謝。


しょうゆ豆 - 03/07/02 23:27:54
カトリック新聞に掲載されたということは、高松問題が日本カトリック全体にとっても、さけて通れない重い問題だと認定されたということでしょうか。  
7月1日付け「中外日報」にも、大見出しで「前代未聞、司教の敗訴」「カトリックにも法律順守の義務」とあり、また、「深堀司教が控訴してもしなくてもカトリック教会のイメージダウン」、最後に「勝訴に心晴れず原告の重い言葉」とあります。
今後は、判決理由で何が述べられているかを大事にし、それを教区の今後へどう生かすかが問われるのでしょうね。


関係者 - 03/07/02 20:43:35 ホームページアドレス:http://www.cwjpn.com/
ついにカトリック新聞(それも一面)に裁判の記事が掲載されました。


桃太郎 - 03/07/02 20:26:51
裁判の判決についてカトリック新聞のホームページについに掲載されましたね。ということは今週のカトリック新聞に載るということですね。


支援する会のF子 - 03/07/01 19:21:45
この件、しばらくの間、静かにお待ちになって下さいね。


なんというか - 03/07/01 07:26:47
この物言いは、あきれてものも言えません。全国の支援者もがっかりしていることでしょう。
人に共感を得たいのなら「ご不満の向きは等と言う」支援者に対してそんな失礼な物言いは出てこないと思います。


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