2003.8/1-8/10

- 03/08/09 16:42:52
『ヨセフ佐藤さま。 - 03/08/09 13:54:20』又々、独善的な解釈に基づいた一方的な決め付け方ですね。。。
それではお尋ね致しますが、高松教区をそういう状態にしたのは何処の共同体でしょうか。高松教区内でネオカテが何年活動し、どんな成果を挙げたというのでしょうか。
高松教区信者の心情と置かれている現実を踏まえた上で尚、下記のような自論を展開なされるのであれば、自身で他所にあなたの理想どおりのHPを開設されればよいのです。


通りすがりの東京教区の者 - 03/08/09 14:23:46
+主の平安信仰するということは文字通り命がけのことです。
ネオを支持する信者にしろネオに反対する信者にしろ、それぞれの信仰に基づいて自らの人生を神に捧げる気持ちから、このような状態に至ったのだと私は思いますから、聖書を引用してみだりに擁護もしくは批判をしたり、感情に駆られて個人攻撃をしたりすることは慎むべきだと思います。
裁判の是非については、何れ主がお答え下さることでしょう。どちらの立場を支持するにせよ、シンパシーを感じるにせよ、当事者に対しては平安あれ、主に向かっては御心をなさせたまえとのみ祈るべきものだと私は考えます。
主の裁きがどのように出ても、それを受け入れる覚悟を当事者の方々はしておられることでしょう。それが信仰者の姿であり、神との契約であると私は信じるからです。


ヨセフ佐藤さま。 - 03/08/09 13:54:20
ここの掲示板には「愛し合いましょう」も「祈りましょう」も通用しません。ネオカテとの戦い一色です。いつでもファイティングポーズです。
キリストの十字架の姿なんてどこにもありません・・・。私も共に祈ります、ここに来る方々のために。いつもキリストの平和が満たして下さいますように。


- 03/08/09 13:22:42
ヨセフ佐藤さまは、「聖パウロニよれば、裁判沙汰があること自体、すでにわたしたちの負けです。」と仰っていますが、私はまったくそうは思いません。
端的に言えば、聖職者からの不当な人権蹂躙行為に耐え忍ぶと言うそういう思考こそが、教会を犯罪の温床にしてしまう危険性があると推考しているからです。
私は寧ろ、カトリック内に裁判沙汰があること自体、社会の中でカトリック教会が運営機能上、正常に自浄能力を発揮していることを証しているように思えます。
今のこの状態を何かに例えるなら、賊に船を乗っ取られ、その賊にいいように操舵された挙句、不幸にも漂流するに相なった難破船状態ではないでしょうか。
当教区の指導者が犯した過ちが如実に示しているように、沖に漕ぎ出すには、外観が立派で、一見成りが綺麗なだけの船を揃え出航してもすぐに座礁・沈没します。
まずは、船底の基礎が腐敗してしまった箇所の大幅な修復(竜骨の切捨てと部材の入れ替え)が必要です。新たな離港は、それらの修復を完全に終えてからでよいのです。
もう二度と無謀な輩の操舵する危険な船に乗船したくありませんし、再座礁事は勘弁願います。


- 03/08/09 12:33:47
聖書にある言葉をすぐに具体的事実に当てはめるのは正しくありません。
もし、現代に聖パウロが生きていて、一連の高松教区における出来事を御覧になったら、きっと原告の行為を擁護されることと思います。そう信じています。


ヨセフ佐藤 隆 - 03/08/09 06:33:53 電子メールアドレス:stutsk2g@infoseek.jp
私は、汚れ無き聖母マリアに頼みます。 正しい判断ができる聖霊を一人一人にくださいますように。。。 兄弟が愛し合いますように。。。 
聖パウロによれば、裁判沙汰があること自体、すでにわたしたちの負けです。なぜ、むしろ、耐え忍ばないのですか。なぜ、むしろ、奪い取られるままにしておかないのですか。。。。
あなたの心の動きは、よく理解できます。同じ人間ですから。共に歩んで、神が愛であることを人々に伝えるために、聖なる生活、希望あふれる殉教者のように過ごしましょうよ。  
私は、罪人であり、日ごと回心に招かれておます。一人一人に与えられた聖霊を心に輝かせましょうよ。聖父と聖子と聖霊は、私たちをいつくしみの中で育ててくださっていますよ。
悪人を哀れむイエス・キリストの生涯・復活・昇天・聖霊降臨・福音宣教・そして今の私たちにも聖霊からくる福音宣教のさざ波が通過しています。
受け取りましょうか、まだ届いていないすべての人たちのために、神が愛であることの喜びをさぁ・・・小豆島の小教区から宣教者が生まれますように聖母マリア助けて、助けてください。


- 03/08/08 21:27:42
本日のカトリック新聞の「声」欄には谷口幸紀さんの投書がありました。まったく的はずれなことを主張してます。
今回の訴訟は名誉毀損でありまして、直接的に神学院の違法性を問題にしたのではないのです。
つまり、裁判所の注目した点は、「神学院に違法性ありやなしや?」ということではなく、「神学院に違法性ありとの主張は単なるいいがかりであったのか?それとも、それなりの理由があってのことなのか?」ということなのです。
まあ、谷口さんのの主張が妥当であるかどうかは、裁判記録集を読まれた皆様の判断に委ねることとしませう。一人でも多くの人が裁判記録集を入手されることを希望します。
それと案の定谷口さんは、今回の裁判を、ピラトの裁判になぞらえましたね。ネオの方が誰かがそうゆうぞと思っていましたが、やはりそうでした。
それとイラク戦争に例えるなら、先に仕掛けたのは、司教側ですよ。


- 03/08/08 16:33:56
お帰りなさい。


あしたに向かって - 03/08/02 10:58:21
ゲストブックへの書き込みは一時停止させていただきます。ご了承ください。


ルルド - 03/08/01 06:51:40
朝日新聞、カトリック新聞で判決を、知りました。数年間、共同体との関わりで苦しんできた他教区の信者です。7時間かかって今年の分だけの意見を一気に読みました。
読んで感じたことをいくつか申し上げます。 カトリック新聞に投書された新潟教区の神父様の考えが、この事の本質であり、私たちのこれからの生き方と思います。 
私も自分の教会の主任司祭に相談したところ、「私は関わりたくありません」の一言で、全く何も教えてくださいませんでした。
司教様にも、手元の資料と、私の立場を詳しく書いて、ご指導くださいと親展扱いで、郵送しました。後日主任司祭の冷たい視線と共に、返却されました。
「今は何も言えません」との事。
家族の中でも、この掲示板に投書される方のように、温度差のようなものがあり、私一人がアレルギー反応を起こしているような雰囲気になって、精神的にも追い込まれました。
原告の方々、そして家族の方々の苦しみ、私にも少しですがわかります。イタリア迄行って、ヴァチカンで働いている知人の修道女を通して、ヴァチカンの方針を問いました。
答えは「静観」とのことでした。「その運動が正しいものなら残るし、間違っているものなら消えるでしょう。教会の長い歴史の中ではよくあることです。」
「99匹の羊を置いて、1匹の羊を救う」は、聖書の中のお話で、現実は、迷子になった1匹は、自力で帰らなくてはいけないということかと、その時は失望しました。
幾人かの信頼できる司祭・シスター・ブラザー、そして友人に相談し、祈ってもらい、受け容れることが私への神様の御旨と信じることと気付き、心の平安をようやく得ました。
でも未だに、家族の中で、タブーとなっている雰囲気は辛いものですが、一人一人、感じ方考え方は違っても仕方が無い、全ては神様がご存知のこと。そう前向きに考えて今日もいます。 
栗林さんが、全くの蚊帳の外に置かれていたことは、私も酷いと思います。何のための支援会なのですか?
沢山の犠牲を払われて、尚、ここの支援の方々からも人権を侵害されているように思えました。これは正義ではありません。お二人への、充分な謝罪と説明をするべきと思います。 
ローマに行ったときに、感じたことは、長い教会の歴史に比べたら、私の数十年の人生なんてホンの一瞬。今は旅の途中なのだと。 
冷静・賢明な司教様や神父様は、自分の意見を「まだ時では無い」と黙っていられるのでしょう。私はただの平凡な信者ですから、泣いたり、騒いだりおろおろとしました。
でも、沢山のお恵みも戴けました。
今はこのホームページで高松教区の方々の苦しみを知り、不安が又少し出てきてしまいましたが、出きる事は「信頼すること・祈ること」と、思っています。 
森岡様、栗林様の正義と勇気に、神様がきっと応えてくださいますよう心からお祈りしています。 
そして、小豆島教会の皆様、高松教区の皆様に、神様の慈しみがありますようお祈りしています。朝になりました。さあ、今日も一日が始まります。


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