2003.11/11-11/20

- 03/11/20 08:26:49
森岡さんの「布教の国、日本におけるNCの活動の不適応を訴えていく決意です。」
・・・・この言葉は、NCの経験のある森岡さんだから言える言葉だと思います。大変重みのある言葉です。
司教の裁判の本を読んでも、ここ最近の森岡さんの書き込みを読んでも感じることは、カトリック自体が独裁国家になっていて、立場的な強者が弱者を支配していて憤りを感じます。
キリストの教えでもある、愛、真理、正義、平和の原点に戻らなければなりません。


通行人C - 03/11/18 18:39:23 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
<きりの無いはなし>さんは、嫌ならやらなければいい、と言われますが、教権者が言えば盲従しなければという気になるのが、カトリック者の悲しきさがです。
主任司祭がNCを、といえば、自由だからやらなくていいと撥ね付けられますかね。NCだけは例外というわけには行かんでしょう。


教皇庁信徒評議会・議長への手紙…森岡 源三 - 03/11/18 14:08:25
フランシスコ(キコ)アルグェリョ氏とカルメン・フェルナンデス氏を先導者とする新求道共同体(NC)の指導者たちは、日本国内において「新求道期間の道」の実施を認めていない教区司教のもと(同司教区内)においては、即刻、彼らの活動を停止しなければなりません。
その理由、その根拠は2002年6月29日、教皇庁信徒評議会教令による「新求道期間の道の規約に関する試行期間つき認可」の同規約第1条(…教区において実施されるキリスト教入信と信仰の継続養成の一つの様式として司教に提供されるもの)、第2条(教区において、教区司教の指導のもとで実施されるもの)、第3条(霊的善を教区司教の管理下に置く)、第6・第9条(司教のつとめに奉仕する手段・原則として小教区において、主任司祭の招きをもって小教区内で始まる)………などに基づくものです。
この規約を認可した教皇庁信徒評議会や福音宣教省もまた、そのように指導者を監督、指導すべき責任と義務があり、試行期間つきといえども規約を認可したまま、彼らの無秩序、無軌道な行為を野放しにしていることは、無責任極まりないことであります。
特に日本におけるNCの独善的な行為は司教の権威と信頼を失墜させ、インカルチュレーションをむしばみ、ひいては普遍の教会を破壊することとして、彼らの行為を断固として許してはならないことなのです。
私は彼らの独善的で無秩序な行為と、彼らが実施しているカテケージスを検証しながら、布教の国・日本におけるNC活動の不適応を訴え続けていく決意です。


きりの無いはなし。 - 03/11/17 14:54:18
通行人Cさま、自由選択を提唱している方のご意見に賛成です。良いか悪いか決めるのも受け取り手の判断では?
提案ですので誰にも押し付けてはおりません。嫌ならしなければいい。だけのことでは?


通t行人C - 03/11/17 12:10:46 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
ロザリオの祈りさん、ご趣旨は分かります。しかし、結局、ロザリオを祈るのは良い信者、そうでないのは悪い信者という差別に繋がりませんか。
ネオ問題の根源にはこうゆうことがあるのでは?司牧者たるものは、良いことだからといって無闇に信心を奨励しない方が良いと思われます。
あくまでも一例としての提示にとどめてもらいたい。ロザリオの年など。


中外日報社説より - 03/11/17 11:52:35
11月15日付の社説が目に止まった。去る9月、「消費者法ニュース」の別冊として「宗教トラブル特集」が刊行された。
この特集は最近における宗教トラブルの実態を資料に即してまとめたもので、実態編、対策編、資料編の三部に分かれている。
と紹介文が続くが、その最後に次のようにしめくくられている。
本書が「はじめに」の個所で、オウム真理教信者によって殺害された坂本堤弁護士の言葉をひいているのは、その基本的スタンスを示している。
すなわち教団側が「我々には信教の自由がある」と述べたのに対し、坂本弁護士は「他人を不幸にする自由など許されない」と答えたという有名なくだりである。
本書の立場に必ずしもくみしない宗教関係者もいるかもしれない。
だが、社会的トラブルというものについて、具体的事例に沿って議論を行ない、それぞれの団体の性格を個別に見極めるというようなスタンスは、宗教界がむしろ率先して確立すべき態度のように思われる。


森岡 源三 - 03/11/17 11:04:21
「ロザリオの祈り」・・・は心温まるご提案だと思います。ところで高松教区ではこのところ司祭集会(評議会)に続いて15,16日には信徒協総会が開かれました。
総会ではNC所属司祭の不用意な発言もあって、重要な問題になると収拾がつかない混乱状態に陥っていましたが、まあ、信徒代表の間で本音で意見がはけるようになったのは良い傾向だと思います。
この場で02年度の収支計算報告がやっと出てきました。
しかし、税理士の手によるものなのに問題点が多く、きちんと決算が出来ない体質は恥かしくも、また悲しいありさまです。
裁判でも指摘しました経済問題評議会の設置、一粒会献金の会計独立など、ここに来て少し体裁を整えようとする動きは認めますが、いかんせん、すべてにおいて事務局の不備というか、能力不足というか、NC所属司祭たちのする事なすことが稚拙で、話にならないほどです。
あまつさえ改善に向けてチェック機能が全然働いていないのが最大の欠点で、教区運営のマネジメントは、宗教法人専門家による総合10点で1・8というありさまなのです。
「しっかりしろよ」といいたい数字です。


ロザリオの祈り - 03/11/16 21:13:58
他の15教区が活動を認めていない中、この一教区だけ、そしてもとはドミニコ会のロザリオ管区であったということに私の想いは及びます。
聖ドミニコの印は松明を銜えた犬です。「散らされた羊を集め、松明の明かりのもと穴に落ちないように導く牧羊犬」を象徴しています。
ロザリオの祈りは聖ドミニコが始められたと聞いています。そして彼の働きにより多くの異端者が回心したと。 ロザリオの祈りは単純で目新しくも無く難しいこともありません。
ですが、これ程、主の生涯に想いを馳せる祈りは無いのではないでしょうか? 「ロザリオの祈りは悪に対しての最強の愛の武器です」と私の敬愛する神父様方はおっしゃいます。
まだ疑心暗鬼な気分は消えないことでしょうけれど皆様でロザリオの祈りをなさってはいかがでしょうか?
簡単そうではありますが、人数が増えれば増えるほど心を合わせないと声がそろわないものです。ロザリオの祈りが高松の皆様に平安を与えてくださいますように。


- 03/11/15 21:40:47
オプスデイとNCは仲がいいと聞いている。教権中心の教会作りを目指すという点が共通しているからかな


ガラテヤ人への手紙 - 03/11/15 21:00:31
ガラテヤ人への手紙―’不忠実に対する非難( 1:6−10)を参照ください。 そして司教にはぜひとも「放蕩息子のたとえ話」をお読みいただきたいと思います。


- 03/11/15 19:13:43
<大変な混乱+数々の共同体>というのは、何を言いたいのだろう。オプス・デイとかフォコラーレとかの新興グループのことかな。
それとも従来の信仰共同体のことなのか?他は認めず、ネオ一本やりだぞ、と言いたいのだろうか?


通行人C - 03/11/15 17:13:37 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
たとえNCが大ご馳走であっても、無理やり食わされれば、胃腸病になりますわな。


森岡 源三 - 03/11/14 19:09:34
前の書き込みについて…。
訳文の抜粋なので読みづらくなりましたが、辛抱してお読みいただきたいと思います。
書き込みしながら私は、NCが導入された高松教区での教区運営や神学院に係わる一連の不正問題、小教区における信徒の対立・分裂は起こるべくして起きたのだと実感しました。
仕掛けているのはもちろんNC側です。
このようなキコ氏の話を聞いて(読んで)、日本で高松教区を除く15の司教区の教区長がNCの活動を認可しない理由が読み取れました。
日本のように小教区の規模が小さいところでNCの活動が始まると、修復できないような分裂が起きて、福音宣教の大きな障害になるのだということをいち早く識別されていたのでしょう。
特にNCを導入した後に司教や主任司祭が何らかの理由で中断した場合、その混乱・分裂は小教区を断ち切るほどの危険をはらんでいると言われているのです。だから常任司教委員会が1993年、NCに関する「警告文書」を出したいきさつがよく理解できます・・・
私の感想はこれぐらいにして、皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。
このサイトでのコメントを望まれない方は「あしたに向かって」のメール(日向さん宛て)にお願いします。公開厳禁をお約束いたします。


目を覚ましましょう!! - 03/11/14 18:34:52
こういうものをカルトによる洗脳というのでは?オソロシヤ、目を覚ましましょう。


森岡 源三 - 03/11/14 18:24:21
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は、最終の「15番目のカテケジス」を終えて、カテキスタに向けた「カテケジスのオリエンテーション」で、小教区においてNCに所属していない主任司祭や司祭を“攻略”するハウツウを、ケーススタディのような形で入念に説いています。
その前のカテケジスでまず、「この共同体(NC)は“司教さまの名”によって指導します」「カテキスタの権威に対して従順であらねばならない」などと前置きして、次のように話しています。
「現代の教会においては大変な混乱が起こっています。神父たち、指導者たちが勝手に思うままに数々の共同体を作り、違う道を作り出します。
基礎共同体とかいろいろな名前を持っています。私たちは違う。(中略)カテキスタは司教たちに確証されたカリスマを持っています。(中略)
私たちは安易なテクニックを使いたくない。例えば神父たちはこれは大分時間がかかるといって急ぎ、早く終わらせようとする。
共同体の大きな危険はこれです。はからずも神父たちが共同体を殺します。(後略)」。
続いて@「主任司祭はあまりカテケジスが好きでないと、神経質になってイライラする。これは大きな問題です。
彼らにとってカテキスタは神学の先生のようなものであるべきです(後略)」。
A「(主任司祭は歩みが始まって後、人が減るとカテキスタが下手だからと考えたり、別のカテキスタと変えるようにとか言ってくる)こんなことによって、悪魔に騙されないように気をつけて下さい」。
B「神父さまのこうした要求に私たちが負けたとき大きな失敗でした。…(中略)…自分の好きな人を責任者に選ぼうとしたり…。
このようにした神父たちは、一年・二年後にもう全部溶けてしまって、その小教区に何も残らなかった。この道のやり方は違います」。
C「問題や困難(反対)にぶつかっても、気を落とさないで下さい。助任司祭が最左翼や最右翼のグループに属しているなら、反対しても不思議なことはありません。
(そんなとき)主任司祭に“神父さま、これはミルクと蜂蜜ではありません”と言って下さい」。
D「ローマでは私たちを憎んでいた主任司祭がいました。彼は出来るものなら道を滅ぼそうとしていました。その神父さまがどのように回心したかを知りたいですか?
(その経緯を説明したあと)その主任司祭は、やはり心の中に反省して、私はこの兄弟たちを迫害していた、ということを認めました」…。
ざっとこんな調子で、NCのやり方に反対する司祭たちを説き伏せるハウツウを次々と展開し、最後には「もし、あなたがキリストの後に従って歩きたくないなら、私のいっていることに賛成出来ないなら、(中略)どうぞ、ここを出て、共産党のグループに行って下さい」…などと語っています。                      


これは??? - 03/11/14 00:48:45
こんなモノに’仮にも’司教がはまってしむのだろうか・・・。


森岡 源三 - 03/11/13 18:42:08
NCの「入信のカテケ―ジス」(抜粋)から・・・。
キコ氏は最後の段階の「ヤ-ウェのしもべのカテケジス」の中で「今晩私たちは、ここに集まっている人たちを各小教区毎に分けて集いをします。
そしてこの道を続けたいかどうか一人ひとり答えることになります・・・」と話して(中略)「では、私たちがここでやろうとしたことはなんでしょうか。
私たちがやったことは窓を開いてあなた達に、美しい景色を見せたことです。この窓から見ると遠くに湖や山々などが眺められるでしょう。
しかし、私たちは、まだ、ここの家の中にいます。山々が後方にあり、はるか彼方に私たちが行こうとしている美しいところが見えるでしょう。
今することは、そこに向かって歩き始めることです。今迄私たちがしたすべてのことはあなた達にこの景色を見せることでした。今、家から出て、道を歩き始めます」。
こんな話を続けた後、洗脳について「・・・私たちがここに残るならば皆キコ主義のグループになってしまうでしょう。私自身ある新たな教権主義に陥るでしょう。
(中略)もし私たちが残れば、種々の理由でもって洗脳する危険がある」とはっきり語っています。こんな話を聞かれた場合、皆さんはどんな思いを抱かれるでしょうか?


どするのですか - 03/11/13 08:23:18
高松教区の深堀敏司教は、去る9月14日の教区の日の愛媛地区大会のごミサの中で「私は間違っていました。許してください。自分の至らないばかりにご心配をかけました。赦してください」と謝罪しました。
でも、一体、それならどうするのか、という先のことには一切ふれようとしないままでした。そのことでどう責任を取るのかが大切な事ではないのですか。


畏敬の念 - 03/11/12 22:36:03
「主を畏れるは知恵の始まり」 '知恵が足りない'と言うことはそういうことでは?


通行人C - 03/11/12 21:23:31 電子メールアドレス:ypepito@hotmail.com
カトリック信者としてさんへ。
NCが正統かどうか、の問題でなく、自分の信仰生活に合わないものを教権で押し付けられることがないように、人権を守る客観的装置を設けてもらいたいということでしょう。;;
司教でも悪いことをすれば、襟を正す、というのでなく、国の法律に反したら、法的制裁を受けるのが当然ということでしょう。


カトリック信者として - 03/11/12 10:15:16
私は、求道者の時から新求道共同体という名前のことは知っていましたが、ただ漠然としたことしか分かっていませんでした。
日本の布教の地では、そぐわないという事を、NCの人たちを見ていて自分でも肌で感じていただけでした。
しかし、ここ1ケ月前からの森岡さんの投稿は、ただNCを反対しているのではなく、自分の体験に基づき疑問点などを理論付けて明確に説明して下さり、よくNCがどういうものか分かってきました。
また、森岡さんの言動で、森岡さんがどういう人柄なのかも分かります。
森岡さんが昨夜投稿したコメントで、「何よりも日本の司教団の信頼を回復することが先決だと私は思います。」と最後を締めくくっていました。 
今までの私はなぜ新求道共同体のことで苦しまないといけないのだろうと思って、信者でなかったらとまで考えていましたが、逃げない自分こそが、自分に課せられた十字架ではないかと思うようになりました。 
ただ現在、私が疑問に思っているのは、いくら司教であっても悪いことをしたのであったら、自分の襟を正すのが、人の道ではないかという事です。 
正しい道へと導くのがそれぞれの教区の司教ではないでしょうか。今の司教区の司教たちは自分の保身のことしか考えてないように私は思ってしまいます。 
カトリック信者として、日本の司教団が正しい道へと導かれるよう祈りたいと思います。


あしたに向かって - 03/11/12 08:13:52
視点を誤ってはいけません。「主よ、憐れんでください。」と、苦しみの中から救いを求めている存在を中心に、現状を考えていただきたいと思います。


森岡 源三 - 03/11/11 21:42:47
NCの道を歩む人たちが概ね8〜10年も経つと「道の過程」を“卒業”し、新しい命の恵みを受けて小教区の中で違和感なく信徒使徒職活動に励んでいく・・・
非キリスト教化したカトリック国では、このような目的のために活動し、成果を収めていると伝えられており、これこそが“再福音化”といわれる所以なのでしょう。
それが日本ではどうでしょうか?
1970年代に始まった(高松教区では1974年)というのに、今もって信徒は「道の過程」に執着して“卒業”出来ないまま、指導者が描く本来の目的に逆行しているのです。
このことを検証するだけでも、NCが宣教の地の日本に不適応であることを物語っています。
繰り返しますが、日本ではキコ氏やカルメンさんが説くカテケージスが宣教活動に結びつくどころか、小教区においては修復できないような信徒の分裂がますます増大し、大きな弊害をもたらしているのが現実です。
それでも今後NCの活動を続けようというのなら、高松教区で起きた神学院の不正問題などをきちんとただし、また自らつくった規則を守り、活動そのもののあり方を厳しくコントロールしていくことが課題となるでしょう。
何よりも日本の司教団の信頼を回復することが先決だと、私は思います。


- 03/11/11 19:11:04
聖霊を求める始業の祈り: 「聖霊をもって我らに正しきことを悟らしめ・・・」 「偽教師」はこの祈りをご存じないことでしょう。カテキズム云々以前の話です。


Aki - 03/11/11 17:08:43 電子メールアドレス:ncw_philippines@yahoo.co.jp
森岡 源三 - 03/11/11 14:13:47に対して。ご無沙汰しております。森岡様の書き込み、非常に興味があります。
総司教代理の神父様(どなたかは存じませんが)や、15年も「道」を歩んできた信徒の方たちが、NC(新求道共同体「新しき求道者の道」)が何を目的にして活動しているのか、わからない。
私の記憶に間違いがなければ、彼らは1960年代から70年代始めにかけて、日本での宣教活動を開始した、と思いますが。
今になってもその目的とする活動が理解されていない、根を下ろしていないとすれば、それは「道」の目的とする活動が問題ではなく、その活動、宣教の担うカテキスタの方々、カテキスタチームの方々の責任でしょう。
先月中旬、新しい典礼暦年2004年に向かっての重要課題をテーマとする、地区黙想会を終わってつい先週には、自分の所属する共同体に対するエコー「響き」黙想会(地区黙想会において各共同体責任者が受けたカテケシスを、今度は各自の共同体において自分が共同体メンバーに対してカテケシスを行う。
つまり受けたカテケシスへの自分の反響「響き」としてのカテケシス)を終了したばかりの私にとっては、全く理解できないことです。
日本での「道」はいったいどうなっているのでしょうか?私も自分のメールアドレスを機会在る毎に明示していますが、誰一人として日本の共同体からの反応はありません。
現在自分で掲示板を設置していますが、これも開店休業状態。もし盛岡様の話が本当であれば、日本での「道」の活動はフィリピンや他の国々と、異なっているのでしょうか。
私の掲示板アドレスはhttp://www.egroups.co.jp/group/neocatechumenal_wayです。
どなたか日本のNCの方に知り合いがいらっしゃれば、この掲示板のアドレスを教えてあげてください。
何かしら解決策を見つけられる、糸口になるかもしれません。すべては天にまします御父のみ旨、ご計画に従うことではありますが。


森岡 源三 - 03/11/11 14:13:47
日本におけるNCの“正体”について、高松教区では司教総代理の神父でありながら「何を目的に活動しているのか分からん」と真顔で語っているほどですから、ましてや信徒は理解できないことばかりでしょうね。
何事もカテキスタが“司教さまの名”の権威の嵩にかかって、上意下達の一方通行。従ってNCの活動を始めて15年を過ぎたという信徒ですら“群盲評象”というありさまなので、とても危険なことです。


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