2003.12/1-12/10
テモテへの第二の手紙 - 03/12/09 23:25:20
3.世の終わりの危機(5−6)―”うわべは宗教に熱心に見えるが、実際は宗教の力を否定するものとなるでしょう。”
4.み言葉の宣教(3−4)―”人々が、健全な教えを聞こうとしない時が、必ず来ます。
そしてそのとき、人々は自分の都合のよいようように、耳を楽しませる教師たちを大勢手もとに集め、そして真理に耳をそむけ、作り話に心を傾けます。”
森岡 源三 - 03/12/08 18:46:42
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は最後の方の「ヤーウェのしもべのカテケージス」の中で、マルキシズムの組織力と、その組織に”潜入”したことの体験、当時カトリック信者がマルキシズムに走る傾向などについて具体的に説明したあと、前に述べたことを繰り返すように、次のとおり話しています。
「この第二のタイプの人間(つまりマルクス主義者や社会主義者)と向い合ったとき、教会も又、そのやり方を真似ようとしました。
例えば私たちは共産主義者の革命運動の為の細胞のあり方を見たとき、私たち自身も労働者の中にカトリック運動のための細胞を作りました。
同じようにして、私たちは、自分たちの戦いをも組織化した。
私たちは又、この種の人間の教えを受け、私たちの集まりの中心に甦られたキリストを置く代わりに社会政治運動を持って来たのです。
そして労働者の中の非常に多くのカトリック運動のグループの場合と同じように私たちがそうと気がつく前にこのタイプの人間の精神を受け入れた。
つまり、マルクス主義者になってしまっていたのです。このようにして非神聖化の進行は始まったのです…」。
…なんだか自ら”マッチポンプ”をさらけだしたようで、がっかりする話。リーダーとして自己反省に乏しく、無責任きわまりない恥さらしだと思います。
ところで、かつて私もこのカテケージスに参加した一人ですが、スペインなどから来た旅人のカテキスタや日本のカテキスタからこんな話を耳にした記憶はありません。
非カトリック教化したヨーロッパの国々と宣教の地の日本ではカテケージスの内容がまるきり異なる事例として指摘しておきましょう。
森岡 源三 - 03/12/08 18:25:04
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。キコ氏が前のコメントのように話したあと、コンビを組んでいるカルメンさんは「このようなことをみんなに言う必要はありません。
そのまま言ったら大変な討論になるでしょう」と、たしなめています。続けて「しかし、あなた方はあちこちでぶつかるであろう問題として忘れてはならないと思います。
どこででもこのような考え方は出て来ます。現代教会の主な問題の一つはこれだと思います」と、キコ氏の話をサポートしています。
森岡 源三 - 03/12/05 14:14:32
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
第1番から第15番まで、キコ氏の口述記録を読んでいくと「マルクス主義」とか「共産主義者」「社会主義者」などの名前をあげて、その運動を誉めそやしたり、批判したりしている場面が多くあります。
背景を探ると、なんとなくうなずけるところがない訳ではありません。
先に紹介しましたオリエンテ―ションの中でも「私のいっていることに賛成できないなら(中略)共産党のグループに行って下さい」などというくだりがありましたが、第3番目のカテケージス(非神聖化)の中では核心的な部分にふれて次のように話しています。
「・・・即ち社会主義者に応えようとして教会は間違った道を通ったといわなければなりません。彼らと同じテクニックを使おうとしました。
共産主義、社会主義の労働者が革命的な活動を行なうために小さなグループを作るのを見た私たちは、なるほどそうだそうしなければならないと思いました。
そしてカトリック労働者の活動的な細胞が生まれました。正義のために闘っている共産主義者に負けるべきではありません。目的は同じです・・・」と。
求道者のため、信徒養成の道程のためのカテケージスだと言いながら、なぜ、これほどまでにイデオロギーの話に熱がこもるのか、さらにあちこちで関連する驚くような口述記録を読んで、また新たな疑問が膨らんできました。
- 03/12/04 10:16:42
カトリック信者になって5年余りですが、しかし私が最初に教会へ足を踏み入れミサにさずかったのは25年前です。
信者になる前と信者になってからのカトリックのイメージが違っていたのにはびっくりします。
聖職者はすべての人が純真無垢で、神様に仕え、俗社会とは無縁の人というイメージでしたが、自分が身近に接するようになると、すべてとは言いませんが、プロテスタントの牧師のような態度を取っている人が多く見受けられるようになってきたのはなぜでしょうか。
自分たちの会の保身のことばかり優先して、真の聖職者がいなくなってきたように感じます。そう感じるのは私だけでしょうか。
ここ最近の一連の騒動での日本のカトリック司教区の対応は目に余るものがあります。上の方たちに望むことは、早く正しい道へと導いてほしいものです。
それが期待できないのであれば、私は信者として25年前の自分が感じた時の気持ちになれるよう行動したいと思います。
私は善いことはよい。悪いことは悪いとはっきり言える人間で常にありたいと思います。
森岡さんのここへの書き込みですが、もっと多くの方たちに知っていただくために何か良い方法はないのでしょうか。もったいないような気持ちがします。