2004.6
高松教区民 - 04/06/29 10:19:22
この20年余り、新求道共同体をこの教区に入れたことで多くの信徒が色々な意味で傷ついてきました。
消すことの出来ない大きな大きな痛みです。   
また、この共同体に信者の立場に立ってくださり異議を唱えていた神父たちにも、上位の権限で宣教活動を自由にさせなかったのを目の当たりに見てきました。 
それは、宣教の地を日本に選んだその神父たちにとっては、とてもつらいと言う一言では言いがたいことであったろうと察します。
従順でなければならないという誓いを逆手に取った行為です。とても許されるべき行為ではないと思います。 
 ※ 深堀前司教は、この20年余りの間違った行為に対して、全信徒と、この教区で宣教している新求道共同体でない神父たちに、この地を離れる前に、良心を見せるべきです。

- 04/06/28 23:21:13
6/27日付けカトリック新聞第三面「外国出身の司祭 各教区で増える」と題された特集記事を読めばわかるように、外国人の司祭志願者を教区司祭として受け入れるのは、高松教区だけの取り組みではありません。
他教区でも他国の神学生を受け入れます。が、高松教区と違いは、きちんと東京のカトリック神学院で養成を受けるということです。
東京の神学院で他国の司祭志願者を受け入れるのであれば,高松に独自の神学院を置く必要性はなくなります。
日本で教区司祭として働きたいのであれば、司教団に認められた東京の神学院にいけばいいのです。
高松の神学院で独自の養成を受けなければならない理由はなんなのでしょうか?記事では全く高松の神学院のことには触れられていませんでしたね

深堀司教自ら解決されるべきこと・・・森岡 源三 - 04/06/27 07:41:35
深堀敏司教がどこで余生を送られるにしても“小豆島問題”は自ら解決されるべき重大なことだと、私は受け止めています。
それと言うのも昨年9月上旬から中旬にかけて、教皇特使として来日された巡察使のキム・スーハン枢機卿は、関係する人たち大勢の声を集めて帰られる間際、深堀司教に対し「ご聖体にあずかっておられない日向(育子)さんたちのこと。あのことはよろしく・・・」と言い残して帰られたのです。    
それから間もなくの9月14日、教区の日・愛媛地区集会(北条市の聖カタリナ大学で)のあと、日向さんたちの要望で話し合うため落ち合った深堀司教は、開口一番「あなたはキム枢機卿に何を言ったのか!」と詰め寄ったのです。
その日は再び出会いの機会を持つことを約束して別かれましたが、10日後に司教側から「話し合いは無期延期に…」という手紙が届いたまま、現在に至っています。
ちょうど昨年6月25日、司教敗訴の判決が言い渡された人権侵害と同様に、“小豆島問題”も深堀司教自らの過ちによって引き起こしたこと。だから自ら解決されるべきことなのです。    
あと残された日数は約2週間。今からでも十分に間に合うでしょう。
イエスが言われた『良い羊飼い』(ヨハ10・14ー18)のみ言葉を思い起こされ、なんとしても小豆島教会を司牧訪問してもらいたいのです。
そこで取られるべき言動はキム枢機卿のお言葉を借りるまでもなく、深堀司教がすべてご存じのことなのです。     
重ねて・・・。明日にでも小豆島教会の全信者を集められ、主任司祭の岩永千一神父(司教総代理)と2人して『聖霊による一致」に向けて解決の場が持たれるよう、神のお導きを祈り求めています。

嶋崎 - 04/06/26 08:33:02
ホームページアドレス:http://../../../www.geocities.jp/hs_ocd 電子メールアドレス:pax@inter7.jp
深堀司教様の居住地は、やはり、故郷の福岡に決まりましたか?
この掲示板で、小豆島説が出ていたので、黙っていましたが、実は、以前から福岡に行くという情報も流れていました。
深堀司教様の余生を考えると、ベストな選択ではないかと思います。

栗林 孝充 - 04/06/26 02:19:54
拝啓 桑 栄一様 私は、あるいは貴殿からいただいたようなご意見の登場を、心待ちにしていたのだと思います。
ありがとうございました。

あしたに向かって - 04/06/26 00:51:43
福岡教区の教区長は松永久次郎司教ですので、深堀司教が福岡教区の教区運営に携わられることはないと推察します。
現段階では、福岡教区のどこかに居住されるということだけは言えると思います。


- 04/06/25 23:07:19
福岡教区の司教になるという事ですか?・・もし高松教区と同じ事をしようとされたら、大変な事になると思います。
福岡の人は直情的な人、結構多いですよ・・異端的な雰囲気にはかなり激しい抵抗が予想されます。

- 04/06/25 22:51:11
深堀司教はやはり小豆島では安穏とした生活を送れないと判断したのか? 
ということは、やはり小豆島の信徒たちに対して後ろめたい気持ちがあるのだろうか? 
そんな気持ちのままなら福岡でも、他のどこであっても穏やかな気持ちで次の仕事に取り組めないだろうに・・・

あしたに向かって - 04/06/25 22:26:09
深堀司教の福岡行きの決定は、小豆島教会の問題解決に向けて、希望の扉が開かれたと感じています。


桜町教会信徒 S  - 04/06/25 18:18:35
深堀司教の"隠居地"が急遽変更となり、福岡教区行きと決まったようだ。
10日ほど前のこと、教区信徒協役員宛てに「私は7月10日頃までに、小豆島の土庄教会の留守番として、そこの司祭館に入ります」と通知していただけに、この決定には余程のことがあったのだろう。

桑 栄一 - 04/06/25 16:27:37
ホームページアドレス:../../Bookend-Christie/4453
電子メールアドレス:kuwa-ei@js6.so-net.ne.jp
このサイトを訪れる方々に、「一つの考え方」として、「ARCC試案」が大いに参考になると思われるのですが、いかがでしょうか。 
「神学ダイジェスト No.96(2004.6)」に、その翻訳が掲載されています。
これは米国に本拠を置くカトリック信者の任意団体が、カトリック教会の民主的な運営を目指して作成した「一つの試案」であって、何ら法的な有効性を持つものではありません。

あしたに向かって- 04/06/24 01:00:58
新求道共同体に関しては、このホームページのContentsに戻っていただきましたら、いろんなページがありますので、ご覧ください。
高松教区への転籍については、教区内のどの教会に転入されるかによって、司牧の内容が全く違いますので、落ち着かれてから、籍を移されるのが賢明だと思います。
また、7月19日には、新しく高松教区に溝部新司教が着任されますので、教区は改善に向かうと予想されます。
しかし、現在の所は、高松教区では3分の1の教会で新求道共同体の司祭が司牧していますので、今おられます教会の神父様から正しい情報をいただいておかれることをお勧めします。


- 04/06/23 22:17:07
新求道共同体って、そんなにひどいのですか?具体的に分かり易くどなたか教えて下さいませんか?
今度、高松教区に移動になるのですが、状況によっては籍は元の教区のままにしようかと考えています。
もちろん今の教区の神父様と相談の上で。

しょうゆ豆- 04/06/22 22:37:10
小豆島教会問題のそもそもの発端は、主任司祭が高齢のため引退すると聞かされた信者たちが後任派遣司祭に新求道共同体の司祭が決まっても彼らの司牧を拒否する旨の申し入れ書に全員で署名捺印し、深堀司教に提出したことにあります。
このことを司教から知らされた岩永司祭は申し入れ書を撤回し司教に過ちであったと謝らなければミサ停止、葬式停止、教会は閉鎖する、このことは自らを破門することになるのだと激怒したのです。
司教にとって、司教の人事権に対し平信徒がもの申すこと、ましてや拒否するなどということなどとても許せることではなかったのです。
しかし、信者はカトリックの信者になるために教会法など教えられているでしょうか。
信者たちは将来の小豆島教会のことを一途に考え相談を繰り返しそれまでに聞き調べた新求道共同体に関する情報から、これは“ダメ”“受け入れがたい”と判断したのです。
純粋に、けな気に教会のことを思って。その上主任司祭のことまで気遣ってのことだったのです。
教会を大切に思えばこその行動だったのです。
このとき、司教または主任司祭から信者たちに対し、新求道共同体とは、この運動母体で養成された司祭とはいかなるものなのかの納得出来る詳しい説明が成されるべきではなかったか。
しかし、司祭はそれをしなかった。出来なかった。出来るほど知ってはいなかった。ほとんど知らなかったと想像します。
ダメなものをダメと言った信者に対し、納得できる説明もなくいきなりカトリックの信者としての特権である秘蹟を停止するようなことをする権威者に対し、キリストの代理者としての信頼を持つことができるでしょうか。
持つことが出来なくなった信者と脅迫まがいの説得に屈した信者、分裂し反目の重い空気の中、撤回しない信者は教会から遠のきました。
申し入れ書を撤回しない信者たちは聖体拝領の列には並べなくなったのです。なぜか?
ご聖体をいただけば申し入れ書を撤回したものとみなすとされたから。カトリック信者としての権利の剥奪行為です。
また、司教、司祭にはむかう信者として、ひどく中傷されたのです。
このことは森岡さんたちに成された人権侵害と名誉毀損と同じ性格のものと思います。
小豆島問題はまだ解決していません。何がなされなければならないでしょうか。
解決しないままで深堀司教が小豆島に行かれて教会に平和と一致がもたらせるでしょうか。
申し入れ書を撤回しない信者はもはや信者としてみなされていないのでしょうか?
まだ未解決のままになっている小豆島教会問題ですが、溝部司教が目標とされた「聖霊による一致」がこの「問題の島の教会」から実現してほしいと切望します。

- 04/06/19 22:22:06
深堀司教の小豆島上陸は、まさに昭和51年の台風17号以来の小豆島にとっての災厄でしょう。
しかしながら、深堀司教は、小豆島に住んでみて初めて、自らの過ちを知り、寂しい老後を送ることになるのではないでしょうか。

通行人C - 04/06/19 09:23:45 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
御聖体を拝領させるとか、させないとか、これって、神の恵みの私物化、呪術化ではないですか。
人間が神の力をコントロールしようなどとは不遜も甚だしいと思います。


嶋崎 - 04/06/18 08:42:37 ホームページアドレス:../../../www.geocities.jp/hs_ocd
電子メールアドレス:pax@inter7.jp
「小豆島教会での司祭と信徒の関係は、従順の名のもとに、隷属を強いるものだったと思います。
自分の意志を表明した者に、罰としてご聖体を授けない。
信徒に対して、何も考えないで、司教や司祭の言うことに従えばいい、という姿勢です。」
高松教区がこういう姿勢であるならば、第二バチカン公会議以前の司祭の態度そのものです。
公会議以降求められている司祭は、同じキリスト者として、共に悩み、共に感じ、共に考えながら、歩んでいく姿です。
そこには、変な上下関係は存在しません。
その意味で、司祭は、信徒のことを考え、信徒と共に歩んでいかなければならないのです。
(残念ながら、高松教区に限らず、まだまだわかっていない司祭も多いのが実情ではないでしょうか?)

あしたに向かって - 04/06/17 22:41:30
私は最近、小豆島教会、高松教区の問題は、信徒の尊厳を守るための歩みだったのではないかと感じています。
小豆島教会での司祭と信徒の関係は、従順の名のもとに、隷属を強いるものだったと思います。
自分の意志を表明した者に、罰としてご聖体を授けない。
信徒に対して、何も考えないで、司教や司祭の言うことに従えばいい、という姿勢です。
今回の深堀司教の受け入れに関しても同様の力が働いたということを、耳にしています。
申入書を取り下げていない信徒に対して、「ただすべてを水に流してくれ」という再三の勧告もありました。
その言葉の裏には、何も考えずに、従えばいいという姿勢が伺えます。
信徒も物事を考え、表明する人間として、尊ばれなければなりません。


桑 栄一 - 04/06/17 20:43:50
ホームページアドレス:../../Bookend-Christie/4453
電子メールアドレス:kuwa-ei@js6.so-net.ne.jp
主よ憐れんで下さい。キリストよ憐れんで下さい。主よ憐れんで下さい。
小豆島教会の、今飢えている(飢えさせられている)信徒の方々のことを思い、心が痛みます。
聖書には、「神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者(口語訳/司)を呪ってはならない。」と書かれています(出 22:27)(使 23:1-5参照)。
議論しても解決が得られず、自らも理解できない苦悩の年月を耐えなければならないとしても、どうぞ主への信頼と期待を失わないで下さい。
主は、「なお、しばらく静かに待つように」(黙 6:11)と、言っておられるのかもしれません。

苦悩の中にいる信徒 - 04/06/17 19:15:15
↓「もうよいじゃありませんか。お互いに和解しましょうよ」―だなんて平気で言える人は、小豆島教会の実態をなにも知らないお人でしょうね?
なんだったら、あなたが双方の話を良くお聞きになって<仲立ち>をお申し出になられてみてはいかがでしょうか。
ぜひともー。

- 04/06/17 17:48:36
多分司教は信徒に赦しを請うために小豆島へ行くのではないですか。
もう良いじゃありませんか、お互いに和解しましょうよ。

小豆島の信徒より - 04/06/17 16:18:10
深堀司教様、あなたの耳には、主の声は聞こえないのですか?
足かけ5年にもおよび、カトリック信者の魂の糧であるご聖体をいただけず、飢え、乾いている小豆島教会の信徒のことは、目に見えないのですか?
深堀司教様、あなたは小豆島教会で奉仕したいと、誰かにおっしゃり、またそのように着々と準備なさっているそうですが、あなたは、小豆島で苦しんでいる信徒たちには、いつまでたってもお声をかけておられません。
自分の家を修復することに躍起になっておられます。そんなことよりも、先に修復しなければならない大切なことがおありになるのではありませんか?
 あなたは、小豆島教会の誰に奉仕しようと思っておいでなのですか?
あなたが小豆島教会の信徒にしてきたことを考えたら、普通の人間ならば考えつかないことだと思います。
人権侵害の裁判に賠償金を払い、退任して小豆島教会に逃げたら、もうそれでよいのですか?
 私たちは、あなた方の愛する子羊ではないのですか?わたしたちには、あなたの愛は感じられません。
自分の生き残りのために必死になっておられるそのお姿から、キリストの代理者としての聖なる姿はまったく見えてきません。
 信仰を保つために、ご聖体を欲している信徒が、足かけ5年にもおよぶ長い間、待ち続けていることを、どうしてほうっておかれるのですか?
深堀司教様、あなたは本当に小豆島教会で奉仕したいのですか?
一度、ご自分の姿を鏡に映してみてください。
それが、あなたの本心ならば、今こそ聖職者としての良心に立ち返って、小豆島教会の信徒全員に対して、責任を果たしてください。
私たちは、心から、願っています。

- 04/06/17 13:23:49
去るものに、石つぶてとは。

わりこみ - 04/06/16 20:21:19
私はカトリックではありません。ほんと日本のカトリックも色々あるんですね。
小豆島は昔いった事がありすーごく良いところという記憶があるので、信徒の方々が秘蹟を受けられず苦しんでいるというのは驚きです。
でも 度々聖人偉人の伝記をよむと散見されるのですが ご聖体を与えない  という処置を受けられていたりします。
だからほんと 頑張ってね! なんていうのは持ち上げすぎか?

† 御言葉 - 04/06/14 08:15:39
「 汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。
そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」 マタイ12.43-45

オホーツク人 - 04/06/14 01:15:31
 あっちゃー、引退する司教さんの顔の皮膚って移植できるほど厚いのね。
いや・・・2者だけで仲直りしなさいって言うのかい?どなたか、間に入ってくれる人がいなきゃだめでないかい。
そりゃあ、お互いにわがままは押さえましょう。アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」をかみ締めましょう。
御隠居さん、あなたもですよ!

@ぷー - 04/06/13 22:17:06
撤退する勇気って大事ですね。
人間は自分の信念に従って行動するものですが、ある時点でそれが間違いであると分かれば、すぐさまその信念を撤回すべきなのです。
深堀司教はそれが出来なかったのですね。ある意味、臆病者です。

- 04/06/12 03:01:40
深堀司教様もやっと何が自分を狂わせてきたか、わかって来られたのではないでしょうか。高松教区内にはいたい。
されとて、三本松からは離れたい。それで小豆島。考えすぎかな。

- 04/06/11 21:41:04
司教様自身で小豆島行きを決めたとは、つまりこれまでの混乱の原因が自分自身にあったと認めたのか、また、小豆島の信徒と和解しようという心の現われなのか、それとも・・・・

桜町教会信徒 S  - 04/06/11 18:53:23
深堀司教が小豆島教会(土庄)を“終の棲家”と決めたのは、誰が勧めたものでもないし、もちろん誰に強制されたことでもない。
あくまで本人の強い希望によるものだ。これから何を、どうするかは、いま、神とじっくり相談していることだろう。

高松教区民 - 04/06/11 09:19:21
[互いに愛し合いなさい」 「愛はすべてを許します」.....これを履き違えると、とても強力な武器にかわるのです。
その偽りの愛徳に対し何の防御もしないでは、何の解決策も見出せないのです。 
△ 間違った判断をした者に対し、“愛があるから全てを許します。” “決まったことだから従います。” 
“何でも聞き入れます。”何でも....。何でも....。
この教区はその優柔不断な態度で、多くの者が傷ついてきたのです。
† 祈りも大切です。しかし祈る前に、偽りのない真の心を示してこそ、真の愛徳が生まれ、聖霊によって一致できるようになるのです。 アーメン

高松教区一信徒 - 04/06/11 09:03:19
溝部司教様にお会いしたことはまだありませんが、仙台教区のホームページで察するに、とても素晴らしい凛としたお考えをお持ちの方のようで、一信徒としてこの身を預けても信頼できると思っています。  
その溝部司教様のためにも、前司教は高松教区から離れるべきです。
また前司教より悪事を重ねてきたその取り巻きの方たちも、高松教区から離れるべきです。

- 04/06/10 22:42:01
深堀司教様が小豆島? 自分自身できっちり解決しなさいと言うことなのでしょうか? それにしても、ものすごい人事ですね。
小豆島の信徒の方にしてみれば、やりにくいですね。でも、うまくいくように遠くからお祈りしています。


あしたに向かって - 04/06/10 22:34:01
桜町教会信徒Sさんの書き込みは、事実です。私たちは今とても苦しんでいます。
申入書を取り下げていない信徒たちは未だに、信徒としての名誉は回復されず、主任司祭からご聖体を受けられずにいます。
司教からも何の連絡もありません。しかし、司教は着々と小豆島教会を安住の巣とする準備を進めています。 


- 04/06/10 21:44:26
新司教様の受け入れ準備、進んでいるのでしょうか?例えば、着座式の準備、だれが仕切っているのでしょうか?


高松教区信徒 - 04/06/10 15:18:35
信じられない!!。


桜町教会信徒 S  - 04/06/10 14:32:51
深堀司教は、どうやら小豆島教会(土庄)で余生を送ることに決めたようだ。


- 04/06/09 19:53:57
溝部新司教様の着座式の日程が決まりましたね。7月19日午前11時から、高松カテドラル桜町教会(香川県高松市)で行われるとのことです。
また 当日、祝賀会などは行われないそうです。


誠に教会のカテキズムなのか・・・森岡 源三 - 04/06/09 13:30:35
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏はカテキスタに向けたオリエンテーションの最後のセッションで、「(NCを守り続けるために)大切なのは忠実な責任者を選ぶことだ」と力説。
「(NCに対する)主任司祭の疑いに対しても、責任者が共同体をしっかり守るならその共同体は圧迫されることなしに歩けるだろう」と、ある小教区の例を引き合いに出し、NCのカテケジスに疑問を抱き、乗り気でない主任司祭を軽蔑する発言を繰り返しています。     
そんな主任司祭は説教も同じことを言うばかりで、それは義務として集まるという気持ちの現れだと非難。
果てには、NCの集いに時間を惜しむ主任司祭は「NC共同体の感謝の祭儀を立てても何も分からないからだ」と責め立てています。    
その一方で、キコ氏自身はいかにも寛大であるかのように自己顕示し、「それは神のみことばにあるからで、“愛はすべてを許す”神のみことばに間違いがありません」と前置きし、次のような話で締めくくっているのです。
これが本当にカトリックのカテケジスなのでしょうか?キコ氏が話していることの矛盾、さらに深まる疑問を禁じ得ません。     
「ただ私たちはいい人とばかな人とを同じだと思ってきました。ある人は他人を許すということは素晴らしいことですという。他人を許す人のことを“聖人みたい”という。
その人は何でもいい、何でもきき入れる、何でも結構です………。それはばからしいことです。まことの愛徳とは関係のない蜂蜜みたい。空っぽの気持ちです。」


- 04/06/09 10:49:16
高松狂区主の平和はどこにある?


ルルド - 04/06/07 00:09:06
共同体の叙階式は、マツノイホテルというところで、きれいなシャンデリアのついた天井の大きなホールで執り行われていました。
私はその写真を見たときに、桜町教会の信者さんはどのように思われているのかと驚きました。信者の方々が聖堂での司式を反対されたのでしょうか?
佐藤司教様他2名の司教様が参列されていました。


他教区の信徒 - 04/06/06 23:52:26
宣教神学校の校長はイエズス会の司祭です。又、Y教区、T教区のある教会では、その主任司祭がNCのミサの司式をしていました。
これはある必要性から私が実際にその集会に参加して見た事実です。NCの人も信者だから頼まれたら断れないと言われていました。
関わって苦しんでいる、又傷ついた沢山の方々のためにいつも祈っています。
私も苦しみましたが、今は少し良い方向へと向かっている手ごたえがあり、祈りは必ず通じるものと確信しています。祈りましょう。


高松教区民 - 04/06/05 09:57:54
今まで高松前司教が違法で建設した神学院で養成された神父を小教区に次々と侵略【私にはそう感じ、恐怖でした。前司教がそれだけ圧力をかけていたように思います。】させてきました。
私の小教区でもいつ侵略してくるのだろうと、びくびくしながらの日々でした。今侵略されている小教区での、NC以外の兄弟たちのことを思うと、とても心が痛みます。 
△高松の神学院の神父と、東京と福岡の神学院の神父との違いを聞かれていた方がいましたが、やはり【 質 】の違いではないでしょうか。
この伝統ある神学院では、ゆっくりとキリストの精神を養い、司牧者として、清貧、独身、従順を守れる人を大切に養成されているのではないでしょうか。 
例えとして失礼かもしれませんが、手作り(東京と福岡の神学院)と大量生産(高松のNCの神学院)の違いのように思えます。 
▲司祭が少なくなったからといって、誰でも良いという問題ではないと思います。 ※私が新求道共同体に反対しているのは、偏った信仰に思えてならないのです。
NCの神父と接しても、偏った信仰をもっていて、とても怖いのです。


嶋崎 - 04/06/05 09:42:54 ホームページアドレス:../../../www.geocities.jp/hs_ocd 電子メールアドレス:pax@inter7.jp
ネオに属しているイエズス会の神父についてですが、もしかしたらそれは、教授として関わっているのかもしれません。
イタリアなどから、いろんな修道会の教授を招いて集中講義方式で高松の神学校では、養成しているということです。


- 04/06/05 01:22:39
イエズス会の神父様がネオにかかわっていると言うことですが、今現在もイエズス会に属しているのでしょうか? 追放?されたりしないのでしょうか?


- 04/06/03 22:41:22
(高松教区でネオの司祭というと必ず「イイエ教区司祭です」と帰ってきますが。) 確かにネオの司祭でもイエズス会士の方がいますよね。
「あなたは教区司祭といいますが、日本では、従来教区司祭は福岡と東京の神学院で養成することになっていました。
あなたはそれらの神学院卒の司祭とどう違うのですか?」と問い返してみたらどうなんでしょう?


高松教区民 - 04/06/03 13:24:06
高松の神学院で叙階された神父に司牧をしてほしくありません。 また彼らの偏った信仰に従いたくありません。


- 04/06/03 12:59:20
ずっと昔、ネオの教区司祭の叙階式をどっかのホテルで行ったということを聞いたように思います。普通は教会で執り行なうものでしょう。  
ある会の神父様が、今流行のホテルのチャペルでの結婚式の司式を頼まれた時に、「ホテルは教会でないので私はしません。」と一貫として断ったと聞きました。 
今取りざたされている司祭の資質の問題もこれらのことからも分かるような気がします。


- 04/06/03 11:45:55
高松教区でネオの司祭というと必ず「イイエ教区司祭です」と帰ってきますが。ネオの宣教家族のお父さんが国際神学院の教授になっているような神学院卒業者神父はネオの、やり方、考え方しか出来ないのです。
その神父が主任司祭になった場合、今治教会の洗礼式のようなことが起こるのです。


私も同感です - 04/06/03 10:17:29
今まで高松司教区では、前司教がNCに大賛成。おまけに新求道共同体の司祭養成の神学院まで違法で建設し、道義的に見ればめちゃくちゃな世界でした。  
私の洗礼を授けて下さった神父様が、私が人間関係で悩んでいる時「正義はいつか現れるよ。」といつも勇気づけて下さっていたのですが、このNCの問題も、いつの日か良い結果となっていますよう祈り続けたいと思います。


↓同感! - 04/06/03 09:39:58
愛媛県今治のように、復活祭で全裸での洗礼式を行ったり、求道者に「一緒に勉強をしませんか」としつこく誘ったりする。
一般人から見れば、“これがカトリック?” “あなたたち本当にカトリック信者?”と、日本ではゆがんだとらえ方をされだすのではないでしょうか! 
私はカトリック信者としてとても危惧しています。 △ 共同体として一緒にお祝いをしなければならない復活徹夜祭に、全員NCの方たちは教会に来ません。
どこで一致がとれましょう。  日本ではNCの活動を禁止すればいいのです。


- 04/06/02 23:16:23
(もしどうしてもやりたいのであれば、共同体を巻き込まないやり方で行う。) これがNCは出来ないのですね!
NCは嶋崎神父さんの仰るとおり、主任司祭よりも、自分達の指導者のいうことに従いますから。
もし、教区内でNCの活動をどうしてもしたいのであれば、(教会法上許されるのであれば)、NCを従来の小教区から完全に物理的に切り離し、新たにNCの小教区を創設して、教区内のNCはそこだけに限定するしか方法はないように思えます


フィリピン在住AKI - 04/06/02 12:56:45 電子メールアドレス:ncw_philippines@yahoo.co.jp
私は日本に居ないので、余り好き勝手なことを言う資格はないのですが、通行人Cさんの方法には賛成です。
やはり信徒協議会などその小教区の所属信徒を代表する機関での、十分な協議と同意が必要でしょうね。それと少数意見は決して無視してはダメだと思います。
少数意見を無視することは、他の人たちの存在を無視すること。
混乱を避けるのであれば、少数の反対意見があれば、全小教区を対象とした新信心や活動は取り入れてはならないと思いますね。
既決定事項の上からの押し付けはダメです、特に日本のように小教区の信徒数が少ない場合は。


フィリピン在住AKI - 04/06/02 12:45:29 電子メールアドレス:ncw_philippines@yahoo.co.jp
Aさん。あなたが通行人Cさんの意見をお聞きしたい、と言うことでしょうか。
では現状(こちら現地と日本との環境の差を考慮した上で)を踏まえた上で私なりの意見を述べてみたいと思います。長文ですご注意。
まず私の知る範囲でのこちら現地の状況を少し。ご存知のようにフィリピンは、アジアにおける最大のカトリック信徒数(全人口約7800万人の内93%近い)を抱える国。
まあ、数多い信徒の中にはただ毎週日曜日の主日のミサのみ預かる人。告解など1年の内数える程度しかしない人。教会活動など全く興味を示さない人、などなど様々です。
各小教区における信徒数は日本と比して桁違い。下手をすると日本の小さな教区が、こちらの小教区の信徒数と同じぐらい、ということもあり得ます。
実際私たち家族が属している小教区は、信徒台帳に登録されている信徒の数が約8,000人!と聞いています。どうですかこの人数は?
因みに小教区内での代表的な活動組織を見てみると、CWL(Christian Woman’s League。女性カトリック信者を対象とした、チャリティーと宣教活動が主体の団体)、El Shadai (エルシャダイというカリスマティック運動で、会員数は比国内だけでも500万人とも。
比国版創価学会と言えるかも。選挙の時は巨大な集票マシンになる。
世界各地に支部があり、日本にも)、CFC (カップル フォー クライスト、夫婦カップルの会員による宣教活動を行う会で、SFC (シングル フォー クライスト)独身男女の会員もその傘下で、これも各国に支部があり、日本にも)などなど。
こうした活動組織に対して、小教区主任司祭さまが独断と強権でもって、参加する信徒を強制出来ませんし、出来るはずがない。
信徒は十人十色。だから信徒評議会での審議も、主任司祭さまは独断専行できません。
根本的な意味合いで主任司祭さまは、その小教区の僕となっていらっしゃいます(全ての小教区がそうだとはいえませんが)。
このような環境の相違は、こちらフィリピンの信徒自身が、小教区主任司祭の意向に拘わらず、教会活動への参加或いは、自分自身の信仰活動の選択を、より自由に行える環境にある、と言えます。
で日本の問題はと言うと(一概に日本だけの特殊事情とは言えませんが)、一旦小教区でその宣教活動方針などが決定されると、全ての所属信徒はそれに対して右に倣え。
信徒数が少ない小教区では百数十名と言ったところで、多くは嫌でもその決定に従わざるを得ない状況。従わなかった時の村八分が怖い。
では他の小教区に移ろうか、と思っても近くには教会がない。小教区を移ろうとすれば、信徒台帳の転出転入の手続きもあるから、面倒だ。
しかし、問題の奥深いところには、小教区司祭さまはそれぞれ所属する信徒の方々の考え方や主張、信仰活動に対して、もっと敬意を払う必要があるように思いますね。
自分の小教区内で好き勝手な行動は許さない、と言った了見の狭い(すみません)司祭さまが多いようにも感じますし、余りにも世俗化した考え方(例えば政治家のように事前の根回しを計るとか、信徒評議会での議事進行をやり易くするため、イエスマンを多く作るとか、などなど)をされている司祭さまも多いようです。
特に小さな小教区では。司牧と言う意味を履き違えている司教さま司祭さまも多いと感じます(しかし概して外国人司祭さまの方がもっとオープンで、真剣に自分が預かった子羊たちを導いていこうとする、強い責任感が感じられますが)。
私が考えるに司牧とは、独裁政治ではありません。司牧とは、独断専行ではありません。
司牧とは、主キリストが示された模範のごとく、自らの命を投げ打ってでも、その群れの子羊を守り、導くこと。
狼が来れば命を掛けて対峙する自己犠牲がなければ、司牧は出来ないと思います。そう司教さまや司祭さまにはもっと自己犠牲を発揮して欲しいですね。
小教区内でそれぞれの信徒がそれぞれの信仰活動を行って、彼らが必要とする霊的な指導を惜しむことなく、分け隔てなく与える。
そこには時間的にも肉体的にも困難を伴うでしょう。そこに自己犠牲が必要となるはずです。
こちら現地でも新求道共同体の活動を始めるにあって、教区長から許可を得て小教区を訪ねた時、多くの司祭さまは出来ない理由として、新たに司牧する時間的余裕がない、とおっしゃられるようですが(カテキスタたちの話では)。
そう、率先した自己犠牲の精神がなければ、効果的な司牧は出来ないと思います。


通行人C - 04/06/02 11:29:07 電子メールアドレス:ypepito@hotmai.com
教皇に認可された信心であっても、新しいものを導入するかどうかの決定権を当該共同体(小教区)の総意に委ねる。多数決と言うことではなく、少数の反対意見でもこれを尊重して、新信心をその共同体に導入しない。
もしどうしてもやりたいのであれば、共同体を巻き込まないやり方で行う。以上のようにしたらいかがでしょうか。


A - 04/06/02 09:26:47
↓さまは、どうすればよいとお考えですか。ご意見をお持ちなら、書き込みをお願いいたします。ちょっと、お聞きしたくて。


通行人C - 04/06/01 21:51:48 電子メールアドレス:ypepito@hotmai.com
AKIさんのご意見は、正論です。T教区について言えば、司教もNCの活動に同意し、若干の主任司祭も同意していると聞きます。
つまり、現在のカトリック教会の法によれば、T教区のNCは、全く合法的だと思います。ところがまさに合法的であるところに問題が生じていると思われます。
合法的だから信徒は、拒否できないし、拒否すれば、秘跡の執行を停止される、信徒には、問題解決の権能がない。そこに困難の根っこがあるのではないかと思います。


- 04/06/01 21:30:23
それって十分児童虐待になるんじゃないでしょうか?


桃太郎 - 04/06/01 20:51:29
今日友人から今治教会の公報紙「ピラール」を送っていただきました。その紙面に復活祭の洗礼式の写真が掲載されています。
それは、赤ちゃんを全裸にしての全身水浴による洗礼の様子です。これに対しては色々のご意見があるのだと思いますが、私は嫌悪感をおぼえました。
聖霊による洗礼にこんなことが必要なのでしょうか。私は自分の子供だったらやめてくださいとお願いしたと思います。


フィリピン在住AKI - 04/06/01 18:37:36 電子メールアドレス:ncw_philippines@yahoo.co.jp
嶋崎さま、ありがとうございます。(長文ご注意)やはりそのような非公認・非公式の共同体の存在が問題ですね。
会則(規範)に従えば、いや以前からの活動基準に従っていれば、そのような非公認・非公式の共同体は出来ないはずです。
その教区を監督される教区長の許可が、共同体活動の大前提であるはずです。また、例え教区長が許可しても、小教区主任司祭がそれを許可しなければ、活動を始めてはならないはずです。
もしそれを日本に居るインターナショナルカテキスタチームがまた日本のカテキスタの人達が黙認しているとすれば、彼らの責任は大きいでしょう。
もしその理由が、彼らがそうすることによって、共同体の日本での活動を自分たちの満足感を満たすために、または課せられた義務を果たそうとするが故に、なりふり構わずどのような手段を講じても、それを成功させようとしているとしたら(そうあってはならないと願うばかりですが)、それこそが今の日本での共同体と既存の小教区信徒の方々との衝突や、軋轢、誤解、歪んだ宣教活動、などの根っこかもしれません。
だってカテキスタの人たちに共同体を導き、育て育んでいく責任があるから。
私は新求道共同体の活動が、全てのカトリックにとって最善だとは思いませんが、少なくとも私と私の妻と二人の子供たちにとって、大きな救いであることは事実であり、現に8年余も歩んでいます。登山家が山の頂上を目指すのに、幾つもの登山道があるのと同じように、決して全てのカトリックにこれが最善の道ですよと、言えないことも明白です。
色々な人々が色々な道を自ら選び取っていきます。仮に百歩譲ったとして、それ自体良いものであっても、それを他の人々に押し付ける権利は誰にもありません。
本来共同体はもっと謙遜に他の人々に接し、範となるよう(*)と教えられているにもかかわらず(「地の塩、光となれ」という聖書の一説をカテケシスの中で繰り返し聞くことから、私はそう理解しています)、色々な話を聞くと、共同体に属していない信徒の方々を見下したような言動や、強引な態度が見られることなど、恥ずかしいことです。
共同体がそのような自己満足、自己正義に陥っているとしたら、まさしく主キリストが面と向かわれたファリサイ派の人々と同じです。
反共同体を訴える人々の多くが、元々共同体を歩んでいた人々であった事実からも、少なからず推察されます。
しかし私が恵みを受けたこの「道」の共同体が、共同体の本来あるべき姿を忘れた活動が原因で、日本いや世界の幾つかの場所でも問題が提起され、衝突が起きていることに、深い悲しみを覚えます。
(*)新求道共同体の歩みは、大きく分けて3段階あります。最初の第一段階は、「謙遜」。第二段階は「質素」。そして第三段階は「賛美」。
つまり共同体のメンバーはすべからく最初の段階「謙遜」のステージを歩んでいるはず。
謙遜の意味する事柄を理解したはずのその人達が自ら、他の人達を見下したり強引であったりすること自体、すでに何か間違っている。
自らも罪びとと自覚し、それら現実から会得した謙遜であれば、他の人を自分の定規で裁くことなど出来ない。
私たち共同体のメンバーの多くは、第一段階「謙遜」というステージで躓き、離れていく。それは自分自身も、日々多くの罪を犯す他の人々と変わらない罪びとの一人、と自覚する過程が耐えられないからです。
この「謙遜」のステージが終わらなければ、天にいます御父が、自らにとって最大最善の扶養者と自覚し、神の摂理を受け入れていく次の「質素」の段階など、歩めるはずがない。)