2005.2

三重県人様 2005/2/27 (Sun) 18:04:45
ご心配をお掛けしました。思いやりの深いお言葉を頂き、気持ちが安らぎました。本当にありがとうございます。


三重県人 2005/2/26 (Sat) 23:04:17
「想像」は夢と同じで、思考や判断と異なり、理性のコントロールが利かない部分があります。
(Augustinusの有名な言葉を思い出してください。)
逆にそれだけ、理性に制御された表面上の人格ではなく、私の奥底にある剥き出しの姿、つまり罪に染まった私の真の姿を映し出すのでしょう。
 「背筋がぞっとして、長い間震えが止ま」らない思いをさせ、「体がちぢかむほど、とても怖い」のは、そのような想像をする私の罪深さだと思います。
 私も、そのような想像をする私自身を、私が投稿の中でお書きし、あなたがおっしゃる通り、「恐ろしい」「怖い」ものだと思います。
 この罪深く恐ろしい想像が全くの間違いだったと明らかにされることを、つまり、教区が速やかに問題を解決し、不当な仕打ちを受け続けている人々を速やかに救ってくれることを、心から待ち望んでいます。


怖い話 2005/2/26 (Sat) 17:32:47
問いかけと疑問に答えることなく、教区は黙って白を切り通し、問いかけをしている人々が絶望して黙るか、死んでしまって黙るのを待っているのかと。
=三重県人さんのコメントを読んで,背筋がぞっとして、長い間震えが止まりませんでした。
体がちぢかむほど、とても怖い話です。


サタンC 2005/2/22 (Tue) 09:18:26
情報開示とは、罪の告白でも、プライバシーの暴露でもないと思います。
客観的に検証可能なことで、何が起こったかということをはっきり述べることだと思います。決して批判ではありません。
開示されたことについてどういう風に振舞うかは、開示を受けた者の責務だと思います。


三重県人2005/2/21 (Mon) 22:09:32
しょうゆ豆さんの抑えながらもはっきりとしたご発言に敬意を表します。
(頑固で単純で直情的な私如きの敬意はご迷惑でしょうが。)
それからsakuraさんのご発言に何と言うか知恵を感じます。
「知恵」と申し上げる時、なかば旧約聖書の「知恵文学」の「知恵」を念頭においています。
森岡さまが時間と忍耐をかけて問いかけていらっしゃる事に答えが与えられるためには、やはり時間と忍耐が必要なのかも知れません。
我々罪深い人間は、直線的に流れる時間と有限性の中で生きているのですから。
すべての真実を初めからご存知の方、真実そのものでいらっしゃる方がおいでであることを私どもは知っています。
でも個々の真実について、それを私どもが知るにはふさわしい時があって、その時を待たなければならないのでしょうね。
でも、それでも、いま問題になっていることの真実については、私どもがこうして待っている間、ずっと苦しみ続けていらっしゃる方々があることが、どうしても気に掛かります。
だからこそ、心のもう一方では、ひよこさんのようにもサタンCさんのようにも、批判したくなる気持ちがあります。
分かりません。本当に分かりません。
時には恐ろしい事も想像します。
問いかけと疑問に答えることなく、教区は黙って白を切り通し、問いかけをしている人々が絶望して黙るか、死んでしまって黙るのを待っているのかと。
たとえそのつもりが無くても、教区とその統治権者が、問いかけと疑問に誠実に答えない限り、そのような事態はいつか生じるのです。そうしたらずいぶん酷い恐ろしいこと。未必の故意です。
間違いを犯した人が保護されるのでしょうか。間違いを間違いと指摘した人が苦しめられるべきなのでしょうか。
教区のために真実が隠されるべきなのでしょうか。真実が隠されて信徒が苦しむべきなのでしょうか。
一部の信徒を犠牲にしても教区の体面を守るべきなのでしょうか。


しょうゆ豆 2005/2/21 (Mon) 13:47:39
私は、しばしば振り返ります。特に小豆島問題が始まった5年あまりを。
その間思いもかけなかった事柄が次から次へと起こりました。はっきり分からないことばかりでした。
その中で問いたいことは、司教、司祭、権威ある方が、なぜ信徒の信者生命をおびやかすようなことをしなければならなかったのか?
なぜ、そのようなことまでしなければならなかったのか? 
小豆島教会信徒へのご聖体問題も森岡さんの訴訟に至った問題も、質は同じと思います。
両方とも信徒の人権問題であるということで。 両方とも問題の始めに新求道共同体に関することがらが存在していました。 
小豆島教会は新求道共同体司祭による司牧の影響を案じ。
また森岡さんは宗教法人法や教会の規則に違反している上に12億をかけて建築しようとしている神学院に疑問がある。と言うことで。
早く言えば、ちょっと待ってください。と言うことだったと思います。
新求道共同体のことは私が1990年、他教区から高松へ来た頃には高松では「なんだかおかしいのだ、よく分からないのだ、信徒がよく知らないうちに神学院が設立された、」等々の話を何度も何度も聞かされました。
そのうち1992年の四旬節前になって、やっと、前司教は司教教書で全信徒の前に「教区立国際宣教神学院」を設立したことを明らかにされたのです。
ある司祭はこれからは教区司祭が雨後のたけの子のように誕生するといわれたと聞きました。
たしかに司祭は短期間におどろくほど輩出されました。
小豆島のI主任司祭が入院したときに臨時で派遣された司祭もその中のお一人でした。
「ちょっと待ってください、話し合ってください、おかしいのではないですか?」との信徒側の問いに、権威の方々は、“いきなり”といってもいいかと思います。
いきなり言うことを聞きなさい、従わなければ破門に繋がるよ、あるいは宗教裁判にかけるよ、と、言われたようなものです。
この問題が始まる前、即ち5年前よりも以前から新求道共同体に関する疑問は、常に信者の話題の中に出ていました。
しかし、同じ教区の信者さんでも新求道共同体に全く関心のない方もいました。
むしろそのような信者さんの方が多くいたのではないかと思います。
権威にへつらうばかりで識別しようとしない方、情報だけほしがって私は中庸の立場をとると一番無責任な姿勢をとった方、自分に都合の良いほうを選ぼうとするしたたかな方もいました。 
「おかしい」と異議を申し立てる信者たちがいる。これは神様の計らいではなかったでしょうか?
小豆島教会の信徒はI司祭の激怒を境に二つに割れました。対立した感情に悲しい思いを引きずっていました。
でも、あのころの、あの状況のなかで弱い信徒の立場である者の心理状態を、今は「申入書」を撤回してない者たちは理解できています。
しかし、でも、いまだに一方的に赦しなさい、告解しなさい、教会に来なさいといわれるI主任司祭を理解することはできません。
「あなたはまったく悪くないのですか?ご自分のほうから先に、間違ったことをしてしまった、赦してほしいといわれる問題ではないのでしょうか?平信徒はそれほどに卑屈にならなければならないのですか?」と、私は申しあげたい。
そして、前司教の計画は高松教区のような小さな教区の 信徒生命をおびやかしてでも進めなければならないほどのもので、今でもそうなのですか?を知りたいものです。


42年前の少女 2005/2/19 (Sat) 11:28:39
ネオが入ったのはいつですか、なにも分からずそおっと入って来たので始めは何がなんだか誰も知らず、混乱しませんでした。


サタンC 2005/2/19 (Sat) 11:22:42
sakuraさん、知らないことについてどのようにして協力できるのでしょうか。盲従と言うことは、協力ではないと思いますが。
どうでしょう。


ひよこ 2005/2/19 (Sat) 11:15:10
悟り切ったようなご意見ですが、信頼回復は望めません。ますます苦しくなるでしょう。


sakura 2005/2/19 (Sat) 10:46:48
長い間の混乱を収拾、解決する困難な仕事を、溝部司教様は背負っておられます。信徒全体の協力が必要です。
ネオが急に入ってきたとき混乱したように、逆のことをすると同じような混乱がきっと起こります。
進展が無く、何もかわらないように思えても、ここが踏ん張りどころだと思います。


当局? 2005/2/19 (Sat) 07:31:57
当局?は、本当に動き出すのは4月からで、それまで待つようにと、のん気なことを言ってるようです。
説明責任とか、情報開示と言う本当の意味が分かっているのでしょうか?


サタンC 2005/2/18 (Fri) 21:05:23
先ず、当局の真摯な情報開示が必要なのではないでしょうか。それなしに、真の前進的交流はありえないと思います。


Y.K 2005/2/18 (Fri) 19:18:15
ネオであるとないとに係わらず、このH.Pが情報交流に生かされることを願っています。


三重県人 2005/2/16 (Wed) 23:33:01
「ネオのこと」、と、ちょっと曖昧に話して、「ネオのこと」とだけ言えば誰でも分かるみたいな、つまり「あなたも分かっていますね、自分も分かっています、自分も分かっていますから安心してください」、みたいな思わせぶりで相手の正直な発言を引き出そうとしたり、「廣島の岩国は相変わらず分裂して大変らしいですが」のように、「相変わらず」と昔から知っているような 振 り をし、「らしい」との表現で誤魔化し、さらに、「大分の明野教会はどんな状況なのでしょうか?」と、「廣島の岩国」に加えて「大分の明野教会」という固有名詞を出して、自分は具体的なことも知っている、つまり自分は内部の人間だよ、みたいな振りをして相手を安心させて、その上で、「、、でしょうか」と問い掛けをして相手の発言を引き出そうとしたり、
「岩国でネオを始めたS神父はどこか遠くへ行くそうですが、本当でしょうか? 」と「岩国でネオを始めたS神父」と自分は正確そうなことを知っている振りをし、しかも「ネオ」といった呼び方で自分の立場を偽ろうとし、その上ですぐさま、「どこか遠くへ行くそうですが」と惚けて知らない振りをして、そのオトボケの上塗りに「本当でしょうか」と言って、相手の情報を引き出そうとする言葉を付け加える、、、
投稿したご本人にはそのつもりがなくても、字面上はひどいですね、いまどきの暴力団がらみの、インターネットや携帯電話の詐欺の手口と同じ言葉遣いになってしまっていますね。
(投稿したご本人はそうでないでしょうが)、無知を装いしらばっくれた、つまり、「 無 垢 」(innocence!ah,J..CHR...!)を装った、このような言動に注意する必要があると思います。
カトリック教会が、うわべを誤魔化した言動に乗っ取られてはなりません。
投稿をした人はネオとは関係がないことを願います。投稿した人はいわゆる「ネオ」とは関係がないですよね?
(ネオは、信仰ゆえに無理なことをして周囲と摩擦を生じることがあっても、嘘、ごまかし、オトボケ、ワナ、それにダンマリ、脅かし、、こんなこととは無縁の人達だと思います。
つまり強引で無理なことをしても、嘘ごまかしはしない人達だと思います。
自分たちに少しでも誤りがあれば、すぐに認めて謝罪する、正直で柔和な人達だと思っています。
問題の中心のあなた方、立場を明らかにして発言しても良いのでは? 
特に神学院建設の際に、お金の使い方に規則違反はなかったのか? 
集められたお金を不正に使った最初の人は、なんとまあ、Iudas Sc..ですから)


オホーツク人 2005/2/7 (Mon) 23:44:32
桜町教会へのメールの下書きを始めなきゃならないですね・・・・・


三重県人 2005/2/7 (Mon) 21:30:23
答えてください。言葉でもって答えてください。キリスト教は言葉の宗教です。初めに言葉がありますよね。
日本人は喧嘩両成敗といったことが好きです。しかし当事者の一方に大部分の過失がある場合もあります。
その場合、喧嘩両成敗はとんでもない不正義になります。
喧嘩両成敗が望ましいかどうかは、事実の究明がなければ分からないことです。
究明のためには対話が、議論が、話し合いが必要です。

1/31にサタンCさんが「対話が成立する前提には、相互に自己変革の可能性を認める用意が必要です」とおっしゃることには賛成です。
ただ自己変革の可能性と自己変革の必要性とは全く異なるものです。
(この点をサタンCさんは分かっているのかな? とっても疑問。)
申入書を提出したことがキリストの御心に背くことならば、提出した人は自己変革を行い申入書を撤回すべきです。
そうでないならば撤回することは必要ありません。
申入書に対して聖体拝領拒否で答えた前司教様は正しかったのでしょうか?
聖体拝領の拒否が正しい判断だったならば、判断が撤回される ( =教区が拒否に関して自己変革する ) 必要はないでしょう。逆に、判断が行き過ぎたものだったならば、直ちに撤回されるべきでしょう。(誰でもこんなことは当然と思うでしょう。)

サタンCさんの考えは一般論としては正しいと思います。しかし悪用される恐れもあります。
その悪用の一例を以下に提示します。教会は自己変革を行って聖体拝領を認め、拒否されている信徒も自己変革を行って申入書を撤回する、という論法です。
表面的には双方歩み寄っています。しかし結果はどうでしょうか?
申入書を撤回しなければ聖体を拝領させない、とした前司教様の判断を100%正しいとすることになります。
つまり、申入れを行った信徒にのみ変革を迫る(=罪を負わせる)ことになります。
表面的にはもっもらしいのに、実質においては歪んだ論法が成り立ちうるのはなぜでしょうか?
それは、前司教様による聖体拝領の拒否を既成の事実として認め、その是非を問う事を拒絶するから(=暗に是認するから)、こんな変な議論が成り立つのです。

前司教様が聖体拝領を一部の信徒に拒絶したのは正しかったのか? 現司教様、答えてください。対話をしましょう。
申入書を出した側はどんどん発言しています。もう一方が(直接的な)議論を避けていては対話が成り立ちません。
イエズス様はポンシオピラトに黙していられました。でもピラトは巨大権力。イエズス様はお一人。
信徒一人に対しては、カトリック教会は大きな権力にもなりかねません!


サタンC 2005/2/8 (Tue) 07:45:00
「赦し」が成り立つためには、先ず、「赦されるべき者」と言う自覚、自認が必要です。神も罪人だけを赦されるので、罪人でない者を赦されることはないと思います。赦しは、外から貼られたレッテルではないからです。


オホーツク人 2005/2/7 (Mon) 23:44:32
桜町教会へのメールの下書きを始めなきゃならないですね・・・・・


三重県人 2005/2/7 (Mon) 21:30:23
答えてください。言葉でもって答えてください。キリスト教は言葉の宗教です。初めに言葉がありますよね。
日本人は喧嘩両成敗といったことが好きです。しかし当事者の一方に大部分の過失がある場合もあります。
その場合、喧嘩両成敗はとんでもない不正義になります。
喧嘩両成敗が望ましいかどうかは、事実の究明がなければ分からないことです。究明のためには対話が、議論が、話し合いが必要です。

1/31にサタンCさんが「対話が成立する前提には、相互に自己変革の可能性を認める用意が必要です」とおっしゃることには賛成です。ただ自己変革の可能性と自己変革の必要性とは全く異なるものです。
(この点をサタンCさんは分かっているのかな? とっても疑問。)
申入書を提出したことがキリストの御心に背くことならば、提出した人は自己変革を行い申入書を撤回すべきです。
そうでないならば撤回することは必要ありません。申入書に対して聖体拝領拒否で答えた前司教様は正しかったのでしょうか? 聖体拝領の拒否が正しい判断だったならば、判断が撤回される ( =教区が拒否に関して自己変革する ) 必要はないでしょう。逆に、判断が行き過ぎたものだったならば、直ちに撤回されるべきでしょう。(誰でもこんなことは当然と思うでしょう。)

サタンCさんの考えは一般論としては正しいと思います。しかし悪用される恐れもあります。
その悪用の一例を以下に提示します。教会は自己変革を行って聖体拝領を認め、拒否されている信徒も自己変革を行って申入書を撤回する、という論法です。
表面的には双方歩み寄っています。しかし結果はどうでしょうか?
申入書を撤回しなければ聖体を拝領させない、とした前司教様の判断を100%正しいとすることになります。
つまり、申入れを行った信徒にのみ変革を迫る(=罪を負わせる)ことになります。
表面的にはもっもらしいのに、実質においては歪んだ論法が成り立ちうるのはなぜでしょうか?
それは、前司教様による聖体拝領の拒否を既成の事実として認め、その是非を問う事を拒絶するから(=暗に是認するから)、こんな変な議論が成り立つのです。

前司教様が聖体拝領を一部の信徒に拒絶したのは正しかったのか? 現司教様、答えてください。
対話をしましょう。申入書を出した側はどんどん発言しています。もう一方が(直接的な)議論を避けていては対話が成り立ちません。イエズス様はポンシオピラトに黙していられました。でもピラトは巨大権力。イエズス様はお一人。
信徒一人に対しては、カトリック教会は大きな権力にもなりかねません!


しょうゆ豆 2005/2/7 (Mon) 12:47:56
仮に小豆島のI神父が主任司祭を引かれ新しい主任司祭が赴任し、問題となった「申入書」を撤回しないでいる信者たちが新主任司祭からご聖体がいただけるようになったとしても、その信者たちがその「申入書」を撤回したということにはならないでしょう。
小豆島教会のご聖体いただけない問題は、2000年の2月小豆島教会の信徒全員の総意のもと新求道共同体の活動が、その小さな教会に導入されるようになった場合、そこに発生してくるであろうさまざまな深刻な問題を想定し、小豆島小教区の司牧には適切ではない、非常に困難な状況になるであろうと判断し、現主任司祭が退任した後に、新求道共同体の司祭の派遣が決まってもその司牧を拒否します。と言う「申入書」を前高松司教に提出したことにより発生したことです。
そのことが今も引きずっている理不尽なご聖体問題になろうとは、その時信者たちは誰も想像だにしていなかったでしょう。

1)島の信徒会では二十数年前に新求道共同体の司祭とカテキスタより「あゆみ」の指導を受け、導入すれば将来分裂が生まれる恐れがあると感じ、その時、すでにことわっていた。という経緯があった。
2)主任司祭が急病で倒れ緊急入院していた間、緊急処置として新求道共同体司祭の司牧を現実に受けたが、強い疑問と不信を感じていた。
3)他の小教区からの情報や聞き取り調査により小豆島教会にはとても不適であると判断した。
だからこその申し入れだったのです。信徒たちが苦労に苦労を重ね築き上げ支えてきた教会共同体。小さいながら信者たちにとっては大切な教会共同体。その大切な教会共同体の兄弟姉妹たちの将来をみんなで真剣に考え悩んだ上での決断だったのです。

理不尽な扱いをされた信者たちは思っています。I神父さまにとって何が一番大切だったのか? 
主任司祭として何を一番大切に思っておられたのか?、新求道共同体司祭の司牧は島に適していると本心思われたのか?。
I主任司祭はご聖体を受け取ることで「申入書」を撤回したこととみなすと言われた。
それでは新求道共同体の司牧を受け入れてもいい。と言うことになるではありませんか。
新求道共同体司祭の司牧による影響が小豆島教会を深刻な状態にしないという確証がない限り、申入書を取り下げず唇をかむ思いで5年の時を過ごした信者たちは、主任司祭が替わろうが替わるまいが、おそらくみな、あの申入書の意思は変えないでしょう。

I司祭は「復活祭の前に今までのことは水に流して赦し合い教会と和解しなさい」と教会に来なくなった信者たちに電話している。
小豆島教会に、もの申してるのではないということがお分かりになってはいないのでしょう。
なお、「申入書」を出すに至った経緯はこのHPの表紙より、「小豆島教会に何がおこったか」でご覧ください。
説明されています。


三重県人 2005/2/7 (Mon) 21:29:03
「復活祭の前に今までのことは水に流して赦し合い教会と和解しなさい」だとは !
水に流す、つまり過去のことは忘れる、とは日本の土着の宗教の世界ですね。水に流して全部綺麗になるのですね。
それは、今の日本の社会の病理の世界ですね。なぜかというと、水に流す、というのは、リセットすることですから。
そこから今の日本の無責任社会が生まれています。過去の責任は負わない。水に流しましょう。今まで何をしたかは問わない。
そうですね、原爆も水に流しましょう。部落差別も水に流しましょう。従軍慰安婦も水に流しましょう。皆な和解しましょう。
何も無かった、あなたも善人、私も善人、みんな全員、幸せ幸せ。鞭打たれて血を流し、唾を吐きかけられ、十字架に架かって苦しんで亡くなったイエズス様がバカみたい。

「赦し合い」とは、皮膚感覚でしか考えられない我々日本人にとってとっても美しい。
全部「水に流」せるならば、ゆるしの秘蹟で、つべこべ細かく告白する必要もない。
とっても日本人。なぜキリスト教徒なのですか。

 話し合いをしましょう。対話。でもね、、、
日本の特に農村的な精神風土の中では、対話とは第一に利害調整です。
双方の主張の是非は棚上げにされ、双方が歩み寄ることが要求されます。
しかし、西欧の特に哲学的な精神風土の中では、対話とは第一に真理の追究です。
真理のためには個人的利害は棚上げにされ、議論によって誤りが明らかになった場合には感情的に納得できなくても従います。
水に流してすむことではありません。水に流すこともできません。そもそも水に流すとは何ですか。


だれでもいい 2005/2/5 (Sat) 17:34:56
小豆島教会には新求道共同体ありましか?


差別したくない 2005/2/2 (Wed) 20:25:53
小さな叫びを聞く・・すごく大切なことだと思います。それこそ謙虚にならなければならないと思います。
不正のあるところに正義を!じゃないけど、弱い立場の人の気持ちを考える・・・本当に大切だと思います。
聖体を頂けないつらさを考えるといたたまれないです。
もしこの問題(聖体拒否)が全世界で同じ対応されるなら、何か問題があると思うけど、高松教区(前司教だけ)によってで、違う教区にいけば何も問題がない(聖体を拒否する理由に当たらない)わけですよね。
どちらか強い立場に立っているか?
すごく問題だと思うんですよ。そしてほかの教区の司教や司祭は何も問題にしていないのか?と正直怒りをもちます。
そしていろんなところにある正義と平和という組織はなぜ対応しないのか?
なぜ高松の問題に早く解決をと訴えないのか?疑問に思います。


サタンC 2005/2/2 (Wed) 09:19:55
秘跡の執行は、教会の奉仕の務め、とあります。聖なるものを「罰」として使うのは、教導権の乱用ではないでしょうか。
教会法は神法に優越しないと思われますが。


あしたに向かって 2005/2/1 (Tue) 23:10:36
小豆島教会の問題の発端は、新求道共同体の導入によって教区各地で苦しんでいる信徒の声を聞いて欲しいという信徒の切なる願いだったのです。
信徒の度重なる陳情を無視、黙殺された前司教に、「聞く耳を持ってください。目をさましてください。」と、願った痛切な訴えだったのです。
その痛切な直訴を、聖体拝領の資格なしとの烙印を押すことによって、取り下げるように迫られたのです。
その後、私たち小豆島教会の小さな子羊は、あしかけ5年の長きにわたって、大罪人として、扱われてきたのです。
私たちは大罪人なのでしょうか?私たちは、直訴をしたことが、大罪人の行為ではないということを、教区長に証ししてもらいたいのです。


サタンC 2005/2/1 (Tue) 18:39:13
破門と言う言葉のもとの言葉の意味は、「のろい」とか「絶交」と言うことです。
たとえ教導権者であっても神様が手ずから創造された人間を呪っても良いものでしょうか。


差別したくない 2005/2/1 (Tue) 16:32:39
知らないうちに・・さんの通り、知らず知らずに差別用語を使ってしまったことがありました。
相手は韓国系の方で・・すごく悲しい顔をされ、指摘されました。
私はその差別用語を知らなかったとはいえ、意味を考えたらわかる差別用語で、謝罪しました。
韓国系の友人は、あなたは理解してくださる人だから指摘しました。
でも多くは指摘しても反発や言い訳だけ言って・・・謝罪しない人が多い!・・と。
排除された人は、本当に心に傷を持ちます。私自身20年前イジメを受けたことがあります。
やはりなかなか立ち直れませんでしたし、今でも多少対人恐怖症っていうか敏感になっています。
聖体拒否をされた人たちが、聖体を受けられるようになった=この事件は終わり・・・、簡単に終わる問題では無いと思います。聖体を拒否された人たちの心の傷は簡単に癒されることではないはずです。
岡山教会の平和共生委員会の差別用語表記は絶対に許せるものではないはずです。
そして差別表現を差し替えればすべて終わり・・ではないはずです。岡山教会に抗議したいです。


知らないうちに・・・。 2005/2/1 (Tue) 15:11:51
知らないうちに差別用語を使ってしまい、注意されたことがあります。
表現の仕方で悲しい思いをさせる事もあるけど、差別用語は排除させる言葉、見下した言葉になると思うのです。
しかし、岡山教会の平和共生委員会のチラシが本当に差別表現をしているなら、言語道断です。
○○身分の○○は知らなかったでは済まされません。
差別された人は、今でも傷を負ったままで生活されていますし、すごく敏感に反応されます。悲しいを通り越しています。
たぶん、もりおかさんや聖体拒否されている小豆島の信者さんたちは、教会から排除されてしまったということだと思います差別は気に入らない人を排除しようということ。
戦争にしても、命を守るのではなく、排除の動きだと思うのです。


差別表現・・・・山口北原 2005/2/1 (Tue) 14:51:56
岡山カトリック教会平和共生委員会が作った「平和を創る人々の集い」という集会のチラシに、体験学習の案内があり、エタ身分という差別用語を載せるという信じられないことをしています。
渋染め一揆という江戸末期に起こった差別解放運動の体験学習の部分に・エタ身分の人たちと・・・・と書いています。あまりにも悲しい事です。
人権擁護のホームページには、直接表現はできるだけ避けていて、やむ得ない場合は、しっかり断りをいれていますし、決して不特定多数の人に見られるチラシには書かれません。
平和という名で差別をする団体なのでしょうか?
皆様は如何に思うでしょうか?


1月   HOME   3月