森岡さんから 「ネオのカテケージス」など 2003年

03/12/31 18:54:08
深堀司教と小豆島教会の信徒との間で年内の対話が実現しなかったことは、非常に残念で悲しいことです。
去る9月、教皇特使(巡察使)として調査のため高松教区に来られたキム・スーハン枢機卿(Cardinal Kim Sow-Hwan)も悲しんでおられることと思います。
これは裁判でも繰り返し指摘したことですが、その後においても深堀司教の全てにおいて一言で表すなら『誠意がない』ということです。
神の前において“嘘やごまかし”がいつまでも通じることではないと、私は固く信じているのです。



03/12/30 21:04:41
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。第4番目のカテケージス「教会の使命」の中でキコ氏は次のように話しています。
「・・・(NCの)共同体のメンバーが余り多くならないように、第二、第三の共同体を作ることになります。このように次々に共同体が開かれると、小教区の新しい構造が出来てきます。
各共同体には司祭もいれば助祭もいます。それから種々な賜ものが兄弟たちにだんだん現われてくるでしょう。将来の教会には専門的な運動は起こらないでしょう。(中略)
初代教会を見れば(中略)・・・それは特別な会を作ったのでもなく修道院があったわけでもありません」・・・。
全文を紹介できないので、ちょっと理解しにくいところもありますが、このような考えの中に独善性が根付いて、既に書き込みした例にもみられるような他者批判、他者攻撃を繰り返すことになるのでしょうか?
NCの中に入ってみないと分からないことなのかも知れませんが、NCに同調しない人に対してはそれとなく軽蔑覗するようになり、少しでも反対する向きは批判・攻撃する。
このように陰湿で攻撃的な体質の延長線上で、高松教区の司教による人権侵害(名誉毀損)事件が起きたのだと、私は判断しているのです。
従って今後、NCに所属する司祭が派遣され活動している(これから始める)小教区においては、不和・分裂の果てに同じような事件を繰り返す素因を抱えていると思うのです。


03/12/22 18:23:44
 NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
いやしくもカトリックのカテケージスの中で、しかも求道者を育て導く過程で、キコ氏は、どうしてこうまでして次々に他者批判を繰り返さねばならないのでしょうか?
攻撃的だとみられる部分も多々あります。私の体験から察すると、日本の求道者が歩き始めて数カ月後にこのような批判話を次々に聞かされた場合、躓く原因になると愚考します。
驚いたことには第3番目のカテケージスの中で私たちの兄弟姉妹・米国のカトリック教会をも批判するように次のようなことを話しています。
「・・・このような意味で技術的な方法を取り入れている小教区がたくさんあります。社会学、心理学、歴史学などなんでもやります。
司祭になるためにそのような学問を学ぶ必要があると思われました。技術的な人間であるこの時代の人々に近づくためにテレビとか、本とか、アンケートなどどんな手段でも結構です。
私たち信者も科学を重視していることを示すためティヤルド・シァルダンのような優れたカトリック科学者はとても人気があります。しかし、そのようなやり方の結果は何でしょうか。
例えばもっとも技術的な教会といわれている米国の教会を見ると洗礼を受けた人はものすごく少ないし、20年前から種々な宗教に改宗した信者の数をみるとカトリック教会に入った者は一番少ないです。
かえって使徒行録に現れる方法即ち家から家へメッセージを伝えるテクニックしか使っていない『ものみの塔』に改宗する人が一番多いのです。
まとめて言うとその結果はどうなったか。矢張り非常に高い代償を払ったということです」・・・。
聞きようによっては政治的なことを含む何かを意図しているような話の内容だと思われます。
また「ものみの塔」まで引き合いに出したりして感情をむき出しにするような話ぶりに、私は一種異様なものを感じます。


03/12/20 11:33:44
NCの「入信のカテケジース」(抜粋)から…。
キコ氏は一連のカテケージスの中で、共産主義や社会主義を厳しく批判し、また心理学が普及することに対しても異常なまでに警戒心を示していることは、先に紹介した通りです。
とりわけ現代の信徒の間で関心が高い心理学について、彼は何か“恐れ”のようなものを抱いているように見受けられ、第3番目のカテケージス(非神聖化・非キリスト化・信仰の危機)の中では「・・・(心理学などに影響されて)私たちの日常生活の中に神様の深い神秘の意義が失われて来たのです」などと強調しています。
ところで、日本で行なわれている別の『キリスト教講座』では、「私は誰なのか」のセッションの中で、心理学者であり精神分析学者でもあるC.G.ユングの次のような有名な言葉が紹介されています。
「本当の自分に出合うことができれば、同時に神に出会う(神を見つける)ことができる」。


03/12/18 13:01:42
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は第3番目のカテケージスで「・・・心理学などに影響されて我々の心に信仰の疑いが入りました」「心理学などを勉強する生臭神父などが現れてきてこの世的な分野の専門家になりました」と言って心理学を否定し、非難しながら、第6番目には『私は誰ですか』というカテケージスを展開しています。
このテーマは既にキリスト教入門講座や一般のカウンセリング講座などでもおなじみのコースで、内容そのものがS.フロイト、C.G.ユング、A.マズローなどの心理学説に依拠して“自分探し”に登場するワークショップの類と言ってよいでしょう。
キコ氏はところどころでこれら何人かの心理学者の学説とみられる部分をちらつかせたりして、「何のために生きているのか」「生きる意味は何か」などと問いかけ、このカテケージスの目的は「私たち人間が生きる方向なしに無意味に生きているということを気づかせることなのです」と話しています。
そのために罪、呪い、死、自殺といったことで人間の思考を極限の状態に追い込み、性急に「何のために」「それでどうするか」と問い詰めて強い恐怖心を抱かせるところがあり、このカテケージスを読んだある精神科医は「何かに不安や喪失感を抱いている人、心に何らかの病がある人たちには、とても危険なことのようである」と警告しています。
因みに高松教区のある小教区でNCの活動に熱心に参加していた某青年の場合、病状が悪化して入院し、「NCの活動にも原因があるようなので、今後一切参加しないように」とドクターストップがかかったケースがあります。
以来、担当医の指示に従った彼の病状は比較的安定してきている様子です。


03/12/12 19:12:57
NCの「入信のカテケジース」(抜粋)から…。
キコ氏は第3番目のカテケジース(非神聖化)の中で「・・・また心理学、社会学などを取り入れその結果、(中略)心理学などを勉強する生臭神父などが現れてきてこの世的な分野の専門家になりました。
現代人がこのようなものを大切にしているなら、私たちも同じことを勉強しなければと考えたのです。心理学や社会学を勉強した信者たちは教会に影響を及ぼしました。
教会にアンケートとかグループ・ダイナミックスなどが盛んになった理由はこのためです。神学院に精神分析学が入りました。
・・・(こうして)大変な問題になりました」などと語り、現代に心理学ヤ精神分析学が台頭してきたことに異常なまでの警戒心を示しています。


03/12/08 18:46:42
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は最後の方の「ヤーウェのしもべのカテケージス」の中で、マルキシズムの組織力と、その組織に”潜入”したことの体験、当時カトリック信者がマルキシズムに走る傾向などについて具体的に説明したあと、前に述べたことを繰り返すように、次のとおり話しています。
「この第二のタイプの人間(つまりマルクス主義者や社会主義者)と向い合ったとき、教会も又、そのやり方を真似ようとしました。
例えば私たちは共産主義者の革命運動の為の細胞のあり方を見たとき、私たち自身も労働者の中にカトリック運動のための細胞を作りました。
同じようにして、私たちは、自分たちの戦いをも組織化した。
私たちは又、この種の人間の教えを受け、私たちの集まりの中心に甦られたキリストを置く代わりに社会政治運動を持って来たのです。
そして労働者の中の非常に多くのカトリック運動のグループの場合と同じように私たちがそうと気がつく前にこのタイプの人間の精神を受け入れた。
つまり、マルクス主義者になってしまっていたのです。このようにして非神聖化の進行は始まったのです…」。
…なんだか自ら”マッチポンプ”をさらけだしたようで、がっかりする話。リーダーとして自己反省に乏しく、無責任きわまりない恥さらしだと思います。
ところで、かつて私もこのカテケージスに参加した一人ですが、スペインなどから来た旅人のカテキスタや日本のカテキスタからこんな話を耳にした記憶はありません。
非カトリック教化したヨーロッパの国々と宣教の地の日本ではカテケージスの内容がまるきり異なる事例として指摘しておきましょう。


03/12/08 18:25:04
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。キコ氏が前のコメントのように話したあと、コンビを組んでいるカルメンさんは「このようなことをみんなに言う必要はありません。
そのまま言ったら大変な討論になるでしょう」と、たしなめています。続けて「しかし、あなた方はあちこちでぶつかるであろう問題として忘れてはならないと思います。
どこででもこのような考え方は出て来ます。現代教会の主な問題の一つはこれだと思います」と、キコ氏の話をサポートしています。


03/12/05 14:14:32
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
第1番から第15番まで、キコ氏の口述記録を読んでいくと「マルクス主義」とか「共産主義者」「社会主義者」などの名前をあげて、その運動を誉めそやしたり、批判したりしている場面が多くあります。
背景を探ると、なんとなくうなずけるところがない訳ではありません。
先に紹介しましたオリエンテ―ションの中でも「私のいっていることに賛成できないなら(中略)共産党のグループに行って下さい」などというくだりがありましたが、第3番目のカテケージス(非神聖化)の中では核心的な部分にふれて次のように話しています。
「・・・即ち社会主義者に応えようとして教会は間違った道を通ったといわなければなりません。彼らと同じテクニックを使おうとしました。
共産主義、社会主義の労働者が革命的な活動を行なうために小さなグループを作るのを見た私たちは、なるほどそうだそうしなければならないと思いました。
そしてカトリック労働者の活動的な細胞が生まれました。正義のために闘っている共産主義者に負けるべきではありません。目的は同じです・・・」と。
求道者のため、信徒養成の道程のためのカテケージスだと言いながら、なぜ、これほどまでにイデオロギーの話に熱がこもるのか、さらにあちこちで関連する驚くような口述記録を読んで、また新たな疑問が膨らんできました。


03/11/27 18:49:49
NCの「入信のカテケージス(抜粋)」から…キコ氏は、第3番目のカテケージス(非神聖化・非キリスト化・信仰の危機」の中で「人間は持ちものに生命を探す。
ですから共同体にいるあなたたちは自分の持ちものを売るときが来るでしょう。しかし、まだまだそんなことをいわないで下さい。
始めたばかりの人たちがこれを聞くなら、みんな逃げてしまうでしょうから・・・」と述べています。
さらに最後の泊り込み(3日間)の集いの朝の祈りの説教の中で
「・・・洗礼に導くこの求道期間の第1段階の時には、『持物を売りなさい!』と言われるでしょう。持物を全部、売る時が来ます。
そうしないと神の国に入れないだけでなく、求道者にもなりえません・・・」と決め付けています。
自分の持ち物を全部売る人に他人がとやかく言えることではありません。しかし、信徒が社会生活の営みと遊離して、現実に福音宣教の“足場”はどこにあるのでしょうか?
「いま、そんなことを聞くと、みんな逃げてしまうから」と、求道者を作意的に誘導することなど、日本で生まれ育った私にはますます疑問が深まります。


03/11/22 21:00:00
NCの「入信のカテケ―ジス」(抜粋)から…。
“第1段階までの共同体への訪問″というカテキスタの集い(オリエンテ―ション)の中で、キコ氏とカルメンさんは次のようなことを述べています。
「一年経ったのでもう少し真面目な集いをして下さい。あなた達は細かいことを見て下さい。共同体を訪問するときはいつもケリグマを述べ伝え、また回心に呼びかける必要があります。
・・・(中略)もう一つ注意していただきたいことは、その共同体が歩き始めたときには兄弟たちの間にいろいろな問題があるのです。姦通、けんか、などなど。つまづかないで下さい。
神に感謝、こんなことは少ないけれど。男と女の間にはそのようなことはざらです。このような問題は前にもありました。いつでもあるだろう。」(後略)
…驚きの連続ですが、この分厚いカテケ―ジスの指導書が“秘密の指導書″とされている訳がなんとなく分かるような、重大な問題を投げかける口述の記録だと思います。


教皇庁信徒評議会・議長への手紙…03/11/18 14:08:25
フランシスコ(キコ)アルグェリョ氏とカルメン・フェルナンデス氏を先導者とする新求道共同体(NC)の指導者たちは、日本国内において「新求道期間の道」の実施を認めていない教区司教のもと(同司教区内)においては、即刻、彼らの活動を停止しなければなりません。
その理由、その根拠は2002年6月29日、教皇庁信徒評議会教令による「新求道期間の道の規約に関する試行期間つき認可」の同規約第1条(…教区において実施されるキリスト教入信と信仰の継続養成の一つの様式として司教に提供されるもの)、第2条(教区において、教区司教の指導のもとで実施されるもの)、第3条(霊的善を教区司教の管理下に置く)、第6・第9条(司教のつとめに奉仕する手段・原則として小教区において、主任司祭の招きをもって小教区内で始まる)………などに基づくものです。
この規約を認可した教皇庁信徒評議会や福音宣教省もまた、そのように指導者を監督、指導すべき責任と義務があり、試行期間つきといえども規約を認可したまま、彼らの無秩序、無軌道な行為を野放しにしていることは、無責任極まりないことであります。
特に日本におけるNCの独善的な行為は司教の権威と信頼を失墜させ、インカルチュレーションをむしばみ、ひいては普遍の教会を破壊することとして、彼らの行為を断固として許してはならないことなのです。
私は彼らの独善的で無秩序な行為と、彼らが実施しているカテケージスを検証しながら、布教の国・日本におけるNC活動の不適応を訴え続けていく決意です。


03/11/17 11:04:21
「ロザリオの祈り」・・・は心温まるご提案だと思います。ところで高松教区ではこのところ司祭集会(評議会)に続いて15,16日には信徒協総会が開かれました。
総会ではNC所属司祭の不用意な発言もあって、重要な問題になると収拾がつかない混乱状態に陥っていましたが、まあ、信徒代表の間で本音で意見がはけるようになったのは良い傾向だと思います。
この場で02年度の収支計算報告がやっと出てきました。
しかし、税理士の手によるものなのに問題点が多く、きちんと決算が出来ない体質は恥かしくも、また悲しいありさまです。
裁判でも指摘しました経済問題評議会の設置、一粒会献金の会計独立など、ここに来て少し体裁を整えようとする動きは認めますが、いかんせん、すべてにおいて事務局の不備というか、能力不足というか、NC所属司祭たちのする事なすことが稚拙で、話にならないほどです。
あまつさえ改善に向けてチェック機能が全然働いていないのが最大の欠点で、教区運営のマネジメントは、宗教法人専門家による総合10点で1・8というありさまなのです。
「しっかりしろよ」といいたい数字です。


03/11/14 19:09:34
前の書き込みについて…。
訳文の抜粋なので読みづらくなりましたが、辛抱してお読みいただきたいと思います。
書き込みしながら私は、NCが導入された高松教区での教区運営や神学院に係わる一連の不正問題、小教区における信徒の対立・分裂は起こるべくして起きたのだと実感しました。
仕掛けているのはもちろんNC側です。
このようなキコ氏の話を聞いて(読んで)、日本で高松教区を除く15の司教区の教区長がNCの活動を認可しない理由が読み取れました。
日本のように小教区の規模が小さいところでNCの活動が始まると、修復できないような分裂が起きて、福音宣教の大きな障害になるのだということをいち早く識別されていたのでしょう。
特にNCを導入した後に司教や主任司祭が何らかの理由で中断した場合、その混乱・分裂は小教区を断ち切るほどの危険をはらんでいると言われているのです。だから常任司教委員会が1993年、NCに関する「警告文書」を出したいきさつがよく理解できます・・・
私の感想はこれぐらいにして、皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。
このサイトでのコメントを望まれない方は「あしたに向かって」のメール(日向さん宛て)にお願いします。公開厳禁をお約束いたします。


03/11/14 18:24:21
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は、最終の「15番目のカテケジス」を終えて、カテキスタに向けた「カテケジスのオリエンテーション」で、小教区においてNCに所属していない主任司祭や司祭を“攻略”するハウツウを、ケーススタディのような形で入念に説いています。
その前のカテケジスでまず、「この共同体(NC)は“司教さまの名”によって指導します」「カテキスタの権威に対して従順であらねばならない」などと前置きして、次のように話しています。
「現代の教会においては大変な混乱が起こっています。神父たち、指導者たちが勝手に思うままに数々の共同体を作り、違う道を作り出します。
基礎共同体とかいろいろな名前を持っています。私たちは違う。(中略)カテキスタは司教たちに確証されたカリスマを持っています。(中略)
私たちは安易なテクニックを使いたくない。例えば神父たちはこれは大分時間がかかるといって急ぎ、早く終わらせようとする。
共同体の大きな危険はこれです。はからずも神父たちが共同体を殺します。(後略)」。
続いて@「主任司祭はあまりカテケジスが好きでないと、神経質になってイライラする。これは大きな問題です。
彼らにとってカテキスタは神学の先生のようなものであるべきです(後略)」。
A「(主任司祭は歩みが始まって後、人が減るとカテキスタが下手だからと考えたり、別のカテキスタと変えるようにとか言ってくる)こんなことによって、悪魔に騙されないように気をつけて下さい」。
B「神父さまのこうした要求に私たちが負けたとき大きな失敗でした。…(中略)…自分の好きな人を責任者に選ぼうとしたり…。
このようにした神父たちは、一年・二年後にもう全部溶けてしまって、その小教区に何も残らなかった。この道のやり方は違います」。
C「問題や困難(反対)にぶつかっても、気を落とさないで下さい。助任司祭が最左翼や最右翼のグループに属しているなら、反対しても不思議なことはありません。
(そんなとき)主任司祭に“神父さま、これはミルクと蜂蜜ではありません”と言って下さい」。
D「ローマでは私たちを憎んでいた主任司祭がいました。彼は出来るものなら道を滅ぼそうとしていました。その神父さまがどのように回心したかを知りたいですか?
(その経緯を説明したあと)その主任司祭は、やはり心の中に反省して、私はこの兄弟たちを迫害していた、ということを認めました」…。
ざっとこんな調子で、NCのやり方に反対する司祭たちを説き伏せるハウツウを次々と展開し、最後には「もし、あなたがキリストの後に従って歩きたくないなら、私のいっていることに賛成出来ないなら、(中略)どうぞ、ここを出て、共産党のグループに行って下さい」…などと語っています。                      


03/11/13 18:42:08
NCの「入信のカテケ―ジス」(抜粋)から・・・。
キコ氏は最後の段階の「ヤ-ウェのしもべのカテケジス」の中で「今晩私たちは、ここに集まっている人たちを各小教区毎に分けて集いをします。
そしてこの道を続けたいかどうか一人ひとり答えることになります・・・」と話して(中略)「では、私たちがここでやろうとしたことはなんでしょうか。
私たちがやったことは窓を開いてあなた達に、美しい景色を見せたことです。この窓から見ると遠くに湖や山々などが眺められるでしょう。
しかし、私たちは、まだ、ここの家の中にいます。山々が後方にあり、はるか彼方に私たちが行こうとしている美しいところが見えるでしょう。
今することは、そこに向かって歩き始めることです。今迄私たちがしたすべてのことはあなた達にこの景色を見せることでした。今、家から出て、道を歩き始めます」。
こんな話を続けた後、洗脳について「・・・私たちがここに残るならば皆キコ主義のグループになってしまうでしょう。私自身ある新たな教権主義に陥るでしょう。
(中略)もし私たちが残れば、種々の理由でもって洗脳する危険がある」とはっきり語っています。こんな話を聞かれた場合、皆さんはどんな思いを抱かれるでしょうか?


03/11/11 21:42:47
NCの道を歩む人たちが概ね8〜10年も経つと「道の過程」を“卒業”し、新しい命の恵みを受けて小教区の中で違和感なく信徒使徒職活動に励んでいく・・・
非キリスト教化したカトリック国では、このような目的のために活動し、成果を収めていると伝えられており、これこそが“再福音化”といわれる所以なのでしょう。
それが日本ではどうでしょうか?
1970年代に始まった(高松教区では1974年)というのに、今もって信徒は「道の過程」に執着して“卒業”出来ないまま、指導者が描く本来の目的に逆行しているのです。
このことを検証するだけでも、NCが宣教の地の日本に不適応であることを物語っています。
繰り返しますが、日本ではキコ氏やカルメンさんが説くカテケージスが宣教活動に結びつくどころか、小教区においては修復できないような信徒の分裂がますます増大し、大きな弊害をもたらしているのが現実です。
それでも今後NCの活動を続けようというのなら、高松教区で起きた神学院の不正問題などをきちんとただし、また自らつくった規則を守り、活動そのもののあり方を厳しくコントロールしていくことが課題となるでしょう。
何よりも日本の司教団の信頼を回復することが先決だと、私は思います。


03/11/11 14:13:47
日本におけるNCの“正体”について、高松教区では司教総代理の神父でありながら「何を目的に活動しているのか分からん」と真顔で語っているほどですから、ましてや信徒は理解できないことばかりでしょうね。
何事もカテキスタが“司教さまの名”の権威の嵩にかかって、上意下達の一方通行。従ってNCの活動を始めて15年を過ぎたという信徒ですら“群盲評象”というありさまなので、とても危険なことです。


03/11/05 14:35:16
「教会教導権」について。
そういえば新求同期間の道(NC)の規約第1条に「(NC)は教会教導権に従って、教区において実施されるキリスト教入信と継続養成の一つの様式として…」とうたっています。
一つの様式なら良いのですが、こうなると問題は、NC所属の主任司祭の場合、上からの指示によってNCだけの活動に集中してその他の方法や様式には見向きもしない。
無視しているのが現状です。従って「すべての信徒が,自由に良心に従って、信仰の形態を選べるようになること」(通行人Cさんのコメント)という選択肢が完全に封じられているのです。
この事に関連して前福音宣教省長官のトムコ枢機卿は、深堀司教に対していみじくも「(レデンプトーリス・マーテル神学院の)神学生らが、教会によって承認されている他の霊性の価値をよく理解出来るように教育されることが重要。
『教区立』である以上、NCの運動に属さない志願者たちの受け入れに対しても開かれたものであるべきだ」などと強調する書簡を送っていることは意味深長です。
巡察使によっても調査指摘されたそのことをいまだに無視し続け、守られないまま見過ごされている事は、とても危険なことだと思います。


03/11/04 14:37:32
RK〈東京教区信徒)さんへ。
日本における新求道共同体(NC)は、自ら決めてバチカンの承認を受けた規約の第2条(新求道期間の道の実施)、第3条(道の国際責任者チームの権限)、第9条〈ケリグマと祭儀)などの条項を自ら破って、無規範、無秩序な活動を続けているのではありませんか?
さらに新教会法典第515の1などにも反した行動は看過出来ないことです。
日本の16司教区のうち、高松教区を除く15の司教区長がNCの活動を自分の教区で認可しない事情がこの辺にもあると私はみています。
こうした無秩序、無軌道な組織を放任することはキリストの正義と平和に背くことで、悪につながっていくのではないでしょうか?
いや、既にあちこちで修復出来ないような不和や分裂を引き起こし、悪を招いているのです。


03/11/01 10:11:08
宣教家族の生活費など派遣に関する費用が派遣元の国の経費で賄われるという事は決してありません。
NCの規約にも「定期的に自己の共同体に助けられて…」とあるように、送り出すNCとか、その司教区が全費用の責任を持つ事になっています。
とはいっても受け入れる側のNCや司教区も多額の費用の支出を余儀なくされているのが現状です。
私の体験では、住宅を借りるとき何組かの保証人になりましたが、派遣したNCがお金にルーズだったのか、日本のしきたりが分からなかったのか知りませんが、家賃が滞り、私が支払ったり、立て替えたりもしました。
中古車ですが車も寄付したり、何人かで分担して買い与えたりもしましたね。NCのためにだけ来て日本にどんな種を播いたのでしょうか。
率直に言って、宣教家族とは言いながら物見遊山で、贅沢な暮らしをしながら遊び半分の家族もいます。そうして2〜3年で自分の国へ帰り、あとは何の連絡もありませんでした。
派遣先の国の文化も風土も理解しないまま派遣することは"反宣教≠ノなるということをNCのリーダーや福音宣教省はとくと認識しなければならないでしょう。


03/10/31 20:04:21
宣教家族≠フことですが、おっしゃる通り本当に不可解です。修飾語を並べた曖昧模糊の規約を読んでも、その実態はさっぱり分かりません。
詳しくは追って紹介することとして、それよりも「新求道期間の道とは何か」についてもっと深く知る必要があると思います。
先ごろ,「あしたに向かって」のこのサイトでフィリピンで「新求道期間の道」(以下NCという)を歩んで確か8年目という方からNCのカテケジースについて、いくつかの問題点が指摘されていました。
その後私は、NCが用いているカテキスタのための指導書「入信のカテケージス」、つまりキコ氏とカルメンさんが1972年にマドリッドで実施した第1番目から第15番目(聖書の授与)に至る日本語、イタリア語、スペイン語に収録したカテケージスについて総括的な内容の照合・分析を試みているところです。
さらにNCの旅人≠ニ称して各地を回っているカテキスタチームや日本のカテキスタ5人が広島・高松教区などで行った2ヵ月間、全15回にわたる夜間集会と3日間の宿泊による各々のカテケージスのテープを聞き、それらの比較・照合をも試みています。
6分通りまで進んだところで思うことは、日本においてカテキスタたちは、信徒にこのカテケジースの全容の10%も伝えていない、ということです。
つまりわが国でNCに参加していると言いながら、誰もが分かったような顔をしてNCの仮面をかぶっているのではないか?という疑問です。
故意に伝えようとしないのか、それとも伝える技量を持ち合わせていないのかなどについて、今後解明していく必要性を強く感じているところです。
分厚い指導書を読み続けるほどに、聖書の原理主義的な解釈をたたみかけるように展開し、段階的なカテケージスを通してどんどん詰め込んでいく構成です。
特定の場所や環境を変えながら、毎週2回の祭儀のほかに定期的に40日ごとや泊り込みの集い≠もち、個人的な接触の中で連帯感を強め、それらの徹底した実践強要には“恐怖感”が募るばかりす。
特に三番目の「非神聖化・非キリスト化・信仰の危機」などのカテケージスでは、日常生活の中で社会的な接点を完全に断ち切るよう迫り、NCの歩みによる信仰の新しいしるし≠強く求め続けていくのです。
その新しいしるし≠ニは一体何を指しているのでしょうか?
キコ氏は指導書の冒頭で「このカテケージスはジプシー、無学者、バタヤたちのために、彼らの貧しい生活の中で生まれた」と述べています。
読み深めるほどにNCは、やはり非カトリック化した欧州の教会における再福音化≠ニか教会再生≠基軸にNCの道へ強烈に引っ張って行く活動であり、このカテケージスを日本のような宣教地にそのまま導入し、「信徒養成の道程」と銘打って無理やり進めていることの不適応、それによって起こる不和・分裂、教会離れなどさらなる危機は増大するばかりでしょう
(このことを考える資料として11月2日付カトリック新聞2面、米ロサンゼルス教区大司教のロジャー・マホーニー枢機卿の『教皇が語った』という記事の中に参考になるコメントがありました)。
今後私は、NCの「入信のカテケージス」をはじめとする指導書についてさらに広く深く照合・分析し、日本におけるミスマッチ≠フ実態を探り、司祭や信徒の体験などを踏まえて、その全容を解明し、冊子にまとめて報告したいと考え準備しているところです。
またこのサイトでも可能な限り順次解説していきたいと思います。時間がかかる仕事ですが、心ある方はご教示のほどお願い致します。


03/10/29 13:28:37
"宣教家族"のことですか? 私もスペインやイタリアから日本にやって来て2?3年で帰って行った何組かの"宣教家族"とおつき合いがありました。
いろんな体験をして、積もる話があります。さまざまな問題や矛盾があります。でも、ここでコメントするのは差し控えた方がいいでしょう。またいつかの機会に…。 
ところで「新求道期間の道」の規約第33条では"宣教家族"について次のように記されています。ご参考までに
【宣教家族】1.新求道期間の発足においては宣教家族の援助を受けることもある。
宣教家族は司教の要請を受けて非キリスト教地域、あるいは「教会の移植」を必要とする地域に移り住む。
2.宣教家族は道の国際責任者チームから指名されるが、それにあたって主への強い信頼、教会の必要、家族の側からの障害のないことを熟慮したうえで、いずこの地への派遣にも応じるとの自由意思を持つ宣教志願の家族の中から選ばれる。
通常彼らはふさわしい祭儀のなかで自分の司教から派遣される。
3.宣教家族は自分の本来の小教区や共同体とのつながりを保ち続け、定期的に自分の共同体の道に参加するために帰ってくることができる。
また彼らは不安定な条件のもとで、定期的に自己の共同体に助けられて、自分の使命を生きることを受託したので、随時派遣を中止できる自由を保持する。


03/10/18 10:22:56
「決算能力がないかも―」ですか?でも、ちょっと待ってくださいよ。
先の裁判で私が確かめたところでは、宗教法人法第25条第4項で「毎会計年度終了後4ヵ月以内に役員名簿、財産目録、収支計算書、貸借対照表、境内建物に関する書類、収益事業に関する書類の写の所轄庁への提出義務」が規定されています。
このことは審理の中でも指摘しています。まさか6ヵ月も過ぎて提出していないということはないでしょう?
実は私も、裁判で問題になった故山下悟神父さんから教区に寄付された4,000万円(寄付された2001年度に入金処理しないでワリコーを買っていた)がどのように会計処理されているか、また運営規則がない「一粒会」資金がどのように処理されているか確かめたいと思っているところです。


03/10/16 18:30:10
tetsuya kobayashi様。人それぞれに置かれた立場や考えに違いはあっても、キリストに結ばれる心はいつも一つでありたいと願っております。
秋田の「聖体奉仕会」をご紹介して頂きましたので、機会を見て巡礼出来たらいいなあ―と思っています。ありがとうございました。


03/10/12 20:56:26
12日13:49:33の無名さん。
あなたが「新求道共同体の霊性」だと言われる、コメントの中でのその思いは分からないではありませんが、この「霊性」という表現は誤解を招くおそれがあると思います。
新求道共同体で活動している司祭や信徒たちも簡単によくこの「霊性」と言う言葉を使っていますが、新求道共同体のそれは「・・・活動」とか「・・・精神」と言う程度の表現にとどめておくほうが良いのではないでしょうか。


03/10/03 18:28:40
Aki様へ。
あなたに向けた10月2日夜の「霊性」に関する私の質問は、相手を間違えていたのかもしれません。ご免なさいね。
でもこの機会に、そちらの「―道共同体」の中でカテキスタを交えて一度話し合ってみてほしいと思います。
私の所用でこの2,3日は無理なのですが、あなたの何回かのコメントにお答えするる形で「―道」のカテケジスについて、このサイトを通してお伝えしたいことがあります。
是非ともご覧になってくださいね。


03/10/02 22:32:30
Aki様へ。あなたは「新求道共同体の霊性…」と言われていますが、新求道共同体に「霊性」というものがあるのでしょうか?。
「精神」と言われる程度なら何とか理解できますが、あなたの言われる「霊性」について詳しくご説明していただけませんか?


03/10/01 21:11:49
tetsuya kobayashi 様。9月30日夕方のコメントでは、高松教区で起きた諸問題の核心に一歩踏み込んだご意見を提示していただき、内心うれしく思っております。
良心に耳を傾け、心の内を共有する司牧のあり方、ある意味でインフォームド・コンセントにも似た組織運用のあり方、タテとヨコに柔軟なコミュニケーションのあり方などをも考えさせる、示唆に富んだご意見だと思います。
お互いがそうした姿勢を心がけているなら、本来、教会のもめごとなど起こるはずがないんですけどね。
ちょっと大げさかもしれませんが、この事件の教訓を3千年紀の教会にどう生かしていくのか、信徒の立場から、祈りながら考えていきたいと思っております。


03/09/30 10:07:24
tetsuya Kobayashi様。今朝、3日目にこのページを開きました。
あなたの9月27午後の書き込みの中で「ドキュメント・司教の裁判」について、まだ読まれてもいないと言われながら、そこいらの週刊雑誌でも批評するような文言なので、これはひどいと思いました。
この冊子はその名の通り、すべて実証・実録に基づいて編集したもので、主の御前に『主よ、どうぞご覧下さい』と厳粛な気持ちで捧げたものです。
こうした過ちを繰り返すことがないように、私たちも反省しながら、深堀司教には
@なぜこうなったのか
A神学院を中心に教区の正常化にどう取り組まれるのか
B御聖体拝領を拒否されている信徒たちがいる小豆島教会の問題をどう解決されるのか
―などをお尋ねしているところです。が、未だに話し合うことすら出来ない状態が続いています。


03/09/27 11:24:52
Aki様へ。あなたの書き込みを読んでいて、その内容から想像して“カテキスタ向けの指導書”を手に熟読されているものと思っていました。
かなりの長編ですけど、カテキスタから借りてでも(無理でしょうかねー)、是非ともお読みになるようお勧め致します。そこからいろんなことが発見出来ると思います。
私は、この「カテキスタのチームに与えられた回心の〜」及び関連する各指導書から、さまざまなことを発見しました。
数ヶ月前から精神科医、臨床心理士とチームを組み、ある事柄≠ノついて研究を始めたところです。
「道の歩み」が、人間個々に、またグループ意識に、さらにはその周りに、どういう影響を及ぼし、変化していくものなのか。
現に活動している人、活動しながら迷っている人、活動していて止めた人など、あらゆる角度から研究してみようと思っているのです。
時間と費用がかかりますが、辛抱強く続けてみます。


03/09/25 19:23:33
Aki様が第3部作の1で、私の思いの足りないところを書き込んで頂いているようです。感謝いたします。


03/09/25 19:10:47
tetsuya kobayashi様 普遍の教会として「他国のカリスマの良いものを素直に心を開いて学び、良い実をならせる」と言うご意見には、大賛成です。
そのことで実を結んでいる例は沢山あります。だからといって、どれもこれもということではないでしょう。
"教会の再生≠目的に、ヨーロッパの非キリスト教化した国々で良しとされる新求同期間の「道」の活動方法が、そのままわずか0・3%の日本の"宣教処女地≠ノおいて適応しているという保証はありません。
当然、その「道」のカリスマが日本の教会に協調を伴って溶け込んでいるかといえば、それは否です。例えば高松教区・司教座の桜町教会などの実情に目を向けてみて下さい。
だから福音宣教省は「道」に対して(日本に入って来て30年になる今も)、重ね重ね「地域教会との融和とインカルチュレーションに、より大きな努力が必要だ」と忠告し続けているのです。
それは聖座が日本における"不協和音≠常々キャッチしているからでしょう。
宣教の地で活動するなら、「道」のリーダー達が「適応する方法」(協調路線)を、その国々に溶け込めるよう打ち立てねばなりません。
このままだと教会の分裂、不和は絶えることがなく、だれかれとなく傷つき、福音宣教の足を引っ張り続けることになるでしょう。
それは日本の教会にとっても、また「道」にとっても、非常に悲しく、辛いことだと思います。私は、体験を通してこれらのことの改善を求め訴え続けて行きたいと思うのです。
長くなりますのでNICEのことは後日に回します。


03/09/24 22:00:04
「Akiさん」でいいのでしょうか。あなたの書き込まれた内容は、いま「新求道期間の道」が置かれている現状を良く認識された上での冷静な姿勢(判断)と受け止めています。
実際「道」は今、使徒座の諸部門によって調査の対象となっているのですから、それが賢明ということなのでしょう。
あなたのご意見は、キリスト者の誰が見ても、聞いても「なるほど」という論調です。
多くを述べることは差し控えますが、いずれにしてもこの「道」は、一つの"養成過程≠ノ過ぎないなのですから、このまま教義の内容や典礼の有様を改めないで進むと、宣教の地の日本には不適応だと、私はその疑念を拭い去ることは出来ません。
それは教皇が、アジアの宣教の地に向けていつも宣言しておられる「mission ad gentes」と言う一語に尽きると思います。
もちろんこの最大の目標達成のために日本のカトリックは過去の宣教のあり方(教勢の発展を阻んでいるさまざまな要因)を反省し、必死で、しかも早急に新たな方策を探し求めていかねばならないことは、言うまでもないことです。
私は、好むと好まざるとにかかわらず、その第一歩を踏み出すための準備が始まっているものと認識しています。


03/09/24 11:28:46
「他教区の信徒」様へ。「ドキュメント・司教の裁判」について。
私(森岡)から冊子をお届けして読まれた方だと思いますが、「本冊子に関するご意見、ご感想は編集責任者に直接お寄せ下さい」とお願いしております。
「カトリック内部向け」としたことにつきましては、何も秘密云々ということではなく、編集責任者としてそれなりの理由があってのことなのです。
送付しました封書の裏には、私の住所(冊子の奥付にも)と電話番号を表示しておりますので、よろしければ森岡に直接お願い致します。
本来なら、ご意見・ご感想をお持ちの方とは、直接向き合ってお話ししたい願っています。


03/09/14 20:57:43
暑い夏に汗をかきかき編集しました冊子「ドキュメント・司教の裁判」(B5判・258ページ)は、8月末までに頒布のお申し込みを頂いた皆様への発送作業が今しがた終りました。
全国各地から予想をはるかに上回るお申し込みを頂き、また身に余る励ましのお言葉などを頂き、感激しているところです。
いま私は、深堀敏司教と手紙のやり取りをしながら和解の道を探り求めています。
しかし対話のきっかけすらつかめない状況です。
判決が確定して2ヶ月が過ぎましたが、また歯車≠ェ大きく狂いつつあることをとても残念に思っているところです。
ここで詳しく申し述べることは出来ませんが、ただ、今は「神様、どうか高松教区の正常化のために、早く助けに来て下さい」と、お導きを祈る毎日です。