森岡さんから 「ネオのカテケージス」など 2004年
主のご降誕まで待ちましょう<下> 2004/12/17 (Fri) 15:24:13
以上、2回に分けて書き込みましたが、キム枢機卿のご意向に沿って、溝部司教が主のご降誕祭までに「和解」されたときは、このサイトの管理人にお願いして<上・中・下>のコメント全部を削除したいと考えています。
主のご降誕まで待ちましょう<中> 2004/12/17 (Fri) 15:12:56
キム枢機卿も側近の方も流暢(りゅうちょう)な日本語で話されますので、溝部司教は上記のことを間違いなく聞かれていることと確信しています。
ただ、キム枢機卿が、あえて「和解」という言葉を使われたことについて、私はその真意をお尋ねしたいと考えているところです。
それにしても待降節を間近に、この話をされたことにはとても意味深いものがあり、キム枢機卿にはそれなりの思惑があってのことだろうと推察しています。
そう言えば思い出しました。
昨年9月のときもキム枢機卿は高松を発たれる直前、当時の深堀敏司教に「ご聖体にあずかれていない人たちのことをよろしく」と言い残して帰られたと聞いています。
あれからもう5年も経つのでしょうか。
ご聖体にあずかれないまま苦悩の日々を過ごしておられる小豆島教会の皆さんのうえに、1日も早く
“よい知らせ”が届けられますように―。 アーメン。
主のご降誕まで待ちましょう<上> 2004/12/17 (Fri) 15:08:20
ご聖体拝領のこと、主のご降誕祭まで待ってみましょう。
と言いますのも実は、教皇特使(巡察使)として昨年9月に高松教区を訪問されたキム・スーハン(金壽煥)枢機卿の側近の方から、私のもとに次のようなメッセージが届いているからです。
「Secretですか」と問い合わせたところ「いずれあなたに伝わることなので、その必要はありません」とのことでした。
承諾を得て、その概要を紹介します。
「主の平安、今日はうれしい知らせがあります。
去る11月16日から18日まで、チェジュ(済州)島で韓国と日本の司教交流会が開かれ、日本から13人の司教様が参加されました。
その場にキム枢機卿様も出席され、高松教区から来られた溝部脩司教様に『小豆島教会のご聖体を受けておられない信徒の皆さんと早く和解して下さい。
平和のうちに解決して下さい』という意味の言葉で要望されました。
教皇特使ですから、要望というより勧告だといってもよいでしょう。
あなたのことについても『和解』という言葉で、次のように言及されました。(以下省略)」(つづく)
キリストが差し出されているのです 2004/12/15 (Wed) 10:21:55
この10月には4年に一度の「国際聖体大会」が開かれました。改めてその意味をかみしめましょう。
教皇ヨハネ・パウロ二世が制定された「聖体の特別年」の回勅を読んで見ましょう。
教皇は「聖体が持っている『変える力』は、信仰を生き、福音を伝えるための勇気をもたらすもの。基本に立ち戻りましょう」と強調されています。
そして「聖体はいのちの源。キリストがご自分の体を私たちが食べるために差し出された神秘なのです」と・・・。
キリストが私たちに『食べなさい』と、差し出されているのです。
待てども回答がない(その2)・・・- 04/07/26 12:47:48
高松教区における巨額の不正経理については、名誉毀損訴訟の審理中でも関係する範囲で明らかにされましたが、いまだに不透明な部分が山積しています。あまつさえ、今年になって新たに@繰越金の大幅な差額 A二通りの収支計算書 B不実記載(改ざん・隠ぺい)、が発覚して5カ月が経ちました。
各年度次期・前期繰越金の大幅な差額について、この掲示板での明細表示は差し控えますが、年度によっては最高2,680万円に及ぶ差額が出ています。それが複数の会計、複数の年度にまたがっているというのに、会計担当司祭、税理士、監査人がいずれも見過ごし処理していたという怠慢ぶりで、会計の常識ではとても考えられない不始末。所轄の文化庁にもこれら不正の会計書類が提出されているなど、あきれ返るばかりです。
二通りの収支計算書については、深堀前司教が裁判所に提出した各年度の収支計算書と、97年度から教区報に掲載した同計算書がそれぞれ異なるという事態が判明しました。同計算書を精査したところ、裁判所提出用として間に合わせに、差額が出ていた各年度の「その他の収支」や「事務運営費」などの数字を適当に増減して、前記の何千万円単位の繰越金の差額をゼロに合わせているのです。公文書の著しい改ざん・隠ぺいという、全くひどい話です。今年2月、これら教区事務所備え付け書類の閲覧を請求したところ、責任役員(新求道共同体所属の司祭が過半数)の全員の賛成が得られない、との理由で拒否されました。
以上の不正経理と不実記載について去る4月21日、深堀前司教(宗教法人の代表役員宛)に資料を添えてただしたところ、4月24日に次のような手紙が届きました。
「2004年4月21日付お手紙を拝受いたしました。ご指摘の点につきましては、誠意をもってお答えすべく一同努力しておりますが、教区会計の実務に最も明るい安藤是明氏がこのところ多忙を極めており、過労で体調をくずしているなどのため、思うように作業がはかどっていないのが実情です。なおしばらくお待ちくださるようお願い申し上げます。敬具」 その後5月12日、教区会計担当・谷口幸紀氏の名で「司教さんに代わりまして」と、中間報告のような手紙が届きました。疑惑をただした5項目中1項目の繰越金の差額について説明しているものの、数字に何の裏付け(資料)もなく、極めてずさんな回答。肝心の二通りの収支計算書及び不実記載については一切触れずじまいで、どちらが本物の収支計算書なのか分からず、「誠意をもってお答え…」にはほど遠いものでした。
これら一連の不正経理及び不実記載の説明責任を果たし、各年度収支計算書が狂っていた実態を教区民に開示すること。そしてこの際、正しい会計処理に向けてどのように体制を立て直していくのか、きちんとけじめをつけて信頼回復に努めるよう訴えているのです。
待てども回答がない(その1)・・・- 04/07/22 11:43:15
昨年6月25日、松山地方裁判所で名誉毀損訴訟の判決言い渡しがあってから間もない7月15日を皮切りに私(森岡)は、高松教区の深堀敏・前司教に「教区立神学院」設立・建設に伴う無公告及び違反公告(宗教法人法第24条には無公告などの違法行為は原則として無効とする旨定めている)についてただし、回答を求めました。
その後8月7日に深堀前司教から「公告等に違反があるというなら、宗教法人法等の条文の根拠を明確にされたい」との返事がありました。当方は8月18日に同法第23条、カトリック高松司教区規則第37条の5、6項に基づく違反の事実を明示し、詳しく説明を加えて送りました。
その後何の返事もないので催促のファックスを送ると、9月5日に次のような手紙(全文)が届きました。因みに回を重ねるごとに文面がていねいになって来ました。
「9月5日付けでのFAXを拝読いたしました。
先月18日付けのご質問の内容については、微妙な問題が含まれている可能性がありますので、弁護士や監督官庁と連絡を取りながら慎重に検討しております。尚しばらく時間を要する見通しですので、お待ち下さるようお願い致します。」 それから3カ月ほど経過して、何回か催促しましたが、先日の溝部脩・新司教の着座式(同時に深堀前司教の教区管理者を解任)から3日後の22日現在も、約束の回答は届いておりません。
この件について私は、溝部司教に全てきちんと引き継がれているものと受け止めているのです。
愛車に荷物を積んで高松へ・・・- 04/07/13 13:28:33
溝部脩司教は7・19の着座式を間近に控え、仙台教区から愛車に荷物を積んで高松教区に向かわれているそうです。
途中、立ち寄られるところもあるのでしょうね?高松教区入りは、任命されてちょうど2ヵ月目の14日の予定とか。
早くから着座式後のパーテーも自粛するとの方向を打ち出されていますが、とても良いことだと思います。
それだけに式の中で新司教を迎える教区民の歓びは大きく高まるものと期待しています。
深堀司教自ら解決されるべきこと・・・- 04/06/27 07:41:35
深堀敏司教がどこで余生を送られるにしても“小豆島問題”は自ら解決されるべき重大なことだと、私は受け止めています。
それと言うのも昨年9月上旬から中旬にかけて、教皇特使として来日された巡察使のキム・スーハン枢機卿は、関係する人たち大勢の声を集めて帰られる間際、深堀司教に対し「ご聖体にあずかっておられない日向(育子)さんたちのこと。
あのことはよろしく・・・」と言い残して帰られたのです。
それから間もなくの9月14日、教区の日・愛媛地区集会(北条市の聖カタリナ大学で)のあと、日向さんたちの要望で話し合うため落ち合った深堀司教は、開口一番「あなたはキム枢機卿に何を言ったのか!」と詰め寄ったのです。
その日は再び出会いの機会を持つことを約束して別かれましたが、10日後に司教側から「話し合いは無期延期に…」という手紙が届いたまま、現在に至っています。
ちょうど昨年6月25日、司教敗訴の判決が言い渡された人権侵害と同様に、“小豆島問題”も深堀司教自らの過ちによって引き起こしたこと。だから自ら解決されるべきことなのです。
あと残された日数は約2週間。今からでも十分に間に合うでしょう。イエスが言われた『良い羊飼い』(ヨハ10・14ー18)のみ言葉を思い起こされ、なんとしても小豆島教会を司牧訪問してもらいたいのです。
そこで取られるべき言動はキム枢機卿のお言葉を借りるまでもなく、深堀司教がすべてご存じのことなのです。
重ねて・・・。明日にでも小豆島教会の全信者を集められ、主任司祭の岩永千一神父(司教総代理)と2人して『聖霊による一致」に向けて解決の場が持たれるよう、神のお導きを祈り求めています。
誠に教会のカテキズムなのか・・・- 04/06/09 13:30:35
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏はカテキスタに向けたオリエンテーションの最後のセッションで、「(NCを守り続けるために)大切なのは忠実な責任者を選ぶことだ」と力説。
「(NCに対する)主任司祭の疑いに対しても、責任者が共同体をしっかり守るならその共同体は圧迫されることなしに歩けるだろう」と、ある小教区の例を引き合いに出し、NCのカテケジスに疑問を抱き、乗り気でない主任司祭を軽蔑する発言を繰り返しています。
そんな主任司祭は説教も同じことを言うばかりで、それは義務として集まるという気持ちの現れだと非難。
果てには、NCの集いに時間を惜しむ主任司祭は「NC共同体の感謝の祭儀を立てても何も分からないからだ」と責め立てています。
その一方で、キコ氏自身はいかにも寛大であるかのように自己顕示し、「それは神のみことばにあるからで、“愛はすべてを許す”神のみことばに間違いがありません」と前置きし、次のような話で締めくくっているのです。
これが本当にカトリックのカテケジスなのでしょうか?キコ氏が話していることの矛盾、さらに深まる疑問を禁じ得ません。
「ただ私たちはいい人とばかな人とを同じだと思ってきました。ある人は他人を許すということは素晴らしいことですという。他人を許す人のことを“聖人みたい”という。
その人は何でもいい、何でもきき入れる、何でも結構です………。それはばからしいことです。まことの愛徳とは関係のない蜂蜜みたい。空っぽの気持ちです。」
狂った原点・・・- 04/05/05 14:03:05
何ごとも検証するためには"原点に返る”ことが基本だと言われますが、NCが日本に進出した時点の大きな過ち・大きな狂い、それは日本カトリック司教協議会及び司教区を飛び越えて、いきなり小教区に入っていったことにあると、私は最初からその重大な問題の根の深さを指摘し続けているのです。
ボタンの掛け違いはここから始まりました。何の規範も持たずに"奇襲"したのですから、それはひどい話です。
当時の司教協議会の責任者が、NCのリーダー(旅人カテキスタチーム)にいくら忠告しても彼らは耳を貸しませんでした(私の手元に当時の責任者たちがやり取りした書簡などがあります)。こうして司教・司祭たちとの間で、さらには信徒たちの間で、消すに消せない傷口を抉り取るように広げていったのです。
果てには私たちの高松教区を、このように狂わせてしまいました。
その後、教皇庁・信徒評議会教令でNCの規約を認可(試行期間付き)してからもご覧の通りです。
自らつくった規約のひとつすら守れないNCの独特な体質は、特に日本の文化・風土に到底なじめるものではありません。
日本のそれぞれの教区でその規約が守られていない現実は、深堀司教の人権侵害裁判のさなか、にわかづくりの規約を認可した教皇庁・信徒評議会議長や同・福音宣教省長官に進言している(この掲示板に書き込み)通りです。
Akiさんへ・・・- 04/04/29 20:31:00
ご復活おめでとうございます。Akiさんの久しぶりの書き込みを読みました。どうかROMしないで、ご自分のご意見を述べて下さい。
NCの「入信のカテケジス」につきましては英語、スペイン語、イタリア語版と共に日本語に訳したものを何回も読み返し、それをまとめてこの掲示板に書き込んでいますので、国は異なってもキコ氏とカルメンさんが口述した記録の内容に違いはないと思います。
あなたが探し求めておられる“答え”についてですが、既にお送りしている「ミレニアムの虚構」、「ドキュメント司教の裁判」、それとこの掲示板に書き込んでいるNCの「入信のカテケージス」の解説をお読みいただければ、もう十分に“答え”以上のものが引き出せるものと存じます。
それでも、と言うことでしたら直接お会いして話すしかありませんね。たってお望みとあればその機会をつくってもよいと思ったりしています。
共産主義者がなぜ“しるし”なのか・・・- 04/04/25 21:16:35
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
“NCのカテケージス”と称する冊子を読むほどに、どうしてこのような低劣な口述の記録を試行期間付きといえどもカテキズムとして教皇庁信徒評議会が容認したのか強い疑問を禁じえません。
同評議会の関係者がとんでもない錯覚を起しているのではないかと不思議に思うばかりです。
あのように言ったと読み返せば、別のところではこう言う、という矛盾は枚挙にいとまがありません。
既にご紹介した中でもキコ氏はカテケージスの至るところでイデオロギーの端々を介入させていることにふれましたが、このことはかつて教皇庁・教理省が歴史的な活動において忌み嫌い、厳しく禁じていることなのです。
それなのにキコ氏は、最後の方の「第1段階までの共同体への訪問」の中でカテキスタに向け、神の前で真理を語ることの大切さを説いたあと次のように語っているのは驚きです。
「真理を語るのはまことの自由の実です。
例えば共産主義者が人々の前に立っておそれなしに不正をあばくのを見ると、私たちはそれに感心して、やはりこの人たちは国民を愛している。
貧しい人々を守るために刑務所に入れられることをおそれていません。真理を語るためにいのちをかける人はいつも人々にとってしるしになります。
この態度を取るのはのるかそるかです。それよりも顔をかくしてだまって隠れる方がずっと簡単です。」
カトリックにおいて“信仰の証し人”を紹介するなら事欠くことがないというのに、カテキズムの中で、なんで共産主義者を“しるし”として登場させる意味があるのでしょうか?
ここで共産主義者が勇敢なように称える必要性があるのでしょうか?それがまるで宣教活動のお手本のように宣伝する神経が計り知れないのです。
マルキシズムに対して、何かノスタルジーのようなものを心の奥に抱いているのではないか?・・・などと穿ったことを言う人もいますが、果たしてどうなのでしょうか?
責任ある立場の教皇庁信徒評議会は徹底的に検証すべき事柄だと思います。
活動拠点が貧民街からなぜローマに・・・- 04/04/14 15:03:55
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
“NCのカテケージス”と称する分厚い冊子を何度も繰り返し読んでいますが、その冒頭でまたも躓いてしまいました。
キコ氏とカルメンさんは、その第1番目の「紹介のカテケジス」の中で「パロメラスというマドリッド郊外の部落(貧民街)に与えられた恵みはこれでした。
生きているイエズス・キリストを貧しい人たちに紹介することの出来るカテケジスのまとめがここに生まれたのです」と、微に入り細にわたり説明しています。
そして「この(NC)の道は、貧しい人たちによって与えられた神の贈りものであり、恵みです」と述べ、「誰にも何も頼まないで、貧乏人の中で生活する」と、貧しさの中で福音宣教する決意を熱っぽく表明しています。
ところが、この街で暮らしたのはわずかに3年程度だというのです。
その後キコ氏とカルメンさんは2人そろってパロメラスの貧民街を離れ、NCの活動拠点を、全てに恵まれて豊かなローマの中心部に移してしまったのです。
その理由について2人は、後に続くカテケージスの中でも明らかにしてはいないようです。なぜなのか? 疑問を抱き、大きな躓きとなったのはこのことでした。
「愚かな人、馬鹿な人、狂った人、低能者、変人、酔っぱらい、アウトローなどの集まりを共同体であると考え…喜びに溢れて…」(キコ氏とカルメンさんの話)という生活。
そこから数年で逃げ出したというNCの創立者が受けたカリスマとは、一体、どういうものなのでしょうか?「そのカリスマによって生きる」とは、どういうことなのでしょうか?
そういえば日本におけるNCの活動のカテゴリーに“貧しさの中に生きる”姿はなく、「貧しい人たちに紹介するカテケジス」の実践はどこにも見当たりません。
“貧しい人たちによって与えられた神の贈りもの”どころか、ささやかに生きるお年寄りの年金や死者の香典をせがんだり、教区民から集めた2千万、3千万円単位に及ぶ献金の使い道が分からなくなるほどルーズだったりetc・・・なんとも皮肉な現象が浮き彫りになっているのです。
教皇庁の信徒評議会議長や福音宣教省長官は、特にこれらの現実をしっかり認識しておくべきだと思います。
教皇庁福音宣教省長官・セペ枢機卿に進言・・・- 04/04/01 19:05:31
2年前の9月、教皇ヨハネ・パウロ二世が新求道期間の道の規約認可に当たり演説した中の「(新求道期間の)道のカテキスタあるいは司祭であるあなたがたは、この規約があらゆる意味で忠実に適用される義務を負うのであります。」という“忠告”をきちんと受け止め、聖週間を前に祈りを通して進言致します。
すでに教皇庁信徒評議会議長であるジェームス・フランシス・スタッフォード枢機卿にも進言したことですが、フランシスコ(キコ)アルグェリョ氏とカルメン・フェルナンデスさんを先導者とする新求道共同体の指導者たちは、日本国内において「新求道期間の道」の実施を認めていない教区司教のもと(同司教区内)では、即刻、彼らの活動を停止しなければなりません。
主任司祭が認めない小教区においても、また同様です。
その理由及び根拠は2002年6月29日、教皇庁信徒評議会教令による「新求道期間の道の規約に関する試行期間つき認可」の同規約
第1条(…教区において実施されるキリスト教入信と信仰の継続養成の一つの様式として司教に提供されるもの)、
第2条(教区において、教区司教の指導のもとで実施されるもの)、
第3条(霊的善を教区司教の管理下に置く)、
第6・第9条(司教のつとめに奉仕する手段・原則として小教区において、主任司祭の招きをもって小教区内で始まる)
………などに違反する行動が数々あるからです。
この規約を認可した教皇庁信徒評議会及び福音宣教省は、規約に従って新求道共同体の指導者を監督、指導すべき責任と義務があり、試行期間つきといえども規約を認可したまま、彼らの無秩序、無軌道な行為を等閑視していることは無責任であり、職務に不忠実であると言われても致し方ありません。
特に日本における新求道共同体の独善的な行為は司教の権威と信頼を失墜させ、インカルチュレーションをむしばみ、ひいては普遍の教会を破壊することとして、聖職者の間から彼らの行動を厳しく規制すべきであるとの声が強まっているのです。
復活徹夜祭には例年、彼らの独善的で無秩序な行動が際だちますので、この際、前記の各条項および同規約第2節第12条ほかにも違反すること(例えば共同体が許可なく小教区を自由に離れて、別の場所で復活徹夜祭を繰り返し行う)など実際の行動と規約内容との矛盾をただし、前に掲げた教皇の戒めの言葉に従って注意を喚起すべきときだと思います。
最後に、高松教区の教区立神学院(レデンプトーリス・マーテル)の違法な設立(建設)に始まる教区運営の相次ぐ不正な諸問題につきましては、昨年9月の特使による巡察建言と合わせ、提出した「ミレニアムの虚構」及びドキュメント「司教の裁判」などの資料をもとに細部にわたり検証して下さい。
そして深堀司教には未だに信頼回復の努力が見られず、信徒との間では対話のきっかけすらつかめないという現実を直視され、高松教区の正常化のために正しい判断が下されるよう祈りのうちに進言致します。(以上)
反省と責任を・・・- 04/03/22 14:41:11
「過去をふり返ることは 将来に対する責任を担うことです」(教皇ヨハネ・パウロU世)・・・
高松教区は今年、教区発足100周年を迎えましたが、教皇の前の言葉を踏まえて、神学院の違法な設立(建設)や相次ぐ不正な会計をきちんとただし、今こそ日本における宣教活動の原点に立ち返るべきです。
教区あげて、一連の反省と責任を負う決意がなされない限り、次の100年に向けた発展は望めず、むなしいものとなるでしょう。お祝いの行事だけに終わらせてはなりません。
「一粒会」の規約ごり押し・・・ - 04/03/11 14:32:27
いまこのコメントで一口では言えない“曰く因縁”がある「一粒会」のことですが、深堀司教はこのほど開いた教区信徒協役員会に姿を見せ、過去3年がかり(「司教の裁判」をお持ちの方は関連年表をご覧下さい)で継続審議を繰り返していた同規約(案)を持ち出し、遂にごり押しで成立させてしまいました。
よく考えてみて下さい。この「一粒会」は、あくまで教区信者の自主性を尊重した組織です。
それを司教が権威でもって「私が自由に出来る」と勝手に決め付け、結局、神学院の土地購入代に使った、と自らの日誌やウソの議事録に記録した3千万円のほか多額の使途不明金が闇の中に葬られています。
このことについて深堀司教は最後まで説明責任を果たさず、信徒の声を聞く耳を持ちませんでした。
教区民を代表して選ばれた信徒協役員にも悔いが残るところで、その意味でも無責任な態度は否めません。将来に禍根を残すこととして、遺憾千万なことなのです。
04/03/10 14:55:11
前記のことや、深堀敏・現司教の信徒に対する人権侵害裁判などが、次期高松教区司教の選任にどう影響するのか、私は注目しているのです。
次第に減少するNCの信徒・・・- 04/03/10 14:45:45
そのローマのことですが、この宣教の地の日本へNCが“土足”で入り込んで来てもう30年が過ぎましたが、NCに加わる信者が増えていません。
否,むしろ90年代初期を境に、次第に減少しています。日本では特に若者が少なく、お年寄りばかり。そのことを重大なことだと受け止めているようです。
記録したことに責任を担う・・・- 04/02/25 13:56:00
今日(25日)、「灰の水曜日」のごミサにあずかりました。真理を求めていくと、心に響くものがありますね。み言葉がよかったし、神父さんのお説教もジーンと心に響くものがありました。
ところで、私(森岡)が実名で書き込みしているのは、記録したことに対し責任を担うためなのです。お互いに自分を表に出し、向き合って話が出来るようになるといいですね。
深堀司教の沈黙が続いています・・・- 04/02/23 18:49:00
深堀敏司教が信徒の人権を侵害した裁判で、私(森岡)は、神学院設立(建設)の経緯や資金の使途について「本当のことを包み隠さず説明してほしい」と、長期にわたり粘り強く訴えました。
事実は深堀司教の心の中に閉ざされたままで、今もって語ることが出来ない、語れない日々が続いているのです。
事実を語り、過ちを自認すれば、教区立の神学院は廃止しなければならない憂き目を見るだろうし、教区民に、社会にもっと大きな恥を晒すことになるからだと、私は想像しているのです。
従って神学院が存続する限り、沈黙以外になすべき方法がない、というのが偽らざる心境ではないでしょうか?
この25日は『灰の水曜日』、そして四旬節・・・・本当のことが言えない深堀司教も、また教区民にとっても針の筵に座る思いで、実に悲しく、辛いことなのです。
04/02/21 21:17:02
皆様の貴重なご意見にじっと耳を傾けております。ありがたく、感謝しております。
私も、人間としての弱さや限界を直視しながら、誠実な心が保ち続けられるよう、いつも祈っております。
皆様のご意見を教訓として、あしたに生かしていきたいと願っておりますが、高松教区の運営に関することと、日本におけるNCの諸問題につきましては、いかなる困難に立ち向かおうとも徹底した姿勢で臨む決意に何ら変わりはありません。
04/02/20 08:28:39
別人さんへ。あなたの提案もいいと思います。ですから、あなたがカトリック新聞に、そのような総討論の企画を立てるように提案されてみてはいかがでしょうか。
私は呼びかけがあるようでしたら、喜んでその討論の場に参加したいと思っています。お願いですが、あなたご自身がNCのことについてもっと認識していただきたいと思っています。
04/02/18 13:50:32
このH.Pをご覧の皆さん。よくよく考えてみていただきたいのです。
私(森岡)の前の書き込みのようなキコ氏の話が、どうして『教会のカテキズム』(カテケージス)と言えるのでしょうか?
こういう話が罷り通っているから、深堀司教自らが、教会法や宗教法人法とそれに関係する諸規則、新求道期間の道の規則などを次々に無視し、全てにおいてルーズになっていくのです。
高松教区民は、その一番の犠牲者です。
得体が知れないN.C - 04/02/18 12:59:37
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。キコ氏はNC第1段階のオリエンテーションで,カテキスタに向けて次のように話しています。
「(小教区の)責任者があなた達カテキスタのいうことに対して忠実であり、道を守るならば、仮に主任司祭が疑いをもっていたとしても共同体は歩けるだろう。
その主任司祭の疑いに対しても、責任者が共同体をしっかり守るなら共同体は圧迫されることなしに歩けるだろう。・・・どうなるかをいま教えます」・・・。
この主任司祭の疑いとは「招きを持って活動を始めたが、その途中で主任司祭が疑いをもち始めた」「NCに反対の意向である」ということなのでしょうか?
それにしても、小教区においてカテキスタや責任者を優位に立たせて、疑いをもつ主任司祭を蔑視するような口述内容です。
もともと私が体験したNCの体質として、この活動に疑問を表したりすると、ニコニコ顔から急に居丈高になったり、相手を見くびるような態度に出るところがあるのです。
前記のような主任司祭に対する体たらくは、実は、自らつくったNCの規約の
@新求同期間の道は…原則として小教区で実施される(第6条の1)
A指導的な立場を占めるのは主任司祭である(同条2)
B主任司祭の招きをもって小教区ではじまる(第9条)―などに背くことなのです。
だがしかし、一度小教区に入り込むと、主任司祭が疑いをもって反対しようが鉄面皮で押し通し、独善的で不気味な動きを始めるようになるのです。
例えば毎週10数人がひそかに各家庭でみことばの祭儀”をしたり、NCの司祭がいる遠方の教会へ出向いたり(愛媛・松山や山口・岩国)など・・・。
このようにして不和・分裂の傷口をますます広げ、修復出来ない状態に陥っていくのです。
正気の沙汰でない経済問題評議会 - 04/02/14 20:51:36
深堀敏司教が信徒の人権を侵害した裁判で、私(森岡)は「何よりも教区民の信頼回復に努めるべきだ」と、口が酸っぱくなるほど訴えましたが、深堀司教はその後も馬耳東風の体(てい)です。
教区の運営はNC(新求道共同体)一辺倒のやり方で進め、原理主義的で独裁の危機を一層深めているのです。
最近の顕著な例は「経済問題評議会」や「一粒会」(審議中)の中身です。前者は発足させたばかりですが、
@新教会法典A日本における教会法施行規則B旧財務委員会―など関係する諸法規則との整合に欠けていて、ずさん極まりない内容です。
会計担当の谷口幸紀氏は「従来の『財務委員会』の名称を『経済問題評議会』と改めただけ」と言い訳していますが、規則は、あくまで『少なくとも3人のキリスト信者によって構成』に基づくもので、旧財務委員会の位置付けはどこにも見当たらず、何の役割も文章化していません。
それよりも問題は、財産管理行為の上限が『日本円で2億円を上回る価値に関連する行為』とか、財産の譲渡で『5億円を超えるとき』といった調子で、使徒座の承認を受けた日本司教協議会施行規則(26.27)の4倍を超えるケタ違いの金額を定めるなど、正気の沙汰とは思えない無謀な内容なのです。
つまり、教区の財産5億円までなら司教の独断で売り払うことが出来るというのですから、これは教区民にとって、とても危険なことで、かつ、恐ろしいことだと思うのです。
みんなでよく考えてみたいものです。
04/02/08 20:28:44
深堀敏司教が信徒の人権を侵害した裁判の中で、私(森岡)は「高松教区には教会法で定める経済問題評議会がないのでつくるべきだ」と主張したところ、「財務委員会がその役割を果たしているので必要ない」と反論して憚らなかった同教区・深堀司教ですが、ついに昨年10月、同評議会の規約をつくり発足させました。
ところが、その規約の内容と評議員の人選に重大な欠陥があることが分かりながら、司教は改めないまま“暴走”しているのです。
まず人選のことから指摘しますと、教会法492条の(1)には「…経済問題及び国家法に精通し、かつ、人格高潔な、少なくとも3名のキリスト信者によって構成される」とありますから、てっきり各県1名づつ5〜6名位を任命するだろうと思っていました。
それが任命したのは最低の3名だけ。
香川(信徒数1593人・29.9%)からは桜町教会の2名、徳島(727人・13.6%)から1名と偏っていて、愛媛(2174人・40.7%)と高知(843人・15.8%)は除外してしまいました。
つまり教区の過半数を占める56.5%(26教会の内14教会)の信徒を無視したことになるのです。
しかも桜町教会から任命した1名は司教と雇用関係にある教区事務局の職員です。
教会法同条(3)には「司教の第4親等までの血族及び姻族は、経済問題評議会の構成員となることができない」と定めているほどで、この立法倫理から考えてみても、当然避けるべきことなのです。
このように不公平で偏った傀儡の委員構成で、大切な財産取得・管理・譲渡・運用などのまともな評議が出来るでしょうか?
不法行為を重ねて神学院を設立して以来、全てに狂ってしまった高松教区の“暴走”は、とどまるところを知らず、さらに激しくなるばかりです。
04/02/03 12:23:13
高松教区の運営全般については推して知るべしですが、私は、真の司牧活動についても「疑義有り」です。
例えば深堀司教は昨年1年間、26教会をいつ、どのように司牧訪問して、教区民とどのように対話されたのでしょうか?聞いてみたいと思っています。
望むべくんば、教区報などで「〇〇教会を司牧訪問して」というシリーズでも企画してみるのも一案でしょう。
因みに、今回の教区維持費の負担額改正(松山教会の場合、信徒数が教区内で最高の1019人で年間805,000円アップ)についても、2週間ほど前に信徒会長を通じて「小教区の司牧訪問を兼ねて説明に来て下さい」と要望したのですが、何の返事も聞いておりません。
04/01/23 18:20:33
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は第6番目のカテケージス「私は誰ですか」の中で、時間の観念について「時間というものは無意味なもので私たちを滅ぼすもの、つまり、普通の表現を使えば時間をつぶしています」
「・・・娯楽、遊び、楽しみは時間から逃げるためのものであります。死に導く時間、呪われている時間から逃げる方法です」などと話しています。
このような偏った“生活思想”について、日本カトリック司教協議会・常任司教委員会(当時の委員長は故島本要大司教・長崎教区)は、1993年9月に出した「新求道共同体に関する文書」の中で「原理主義的な聖書解釈の上に立つ「信仰」は、聖書や教会の掟に対する厳格な遵守を求め、性やレジャー等の楽しみに対する過度な警戒心・罪意識を培い、一般社会の営みに対しては閉鎖的な姿勢を育てている」と、それらの問題点を指摘しています。
NCの活動に参加すると、すべてNC中心の生活様式の中で依存性を強め、自主性や個々の“心の豊かさ”をも否定。ある面にとても厳格で、その実体は内向性で閉鎖的。この道以外にわき見をさせないように追い詰めていくようなやり方、その反動の現れなのでしょうか?
キコ氏をして「・・・(NCの内部では)姦通、けんか、男女の間にはそのようなことはざらです」などと言わしめることになるのです。
04/01/16 18:39:47
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は、現代のカトリックが「非神聖化・非キリスト化・信仰の危機」を招いた超悪玉として心理学や精神分析学をあげつらい、「心理学を勉強する生臭神父」とか「心理学に影響されて信仰の疑いが入った」などと心理学を“不倶戴天の敵”のように批判しています。
ところが、昨年12月25日付発行の「高松教区立国際宣教神学院だより」(VOL.16)を見ると、同神学院の副院長に就任したA神父は「新しい副院長の手紙」の中で次のようなことを書いています。
「・・・私は(かつて)学生の政治活動に参加して、過激な左翼運動を行い、カトリック革新派と共に教会からも離れました。
そしてまた哲学の大学に入り、(中略)ユング学説の心理学者を通して教会へ戻り、それで新求道共同体に入りました」・・・。
このようにキコ氏の話とまるきり食い違うのは「何でだろう〜」。
04/01/09 18:21:50
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
前回に続き、キコ氏とカルメンさんは最後の「第一段階までの共同体への訪問」のオリエンテーションの中で、「妾の愛に逃げたり」「姦通の状態に住んでいる」(キコ氏の話)などNCの共同体の中で罪を犯し、共同体のみんなの前で体験を告白した人に対して「だれもあなたを裁きません」と言いながら、そのー方で「兄弟や姉妹と話し合って」とか「遅かれ早かれ知られる」「みんなあなたのことを知っている」「…だからご聖体を預くために手を出さないように」などと共同体の中でしっかり裁いています。
「人間の良心の尊厳」(現代世界憲章・16)などについては一切説明がなく、その意味でもカテケージスの内容が上滑りで、軽薄な印象は免れず、このカテケージスのレベルの程度を物語るものだと、私はそれなりに評価しているところです。
いやしくも“カテケージス”と名がつく『教会の教え』の中で、NCの活動に参加しているうちに、家庭を破壊するような男女の関係、性に関する問題提起があまりに多いのはなぜでしょうか?
数日の泊まり込みを含めてNC共同体の独特な雰囲気をもった交わりと集い(体験した者でも言葉で言い表せないような、つまり、かつてのオウム真理教の活動の実態などから推考して、それがカルト性を帯びたものだといわれるものなのかも知れません)が非常に多く、それを内密にして外部に漏れにくい状態であることなどにも原因があるのでしょうか?…。
さらにNCの活動を内面から掘り下げて専門的な視点からの解明が待たれるところです。
こうした体質を抱え問題点が多いカテケージスを基にした「新求道期間の道の規約」をどうしてバチカン(教皇庁信徒評議会)が認可したのか、とても不思議に思うことなのです。
それも、高松教区・深堀司教の人権侵害裁判の途中(2002年6月)であったこと。
被告であった深堀司教は裁判の中で前後の見境いもなく(裁判長は信仰の問題にはタッチしないと明言しているのに)、その認可を一つの有利な証拠として取り上げ正当性を主張したこと…などなど、どう考えあぐねても“謎”は深まるばかりです。
今日本ではやり言葉の「なんでだろう?なんでだろう〜それはなんでだろう」ということになるのです。
04/01/09 12:51:21
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏とカルメンさんは最後の「第一段階までの共同体への訪問」のオリエンテーションの中で、罪と告解、ご聖体拝領のことなどについて次のように話しています。
「ご聖体は主の体です。その御体を頂く人は自分の呪いを取ることになります。
勿論私たちは懐中電灯を持って一人々々あなたには妾がいるか、あなたは姦通を犯しますか、あなたは産児制限のピルを飲んでいますか、と調べることは出来ません。(中略)。
しかし、共同体で一年経ってから、ある兄弟が具体的な罪の状態にいると分かったら、こんなことは遅かれ早かれ知られますので、あなた達カテキスタはその兄弟か姉妹と話し合って、兄弟よ、あなたはご聖体を頂くことが出来ませんと、はっきり言わなければならない。
『あなたは感謝の祭儀に与ってもいいですが、今の状態ではご聖体を頂くために手を出さないでください』『ご聖体を頂いてはいけません』 これを分かって頂きたい。
みんなあなたのしていることを知っています。
だれもあなたを裁きません。けれど私たちは共同体の中にいます。(中略)
共同体の中である人が他人の奥さんを愛欲をもって望んだりして…。
(共同体の責任者で子供が2人いる)彼が、若いかわいいお嬢さんを見つけました。
彼の生活は大へんになった。彼はみんなの前に立って、自分のその体験を語りました」(後略)・・・。
NCの活動の中でこのように頻繁に起こる男女関係の問題に対する警告なのでしょうか?
キコ氏とカルメンさんの口述を和訳した点を考慮するとして、それにしても、告解やご聖体の話を交える中で「姦通やけんかが絶えない」とか「恋に落ちた」「セックスの誘惑」などと言ってはばかることなく、なんでこれがカトリックの“カテケージス”なのでしょうか?
キコ氏とカルメンさんの話の内容の余りの愚かしさ、下品さに驚くばかりなのです。