☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

信仰のススメ   佐藤岩雄牧師

〜〜浸考(しんこう)から進行(しんこう)して親交(しんこう)へ〜〜

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

 

「信仰するってどういうことですか。」

 あるところで、こう聞かれて、しばらく答えに困りました。

牧師を悩ませるのは、しばしば、このようなとても基本的な質問です。

今回は、私たちに最も身近な、この信仰という言葉について考えてみましょう。

(日本人の信仰)

 確かに聖書は、信仰を持っていると持っていないとでは、

その人の人生が違ったものになると語っています。

では、あらためて、信仰とは?と聞かれると、

それこそ様々な答えがでてきます。

試しに広辞苑を引いてみましたら「(信仰とは)宗教活動の意識的側面をいい、

神聖なものに対する畏怖からよりは、親和の情から生じると考えられ、

儀礼とあいまって宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する」

と書いてあります。

余計に????となってしまう感じがします。

分かったようで分からないのです。

 つまり、日本語で信仰と言うと、個人の意識の問題でもあるし、

共同体の共通意識でもあるし、教義そのものでもあるというのです。

また、「親和の情から生じる」とあるように、

日本人の神さまというのは、唯一絶対の神ではなく、

石や岩などに宿ると考えられる神々(精霊)のことです。

その自然物を尊ぶ気持ちが信仰心と言われるのです。

 ですから、もっと進めば禅宗のように、神がいてもいなくても、

自分の心の持ち方そのものが信仰なのだということにさえなり得ます。

(聖書の信仰)

 では、聖書の信仰とはどのような信仰でしょうか。

新約聖書で「信仰」とはピスティスという言葉です。

これは信頼、真実という意味があります。

「あなたを信頼していますよ。」という言い方が分かり易いかもしれません。

つまり相手が必要なのです。

信仰する自分がどうかではなく、信仰対象が決定的に大切なのです。

私たちの信心というのは、時としてぐらついたり、揺らいだりするものです。

しかし、この聖書の教えに基づけば、

そのように私たちが弱さを覚えるときは、むしろ神さまに信頼して

信仰を確かにする大きなチャンスとなるのです。

 また、もう一つ大切なこととして、

聖書には「あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)

と書いてあります。

つまり、神は、私たちが神への信頼(信仰)をもつ前から、

私たちへの信頼(信仰)をもっていてくださいます。

私たちの信仰の根拠は、自分の内ではなく、神さまの側にあるのです。

神さまが私たちを信頼していて下さることが、聖書の信仰の土台なのです。

なんと心強いことでしょうか。

(私たちの信仰)

 では、今の私たちの信仰は、どうでしょうか。

つい「私は信仰が弱いです。」、「信仰が浅いもので…」というように

言ってしまうことがあります。

そこで問題にされているのは、やはり自分の心の状態です。

しかし、パウロが「私は弱い時にこそ、強い」(Iコリント12:10)と

言ったように、そんな弱い私を支え励まして下さる神の愛を知る時に、

私たちの信念が弱いかどうかは問題にならないのです。

ただ神の愛のゆえに、神が私たちを信頼(信仰)していてくださるがゆえに、

私たちは立ち上がることができるのです。

自分の心の弱さ、狭さ、小ささに留まってしまうのではなく、

神の愛の強さ、広さ、深さに目を開かれるのが信仰者の歩みです。

もう一度、原点に立ち戻って考えようではありませんか。

表題に書きましたが、いつまでも浸考(自分の考えだけに

囚われて溺れてしまうこと)していてはいけません。

神と隣人との親交(したしいまじわり)を大切にしましょう。

私たちは、「自己完結の信仰者」としてではなく、

世界に平和を造り出すために「出かけて行って実を結ぶ信仰者」として

招かれているのです。

 

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

 神に近づく者は、神が存在しておられること、

 また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、

 信じていなければならないからです。」ヘブル11:6

 

 

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

決心の時  T・Mさん

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

 

 さがみ野教会を知ったのは、長年姉のように慕ってきた姉妹が

通っている教会であることからでした。

 2001年10月ごろ、初めて、さがみ野教会の礼拝に出席し、

教会の雰囲気が暖かく、明るく、自由であることに感激しました。

それからは、毎週日曜日が楽しみになり、

バスや電車を乗り継いでの遠い道のりも苦になりませんでした。

約一年間、礼拝に集わせていただき、バザーや聖歌隊にも参加していくうちに

“私のように、心に深い傷を負った者でも、安心して、

自然体でいられるんだな〜”と思うようになってきました。

 でもでも、これからずっと通う教会をどこにするのか?ということは、

すごく重大なことで・・・なかなか決心ができないまま、

日曜日が何回も過ぎていきました。

 心が揺れたままのある礼拝の途中、

宗法の中に「受洗希望者は申し出てください」の文字を見つけると、

そのことで頭がいっぱいになりました。

「私のことですね、神さま」と言葉が心に浮かび、決心がつきました。

 ついに、2002年12月22日、さがみ野教会の一員に

していただくことができました。最高です!!

 

 

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

よぶ祈り会を感謝して  S・Cさん

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

 

さがみ野教会で最初に生まれた集会が、木曜日に持たれた婦人会でした。

婦人会の集会はとても活発で、聖研の他に年に二回の特伝、お料理や

クラフト講習会、バザーのための手仕事の会など、

子連れで楽しく集まり、受洗者が何人も生まれました。(私もその一人です。)

 教会が栗原からさがみ野に移転して間もなく、婦人も仕事を持つ人が増え、

集まる人が減り、都合のつく曜日・時間に集まれる人で祈り会を作ろうと、

幾つかの祈り会が生まれました。

 私達は、木曜日の午前中に集まり、祈り会をはじめました。

どんな会にしたいか、話し合ったところ、

ヨブ記を学びたいとの声があがり、ヨブ記の学びをし、祈りあって会を閉じました。

潮田先生から会の名前を付けるようとの要請で、

簡単に「よぶ祈り会」と命名しました。

「教会に人を『呼んでくる』事が出来たらいいんじゃない!」なんて、

皆で話したものです。

 学びも沢山させて頂きました。

昨年は、旧約聖書に登場する女性を通して、信仰についての学びをしました。

 集まるメンバーは、食べる事と、おしゃべりが大好き。

会を閉じてからが盛り上がり、ついつい長居をしてしまいます。

 相模が丘家庭集会との合同クリスマス会は、私達の一大イベントで、

大いに食べ、かつ大いにおしゃべりをし、先生のメッセージとご馳走、

そして交わりから…一年分の霊と肉の糧を頂きます。

 泉教会、田園教会を訪問し,潮田先生、居垣先生からメッセージを頂き、

婦人会の方々とお交わりをさせて頂くこともできました。

田園教会をお尋ねした時には、「シャロームつきみの」も見学させて頂きました。

 いくつか生まれた他の祈り会は諸事情で休会の形をとりましたが、

よぶ祈り会は、休む事無く、今日まで続きました。

2003年度からは、水曜日祈祷会の午前の部として生まれ変わります。

 ヨブ記の学びで始めた会が、最後にヨブの妻についての学びで閉じたのを

不思議な神のお導きとして受け止めました。

 神の正しさよりも、自分の正しさに生きようとしたヨブが、

苦難を乗りこえ神の義にいたった陰に、ヨブの妻の助けがあった事を学びました。

ヨブ記の新たな発見をしたような気がしました。

 新しい体制での祈り会を楽しみに期待しています。

 

 

潤苑表紙へ

さがみ野教会表紙へ