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潤苑 2003年春の号*
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田中正造という人 佐藤岩雄牧師
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3月17〜18日に牧師会研修会で田中正造の足跡をたどる旅をしました。 田中正造は、洗礼を受けてクリスチャンとなることはありませんでしたが、 イエスの生涯に共感を覚え、終生聖書の言葉に強く惹かれつづけた人物であったそうです。 正造は、1841年に栃木県佐野市の名家に生まれ、17歳の時に名主になりました。 この後、気骨ある政治家として投獄されたこともありますが、 1879年に日本で最初に行われた第一回総選挙において、 晴れて栃木県から衆院議員として当選しました。 ここまでは、政治家として、順調に出世街道を進んでいたようです。 しかし、1877年に操業した足尾銅山精錬所との関わりが 彼の人生を大きく変えました。 激しい政府批判もあり、数度の投獄を経験します。 多くの民権運動の同志は、「田中は鉱毒問題に深入りし過ぎたため、 政治家として大成できなかった。」と嘆いたそうです。 しかし、彼の民衆から物事を考える精神は、 彼が国会に留まることを許しませんでした。 投獄中に内村鑑三が差し入れたと言われる聖書を毎日読みつづけたそうです。 そこで「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで 捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)という言葉に 感銘を受けたと言われています。 正造は、生涯をかけて問題を抱えた現場において、 民衆と共に歩み続けました。 最終的に政府が谷中村を(鉱毒を含んだ水の下に)水没させて 問題を葬ろうとした時に、 その村に残った十六戸の人々と運命を共にすることを決意して、 住所を移してまで村に居残りました。 しかし、その運動の実りを見ぬ1913年にこの世を去りました。 その数少ない遺品に愛読した聖書があり、 資料館のガラスケースの中に展示されていました。 神学者である小川圭治氏は、今の日本の教会が田中正造の生涯から学び 「真に共同体に仕える者としての在り方を追求することが求められている」と 述べています。 旅の最後に、正造の生家を訪れました。 立派な民家は記念館となっています。 村の庄屋であったその家で、平穏な生涯を過ごす道もあったことでしょう。 しかし、一切を捨てて、「余は下野の百姓なり」と献身の道に生きた人生に、 姿勢を正される思いがしました。 風薫る五月となりました。 今、私たちのおかれた場において、 何が出来るのか共に考え、祈り、行う共同体として聖霊の風を受けるために、 信仰の帆を高くあげましょう。 |
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ニュージーランドだより N・Yさん
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こちらに来て4ヶ月になりました。早いものです。 英語の方は、日常会話が出来る程度を100とするとやっと5程度です。 思うように話せるようになるには、どれだけかかるのでしょうか・・・。 教会は、こちらに来てから1ヶ月くらい経ち少し落ち着いた頃、探し始めました。 最初に行ったのが今通っている Mt Albert Baptist Churchです。http://www.mabc.org.nz/ (インターネットを見られる方は覗いてみてください。礼拝の様子など写真もあります) 最初というのは入りづらいものですが、 ここの教会は一階に礼拝があり外から覗けるようになっており、 外から様子を見ていました。 しばらくするとドラム・ギター・シンセサイザー・ベースの音に合わせて 楽しく歌っているのが見えたので、大丈夫そうだと思い中に入りました。 説教などはとても難しくて何一つ分からなかったのですが 「私の帰ってくる場所はここだ!」という気持ちでいっぱいでした。 どこにいても神様を礼拝する人達がいることがとても素晴らしく感じられました。 礼拝後、英会話クラスがないか尋ねたところ、 ちょうどその週から始まるとのことで参加することにしました。 牧師夫妻は、神戸のインターナショナル教会で 5年間牧会していたこともある親日家で、 英会話クラスで少し話しただけの私を食事にも招いてくれました。 どこにいても教会の人達によくして貰えて嬉しい限りです。 いつも私のために祈ってくださりありがとうございます。 これからも私の健康が守られるようにお祈り頂けると嬉しいです。 私もさがみ野の皆様の為に、ここニュージーランドからお祈りしています。 |
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私が信仰を持った経緯 N・Tさん
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私はある企業のプログラムに参加してアメリカ合衆国に行きました。 その内容は、半年の訓練期間と半年の研修期間、計1年間を その企業がバックアップしてくれるというものでした。 一見親切そうに感じるプログラムですが、 高額な参加費用のわりに実りの少ないもので、 とても人に薦められるものではありませんでした。 私は研修する企業を探すため、50件以上の製造系企業に コンタクトを取りましたが、ほとんど相手にしてもらえず、 プログラムの係の人にも「あなたが望む企業への研修は前例がない」と さじを投げられ、帰国をほぼ強要されてしまいました。 「そんな無責任な!」と思いつつも どうしたらいいか解らなくなってしまった私が、 ホストマザーに話をしたのが教会に行くきっかけとなりました。 以前から、彼女はよく日曜日に教会に誘ってくれていましたが、 ずっと断っていました。 それなのに、教会に行って都合よく「仕事を捜している」と言う私に、 教会の人たちは誰も迷惑そうな顔ひとつせずに、 見ず知らずの私のために親身に相談に乗ってくれ、祈ってくれました。 その優しさに接して、なぜか涙が出て止まりませんでした。 それからは毎週日曜日、教会に行ってその人たちと会うことが楽しみになりました。その教会のおかげで、研修先を見つけることができました。 ペルー出身の日本語ペラペラのO夫妻とも、そこで知り会えました。 自動車の修理で高い評価を得ているK社長を紹介してくれたSさんとも そこで知りあいました。 最初に聖書について教えてくれたのは、Oさん夫妻でした。 日本語で教えてくれるので大変よく解りました。 Sさんが友達に頼んで聖書を取り寄せてくれました。 K社長が毎朝1時間、聖書勉強をしてくれました。 私の生活は一変しました。 その時は、まるで神様に逃げ道を塞がれ、じりじりと追い詰められて、 「ホールドアップ」と言われているような気分でしたが、 今になって思うと、ありがたいという気持ちでいっぱいです。 約1年ぶりに日本に帰ってきて、しばらくはボーッとしていました。 Oさんの奥さんに「日本に帰っても教会に行かなきゃ駄目よ!」と 言われてはいたのですが、 紹介された埼玉県の教会は遠くて、仕事も始まって忙しくなったこともあり、 行ったり行かなかったりしていました。 そんなとき、さがみ野教会を知りました。 はじめてさがみ野教会を訪れたのは、去年の12月に入ってからだったと思います。日本人のクリスチャンの人を、一度にこんなに多く見るのは 初めてだったので戸惑いもあったのですが、 家庭的な雰囲気と皆さんの優しさに接して、 アメリカではじめて教会に行ったときのことを思い出していました。 日本であんな静粛なクリスマスを過ごしたのは初めてでした。 正月、久しぶりについたお餅は本当においしかったです。 そうこうしてお邪魔させてもらっているうちに、 いつからか‘洗礼’という言葉が頭をよぎるようになっていました。 「はたして洗礼を受ける資格があるのか、それを守れるのか」 というような自問を、毎日のようにしていました。 そんなとき、あの説教が始まりました。 いつもは同じようなくだりでもそんな感情を抱くまでには至りませんでした。 それがあの時、使徒言行録22章16節にある 『今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。 その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』というくだりに、 あの方の声を聞いた思いでいっぱいでした。 私はそのとき思いました。 「命も、名もいらない。どうか私を用いてください」と。 説教の後、一心に祈りの中にあるとき、誰かが私の前に立ちました。 私の前は通路で人がいるはずもないのに…。 目を開けると誰もいませんでした。私はあの方が来てくれたのだと 思うようにしました。 私はこれからの一生を、イエス様と共に、皆さんと共に 歩んでいきたいと思います。 そして、一日も早く、戦争や飢えのない新しい世界のかたちを築くために 用いてもらえることを心から期待しています。 |