私は、何かにくるまれていた。それはふわふわとやわらかく、軽く、あたたかい。真っ白で、確かに私の体全体がそれに包まれているはずなのに、不思議なことに、自分が青くあたたかな、水の中にいるのがわかる。
 しあわせだ。とても居心地がいい。ふと、誰かの手が頬に触れた。私はここで、自分が目をつぶっていたことを急に思い出す。そうだ、これは夢だ。近頃、毎朝のように見る、しあわせな夢。
 そうして目をつぶったまま考えをめぐらせている内に、頬を触れていた手は肩へとおりてきた。二、三度、ゆっくりと私の肩をゆらす。そして声がする。栗色の髪の、天使の声が。

 「リュミエール様、朝ですよ」

 

私たちは毎日、朝は同じ時刻に起き、朝食の準備も片付けも二人で一緒にしている。それぞれが自分の仕事を始めるのは、必ずそれが終わってから。それだけなら何も珍しくはないことかもしれないけれど、一つだけ書き加えておくことがある。それは、必ずアンジェリークの方が先に目を覚まし、直後に私を起こす、ということ。

 以前は、そうではなかった。私とアンジェリークが、二人で暮らすようになって、最初のうちは。私の方が先に起き出し、一人で朝食の準備をして、彼女が起きてくるのを待つ事が多かった。それは、たまにアンジェリークが先に起きたときも同じで、やはり彼女も一人で朝食の準備をした。
 しかし、そうやって過ごして何週間か経ったある朝から、私たちは変わった。
 きっかけは、彼女だった。否、原因はといえば、私の方にあったのだから、こういう言い方は正しくないのかもしれない…。

 

 それは、いつものように私が先に起き、キッチンで朝食の準備をしていたときだった。ぱたぱたと急ぐ足音が廊下から聞こえた。推測は必要ない。この時間帯ならば、アンジェリーク以外に足音をたてる人間はこの館にいないから。けれどもその日はいつもと何か違っていた。足音は、キッチンの扉の前でぴたりと止まって、しばらく沈黙した。

 いつもならばすぐに飛び込んできて、真っ赤な顔をして「ごめんなさいリュミエール様っ。わたしったらまた寝坊しちゃって…。あの、朝食の用意、お手伝いしますねっっ」などと言いながら、食器を並べたりし始めるはずなのに。

 数秒後、意を決したように扉を開けて入ってきたアンジェリークは、明らかに様子がおかしかった。顔が真っ赤なのは変わらないけれど、それはいつものような照れや恥で赤くなっているのではない。怒りか悲しみか…おそらく両方であろうと、今では思う。
 「リュ…ッ、リュミ…エ、…ル様……ッ」
 私の顔を見た途端、アンジェリークは突然、ぽろぽろと涙をこぼし、しゃくりあげた。
 「ア、アンジェリーク…!?」
 突然のことで私も戸惑いを隠せない。情けないが、どうすればよいのか、何が起こったのかそのときはまるでわからず、ただおろおろとするばかりだった。それどころか、こんなときはオスカーならどうするのだろうかと、答がわかったところで私には何の役にも立たない疑問までが頭の中をよぎった。この時の自分を思い出すと、今でも気恥ずかしい。それほど私は動揺して、ただ呆然と立っていただけだった。

 「もう、もう我慢できません、わたし……!もう、やめてくださいっっ!!」

 次にアンジェリークの口から出た言葉で、私は更に動揺した。一体何が悪かったのだろう?何か彼女の気にさわることを、私はしてきたのだろうか?こころあたりはまるでない。けれども、もう我慢できないと言うからには、私は幾度となく、それも無意識に、彼女を傷付けてきたのだろうか?
 わからない。けれども彼女が今、私の目の前で何かが原因で、泣いているのは事実だ。私は、アンジェリ−クに声をかける決心をした。卑怯にも、こう言えば余計に彼女を怒らせるか絶望させるかが、わかっていたのに。しかし、他にどう言ったらいいのか、思いつかなかったので。

 「アンジェリーク…私は、無意識のうちにあなたを傷付けてしまったのですか…?大変申し訳ないのですが、あの…、実はあなたが何のことをおっしゃっているのかわからないのです。至らないところがあったことは謝りますから、どうか教えていただけませんか。今後気をつけたいと心から……」

 「ヤダ、違う…!違うんです、リュミエール様!!」

 予想とは裏腹に、今度はアンジェリークが驚いた様子で、私の言葉をさえぎって叫んだ。

 「ごめんなさい、あの、わたし…ここに歩いてくるまで充分に考えをまとめたつもりだったのに…。いざリュミエール様のお顔を見たら、色々な感情が頭の中でごちゃごちゃになって、それで、つい泣いちゃって、でもそんなつもりは全然なくて…。それであの、リュミエール様が私を傷付けたとかじゃ、もちろんなくって…。ごめんなさい、わたし、そんなつもりで言ったんじゃなくて、あの、あの……!」

 確かに、彼女も私と同じくらい動揺していたらしい。彼女の目からは再び涙があふれ出し、おそらく思い浮かんだことを次々と口に出していったのであろうが、最後には言葉を詰まらせた。

 他人が動揺していると、不思議と自分の心は落ち着くもので、その時には既に私は、彼女を落ち着かせるための行動に出ようとしていた。

 小さな肩をふるわせている彼女をそっと抱き上げ、ダイニングのソファに座らせる。淡い空色のこのソファは、彼女がお店で一目惚れして買ったもので、私とアンジェリークがちょうど二人で座れる大きさだった。
 ソファのすぐそばには食事をとるための小さなガラスのテーブルがあり、彼女が来る前にわかしておいた紅茶が入ったティーポットと、二組のカップがのせてあった。

 カップに紅茶とミルクを入れ、アンジェリークの前に置く。それから私は彼女の肩を抱き、待った。何も言わずに、ただ彼女の気が落ち着くのを、待った。時にはその栗色の頭を何度か撫でながら。

 

 「すみませんでしたリュミエール様…。もう、大丈夫です、落ち着きました」

 アンジェリークはようやく顔を上げた。また幾分か赤い顔をしているものの、涙の方はすっかり引っ込んでいた。

 「では…お話しして下さいますか?」

 すっかりさめてしまった紅茶を、彼女はかまわずに一口すすってから、コクンとうなずいた。

 「気がついたのは…わたしが先に起きて朝食を作っていたときなんです。あとからキッチンに入ってくるリュミエール様は、すこぅしきつい表情をなさってるんです。わたしの顔を見ると、途端にホッとした表情をされて、すぐいつものリュミエール様にもどりますけど」

 「え……」

 「はじめは気のせいかと思ってたんですけど、私が先に起きたときは必ずそうです。…リュミエール様、気付いてなかったんですか?」

 「……すみません、さっぱり……」

 返す言葉がなかった。

 「じゃあ、もう一つの方もですか?」

 「え、まだあるんですか?」

 「ほぼ毎朝ですよ。リュミエール様が先に起きるときのことですから。…偶然、狸寝入りしてた時に気付いたんですけど、必ずわたしにするんです」

 「な、なにをですか」

 自分のことなのに、私は聞いてばかりいる。

 「…変な風に聞こえると思うんですけど、たとえば、手をにぎって下さったのかと思ったら脈を確かめてるとか、抱きしめて下さったのかと思ったら心臓の音を聞いているとか、キスをして下さるのかと思ったら呼吸を確認してるとか……とにかく毎朝、そういったようなことをわたしにします」

 言われてようやく気付いた。確かに私は、毎朝、横で寝ている彼女の脈をはかったり心臓の音を聞いたりしていた。それはすでに日課というか癖というか、そういったものになりつつあった。はじめのうちは意識してやっていたように思うが、今では無意識のうちにその行動に走ってしまう。けれども、何のためにそんなことをしていたのかは、すぐには思い出せなかった。

 「わたしは…そんなに弱くないんですよ、リュミエール様」

 アンジェリークは私の両手をにぎった。

 「リュミエール様が寝ている間に、死んでしまうほど弱くはないんです。リュミエール様の知らないうちにどこかへいなくなるような、薄情な人間でもありません。だから…心配しなくても大丈夫なんです」

 「しん…ぱい………?」

 「だから…あんな悲しそうなお顔で、わたしを探さなくたっていいんです。毎朝わたしが生きているかどうかなんて、悩まなくたっていいんです……」

 アンジェリークのその言葉は、私の心の中でもまだ誰一人として足を踏み入れたことのない、奥の方へと侵入してきた。決して無理矢理にではなく、何か小さな生き物に触れるように優しく、けれど力強く。いやな感じは、全くなかった。

 私はいつの間にか、涙を流していた。自分の意志とは無関係にあふれ出したそのしずくは、私の心の中に残っていたわずかな闇を、洗い流してくれるような気がした。

 ゆっくりと、私の両肩へのびる彼女の手。アンジェリークはその小さな両腕で、いっぱいに私を抱いた。

 不思議なあたたかさだった。遥か昔に一度だけ、これと同じぬくもりを感じたことがあるような気がした。もう本当に昔のことで、いつのことだったかも、思い出せないのだけれど……。

 

「リュミエール様、朝ですよ」

 アンジェリークの声に応えるように、私はゆっくりと目を開ける。白い毛布にくるまった、寝間着のままの彼女がにこにこと笑っている。

 「おはようございます、アンジェリーク」

 あの一件以来、私は悪夢を見ない。アンジェリークがそばにいる。ただそれを改めて実感しただけで、不思議なほどに安らかな気分で眠れるのである。そのせいか、すっかり寝坊癖がついてしまい、以前より1時間ほど、起床時間が延びた。もっとも、おかげで毎朝、あたたかくてしあわせな夢を見られる上、アンジェリークの声と笑顔で起こしてもらえるのだから、まったく悪い気はしない。

 「おはようございます、リュミエール様」

 カーテンの隙間から、アンジェリークの笑顔に日の光がこぼれる。まるで、彼女自身が光を放っているかのようにも見える。どんな不安も暗闇も押し流す、強く優しい、天使の輝きを。

願わくばこのしあわせが、永久(とわ)に続きますように。

 

END

 


鯖虎:

リュミ様の朝が、平和な暖かい朝になってよかったなぁ・・・

などと感動してしまいました。

幸せな朝の訪れに、ほっとしました。

リュミ様は訳ありの過去をお持ちのようですね。気になる。

満月兎さん、どうもありがとう!!!遅れてごめんよ!!!!