中 国 歴 史 人 物 の 紹 介




春秋・戦国時代 秦・楚漢争乱時代


伝説・殷・周時代


人名
国名
生存期
人物像
黄帝
コウテイ
伝説上の帝王で『史記』五帝本紀の第一に記されています。姓は公孫、名は軒轅。黄帝は、生まれながらに神がかり的な英智を有していたと言われています。この時代の世の中を支配していた神農氏が徐々に衰退し、各地の諸侯が争っていました。黄帝は、これらの諸侯を正義による武力で帰服させていった。これに危機を感じた神農氏が黄帝に対して戦いを挑んだけれども、黄帝の勝利に終わり、諸侯らの推戴を受け帝王となった。

ギョウ
伝説上の五帝の一人。姓は伊祁、名は放勲といい、また『陶』と『唐』に封地を持っていたことから陶唐氏とも呼ばれた。は、すばらしい英智と仁徳を兼ね備え、人々の尊敬を集めた。黄帝とは違い、農時暦を定め農作物の収穫の安定をはかり、文武百官の制度をととのえたと言われています。そして彼は、後継者に息子の丹朱を選ばず、『禅譲』というかたちで民間の中から舜を挙げ、帝王の地位を譲った。

シュン
伝説上の五帝の一人。舜は、五帝の二番目のセンギョクの六世の子孫。しかしこのころ舜の家系は、センギョクのころのなごりはまったく残っておらず、庶民にまで落ちぶれていた。舜は、帝王の堯の目にとまった。堯は、自分の二人の娘を舜に同時に嫁がせ、舜がこれにどのように対処するかというテストを行った。舜は、二人の妻に不満を持たせることなく上手に愛した。このことで、堯の信用を得て帝王の地位を譲り受けた。そして彼は、堯からの禅譲と同じように、自分の息子の商均ではなく、禹に帝位は継承された。

? ? 夏王朝の始祖と言われる。姓はジ(女+以)、名は文命。禹の父は鯀であり、鯀は堯に治水の工事を命じられた。しかし、これに失敗した鯀は、舜によって処刑され代わりに禹を登用した。禹は、死に物狂いで治水にあたり、十三年間家に帰らず、たまたま家の前を通りかかった時もそのまま通りすぎた。こうして、父の成し得なかった治水工事を見事完成させ、舜にみこまれ彼の死後、帝位についた。帝位についた後も、政務に精を出し、人民を非常に大切にした。ある時罪人が連れらていくのに出くわし、わざわざ車から降りてその事情を聞いてあげるという事もあったそうです。
ゲイ 堯の時代の弓の名人。ある時、十個の太陽が同時に出現するという異変が起きた。この異変のため、農作物は枯れ果て、人民の食べるものが無くなってしまった。そこでゲイは堯より命じられて、十個の太陽のうち九個を射落とし、人民を救った。
桀王
ケツオウ
夏王朝の最後の王。名は履癸。王は、暴虐かつ淫乱な性格で、また鉄の鍵を素手で引き伸ばしてしまうほどの剛力を有していた。王は、諸侯のひとり有施氏を討伐した時に末喜という娘を得た。王は、この娘に溺れてゆき、彼女ために宝石で敷き詰められた宮殿を築くなどをして、人民を貧窮に陥れ反感をかった。こうして民心は離れてゆき、諸侯らを率いる殷の湯王によって攻撃され、鳴条という地まで逃げたがそこで死んでしまった。
湯王
トウオウ
殷(商)の初代の王。姓は子,名は天乙。非常に高徳な人物で、ある時鳥獣を捕獲する為、四面に網を張り罠を仕掛けているのを見つけると、「それでは、鳥獣を獲り尽してしまう。」といって三面の網をはずして一面のみにするということがあった。また政治面では、伊尹という優れた人物を得てすばらしい政治をおこなった。
伊尹
イイン
湯王に仕えた名宰相。名をシといい、また阿衡とも呼ばれる。湯王に見出され、国政を任された。その後伊尹は、湯王の下を去り夏に仕えたが、桀王の無道ぶりに嫌気をさして、湯王の下へ戻ってきた。そして伊尹は、桀王を討伐すべく立ち上がった湯王率いる軍隊に軍師として従い、これを滅ぼし天下統一に貢献した。湯王が亡くなった後、これに継いでたった3人の王は在位期間わずかにしてこの世を去った。そして、五代目の君主に太甲がついたが、この君主は愚人であった。しかし伊尹の諌めにより太甲は反省し、後に名君と呼ばれるまでに仕立て上げた。これには異説があり伊尹は太甲を追放して自らが王となり、これを恨んだ太甲は伊尹を殺したとも言われている。
紂王
チュウオウ
殷王朝最後の王。名は辛とも受とも言われる。生まれついて体力、知力が人並みはずれ、容姿も美しく才能溢れる人物であったが、妲己を得て彼女との愛に溺れ、政務を怠り、「酒池肉林」や「炮烙の刑」などの残虐な刑を楽しむようになってしまう。これらの行為が民心の離反を招き、周の武王によって牧野の地で滅ぼされた。
文王
ブンオウ
姓は姫、名は昌。殷の紂王がやりたい放題、贅沢三昧の暴政を行っている頃、周の西伯昌(文王)は西方にいて、人民に対して善政をしき、天下の人望を集めていた。そのため、崇候虎という人物が紂王にその危うきを忠告したところ、姫昌はユウ里という地に幽閉されたこともあった。彼は、太公望呂尚を得て周の基盤を築いた。そして、周の都を岐山から豊に遷都した翌年に没し、そのあとを継いだ武王によって文王とおくり名された。
武王
ブオウ
周王朝初代の王。姓は姫、名は発。太公望を軍師とし、弟の周公旦を補佐役として、父文王の後を引き継いだ。そして即位十一年に、暴虐ぶりがますますひどくなる殷の紂王に対して決起し、牧野の地で殷軍を破り、天下統一を果たした。その後、全国に封建制を布き、支配を固めた。
呂尚
リョショウ
周王朝の文王・武王・成王の三代にわたり仕えた名軍師。姓は姜、名は尚、字は子牙。先祖が呂の地に封ぜられたことにちなんで、呂尚と呼ばれるようになったと言われる。ある時、周の文王が猟に出ようとして卜いをすると、「天下をとるものの輔けとなる人物を獲るだろう」とでた。疑いながらも猟に出かけると、イ水でまさしく智者らしき人物が釣りをしていた。話しかけてみるとやはり並々ならぬ見識を持った人物であった。この人こそ太公望であったのです。「太公望」とは、文王の先君の太公が待ちんでいた人物ということから、このように呼ばれるようになった。彼は文王のもと、諸侯を帰服させ天下の三分の二を有しながらも、殷に対して臣下として仕えるという状態を実現した。そして文王が没し武王の代に仕えるようになると、軍師として本格的に働き、巧みな戦術により殷を倒すことに成功した。この功績により、斉の地に封ぜられたのである。『六韜』
周公旦
シュウコウタン
姓は姫、名は旦。周の文王の子で、武王の弟である。あの孔子が、理想の人物として崇めた人こそ周公旦であったのです。彼は、兄武王のもとにいて私心を全く持つことなく周王朝の基礎作りに大いに貢献した。武王が病床についたことがあり、そのときには自身の身を生贄にしてほしいと天に祈ったことなどもあった。そして、武王により魯に封ぜられ開祖となる。その後成王の代には、まだ王が幼かった為、彼が摂政となったが、成長すると政権を返上し、臣下として仕えたのである。
伯夷
ハクイ
孤竹 孤竹国の君主の子。君主である父が後継ぎを弟の叔斉に決めていたが、父が亡くなると弟の叔斉は、君主の座を辞退し兄の伯夷に譲った。しかし伯夷は、父が決めたことに背くわけにはいかないとこれを辞退し、国外へ亡命してしまった。その後、周で西伯昌が善政を布いていると聞き周を訪れたが、西伯昌はすでに亡くなりその後を継いだ武王が殷討伐の準備にとりかかっている最中で、うわさに聞いていた状態とは全く違い周の国内が殺気に満ちていた。そして、出兵の際に武王の前を阻み不忠不孝を説き思い止まらせようとしたが、聞き入れられなかった。そして周は殷を討伐し、人々は周を宗主と仰いだが、伯夷・叔斉はこれを恥じ周の食糧を食らおうとせず、首陽山で餓死した。
叔斉
シュクセイ
孤竹 孤竹国の君主の子。叔斉は、父によって後継ぎと決められていたがこれを兄の伯夷に譲った。しかし、兄の伯夷がこれを拒み逃亡したため、叔斉も兄を追ってともに国外へ逃げてしまった。その後、兄の伯夷とともに武王を諌めたが聞き入れられなかった為、首陽山にこもりそこで餓死した。
幽王
ユウオウ
〜BC711 周の第十二代の王。姓は姫。名はデツ。このころの周王朝の権威は完全に失墜していた。そして、この状態にとどめを刺すべく幽王は登場するのである。彼は、褒ジを寵愛し、彼女が笑わない女性であったためなんとかして笑わそうとそれだけのために日々を費やした。幽王は、ある時彼女を笑わそうと烽火をあげ、諸侯たちが事件だと勘違いし必死で駆けつけてくる様子をみせると、なんと彼女を笑わせることに成功したのである。そうしてまた彼女の笑顔を見たいと、何度も何度も烽火をあげたために、本当に異民族が攻め込んできた時に、諸侯らは当然いたずらだと思い駆けつけてこず、幽王は殺されたと言われる。





TOP 中国歴史小説の紹介 中国故事豆知識 BBS BBS2  リンク 管理人室