短編小説 2003/11
日常生活を小説のような感じで書いてみました
2004.1.11
11月最初の水曜日、午後7時30分、彼は銀座の並木通りから1本裏通りへ入ったところで道に迷っていた。
彼はこの街に何度来ても道を覚えられずにいた。
今夜彼が行く予定の店に、彼は電話をかけた。
電話に出た店員に今いる場所を告げ、ここからの道順を尋ねた。
店員は、早口で道順を伝えた。
通話が終り、彼は携帯電話をポケットにしまった。
目印となるビルの看板が見つからず、彼は右往左往していた。
さっきから同じ場所を何度通過しただろうかと、彼は思った。
もう一度彼は目的の店に電話をかけ、道順を尋ねた。
今度は電話をかけながら店員に誘導され、その店が入ってるビルの前にたどりついた。
先程から彼が何度となく通り過ぎていたビルだった。
ビルに入りエレベーターで彼は4階に上がった。
エレベーターが止まると、彼はエレベーターホールに出た。
このフロアには2軒の店が入っている。
彼は向かって右側の店の扉を手前に引き、中に入った。
入り口近くにあった時計を彼は見た。8時10分をさしていた。
この店はジャズを中心とするライブハウスだ。
薄暗い店内に客はまばらだった。
彼は一番後ろのテーブル席に一人で座り、ウェイトレスにビールを注文した。
間もなくビールが運ばれ、彼は一口飲み、タバコに火をつけた。
ステージの上では女性シンガーがジャズのスタンダードナンバーを歌っている。
彼はジャズという分野については、ほとんど無知である。
少しハスキーな彼女の歌声に彼は懐かしさを感じた。
彼女の歌を聴くのは何年ぶりだろう、と彼は思った。
彼はビールを飲みながら彼女の歌を聴いた。
グラスのビールを飲みほした時、彼女のステージが終わった。
時間は午後8時30分だった。
それまで薄暗かった店内が照明により、少し明るくなった。
彼はウェイトレスにビールをもう一杯注文した。
2杯目のビールが運ばれるのと同時に、先程までステージで歌っていた女性シンガーが、
彼のテーブルへ来た。
彼女は深い笑みを浮かべながら
「お久しぶり。何年ぶりかしら」と彼の向かいに座りながら言った。
「もう3年ぶりくらいになるんじゃないか。去年、一昨年、その前の年と来ることが出来なかったから」
「そうね、早いものよね。私も40の大台にのってしまったのだから」
と言って彼女は笑った。
「そうか。もうそんな歳になるのか」
「そんな歳なんて言い方しないでよ」笑いながら彼女は言った。
彼も彼女の言い方につられて笑った。
「何か飲むか」彼は彼女に言った。
彼女は、もうワンステージあるからと言い、アルコールを避けミネラルウォーターを注文した。
彼女は大野美香という芸名でジャズシンガーを仕事としてる。
「早いものだな。幸治が死んで、もう5年が経つのか」彼は言った。
「そうよ。今日でちょうど5年。だから今夜のステージは彼のためのステージなの」
彼女はそう言い、タバコに火をつけた。
「幸治は俺より5つ歳が上だったから、今の俺は死んだ時のアイツとほぼ同じ歳だ」
彼もタバコに火をつけた。
5年前のこの日の出来事を彼は思い出した。
その夜、彼と幸治は美香のステージを観に来ていた。
美香のステージが終った後、彼等は酒を飲みに行った。
3人の誰もが翌日は休日ということもあって、時間もアルコールの量も気にせずに飲んだ。
彼等が店を出たのは、完全に深夜といってもいい時間だった。
「美香、帰る方向が同じだから送っていくぞ」幸治が言った。
「やめとけ。そんなに酔払っての運転は危ないぞ」彼は幸治に言った。
この日、幸治は仕事で使っているセダンを運転してきていた。
「大丈夫だよ。いつもこうしているんだから」幸治の足元は完全にふらついていた。
「お前はどうするんだ?」幸治が彼に尋ねた。
「俺はタクシーを拾って帰るよ。美香もその方が安全だ」
幸治は店の近くにあった駐車場からセダンを出してきた。
彼と美香の前に幸治のセダンは停まった。
幸治は内側から助手席のドアを開き、美香に乗っていくように催促をした。
美香は助手席のシートに体を預け、彼に手を振った。
彼は走り去る幸治のセダンを見送り、タクシーを拾った。
彼は運転手に目的地を告げた。
それから約1時間後、彼は自宅へ帰った。
熱いシャワーを浴び、ベッドに入ったのは明け方近い時間だった。
どれ程の時間が経ったのだろう。
彼の枕元に置いてあった携帯電話のベルが鳴った。
まどろみの中で彼は電話に出た。
「もしもし…」
「もしもし、私よ…」電話の相手は美香だった。その声から泣いているのがわかった。
「どうしたんだ?」
「幸治が、幸治が死んだのよ!」
彼は耳を疑った。
「何があったんだ!?美香、落ち着いて話してみろ」
彼は完全に目を覚ました。
「昨夜幸治が私を送ってくれたでしょ。あの後彼は交通事故をおこして、病院に運ばれたのよ。
そこで亡くなったの」
彼女は震える声で彼に伝えた。
美香は今、幸治が収容された病院にいると言った。
彼は病院の場所を聞いた。
「俺も今からそこへ行く。1時間くらいで着くと思う」
彼はそう言い、電話を切った。
用意を整え、彼は自宅近くの私鉄の駅へと歩いた。
そこから都心へ出て、電車を乗り換え、幸治の収容された病院へ向かった。
病院に着いた彼は美香に会った。
彼女はずっと泣き続けていたのだと、彼は思った。
彼は美香と対面してから、ほとんど会話をしていなかった。
まだこの現実を受入れることができなかったからだ。
彼はこの出来事を、悪い夢であってほしいと思った。
夢であるならば、早く醒めてほしいと。
ほんの数時間前までの出来事が真実であったのだから。
彼と美香は、お互いの近況などを少し話した。
間もなく美香は次のステージがあるからと、席を立った。
それから10分後、彼女はステージの上にいた。
ジャズのスタンダードナンバーをきれいに歌っている。
彼はビールを飲みながら、彼女の歌を聴いていた。
何曲か歌い上げた後、彼女は今夜のステージの意味を、客席に向かって話した。
まばらな客席からは小さく拍手がおこった。
彼はタバコに火をつけて、大きく息を吸い込んだ。
口から吐き出した煙の先に美香の姿が映っていた。
美香の2回目のステージは約1時間で終った。
彼女は一度控え室に戻り、ステージ用の衣裳からジーンズに着替えて、再び彼のテーブルに来た。
「今夜はこれで終りだから、軽く食事にでも行かない?」
美香は彼に尋ねた。
彼は店のカウンターに置いてある時計に目を向けた。
時間は9時50分を指していた。
午後10時に彼と美香は店を出た。
先程の店から歩いて5分程の場所にある焼き鳥を食べさせる店に彼等は入った。
店の奥のテーブルに彼等は案内された。
彼等は店員にビールを注文した。
すぐに彼等のテーブルにビールが運ばれてきた。
二人はビールを飲み、店員に何種類かの焼き鳥を注文した。
「この店には時々来るのよ」美香が言った。
彼はタバコに火をつけ、店内を見回した。
「なかなか感じのいい店じゃないか」彼はそう言い、ビールを一口飲んだ。
「焼き鳥の味も美味しいのよ」
「それは楽しみだね」
美香はこの3年間の出来事を彼に語った。
「何で毎年この日の私のライブに来てくれなかったの」美香は彼に尋ねた。
「最初の年のライブを見て、美香が歌っているのを聴いて、幸治の事を本当に愛していたんだな、と思ったから」
彼は答えた。
「愛していたのではなく、今でも愛しているのよ」
彼はタバコを吸いながら、美香を見ていた。
「幸治が死んだ翌年のライブ、寺井と中川も俺と一緒に行っただろ。彼等は今夜来ていなかったね」
「あの2人も一昨年までは来てくれたのだけど、去年から来なくなったわ」
彼は黙って美香の話を聴いていた。
「みんな月日が流れると、幸治のことを忘れてしまうのよ。きっとあなただってそうよ」
「俺は幸治が死んだ夜、一緒にいたんだぞ。忘れるはずがないじゃないか」
「そうよね。あなたは忘れられるわけないものね」
美香はそう言い、タバコに火をつけた。
間もなく店員が焼き鳥を運んできた。
彼等は焼き鳥を食べた。
「なかなか旨いな、ここの焼き鳥は」彼は独り言のように言った。
彼は店員に時間を尋ねた。午後11時を10分過ぎたところだ。
「そろそろ行こうか」彼は美香に言った。
彼女はうなずき、2人は焼き鳥屋を出た。
外に出て美香が言った。
「また私のライブを聴きにきてくれる?」
「そうだな。時間がある時に、またフラッと来るよ」
2人は地下鉄の駅まで歩いた。
駅へ入る階段を降り、彼等は別々の改札口に入っていった。
End...
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