2002年11月10日、宇都宮大学にて講演



あたたかい言葉をかけてもらうことが何より嬉しかった



〜伊藤豊さんの講演録より〜



二〇〇二年十一月十日、宇都宮大学国際学部の田巻松雄教授の授業の中で、約一年間、宇都宮市内でホームレス体験を持つ伊藤豊(仮名)さんの講演を行った。講演には学生及び一般の市民も含め、一〇〇名を超える参加者があった。ここにその講演録(一部修正有り)を掲載する。



田巻  毎回かなり意識して話したことを一点だけ突き出しておけば、「イメージと実態のずれ」ということを強調したいというふうに思います。今の日本の社会に暮らしているいろんな人がいるわけですけれども、その人たちを語る言葉、ここで言うと「ホームレス」という言葉ですけれども、その言葉からいろんなことを連想したり、イメージするんだけれども、実際にホームレスの人たちがどういうふうに生活したりとか、あるいはどういうふうに仕事したりとか、要するにどういうふうに生活しているか、生きているかということについては、僕らは非常によく知らない。で、よく現実を知らない人たちについて、むしろ、強いイメージを持っている場合があるんだという話をしました。前回、行政の話したり、あるいはその前にホームレスの人に対する襲撃や、からかいという事件が後を絶たないという話をしましたが、日本の社会のいろんな現状、あるいは仕組みを見ていく時に、「野宿して暮らすという人たちの視点から」、あるいは「生活から」見てみましょうというようなことを言ったわけです。

 で、今日、実際に一年ほどですね、野宿せざるを得なかった方に来て頂いて、いろいろ生活そのものの話、あるいは、野宿に至った背景、あるいは野宿生活で皆さんがあまり知らないこと、そういうことを個人的な体験を中心にしながら、語ってもらいたいというお願いをしましたところ、快くお引き受け頂きました。今から伊藤さんに二十分から三十分ぐらいお話頂きます。



伊藤  はじめまして。私、伊藤と申します。よろしくお願い致します。足が悪いので、ちょっと座らせてもらいます。

 ええ、私、先ほど紹介された者ですけど、一年前まではホームレスやってました。その経験から皆さんと一緒に話し合って、どうしてホームレスになったのか、またはホームレスの実態というのを、もう少し皆さんに解ってもらいたいと思います。

 まず、簡単に私の生まれからご紹介したいと思いますが、私は昭和十七年生まれです。足尾銅山に生まれて、二十三歳まで、正確に言うと、二十五歳まで、足尾にいました。私が足尾銅山に十八歳で入った(=就職した)時には、足尾というところは非常ににぎやか。日曜日には花火を鳴らしたというような。じゃ、どうしてそういうふうに足尾がそんなににぎやかだったかっていうと、ベトナム戦争とか朝鮮戦争で、銅が大量に必要だったから。要するに兵器ですよね。

 で、私はその時十八で銅山に入りましたが、やはり時代の流れでどうしても労働運動というのが、ものすごく激しい時代だった。特に三池炭坑の労働争議とか・・・・・。そういったものにちょっと携わったおかげで、私は二十三の時に不当解雇を受けました。その時に約五十名からの人間がクビを切られたんですが、その中の半数以上が労働運動に携わっていました。で、どうしても私も我慢出来ずに、二年間裁判を行いました。最終的に裁判に突入したのは、五十名の中の七名だけ。あとは全部足尾から出ていきました。

 足尾という所は、銅山をクビになったら、足尾にいられなくなっちゃうんですよ。それは何故かというと、足尾という所は、要するに古河鉱業の丸抱え。要するに社宅に入り、電気・水道、あらゆるものが全部会社持ちなんです。でも、銅山辞めれば当然、出ていって下さいということになります。で、足尾には銅山関係の会社はたくさんありますけど、これは全部古河鉱業の系統ですから、一旦クビになった以上、足尾では働くことは出来ません。

 その中で私は二年間裁判をやりましたが、その時にいろいろな方とお付き合いをし、また、支援も受けました。二十五の時に私は足尾銅山の古河と和解を致しまして、茨城の方へ移って、二十六歳の時に結婚して、子どもも二人もうけました。

 それと私は茨城から今度また、栃木に戻ってきたわけなんだけど、そこで、その会社で、私は長く、四十八まである会社で働いていました。で、どうしても自分で何とか独立したいという夢があったものですから、設備関係の会社を自分で設立しました。

 ただし私が全くあの、また元に戻ってしまいますけど、私正直言って小学校出てないんです。で、私は六人兄弟の次男坊として生まれたんですが、母子家庭で、全く学校に行ってない。じゃあ、学校いかないで何してたんだと言えば、私は食事作ってた。母親はどうしても働かなくちゃならないし、また、足尾というところは働く場所がありませんので、うちのお袋は汽車で、桐生とかそちらの方へ朝早くから夜遅くまで、働いていました。そのためにどうしても私の下に子どもがいましたから、その食事を作るために、私は、今だったら恐らく想像出来ないでしょうね、ほとんど(学校に)行ってない。でもあの、書類関係上(卒業)証書だけはもらいました。

 また話を戻しますが、どうしても、私は五十ちょっと前に何としてでも、自分で独立して会社を作りたいという野望があったものですから、四十九の時に自分で独立をして十年近く頑張ってみたんですが、最初の五年間というのは、かなり景気も良かったですし、仕事もたくさんありました。それが六年経ちますと、だんだん仕事もなくなる、また個人会社ですので、どうしてもお客さんが離れていってしまう。資金面、あらゆる面で、かなり苦しい時代を過ごしました。で、最初のうちは何人かの人と、やってきましたけど、どうしても仕事がなくなれば一人辞め、二人辞め・・・。最終的に残ったのは私、それとどうしても賃金が払えないので、私はタイの方、それとベトナム、それと中国、そういう方のアルバイトを頼んで仕事を細々とやっていたんです。そしたら一時私のところには、中国人とかベトナム人、タイの方が絶えず四、五人はいました。そういう中で私は、特にタイの方ですね、実態というのをいろいろ聞いてて、その中で仕事の中で、私はタイ人の人の何人かの子どもを預かったりとか、要するに日本に来て男性と恋をして赤ちゃんが生まれ、赤ちゃんが生まれたのに、日本人の男は逃げて行ってしまう。そういう方たくさんいます。路頭に迷った人の子どもを私、一年間預かったこともあります。

 そういうわけで、私、頑張っていたんですけど、五十八の時ですか、何としてもやりくりが出来なくなってしまった。それと同時にま半分ノイローゼでしょうね、本当に眠れない日が一ヶ月も二ヶ月も続いたということ。悩んで悩んで悩んだあげく、私は一月の六日の日に日光の山で朝六時から夜中の十二時まで雪の中を夢中で歩きました。それはあの、死に場所を求めちゃったんだよね。で、山に登ったものの、もう四、五日前から食事はしてません。その中で山をさまよって疲れてそのまま、夕方恐らく五時か六時だと思います、もう真っ暗で、そのまま雪の上で寝ちゃったんですよね。それで、時間はわかりませんけど、二時頃目が覚めて、何で俺こんなことやってんだろ、何でこんなところで寝てんだろ、何なんだろうと。だったら、もう一回ホームレスにでも何にでもなって、そうやって頑張ってみて、もう一回花咲かせてみようかなあと思って、山を降りたんです。それから一年間、私はホームレスが始まったんですが・・・。

 じゃ、ホームレス。要するに一番最初に私がホームレスになって、宇都宮の駅に着いたわけですが、その駅に来た時の、全く経験ないですからね、明日からの食事をどうするか、寝るところはどこで寝るのか、何もわからない。ただ、何人かのホームレスの方がいますけど、そういう人たちに声もかけられないので、適当に段ボールを敷いてそこで二日間寝てましたら、その時一月の半ばでしたか、半端じゃない寒さですね。これでは全く眠れません。寒くて。せいぜい寝るのはおそらく一時間か二時間でしょう。あとは夜中の十二時頃起き出して、朝から外で雪の中を歩いているような状態。そうしないとね、凍え死んでしまうんですよね。下がコンクリートですからね、全く寒い。当然仕事もしないで寝てるんですけど、腹は減るんですよ。でも食事の摂り方全然わかりません。正直言って私は一週間近く、スーパーの試食っていうんですか、あれで食事をつないだ。で、その時にやはり駅にいますから何人かの方々の声を聞いて、そういう人たちに食事の摂り方を教わり、ま、食事を摂ったわけですが、じゃ、「食事って何だ?」。正直言えば、賞味期限切れの物、特に今のセブンイレブンとかスーパー関係、中には病院、そういうところへも行ったことがありますね。要するにゴミを漁って食べていたと。だから宇都宮でホームレスの方が、おそらく役所でつかまえているのが約八十名(*宇都宮市が行った調査によれば、ホームレスの人数は、二〇〇一年度で七十九人、二〇〇二年度で六十六人となっている。 )と言ってますけど、実際はその二倍ぐらいはいると思います。そういう人たち全員が、正直言って、その賞味期限切れの物食べて生きてる。ですから、その賞味期限切れの物を一〇〇名、二〇〇名近いホームレスの方が取り合うんですから、それは正直言って競争ですよね。で、暗に、目に見えない縄張りとか、そういったいろんなことがあります。ですからどうしても最初来る方っていうのは、こんな宇都宮近辺じゃなくて、ある程度、上三川とかかなり遠いところまで取りに行くということですね。でも今宇都宮の市内においてはほとんどお弁当は取れません。これは保健所の通達だと思うんですけど、ほとんど倉庫に全部鍵がかかっていますので、私がいた時には取れましたけど、今はほとんど取れないのが実態です。私は三ヶ月ぐらいしたら煮炊きして食事を作るようになりましたけどね。

 それから着る物はゴミです。ゴミを漁るんです。資源ゴミを丹念に探すんですね。それがホームレスの仕事です。ですから、夏だったら朝四時起き。ホームレスはみんなそうですから。朝寝てる人はまずいないから。それでとりあえず、マンガの本で食べてる方、あの方たちは大体六時起き。それから衣類とかを探す場合は、昨晩から捨ててある場合も多いから朝四時起き・・・。ホームレスの九〇%は全員そうです。

 皆さんに一番言いたいことは、とりあえずホームレスへの見方をただ単に、公園で寝てて、酒飲んで酔っぱらって寝ている方いっぱいいるよね。だらしない、そして小汚い・・・。要するにみんな仕事やってるのにね、平気で昼間から寝てて・・・・。そういう見方を少しやめてもらいたい。何故かと言えば、冬場は夜、とても寒くて眠れない。だからどうしても太陽の下で寝る他ない。夏場も同じこと。さっきも言った通り、私らは夜中に動いているんだもの。私らは夜勤やってます(笑)。夕飯っていうのは私ら、夜中の十一時か十二時頃食べます。何故かというと当然人通りの少なくなった時にお弁当取りにいくわけですから。自転車で一時間も二時間もかけて取りにいく。お弁当が捨ててあるところに鍵のかかっているところが、今、多いですから、時間をかけて取りにいく。それで、場合によっては、ほとんど寝ないまま、朝四時頃、お金になりそうな資源ゴミを探しに出かけていく。だから、夜はほとんど寝てないですよ。

 人間やめればいいんですよ、別に。人間やめて本当の残飯だけ漁って、手づかみで食うんだったら、昼間だっていいんですよ。人目のつかない夜取りにいかなくても。そういう人間やめてる人もいますけどね。ほんのわずかですけど。

 それから病気になった時は耐えるしかなし。私は風邪に罹った時、一週間、物も食わずに寝てました。でもホームレスも三ヶ月ぐらいやっていると、仲間っていうか、声かけてくれる人が出来てくるから、そういう人たちが黙ってないですよ。やっぱり助けてくれます。助けるったって、ご飯ぐらいですよ。でも、ご飯とかそういうのも、病気になって取れなくなって、大変な時は持ってきてくれます。お互い知らない同士ではダメだけれども、一回でも、「寒いね」とか「飯どこで取る?」なんて話をしたことがある間柄だったら、お弁当がたくさん取れた時には、必ず、持ってきてくれる。そういった助け合いはやってるよね。ものすごくやってる。

 だけども、公園とか駅でポツンと住んでる人らは、なかなか仲間は出来ないかもしれないけどね。

 自分がホームレスの支援をしたいと思う理由に、当時自分も困った時にホームレスの方たちに助けられて救われてきたから、その恩返しのつもりで役に立ちたいというのがありますもの。

 それからトイレは公園ですね。

 お風呂は月一回、無料のお風呂。夏、私の場合はペットボトルに水を入れて日向に置いておく。ペットボトル三本もあれば全身きれいに洗える。で、暗くなってからその水を浴びる。お湯ですよ。

 そういうペットボトルは一〇本ぐらい置いておくんだけれども、煮炊きでも使う。カセットコンロで煮炊きをしていたんだけれども、ボンベは貴重だからお湯で煮炊きをした方が節約出来るから。カセットボンベは一本一〇〇円だけれども、ホームレスにとっては一〇〇〇円の値打ちですから。

 ホームレスになって最初は賞味期限切れの固いお弁当を食べてますが、だんだん贅沢になって、今度は温かい物が食べたくなる。そうすると、カセットコンロを使って煮炊きするようになる。カセットコンロはゴミの中になんぼでも出てます。ただボンベは買わないといけない。だから、空き缶とか、資源ゴミ、売れる物、そういう物を売ってボンベを買う。私は生活の知恵の中で、おつゆを作る時は必ずペットボトルのお湯でやる。ボンベは半分で済むんですよ。朝作って晩まで食べたいというおつゆだから、たくさんつくるんですよね。沸かすまで大変ですよ。冬場なんか特にね。ペットボトルのお湯なら本当、半分以下で出来ちゃうんじゃないかなあ。そこまでやる人はホームレスの中でなかなか見かけませんでしたけれどね。

 それからホームレスをやっていて一番辛かったことは、世間が人間として認めてくれなかったこと。特に年配の女性の方ね。川沿いで寝てると、私は動物なんかものすごい好きだから、動物を見るとどうしても触りたくなっちゃう。そうすると、これははっきり何人かの人に言われたんですけれど、「汚いからうちの犬に触らないで下さい」って言われました。私は別に汚い格好しているわけじゃないんですよ。でもホームレスというのはわかるから。そういうふうに言う人はこれ、五〇過ぎの年配の女性に多いです。逆に三〇代ぐらいの若奥さんで、「犬と一緒に遊んでくれてありがとう」と言ってくれる人もいました。「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけてくれる人もいましたね。男の人は若い人も歳取った人も全く無視という人が多かったですね。

 私の場合はホームレスになって一ヶ月ぐらいは死ぬことばかり考えていました。でも多少なりとも、あたたかい言葉かけられたり、「寒いでしょ」とか言われたりした時に、自分なりに嬉しくなっちゃって。二荒山神社の半分まで登っていこうと。一歩でもいい。ホームレスまで、落ちるところまで落ちちゃったんだから、もう落ちるところはないんだから、階段の一歩でも二歩でも登りたい・・・。そういうふうに希望を持ってやっていたおかげで、たまたまあるお坊さんに出会えて、私は助けられました。

 だから、ホームレスやってて、希望を持てた理由は、あたたかい言葉をかけてくれた人がいたということ。だからどこかから物をもらうということは、私は恥ずかしかったよね、この歳になって。そりゃあ、もらいますよ、苦しいから。でも心の中で苦しかったですよね。私はね、物なんかもらうよりは、「寒いでしょ」とか「こんにちは」とか「犬と遊んでくれてありがとね」とかそういうあたたかい言葉をかけてもらう方が嬉しかったね。数十倍嬉しかったですよ。

 ・・・・・ホームレスになって宇都宮市の社会福祉協議会の困り事相談所、そこへ二回ぐらい行きました。もう、その時話してて、聞き流したけど、もう、結論は「住所がない」ということ。要するに住所がなければ、何の助けも出来ないということ。住まいさえはっきりすれば、対処の仕方はありますけれど、住所のない方に関しては助けようがないの、はっきり言えば。だから、住所を移したくたって、移せない立場の人はどうなるんさということだよね。一方的に言われましたから。

 それから、ホームレスになったその日の夜、自分で不安になっちゃって、あらゆるところに電話入れたんですよ。金はなかったけど、たまたまテレホンカードがあったから。市役所、困り事相談、命の相談、それから、仏教関係、キリスト関係全部。ひどいとこはね、「テレホンカードもったいないよ」って言ってパーッと、切られちゃった。それから「(あなたを食べさせていく)余裕がありません」とか言われたり。でも私は食べさせてもらおうというのではなくて、今の苦しみをその時聞いて欲しかっただけなんだよね。そんな甘えがあったら、ホームレスやって頑張ろうなんて気は起こらなかった。でも、役所もどこも冷たくて助けてはくれないというのがよくわかって、もしホームレスのまま立ち直れなかったら、また死ねばいいんだという気でやってみようと思いましたね。

 で、ホームレスをやめられたきっかけは、あるお坊さんとの出会いです。私は、そのお坊さんに助けられて、仕事を手伝う代わりにアパートを世話して頂きました。その時、ガス、水道、電気が目の前にあるということに感激しましたね。ホームレスになってみなければ判らなかった電気のありがたさというものをしみじみと感じました。

 こういう自分のホームレスの経験を生かして、これからもホームレスの支援に立ち向かっていきたいと思いますね。


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