マジメなオハナシ



★ワタシは・・・
 ワタシは、弱虫で、意気地なしで、寂しがりで、そのくせワガママで、強がりで、意地っ張りで、一人じゃ何にも出来ないくせに、一人で何かしてやろうなんていきがって、どうしていいのかわからなくなってしまいには泣きたくなってくる、そんな情けない人間だ。
 それを痛感しただけでも、ココに来た意味はあったと思う。そんな自分を受け入れて、そんな自分で生きてみて、家に帰った時に、少しでも優しく、少しでも大きく、少しでも素直な自分になれるように。

★ことば
 感動とか悲しみとか喜びとかをことばにすると、何かが違う。本当に伝えたいことは、ことばなんかでは伝えられないことなのだ。一生懸命いろいろ考えてみても、ことばにしてみたらすごく陳腐なものに聞こえる。ことばを使っても、本当の想いは伝えられないのかもしれない。
 でも、そのことばで人は傷つき、喜び、感動する。ことばにしなかったら、決して伝わらないことだってある。ことばにすることで自分に強くなれることだってある。たとえことばを使ってウソをつくことができるにしても。
 ことば自体はなんの力もないただの記号かもしれない。でもそれを心のある人間が使ったとき、ことばは力を持つんだろう。

★必要とされること
 わたしはここに居るって感じたい。ココに来てそう思った。誰も私を知らなくて、わたしがココに居るってことはなんなんだろうって思った。こっちで人に必要とされた時、わたしはココに居るって感じた。それは人の能力であったり、人格であったり、存在そのものであったりするかもしれないけれど、必要とされるってことは認められるってことだと思う。たくさん居る人の中で「私」を見てくれている、ってことがこんなに幸せなことだとは思わなかった。そして、日本に居た時の自分がどんなに幸せだったか、わかった気がする。

★やさしさ
 本当にやさしい人は、本当に厳しい人。本当に私のことを思ってくれてるからこそ、厳しいことだってビシッと言ってくれる。なぐさめてほしい時だってあるけど、なぐさめられて、同情されても、何の解決にもならない。甘えそうになる時、弱気になりそうな時、そんなわたしを叱咤してくれる、それがやさしさだということに気付くのには時間がかかったけど、今は厳しいことばも自分の中に受け入れられるようになった。
 やさしさと甘さは隣り合わせ。かわいそうだね、大変だねということは誰にだってできるけど、そんなことばでなぐさめてほしくない。そんなことばでなぐさめられない。人に厳しく、自分にはもっと厳しく、本当にやさしい人になりたい。

★がんばるということ
 「がんばる」というのは「我を張る」からきていると言い、「がんばらないスポーツ」を提唱した教授がいた。
 わたしはずっと「がんばろう」って自分に言い聞かせてきた。人並みかそれ以下の能力しかないわたしは、努力してがんばるしかないと思っていたから。でも怠けたり、サボったり、納得いくまでがんばれないことの方が多かった。それなのに人は私のことを「がんばってるね」と言うのが悲しくて、辛かった。「がんばってなんかない」って叫んでいた。「わたしの何を見てがんばってるって言えるんですか?」と先生に向かって怒鳴ったこともある。
 わたしをよく知るある先生は「お前はいくらやっても自分で『満足』だと思うことはないだろう」と言っていた。そして今もこれからも、わたしは「がんばろう」って自分に言い聞かせていくんだろう。「がんばる」ことはやっぱり「我を張る」ことなのかもしれない。

★テリトリーと妥協
 誰にも絶対に妥協できない部分っていうのはあると思う。「ココまでは許せるけど」っていう部分が。自分に関していえば、そのテリトリーがかなりはっきりしている。だから、どうでもいいことはホントにどうでもいい、でも譲れない事は絶対に譲れない。
 昔は誰に対しても、何に対しても自分の価値観を押し付けて、厳しく当たっていた。いつからか、妥協することを覚えた。自分の意思をあきらめてしまうのではなくて、自分の視野をもっと広くするための妥協だった。
 でも今からは、また違う。社会に出るにつれて妥協してしまう事は多い。夢をあきらめて、現状にあきらめてしまう。わたしはまだやりたい事が山のようにある。「譲れない夢」がある。だから妥協しない。とことんまでやってみせる。