アドラー心理学で考える、
アドラー心理学を考える
[1]なぜアドラー心理学か
随分とおおげさなタイトルです。そんなに詳しくアドラー心理学を勉強したわけではないのです。
実践を積み重ねているわけではないのです。ただ、アドラー心理学を知る前にはこういう風には
こういう考え方はしなかっただろうな、と時々思うことがあります。
多分、行動や言うことや感じ方や処理などが変わったのではないかと思う。
(もしかしたら単に年を重ねただけかも知れませんが。)
これが、いまでもアドラー心理学を学んでいる理由です。
[2]性格形成
遠藤周作の「反逆」を読む。信長ブーム元にもなったほんの一つ。山岡壮一の「織田信長」をその前に読んだ。
「反逆」では信長の性格、性癖に随分作者の思い入れがあるように思えた。特に重臣佐久間信盛を長年の
忠心など関係なく屑のように捨て去ってしまった場面は、信長の天下平定のための戦略とかでなく、性格としか
思えないものであった。鳴かずなば殺してしまえと例えられる信長だが、鳴く(なびく)かどうか
は関係なく、すべては己信長のその時の心のままに、ということ。こうした性格描写をしているが、その形成を
遠藤周作は、小さい頃の生活や行動からトレースをして明らかにしようとしている。
[3]子育て
我が家に子犬がやって来て一ヶ月が経つが、もっぱらしつけ役は次女。しつけ方について親までしつけ
られてしまっている(?)
絶対に叱ってはだめ。叱ったりすると遊んでもらっていると思う。つまり不適切な行為には注目しないということ。
甘やかしてはだめ。教えたとおりにやったときは誉めてあげる。適切な行動には注目する。
ハウスにいて鳴いてもそっちを見ない。相手をしない。
噛んだら立ち上がって相手をせず、すぐハウスに入れ、まもなくまた出す。
車に乗せたりして、外に出して社会性を身につけさせないとだめ。
こうしたことがいくつかあるのですが、これって子育てそのものだなぁ、と思うばかり。人間の親子とは上が違うから
それだけ、子育ての原理的なことが浮き彫りにされるものです。私はもう子育ては9割方終わっている
ので、こんなことをのんびりと考えられるのですが、子育ての最中の人は是非、犬も飼って、子育てと
犬育てを一緒に味わうといいのではないでしょうか。
[4]不登校について
今の世の中、いいことが本当にない。まず経済的に暗い。私なぞはまたまた給料を減額されてしまいました。
2年目の社員も減額で、「ということは今の給料が最高で後は下がるだけだぞ」と言ったのはちょっと冷たかったかな。
入れた者はいい。就職が決まらない、リストラ、転々職。かつては、所属する場所があるのは当然だった。
それが自分の所属する組織や団体を持つことが大変な努力を要する時代になってしまった。
つい最近、文科省は不登校対応の具体策として「社会的な自立」を目指すことを基本的な視点として
提案した。何年前だったかは「心の居場所」という情緒的な文言をしきりに使った。
私は「心の」を無くして「居場所」でいいとずっと思っていた。所属ということは大きく「心」の問題が関わるのだから
「心の」と重ねなくていい。そうすると「居場所」ということこそ「社会的自立」と同義ではないかと思う。
そして今回の提案では更に「絆づくりの場」を求めている。一層情緒的な対応、考え方になっているように思う。
こういう文面から、語彙から教員は何を次の一手として導き出すであろうか。また、改めてこういうことを言われなくても
当然のこととして教師は認識しているし、だからこれわ具体的な政策、我々を助けるものとしての導きとは思えない。
文教政策作成府としての文科省は違う視点から具体的方策としての不登校対応を提示していただきたいものと切に思う。
[5]趣味と嗜好
今年の大きな変化はやはり健康増進法。駅は殆ど禁煙になった。JRはまだ喫煙コーナーをなくさないが。
駅が喫煙コーナーを設け始めてから駅が非常にキレイになった。それまで、ホームから軌道に吸い殻の投げ捨て。
それで線路が埋まっているようだった。駅員がホームから吸引機みたいので掃除をしていた光景を思い出す。
こんなにまでして個人の嗜好が保護されていた。かなり多くのことを犠牲にして嗜好は保護されていた。
趣味と性格は変えられないと、私の上司が言っていたが、なるほどと納得して私もその考えを使っていた。
社会もそうだったのだろう。しかしここに来て随分と変わったものだ。
少なくとも煙草は健康のこともあり随分と標的に上がった。喫煙は限られるようになった。全面喫煙の会社や学校も出てきた。
路上禁煙の自治体も出てきた。個人の嗜好は否定はされないが限定されてきた。
この際禁煙にした方がいい。ということで私は禁煙に踏み切った。今までも何回となく禁煙をしたが
すべてうまくいかず。禁煙なんて簡単なこと、禁煙回数では誰にもまれない。
しかし、今回は本当に禁煙をしてしまった。簡単なこと。やめようと思ったら、それにこだわらなければいい。
何の苦労もイライラもなく既に2ヶ月が経過。体調は至って良好。
煙草を吸っているのが悪いことではないが、禁煙しようと決めてできないのは健康な心ではないのは事実だ。
今まで禁煙が続かなかったのは合理化していたのだろう。誤った目的の使用かも知れない。
もしこのままいけば、そう言う自分の性格を少し変えたことになるのだろうか。
[6]習慣
習慣というものはなかなか恐ろしいものである。習慣なのか欲求なのか。私の朝は車でコンビニのスポーツ新聞紙と
缶コーヒーで始まる。特にこれと言った目的もないまま、本当の習慣、習性である。
目的のないままと言ったが、目的論に立つアドラー心理学ではあらゆる行動には目的があるのだから
これもある目的に立っているものであろう。
コンビニで一息つけることで、スタートの準備をしているのである。
これで少なくとも、一線に立ったと感じるためであろうか。
もしそうだとすれば、そんなことしなくてももう少し余裕をもって起きて、もう少し早く行くか
家で新聞でも読んで、ゆっくりお茶でも飲んで、充分準備を整えればいい。
あるいは単なる浪費癖であろうか。
とりあえずここまできて、この習慣があまりに意味のないことであることはわかった。問題は
明日もこの習慣に縛られた自分でいるかどうかである。勿論、こんなことで格闘をしようなどと
考えているわけではない。おっと、これもこの習慣が続いている理由かも知れない。こんな取るに足らぬことで
縛られる自分では無いという。ならば縛られず習慣を解いてしまえばよいのだが・・・・
[7]習慣2
と言うわけで、習慣というものが決して縛られるものではなく、要は自分で形成しているものに過ぎない
ということが分かった。本当に長いこと自分の気持ちを落ち着かせたり、ゆとりの時間と考えていた
朝の習慣から開放されました。要するにいいことでなければやめればいい。しかし、単にそう思っても
出来るわけではなく、その意味、特に自分にとっての目的を考えてみればいいのかも知れない。
[8]減量作戦
個人は全体として人生に対してある態度を示すが、この態度はどれか一つの器官あるいは器官系に
現れる。とアドラーは言う。とすれば、今まで数十年に渡った過体重は私のライフスタイルが何かの
器官に、多分それは消化器系とおもうが、出ていると言うことなのだろうか。ものを食することは破壊的、
攻撃的行動という面があるという。しかもこれが自分に向いていると言うことか。もう、この後のことは
しつこいし、自明なのでやめておこう。と、ここまで自分で書いてみるとなるほどと思うものである。
要するに、減量作戦などと大上段に構えないで、「やめればいい」のだ。太ることをやめればいいのである。
[9]ため息
気がつくとため息ばかりついていたと感じる日がある。そう分かっていながらまたつくため息。
ため息はどういうときにつくのか。広辞苑によれば(こんなもの広辞苑でもないが)失望、心配、感心
などの時という。何となく満足感の無いとき、何ともやりきれない気持ちの時、何となく満たされないとき、
ため息が出る。かなり無意識的に出るように思う。あっ、と思ったときはもうついている、という感じである。
そしてため息をついてどうということはないが、多分、ため息をつく今の自分を分かって欲しいという
甘え、訴えは多分にある。何とも人間的な行動ではないか。相手あってのため息。相手を選ぶため息。自分を
分かって欲しいサイン。ところで、子供がため息をつくのはあまり出会わないように思う。大人の方が多い。
これは何故だろうか。子供はもっと直接的に自分の気持ちを表現するからだろうか。こんな婉曲な形で失望や
不充足感を表さない。それ故、子供の人間関係は直接的で、壊れやすく、あるいは作りやすい。
こんなことを書いて、ところで明日はどんなため息をつくのか楽しみである。
[10]見せるということ
このホームページは未だに誰にもアドレスを教えていないし、(本当の一部を除いて)また教える
気もない。自分をさらけ出すようで恥ずかしさもある。
ところで恥ずかしさは何から来るかというと、人からの評価を考えるのであろうし、自分で既に
評価をしているからかも知れない。あるがままの評価を受け入れればいいと言う考えもあるが、そうした
からといって何があるわけでもない。
見せると言うことで、自分をプラスにするものがなければやはり見せないであろう。人間だから何もかも
見せないというわけにはいかない。引きこもりをしていたとしても、見せるもの、示しているものはある。
虚構の優越感とでも言おうか、それはプライドと他者に感じさせるものかもしれない。考えてみると、見せると
言うことほど、隠れた意図的な行動はない。これはまた後でゆっくり考える。
兎に角、ホームページは見せることを前提としているのであるから、これをまだ公開しないということは
多分、やがてはこの内容が見せるに値する、自分にふさわしい評価を求めうるものにするという
何とも変な自己論理からだろうか。
本当の理由は、こうしてホームページの形式ではあるが、書いていると結構おもしろい、
というあたりかも知れない。
[11]へこんだ
本当にへこんでしまった。徹底的に打ちのまされたね。今までにも何回かへこんだときがあったけど、
今回は特別。血圧も急上昇。体が自分のでないように感じる。思考よりも、感情の方が揺り動かされて
感情の方が自分を覆って、こんなのは初めて。枯れ始めたと思った自分にこんな面があったのかと思うほど。
とにかく、これは何かというと、まず自分を責めている。自分で。他もそうだろうと勝手に考えが回って。
自責とか罪責ということは知っていたけど、こんなに自分に生じたのは初めて。幸い次の日にそれも治った
けど、こういうのがそのまま自分に向けられていたら、と思うとぞっとした。「なんでこんなことを」]
「あの時にああすれば」という矢が突き刺さってくる。しかも、この矢は自分で放っている。
アドラー心理学を知る前だったら、多分まだへこんでいたままかも知れない。
[12]苦手な仕事
早く過ぎて欲しい時間て言うものは幾つになってもあるもの。苦手な場面が近づいてくると、私としては
早く終わらないか、という気持ちばかりが強くなる。どうでもいいからとにかく終わらないかなと。そういう
ある日、見た夢はなんだか楽しい夢。空想的な、とてもいい気分にさせてくれる夢。起きているときはそれに
向けて一応努力をしなければならない。目が覚めた瞬間に現実に引き戻されたが、少なくとも何時間かはゆったり
したいい気持ちでいた。この夢の意味って何なんだろうか。覚えていることはなんかゆったりといい気分だったと
いうこと。私にこの意味を解く力はないが、夢は未来へのリハーサル、情動的な準備という。とすれば、
楽しさで、この嫌いな場面をさけようとしたのだろうか、あるいは情動を伴って嫌な場面に面と向かえる
ようにしたのだろうか。とにかく、そんなことを考えているうちに、この嫌な場面に対してそれほどでも
無くなった。これは大きな収穫であった。
[13]性格
横軸に共同体感覚の軸、縦に活動性の軸をとって、4つに区切ったアドラーの性格の分類があるが、非常に
分かりやすくていい。共同体感覚を社会的関心とか、周囲への関心とか、仲間への関心とか、職場での意欲
とか、いろいろな場面に応じて言葉を変えてもいいのではないか。今、日本には若者の引きこもりが100万人い
るとも言う。
(これはあまりにも根拠のない数字。こういう数字に惑わされ、青少年に対するマイナスイメージを強めて、
それで変に納得したりする風潮も困ったもの。根拠がないと言う根拠は、仮に10代から20代前半で100万人
いたとすると、1500万人のうち100万人になり、15人に1人になる。こんなに若い世代の引きこもりが
いるはずがない。この数字の根拠として、10万人の不登校が10年で100万という。何とも恐ろしい計算。)
しかし、とにかく大きな数の引きこもりがいるのは事実であろう。<共同体感覚が低くて、活動性が低い>エリア
に入ることはすぐに分かる。不登校やゲッターもそう。会社に勤めていても、何となくこういう人間も見かける。
そこでこの人たちに働きかけて、元気を出させようと活動性を高めるのはいいが、活動性だけ高めると
<共同体感覚が低くて、活動性が高い> 即ち、犯罪者や独善的、スタンドプレー、非行といったことになる。
そしてこういう子供や大人をよく見る。不登校でずっとおとなしくしていると思ったが、外に出るようになって
非行に走った子供などである。だから、まず社会的関心、周囲への関心、共同体感覚を高めて行かなくてはなら
ない。難しいことだが、時間をかけた対応が大切な所以と思う。
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