なんと大谷屋・つっしーの私情最大のコラボレートで贈る
カフェの接客についての考察・星一徹モード(笑)
以下に記します論文は(笑)つっしーの親分、大谷屋による、カフェの接客を論じるという、過去にない斬新なもの(エポックメイキングな!)コラムであります。これを読んで、サービス業のみなさんの糧となることを信じて、お贈りするものです。
そういえば今日、つっしーは代官山のQu’il fait bon!いってきました!雨にもかかわらず、すごく混んでいました!で、二階でガトーフロマージュとドゥーブルエクスプレス、味わってきました!大谷屋が絶賛していた、スタッフの対応、素晴らしいものがありました!
Tres bien!
余談はこのくらいにして、大谷屋に登場願いましょう・・・パチパチパチパチ・・・
(カフェの接客についての考察・星一徹モード)2000・2・24 大谷屋記す
こんにちは、大谷屋でーす。ようこそいらっしゃいました。今回は一寸硬い話しをします。タイトルにある通り「星一徹」モードです。(ただしちゃぶ台は飛びません。ご安心を)ご覚悟遊ばせ(笑)
カフェを愛するものの一人としてちょっと腑に落ちないことがあり、皆さんと一緒に考えることができれば幸いと思っています。
カフェでの接客について、私なりの基本的な見解と、いくつかのカフェで遭遇した事例から思ったことなどを述べさせていただきます。
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習い事の上達の基本概念として「守」「破」「離」という言葉があるのは皆さん御存知でしょうか?私はこれが、あらゆる時代や場面を超えての普遍的な原則ではないかと思っています。
「守」は物事の基本を一から手ほどきをうけて忠実に学ぶことです。たとえばボクシングでいえば、なわとび、構え方、ジャブの打ち方、ワンツーなどです。音楽ならば楽器の弾き方を学んで、譜面のとおりにとりあえずは音がだせることでしょうか。
どんなものごとにも基本があります。それを習得しないで真の上達はありません。われわれ凡人は、習いの最初は同じ動作を繰り返し行って、それが身体にしみつくまで鍛錬を行う必要があるのです。
余談ですが、ごくまれに基礎の習得を通り越して、非常に高いレベルに容易に到達できる天才も確かにいます。ただし私のこれまでの人生の中で、そういう人に実際に出会ったのは二人だけでした。
「破」は基本を習得して、それからの応用を試みる段階です。「離」はさらに基礎や応用を自家薬籠中とし、そこから自分なりの独自のやり方を編み出す段階です。
おわかりのように、基礎である「守」をないがしろにして「破」や「離」にいくことは、物事の道理を無視していることなのです。ボクシングでいえば、なわとびも出来ないジム新入性が、いきなり試合に出てクロスカウンターを狙うようなものです。(矢吹丈は例外中の例外です 念のため)むしろ物事の達人ほど基礎を大事にするものです。スランプになったときにいつも基礎にもどれ、とはよく言いませんか?
自発性や創造性が重視されている昨今ですが、ややもすると基礎的な修練を忌避して、付け焼き刃的なその場限りのアイデアを「自発性」や「創造性」と勘違いしている場面もないでしょうか?
100%オリジナルのものなどそうはありません。ほとんどが99%の基礎の積み重ねの上に新しいアイデアを乗せたものです。それを認識しないで斬新なものを作ろうとしても、ほとんどは失敗に終わります。
アインシュタインの相対性理論だってニュートン力学の基礎がなければ成立しませんでした。シェーンベルクの革新的な12音技法だって伝統的な調性音楽の歴史の上に出てきた産物なのです。
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さて、話の本題はカフェでの接客です。接客は特別な訓練がなくても、とりあえず格好だけは素人でもつけることができるので、日常的な人間関係での「思いやり」のレベルで達成できるものと認識されていないでしょうか?
でも私はそうは思いません。物のような具体的な形になりにくいので、優劣がなかなか判断しにくい分野ではありますが、カウンセリングなどと同様に、対人関係構築の分野での最高度のプロの技術ではないでしょうか。
では、プロの技術としての接客にはどのような要素が要求されるのでしょうか?私なりに挙げるのは以下のようなものです。
・接客の基本用語(いらっしゃいませ、ありがとうございました、おまたせいたしました、等々)が「感情的な意味をこめた形」で相手にきちんと伝わるようにいえること
・常にお客に対して注意を払い、「あなたに対して気を配っていますよ」というサインを示していること
・お客の感情的な側面を受容でき、同時に具体的な対応策を提示できること
・自己評価の判断基準は自分がどう努力したかではなく、お客や周囲の公正なスタッフがどう判断したかを基本とし、たとえネガティブな評価であっても受け入れて自己研鑚の糧と出来ること
・トラブルや苦情に対してきちんと処理ができ、そのことにより逆にお客の信頼を勝ちうる力量を持っていること
・上記のことをすべてのお客に対して100%ではないにしても70%で平均して提供できること
・「自分たちの職場をもっとよいものにしよう」「もっとお客さんに受け入れてもらう場にしよう」という肯定的な姿勢を以上の要件の前提として持っていること
また、これらの点を逆さにみていくと、接客に関してやってはいけないことも見えてきます。以下のようなことが私が実際の現場で不快だなあ、と感じてきたことです。
・スタッフ間での私語
・スタッフが私的な行為にふけること(タバコなどは典型)
・お客の差別的な扱い(常連と一見の区別など)
・お客の要求のタイミングを見逃して無視してしまうこと
・お客の感情的な要求を見逃して、画一的な対応や、拒絶的な対応をしてしまうこと
要するにお客というのは(実際に介入されるかどうかは別として)、「いつも自分のことにどこかで関心をもっていてほしい」という存在なのです。ですから自分が「無視された」「大事にされていない」と感じれば、そこから離れていく存在でもあるのです。お店の要はそこにいるl」であるとは、良く言われることですが、それはここからも肯定できるものです。
皆さんいかがでしょうか?マニュアル的な挨拶とメニュー出しと、料理のサーブが接客ではないのです。お客の要求を瞬時に見抜いて対応する高度な(しかも愛情に裏付けられた)スキルが接客の基本であり、また極意ではないでしょうか?で、あればそれが熟達のプロの技であることも十分にわかっていただけるでしょう。
私が座右銘にしている言葉のひとつに「LOVE IS
NOT ENOUGH」というフレーズがあります。この言葉をお聞きしたのは自閉症の方の療育についてのセミナーでした。 講師の先生は日本でのその方面の第一人者で、理論と実践がどちらも高いレベルにあり、また自閉症の方への暖かい眼差しを感じ取ることができる素敵なおじさまでした。
その先生は先のフレーズの説明として、こんな意味のことをおっしゃっていました。
「専門家というのは、愛情という名の思い入れだけで治療にとりかかっては失格である。具体的な成果を出すための専門的な知識と技術と戦略と明確な実績がなければいけない。それが専門家としての対象への愛情の本来のあらわし方である。」と
専門家にとって愛情と技術は表裏一体。どちらも欠けてはいけないものだ、と思い知らされました。カフェの接客も同様ではないか、と思います。
一方では、カフェでの接客の新しい形態として、「スタッフがあまりお客に介入しないで、自分の家のようにくつろいでもらう」という考えがあります。私はこれを、上記に挙げた接客の極意を会得したものがやろうというのならば大賛成です。優れた「破」として「離」として、お客を真にくつろがせることが出来るでしょう。
でも、これが基礎を会得していない者が、うわべだけを真似したらばどうなるでしょうか?それは単なる「無関心」や「放置」でしかないのです。
見守っていて不必要な介入はしないこと、必要なときにはタイミング良く介入できる体制を常に持っていること。このことと、無関心の結果ほったらかしにしておくこと。このふたつは現象的には似ていても、大きな違いがあります。そしてその違いはお客の立場となると、空気として伝わってくるもので実によくわかります。あまり手を出さない接客というのは、一見簡単なようで、実は非常に高度な技術であることを再認識する必要がないでしょうか?
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長々と私が何故このような議論を提起しているのか?それは私の頭の中に、あるカフェが思い浮かぶからです。そのお店は、カフェマニアの間で慈しまれ、BBSの優しい主でもあるサマンサさんも愛顧していたお店です。
いつの時期からかそのお店の変容がBBSでも報告され、私も気になってはいました。そして私がごく最近にそのお店に伺って、抱いた率直な印象は「荒廃」でした。それは何よりもお店のスタッフの方々の態度から感じ取れるものでした。
大声を挙げてのスタッフ間での延々たる私語。オーダーを取りにくる店員さんの無気力な表情と崩れた姿勢。挨拶のかけ方からわかる常連と一見さんとのあからさまな差別。とどめは、チーフと思われる方が私の前で「あー疲れたー」とぼやきながら目線をそむけて空いた客席にどさっと座った光景でした。
ここにはもはや、お客を店の大事な存在として扱おうという空気を、私には感じることは出来ませんでした。
このお店には皆さんもご存知でしょうが、いくつかの系列店があります。それらのお店は内装やスタッフの雰囲気の柔らかさ、あるいはメニューの味の繊細さなどで好評を博しており、私も何回かお邪魔しています。
確かに素敵なカフェです。それは私も認めます。お気に入りのひとつと言って間違いないです。しかし、現今で順調に運営しているこれらのお店でも、一歩スタッフの士気が低下するとお店の質が悪化する危険をはらんでいると考えています。
女性スタッフの構成比率がこれらのお店では高く、そのために接客の雰囲気が柔らかく、救われている部分は多々あります。でもその接客の様子をよく観察すると案外弱点が露呈しているのがわかります。
これらのお店で私が気がついた部分は以下のようなものです。
・私語の多さ
女性なので声が小さく、不快な感じは今のところほとんど目立ちませんが、注意がお客さんから反れているなーと感じさせることはしばしばありました
・要所のタイミングですべき言葉かけの欠如
お客を轤庁敢えて言葉かけをしないというよりも、どちらかというと来店に気がつかないで見過ごしているような感触を抱きます
・スタッフの煙草
キッチンで一服している姿を2回ほど目撃しました。さすがにこのことは直接文書をその場で渡して注意しました
・クレーム対応の基準の欠如
足を踏みはずしたり、つまずいたりして怪我をする可能性のある店内の個所を指摘したことがあります。安全管理の面で真摯に対応するのが必要との思いからです。(シビアな話をすれば、お客さんが現実にこれで怪我をして、訴訟を起こせばお店が負ける状況でしょう)
対応して下さったスタッフの方は、お話を聴いてくださいましたが、こちら側の印象としてはお店の見識の曖昧さは否めませんでした。「オーナーの趣味ですから」という言葉もスタッフの口から出てきて、これには正直釈然としませんでした。
私のこのような捕らえ方が厳しすぎると、感じられる方も当然いらっしゃるかもしれません。また、接客に何らのコンセプトも訓練も必要ない、と考えるお店も当然あるかもしれません。それはお店の自由です。ただし私はそういう店には行きません。
厳然たる事実としてあるのは、カフェは身内の私的なサークルではなく、来店者に制約を設けない純然たる商業行為であるということです。
そこにお客の取捨選択というフィルターがかかっている以上、接客にも最低限のレベルが必要ではないでしょうか?商売の見地から考えれば、カフェも油断をすれば淘汰される運命にあるのです。客単価のあまり高くない業態であるからこそ、なじみの客だけに対象を限定することなく、常に新しい顧客を開拓する必要があるのです。
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さて、私がもうひとつ気に掛けていることがあります。それはこれらのお店のオーナーの見識です。上に挙げたお店に対する懸念は、BBSでも複数の方からでています。お客の側からの指摘がこれほど複数出てきているというのは、これがかなり日常的な現象であり、オーナーの目に触れる可能性も十分あるということです。
オーナーの方はいったいこれらの事例に気がついてるのか、それともあるいは気がついているのに指摘できないのか、あるいは問題として認識していないのか、どれなんだろうか、とふと疑問に思ってしまいました。
私がその立場ならば、問題のあるスタッフを即座に呼び出して面談します。当該スタッフの具体的な問題事例を把握した上で、注意し、態度の是正を要求します。それに同意しない場合には辞めさせることも当然考えます。
何とかこの事態の重要さにオーナーが気がついてほしいのです。気がついて、対応してほしい。それが率直な気持ちです。外部からの組織へのネガティブな評価は、なかなかその中枢までは届きにくいものです。ですから組織の責任者にその組織のネガティブな評価が届いたときには、実際はその20倍くらいの不満があるのが実態と思ったほうが良いのです。
お店の存続と、オーナーの管理能力が問われる課題です。「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があります。職場の士気が何らかの原因で低下したときに、それを意識的に元に戻そうという流れがなければ士気はますます低下するものです。管理的な立場にあるものは、そういうときに敢えて憎まれ役を引き受けて、苦言を呈する必要があると考えます。組織の上の人間がきちんと言うべきときに言わないと、下の人間は「ああ、こういうことでも許されるんだ」と認識してしまいます。それは組織の自壊の始まりなのです。
「スタッフの自発性に任せて職場の運営をしたほうが生き生きした職場が作れる。あまり堅苦しい規律は必要ないと考えている」もしかするとオーナーの方はそう考えているのかもしれません。
なるほど、7−8人程度の小人数の限定された小人数の集団ではトップのニュアンスも比較的浸透しやすく、そのような運営が可能な場合もあることは私も認めます。
ただし、集団の人数が20人以上になってくると、はっきりとした組織運営の管理的な手法がどんな集団でも必要になってきます。
このような大きな集団での「自由ににやらせる」というやり方は、よほど組織として成熟してきて、個々の構成員も職場運営に対して自律的な姿勢を保っている場合ならば可能ですが、そのような集団は例外的で、非常に稀といわざるを得ないのが実情でしょう。「自由」というのは「規律」というベースの上に存在するものです。ベースのない見かけだけの「自由」はただの混乱と退廃と怠惰でしかありません。
オーナーが、ここはかくあるべし、という姿勢を時には「鬼」となって示してこそ、現場スタッフの統一も取れるものです。
誤解されると困るので注釈しておきますが、私は四面四角の堅苦しい接客を望んでいるのではありません。意識を常にお客の側に向けていること、よりよい職場を作っていこうという気概をもっていること、そういった前向きの精神の表れをオーナーが規範として、常に示してほしいのです。
オーナーの前向きの厳しさをスタッフが受け止めている職場では、お客である我々もお店のすがすがしい雰囲気や、スタッフの自発的な快い動きを感じ取ることができます。そういったお店に現実に私は何軒もお邪魔させていただいています。
私が苦言を呈した、上に挙げたお店もそうなってほしいし、そうできる、と確信しています。
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私はカフェが好きな人間です。いい年をこいて、日参しているショーもない人種です。ただ、少しばかり皆さんよりも長く生きてきた分だけ、カフェも商業業態の一種であり、人間が作るものであるから、運営のノウハウも他の組織と同一である、と一方ではドライに気がついています。
商売の原則、接客の原則といったものを外れてのお店の長い存続は、この世の中では非常に困難なようです。愛するカフェが、かつてのカフェバーやディスコみたいに泡末と消えてしまってほしくない。一つのこの国の文化として継承されてほしいと思っています。そんな思いがこの辛口の文章の底にあることをご理解いただければ幸いです。
私は案外保守的な人間かもしれません。でも受け継がれていくものの中にも、新しいもの以上に貴重なものが潜んでいることを、皆さんに知っていただけたらば、と思いました。
(了)