As Time Goes By

  • 濃密な夜      S・Tに    7
     倉庫は、商店街の通りから狭い路地を折れ、迷路のように不規則な紆余曲折を繰り返すいくつかの角を曲がり、ブロック塀に囲まれた小路の奥にひっそりと身を潜めている。あせた中間色のシャッターがわずかに震えて独り言のような音をたてている。脇のモルタルの壁に、取っ手の壊れた立て付けの悪い木製ドアがあり、開くとそのまま階段になっている。
     私は靴を脱ぎ捨て、慣れた歩数−−一段飛ばしで四歩−−で二階に上がり、狭い廊下の電球をつけた。左手に三つの部屋が並び、右手に洗面用の共同流し台、突き当たりにトイレがある。真ん中が私の部屋だった。
     階下は、商店街で食料品店を営む大家の倉庫らしいが、何を入れてあるのか知らない。大家も滅多にやってこなかった。もともと倉庫であったものを改造してやっと四畳半の三部屋を確保したものだろう。だから昼間でもそこに人が住んでいるようには見えない。どう見ても使い古された倉庫か廃墟だ……私は、ここをアパートではなく、倉庫と呼んでいた。
     部屋は外と変わらず寒かった。コートを着けたまま、唯一の暖房具である電気ストーブに身を寄せた。ラジオのスイッチを入れ、米軍基地向けの放送にダイヤルを合わせた。吸いたくもないタバコに火をつけ、天井の暗がりに向かって煙を吐き出す。ラジオの音声や煙の粒子、吐き出す息の暖気、蛍光灯の淡い光の粉末、そして電気ストーブの赤い放熱。それらを隅々にまで充満させる以外、この部屋を暖める方法が見当たらないのだ。
     仰向いて目を閉じた。床から地鳴りのように自動車の走る音が伝わってくる。倉庫は自動車の走る商店街から案外近くに位置しているのかもしれない。曲がりくねった小路が方向感覚を狂わせるため、いまだに商店街がどの方角に当たるのか指定できない。季節によって、風の向きによって、あるいは天候によって倉庫はさまざまに移動したり向きを変えたりした。もっとも、部屋の窓は隣家の外壁がほとんど接するばかりに迫っており、それを確かめるすべはなかったが。
     隣室はともにまだ帰ってきていないらしい。奥のほうは私と同じ年齢の予備校生、反対側は四十歳前後の独身男が住んでいる。独身男は商店街にある精肉店に勤めているらしいが、確かではない。その精肉店の前を通りがかっても、目にはいるのは皮をはがれた巨大な豚が何頭もぶら下がっているところばかりだった(それを見るたび、予備校生は「南無阿弥陀仏」とつぶやいて、おどけて見せた)。
     倉庫には私が一番古くから住んでいる。学生ばかりか占めていたこともあったが、いつの間にか出ていった。独身男が、この、格安だがあまり健康的とはいえない倉庫に越してきたことは、当初少なからず好奇の的だった。すでに親しかった予備校生と私は、独身男が果たして独身なのかどうか、なぜこんな所に移ってきたのか、大いに想像をたくましくし、勝手な憶測を並べ立てあった。予備校生は“出稼ぎのための仮住まいだ”と言い張り、私は“単なる独り身なのだ”と主張した。そこで、私たちは<優越感>を賭けて(金を賭けるような経済的ゆとりは二人ともなかった)、事の判明を待った。しかし、それから一年近く経った今でも真偽のほどは不明であり、<優越感>は棚上げされたままだった。結局、予備校生も私も、彼を独身男と呼ぶことに慣れてしまった。
     私たちは独身男と顔を合わせることがよくあり、そのたびに挨拶を交わしたが、それ以上親密さを増す機会を持たなかった。だが、互いに拒絶し合っていたわけではない。事実、私も予備校生もしばしば独身男から「飲めるんだろ? 今度暇なときに一杯やろう」と声をかけられた。それは単なる外交辞令とは思えない、ある親密さを含んだ言い方だったし、私たちも承諾の返事をしていた。ただ、おもに独身男の「暇なとき」がなかなかやってこなかったのだ。
     目を開くと、煤ばんだ展示用にタバコの煙が層を作っている。ぼんやり、<女>のことを考えた。
2003年05月11日 22時51分27秒

  • 濃密な夜      S・Tに    6
    「よォ」と肩を叩かれた。振り返ると、Rがニヤニヤしながら立っている。「お前の後ろ姿は、さしずめ“考える人”ってとこだぜ」
    「よせよ、眠いだけだよ」
     私は目をこすって見せた。Rはそれには答えず、かたわらに腰を下ろした。
    「大した見物人だな。やつらもいいさらし者だ。あそこのタテ看がなかったら、チンドン屋か仮装行列だと思われても不思議じゃない」
     ガムを噛む横顔が冷ややかな口吻を誇張してみせる。Rは急にひそめた様子で言った。
    「例の殴り込みは明日かあさってになるらしい。だが、詳しいことは教えてくれなかった。マル秘ってわけだ。もはやオレたちは部外者、つまり一般学生だからな。まあ、どっちにしたって、ここでこうしている限り、指をくわえて見ているしかない」
     指をくわえて!
     Rのその言葉が私の記憶の堰を切った。さっきからの不思議な感慨に思い当たったのだ。
     何ということだろう。私の思いは幼年時の神祭の雑踏に潜んでいた。大学の構内にいながら、遠い昔の故郷の村祭りを夢見ていたのだ。人垣を縫って私が見ていたのはデモ隊ではなく、神輿の荒々しい動きだった。聞いていたのは、シュプレヒコールではなく、はやし立てる笛や太鼓、綿菓子を持った見物人たちの談笑であった。ましてや、私のどこに授業料や校舎移転の問題があろうか。私は単に神輿担ぎになりたいだけだった。羨望と称賛を一心に浴びながら祭りを動かし、人々を浮き足立たせる祭礼の中心、神輿担ぎに。デモ隊を取り巻く群衆は私にとって恍惚と陶酔の演出者に過ぎなかった。そして、その視線の寵愛を受けられる「参加した彼ら」に、私は長い間、十年前の記憶を経て、懐かしい羨望と嫉妬の念を抱き続けてきたのだ。まさに指をくわえて!
     それほどの熱望にもかかわらず、恐怖が、私にそれをさせなかった。恐れていたのは、逮捕されることなどではなかった。私には、自分が異議申し立て(プロテスト)のために参加するのではなく、ただただ晴れがましい舞台の上で神輿を担ぎたがっているのが予感されており、それを多くの<一般学生>の目によって見抜かれ、暴かれるのが怖かったのだ。
     決定的なことは、そのような自覚を得た時点で、すでに私はデモ隊として見られる側でもなく、一般学生としての見る側でもなくなったということだった。あたかも円形劇場の舞台と観客席を見るように、鮮やかな対照を成す構内を上空から眺めているに過ぎないということだった。私は確実に情況から疎外されてしまったのだ。
     オレは糞以下だ、と私はつぶやいた。その時、笛が鳴り響いた。顔を上げると、デモ隊がジグザグ行進の体勢に入ったところだった。途端に周囲に笑いの波紋が起こった。デモ隊の動きが針に突かれた芋虫が身をよじるさまにそっくりだったのだ。
    「よくやるよ」とRは腕を組んで、ひときわ声高に笑った。「空振りを素振りだと言い張る子供の地団駄、か?」
     周囲の連中も、皆、照れて頬を染めているように見えた。オレは糞以下だ、と私はもう一度つぶやいた。「見ろよ」とRがどこかを指さして肩をこづいた。オレは糞以下だ。あたりに笑いのさざ波が広がった。私には、もうデモ隊も野次馬たちも目に入らなかった。逆光線の中で反射にきらめく海の広がりのように、あたり一帯がひどくまぶしかった。
     私は立ち上がり、門に向かった。背後でRの声がしたが、すぐに周りの抑えた笑い声にまぎれ込んだ。デモ隊の彼らは危機感に裏打ちされた情熱に胸を焦がし、充足していることだろう。周囲の見物人など失望の壁にしか見えないだろう。オレはまったく糞以下だ。
     腹の底からこみ上げてくる可笑しさをこらえながら、もしかしたらRも神輿を担ぎたかったのかもしれない、という思いがよぎったが、それももうどうでもよかった。神輿担ぎの自覚によってさえ、私はこれまでよりわずかに気が楽になる以外、少しも変わりはしないのだ。
     私は、可笑しさに涙ぐみながら、大学を振り返り見た。遊歩道の枯れ木立が織りなす神経のように細かな網目模様の向こう側に、色あせた灰色の校舎が、放送終了後の13インチテレビの画面のようににじんで見えた。
2003年05月10日 23時07分43秒

  • 濃密な夜      S・Tに    5
     さほど広くない構内においても、デモ隊はいかにも貧相で滑稽に見えた。
     校舎の入口付近に体育連盟の制服学生が、私服警官だと噂される男たちと肩を並べている。その目の前を60人ほどの芋虫のような一隊が、割れて聞き取れない拡声器からのアジテーションに応えて何やら叫びながら行進してゆく。だが、周囲を取り巻いた見物学生の数のほうがはるかにまさっており、奇妙なコントラストを成していた。
     その日−−試験週間の第一日め、時間割に私の受験科目はなかった。私はデモの様子を見るためだけに大学にやってきていた。校内の隅に、やや高くなった芝生の植え込みがあり、そこに座って、もう数十分間、デモ隊や見物学生を眺めていた。
     見物学生たちは試験の空き時間をつぶすために集まってくるらしく、そのほとんどが小脇に教科書やノートを抱えている。彼らの表情は幾分侮蔑的だったり、嫌悪感に満ちていたり、野次馬興味の面白半分であったり、曖昧な微笑を浮かべていたりした。
     それらに見飽きた私は、穏やかな冬の日差しを浴びながら目を閉じた。時折鳴り響く爆竹の音やシュプレヒコールが、どこかに吸い込まれてゆくのを感じていた。心の奥に、暗い静寂が口を開け、そこに流れ込んでいる。そして、それが誘い水のように遠い記憶を呼び戻す。
     ……よみがえってくる。十年前の13インチのブラウン管−−黒煙のたなびき、暗灰色のマイクロバスの群れ、赤い回転灯、飛び交う喚声、切れ切れの汚れた旗、時計台にしがみつくヘルメット学生、そこに飛び込む冷酷な放水、投げ返される火焔瓶、そして登校する学生たちの燃えるような目、目−−だが、それらの断片的な記憶には何の有機的なつながりもない。漠とした興奮が、13歳の少年の胸の奥に一点のシミとなって残った。そのシミは私の内部で風化もせず、再生もされず、原色のまま凍結し、保持されてきた。いつか氷解して熱い命を息吹くだろう、そう思っていた。しかし、それらの記憶に一つの秩序を与えるために学習し、新たな争点を見い出すにも、あるいはそれ自体に意味を問いただすにも、私はあまりに怠惰で臆病すぎた。
     その時も、構内を埋め尽くしたあらゆる学生たちの一つ一つの眼球に、自分がデモ隊の一員として映っている姿を想像してみるだけで、カタツムリの触角のように臆病に萎縮してしまうのを感じた。しかも、その喧噪の中でさえ、私は眠気を感じるほど怠惰なのだ。
     前日、Rから与えられた参加・不参加の選択を前に一瞬とはいえ逡巡したのは本当だったのだろうか。私は本気でこのデモに身を投じてみることを考えてみたのだろうか……。
     それにしても、デモ行進のリズムや笛の音、爆竹や喚声が、私の過去のかの谷一種郷愁に似た思いを含んでたゆたっているのは何だろう。十年前の記憶のせいではない。十年前のブラウン管の前でも、やはり同じ思いを抱いていたように思われるから。もっとはるかな過去の日、どこかで味わったことのある不思議な感慨。
2003年05月10日 22時29分25秒

  • 濃密な夜      S・Tに    4
    ●その2
    「参加するかどうかはオレたち次第なんだ。去年の例もあるから知ってると思うが、参加の仕方は二つある。デモるか、教室に乱入するかだ。デモのほうはすでに頭数はそろっているらしい。サークルに入っている連中の大半は参加するわけだからな。それにデモのほうは安全だ。写真撮られるにしても先頭のリーダーぐらいで、後にくっついてゆくオレたちには関係ない。しかし教室に乱入するほうは、そうはいかない。ペンキを撒くか殺虫剤たくか、あるいは答案用紙を破ることになるのか、とにかくパクられる可能性もないわけじゃない。当然その覚悟もしておく必要がある」
     学年末試験を翌日からに控えたその日、友人Rから持ちかけられた「面白い話」とは、授業料値上げと校舎移転問題への抗議行動の一環として『後期試験粉砕』のための一翼を担う気はないか、という誘いだった。話は学部自治会幹部からのものであり、Rはその活動家の友人というわけだった。
    「誤解するなよ。これはオルグじゃないんだ」とRは声を潜めて付け加えた。
     私はあたりを見回した。大学近くの喫茶店のせいで、店内のあちこちに学生らしい連中が陣取っている。だが、そのほとんどが血色のいい温室栽培の花弁のような横顔を見せており、Rが警戒しているような者は見当たらなかった。
     値上げされた授業料は新入生の問題であって、在学生には影響しない。校舎移転は四年も先のことで、そのころには卒業してしまっている。だから、自分には関係ない。ヘルメットをかぶっているやつらはバカだ…。
     私の周りには、そうした理屈を得意げに振りまわす者が多かった。もちろん、そういういい加減な主張には我慢できなかった。しかし、それ以上でないのも事実だった。私には、何らかの行動を起こすためのたった一つの、だが決定的な危機感が欠落していた。
    「オレとしては、参加したいんだ」とRは黙り込んでいる私を見すえて言った。「しかも、デモるだけでは意味がない。教室に殴り込んで、答案を、“優”が欲しくてうずうずしている連中が大事そうに抱え込んでいる答案用紙を奪い取り、引き裂き、ペンキをぶちまけてこそ、オレにとって参加する意義を持つ。つまりオレの興味はその快感にあるわけで、情況とやらに異議申し立て(プロテスト)する気は、まあ、ないよ。
     ところが、だ。考えてみると、オレにはパクられた時の覚悟ってやつがまったくないんだな。万一パクられてしまった場合には、大学からはマークされ、当然就職はパァだろうし、親からは見放されちまうかもしれない。もちろん、それも面白いっていえば面白い。酒の肴ぐらいにはなるだろう、それも他人のだ。だけど、オレは御免なんだ」
    「つまり」と私は言った。「こういうことなのか。安全なデモのほうは選びたくない、しかし危険な乱入はもっとイヤだ、と」
     Rは、ゆがんだ笑いを浮かべて、うなずいた。「で、どうなんだ、お前は。対岸の火事を決め込みたくないはずのお前は」
     私は言い淀んだ。気持ちのあちこちを探ってみた。重苦しい不快感が奥のほうで対流している。口の中に唾が沸いてくるのがわかった。
    「正直言って」と私はやっと答えた。「どうしていいのかわからない。参加してもしなくても、不満が残りそうな気がするんだ」
    「ここで議論するつもりはないさ」とRは余裕に似た笑みを含んだ目で言った。「お前は、この選択によって何か重要な本質を問われているように思っているかもしれないが、それは違うぜ。オレに言わせれば、この選択はゲームみたいなものだ。好奇心の問題だよ。好奇心が、自分の将来ってやつを賭した危険性を乗り越えられるかどうかってことだ。それだけだけさ。なにしろオレたちには思想的背景ってやつがないんだからな。その限りにおいて、これはゲームなんだ。そうでなければ今ごろ悩んだりするもんか。とっくの昔にどこかで活動してるはずだ。ただ、知らぬ存ぜぬの学生でありたくなければ、せめては試験を中止させるくらいの意思表明をして見せたらどうか。そういうことさ。もっとも、なぜ試験中止なのかは、オレにもわからないけどな」
     Rは、そこで息をついた。冷え切ったコーヒーがカップの底で揺れている。私はRの饒舌を止める何物も持たず、黙ったまま頭を垂れていた。
    「我が身可愛くっていうのは、恥ずかしいことじゃない。ほんの少し、自己保身の本能が強すぎるだけなんだから。……傲慢なようだが、オレには活動しているやつらの気持ちがわかるんだ。少なくとも無関心を装ったり、バカ呼ばわりしたりはしない。恥じなくてもいい理由が、そこにある。こういう言い方が傲慢だとしても、そういう連中ほどじゃない」
    「いや!」と私は思わず声を上げた。Rは驚いたように目を見張った。だが、私は次の言葉を飲み込んだ。Rの目が意外なほど熱っぽかったのだ。ついさっきまでの冷ややかな微笑が消えていた。
     私は再びうなだれ、飲み込んだ言葉を胸の内で反芻した。……いや、違う。活動しているやつらをバカ呼ばわりする胸くその悪い連中と、ここてこうやっているオレやお前とは、結局少しも変わりはしない。
    「で、……」と私は申しわけのように言った。「自治会の友人には何て返事する気だ?」
    「ふん」とRは鼻で笑い、タバコをくわえた。その目は、もういつものRに戻っていた。「もう返事はしてある。お前の答えはわかっていたからな。もちろん、オレも同じだよ。返事は、NO、NON、NEIN……」
2003年05月10日 17時42分31秒

  • 濃密な夜      S・Tに    3
    <女>は、部屋の洗面所でもう一度吐いた。しかし、<女>の胃にはもはや吐くべき何物も残っておらず、わずかに赤黒く濁った酸っぱい臭いの粘液を出しながら、嘔吐の衝動に空しく身を震わせるばかりだった。
     私は汚れた<女>の口元を濃い口紅の赤とともにぬぐい去り、水を飲ませた。それから苦労してブーツを脱がせ、ベッドに横たえた。<女>は、岸に打ち上げられた魚のように全身を弛緩させ、すぐに完全な眠りの深みに落ち込んでいった。
     <女>の寝姿を見ながらタバコを吸った。頭の芯が浸みるように痛んだ。私もまた、疲れていた。明るさの調節ができる照明器を完全に消し、<女>の横にコートも脱がずに潜り込んだ。多分そのあと、夢を見ていたのだ。
     夢の続きを見そうな気がして、目を閉じることができなかった。何度も天井の熱帯性植物のぼんやりした輪郭をなぞっていた。なぞっているうちに、ふっと天井の印刷が消えた。替わりに<女>の赤い唇が動くさまをハッキリと見た。いや、実際には耳元でささやかれた<女>の寝言だった。ただ、次の瞬間、みぞおちのあたりに熱いものが突き上げてきた。素晴らしいパンチを受けたときのように息が詰まった。唇は《オジちゃん…》と言った。
     ああ、俺は惨めなハエのようだ、と私は考えた。ハエ……。今のこの場所から飛び出すことは、その気になればいつだってできる。外界はそこに見えているのだから。そういう確信にあぐらをかく虫けら。だが、本当は外界とその場所とは透明なガラスで仕切られている。ガラスを知らないばかりに、外界への突進と衝突を繰り返し、次第に首と羽根を疲労させながら、失墜へと向かってゆく絶望的な徒労を免れ得ない愚かなハエ。
     <女>は<オジちゃん>を夢見ているのだろう。ガラスを取り除けるのは<女>以外にいないというのに、<女>は連れ込み専門の、情事専用の一室で、私と体を隣り合わせながらも《オジちゃん》とつぶやくのだ。私はかたわらで壁や天井を眺めている。何百組もの男と女が情欲のとりことなってベッドをきしませながら汗にまみれ、歓喜のうめき声や嗚咽、体液や化粧品の香りを放散させながら過ごした部屋。それら欲望の残留物をたっぷり吸い込んだ壁や天井の無表情に囲まれて、私は満たされない欲求を抱え込み、<女>の寝息を数えているのだ。この部屋の隣や頭上では、すでに幾組かの一人前な性的行為が遂げられたことだろう。いや、この同じ空の下で無数の雄と雌の交わりが行なわれている。そして、夜が明けると、皆おくびにも出さず、すまして街を闊歩するのだろう。なんという奇妙な透視図…。
     苦々しい思いで、私は眼前の闇に向かって大仰な笑顔を作ってみた。熱い息を吐いた。熱帯性植物はそよとも動かない。再び、視線で広い葉を一枚一枚なぞってゆく。そのうちに、いつしか口の中で呪文のように唱えているのだった。
    《オジちゃん、オジちゃん、オジちゃん………》
2003年05月10日 15時53分37秒

  • 濃密な夜      S・Tに    2
     眠っていたのか目覚めていたのか、よくわからない。睡魔の浅瀬を浮いたり沈んだりしながら幾時かさまよっていた。目の前に赤黒い闇が見えても、まだ自分が目を開いているのかどうかいぶかっていた。しかし、自分の吐息にアルコールの不快な臭いをかぎつけたとき、何もかもを明瞭に思い出した。同時に、酸っぱい胃液が喉もとまで這い昇ってきて泡を弾じた。
     闇が青くなった。さらにやや明るさを増して黄色が重なり、一瞬の闇を経て、もとの赤に戻る。
     目を凝らすと、大柄な模様が浮かんできた。照明器を隠す段のついた天井に、熱帯性植物の葉が節操なく広がり、せめぎ合っている。媚びも拒絶も見せないその印刷は、天井からゆるやかな弧面を経て壁に連なり、下方にうがたれた擦りガラスの小窓までをも囲んでいる。部屋の空気は、その小窓からの光を溶かし込んで重く沈静しているのだ、通りのネオンサインの規則的な彩光を怠惰に受容しながら。
    <女>が寝返りを打った。拍子に、波立つ髪が私の頬にかぶさった。深い寝息は疲労と酔いの幾重かの底に力無く吸い込まれてゆく。その吐息のたびに頬の髪はおびえたひな鳥の羽毛のように打ち震え、茶色に染められたその一節一節に、融けた闇が赤くなったり青くなったりしてとまる。香水が亡霊のように揺らめきながら立ち昇る。亡霊は、私たちの体と体の間にもむせるほどこもっているはずだ。
     遠くからクルマのクラクションが迷い込んできて、忘れそうになるこの場所の在りかを知らせる。
     一体、今、何時ごろなのだろう。全身が砂を詰められたように重い。
     私と<女>はつぶれた二個の果実のように体をもつれさせて歩いてきたのだった。<女>は、その途中二度嘔吐した。そのたびに「疲れた」を連発し、「眠い」と訴えた。駅からさほど離れていない一群の歓楽街に入り、安ホテルの入口に達したときには、すでに<女>は私の体に全身を任せ、嘔吐のための悪寒と疲労と眠気でほとんど無意識状態だった。
     双方の顔が見えないようにカーテンを垂らした受付の窓口で、「お泊まりですね」という男の声を聞きながらこの部屋の鍵を差し出されたときのことも、どれくらい前のことなのかわからない。
2003年05月10日 14時29分11秒

  • 濃密な夜      S・Tに    1         【1981年・冬】記
    ●その1
     重いグリース状の粘性を帯びて、時は緩慢に音もなく流れている。闇は嘲笑うように光を奪い去っている。私は肉体を持たずに、高みで浮遊している。そして眼下では何かが巨大な蛇のように長々と身を横たえて流れているのがわかる。
     流れは氷河のように穏やかだが、じわじわと河床を浸食している。その細かな震動が私の内蔵にじかに伝わり、快く全身に広がっている。黒い流れや自分の居場所が何であるのか、私にはわからない。ただ、次第に強くなってくる快い痺れに身を任せながら、頭の芯が融け始めるのを感じている。
     ふと目を落とすと、流れの表面に一個の気泡が生まれているのが見えた。それは風船のように半球の身をせり出したかと思うと、見る見る美しい球形を成し、やがて音もなく面を蹴って宙に舞った。そして、舞い昇りながらも徐々に膨らみを増してゆく。よく見ると、流れの中からは次々に無数の気泡が吹き出している。私は得体の知れない恐怖感に襲われてしまう。心臓の音が聞こえ始める。なぜ怖いのか私にもわからない。見上げると、気泡は天にまで至り、飽和したかのように行き場を失い、今度は頭上から迫ってきた。私は身をひるがえそうとするが、ないはずの体は金縛りにあったように動かない。頭ほどの一個がまさに私に触れようとした。次の瞬間、私は思わず首をすくめ、叫び声を上げた−−。
2003年05月10日 14時01分53秒


    • UFOの記憶、そしてマチコ。    3
       マチコは、下宿住まいだった。
       実家は郡部の、大きな川と森のある、小さいが美しい町だった。私も何度か訪れたことがあるその地は、電車とバスを乗り継いで3時間近くかかり、通学するのは到底無理だった。
       しかし、だからといってマチコは夜遊びするような性格ではなかった。むしろ、厳格さを自分に課していた。要するに、真面目な生徒だった。
       だから、その土曜日の夜、二人とも家に帰らず、最終電車で私の悪友宅に遊びに出かけたのは、それ自体、ちょっと不思議でもある。

      「ったく、何だよ、こんな時間に」
       友人は、呆れながらも、やれやれ仕方ないと言わんばかりの皮肉な、しかし親しみのある笑顔で二人を迎えてくれた。
       友人は両親と住んでいるが、部屋は玄関を通らなくても出入りできた。
       初対面の友人とマチコを紹介したあとは、ずっといろんな話をした。そう、ただ話をした。古風に、トランプをしたような気もする。何か変わったことがあったとしたら、マチコがトイレに行った隙に、友人が声をひそめて、こう言ったことくらいだ。
      「おい、いいのか? 席を外して時間を作ってやってもいいぞ。なんだったら、オレは別の部屋で寝てもいい」
      「気を遣うなよ。そんなつもりは全然ないから」
       友人が考えているようなことは全然イメージできなかった。マチコとは、手をつないだことはあっても、それ以上ではなかったし、それ以上を望んだこともなかったような気がする。
      「いいんだよ」
       私は、無理にではなく笑って見せた。
       ふーん、というような表情で、友人は私をしげしげと見た。何もかも知り合っている仲の友人だった。お前らしいねと言いたげな表情にも見えたし、お前らしくないねと言っているようにも見えた。
       夏の終わりとはいえ、朝は早かった。
       友人宅で数時間過ごすと、もう外が白み始めていた。もちろん、始発の電車で戻るつもりだった。マチコも私も、前夜に帰宅してないということでだれかが騒ぎ始めるのは望んでいなかった。たまに連絡もせずに友人宅に泊まってしまうようなことがあるとはいえ、私の両親だって心配するだろう。そしたら、厄介だ。何しろ、「まだ高校生」なのだから。
       友人宅でたっぷり話をしたあと、マチコと私は駅のホームで電車を待っていた。人影もない、小さな田舎の駅。ぐんぐん明るさを増してくる空が、その日もまた残暑が厳しいことを予感させた。
       だれにも言えない時間を共有した。ただそれだけで、私とマチコには、また特別な思いが重ねられたように思った。
       と、その時だった。指先に、電気が走るような感覚を覚えた。
       最初は、気のせいかと思った。しかし、それは確かに電気の流れによる痺れるような感覚だった。ハッとして手を引いた。私の手は、マチコの手を握っていたのだ。
       マチコの顔を見た。マチコはまっすぐにこちらを見て、ほほえんでいた。
      「今の、何?」
       マチコの長い睫毛と、はっきりした目元がきれいだと思った。
      「なんか、ビリビリしたよ。指先が」
       今度は、おかしそうにくすくす笑った。そして、マチコはこう言った。
      「だれでも、そのつもりになれば、そうなるのよ」
       不思議だが、そのとき、私はまたも、こう思ってしまった。
       ああ。だれでも、そうなるのか…。
      「え? じゃあ、もう一度やってみてよ」
      「いいわよ」
       再び、マチコの手を握った。軽く、触れるような感覚。神経を指に集中した。すると、またも電気の痺れる感覚が指先に広がった。また、思わず手を離してしまった。
      「ね?」と、マチコは首をかしげてほほえんだ。
      「オ、オレにもできるのかな?」
      「もちろんよ。やってみて。集中して、私に電気を送ると思ってみて」
       そう言って、マチコはまた手を差し出した。
       まるっきり子供のようだった。私は、言われるがままに、手を取り、神経を集中させて、マチコに電気を送ろうとしてみた。すると、今度は自分にもそれがわかった。わずかにではあるが、指先に痺れる感覚が起こった。明らかに、電流だった。
       驚いた。こんなことがあるのか。しかも、こんなことに、今までなぜ気がつかなかったのだろう。そのときは、本当にそう思った。だからこそ、マチコに言ったのだ。
      「全然気がつかなかったよ。今度、だれかに試してみよう」
       マチコは、明るくほほえみながら、うなずいて言った。
      「そうしてみたら?」

       あの朝の記憶は、それで途絶える。そのあとの記憶はない。

       マチコとの関係は、長くなかった。
       半年ほどして、私は高校を卒業し、大学の関係で東京に出た。マチコは、高校3年になった。私たちは、しばらくの間、手紙の遣り取りをしていた。しかし、次第に手紙の頻度は少なくなり、やがてなくなった。
       何があったわけでもなく、自然に消滅する関係。確たる絆は、結局、何もなかったということなのだろう。今思えば、あれは恋愛とも言えないほどの未熟な遊戯だったのかもしれない。
       マチコについて、今、残っているのは、数十通の手紙と、あの鮮烈で不思議な二つの体験だけだ。
       
       以後、あの赤い3つの光を目撃したことや指先の電気の話を、何かの折りに人にすることがあった。それは、UFOは実在するのかなどという話題になったりするときだった。最初のころは、私も意気込んで、自分の体験談を話した。大概は、マチコのことは抜いて話した。しかし、たまに親しい相手だと、ここに書いた話をすべてすることもあった。そして、いつもではないにしろ、私は電気の話については実際に再現して見せようとしたこともあった。しかし、もちろんそれはいつもうまくいかなかった。そのたびに、UFOの記憶も、つまりはマチコとのことも、へたな作り話だと呆れられる羽目に陥った。
       そんなことが度重なり、私はこの話を自分の中で封印するようになった。だれに語るべき話でもないのだ、と思うようになった。そして同時に、すべての記憶が次第に曖昧で怪しいものになっていくのだった。あれは、本当にあったことなのだろうか、と。
       しかし、もちろん、あれはまぎれもない事実だった。
       マチコ。
       それにしても、キミは何者だったの?   【完】
    2003年05月02日 09時44分54秒

    • UFOの記憶、そしてマチコ。  2
       アルバイトの一週間はアッという間に過ぎ去った。夏も、終わりかけていた。でも、マチコと時々会うようになっていた。
       その夜も、河原の土手に並んで腰掛けていた。あたりは暗くなっていた。見下ろす川面に明かりが反射していた。
       街の中を流れるその川は、さほど大きくない。橋も数キロごとに架かっている。時間は、おそらく8時ごろだったと思う。だから、人気のない場所とはいえ、対岸を走るクルマだって見えたりしていたはずだが、はっきりした記憶がない。
       マチコと何の話をしていたのだろうか。
       ふと上空を見上げたとき、赤い大きな光が3つ並んで浮かんでいるのに気がついた。ヘリコプターかな、とも思ったような気がする。しかし、音はしない。距離はどれくらいだったろうか。とにかく、すごく低空で近い印象だった。3つの光のうちの両側のそれが、強くなったり弱くなったりしながら輝いているのがわかった。光といっても、放射している感じではなく、鈍く内部から光を出しているような印象。一番似ているものは、ビルの内部に設置されている消火栓の場所を示す赤いランプ。あれだ。
      「何だ、あれ?」
       思わず叫んだ私に、しかし、マチコは見上げると事もなげに答えた。
      「ああ。…ああいうのは、よくあるのよ」
       今、考えると、何もかもが不思議だ。しかし、私はそのとき、なぜかこう思ってしまったのだ。
       ああ、よくあることなのか。
       そのあと、一体、その3つの光がどのように消え去ったのか、まったく記憶にない。そのあとマチコとどんな話をしたのかも、どのように別れたのかも、何も覚えていないのだ。
       あまりに鮮烈な出来事だったから他のことを忘れてしまったのだろうか。一体、何があったのだろうか。
       ともかく、覚えているのは、それだけだ。

       しかし、不思議な体験は、それだけではなかった。
    2003年05月02日 02時05分29秒

    • UFOの記憶、そしてマチコ。  1
       UFOを見たことがある。
       そう言うと、人は笑うか眉をひそめるばかりである。しかし、これから話すことは、すべて事実である。
       ひとつだけ明言しておきたいのは、UFOが実在するかどうかについての議論は、私にとってはまったく意味がないし、興味もないということである。もっと言わせてもらえば、実在するに決まってんだろ、アホ!である。
                  ★            ★
       夏が好きだ。いつも、夏が好きだ。
       夏の記憶は、その風景とともに、つねにきらきらと輝いている。

       その年の夏休み、田舎の新聞社が主催する中学野球・県大会の裏方のアルバイトをした。大会前の球場のさまざまな準備から始まり、大会中一週間のすべての雑用と、大会終了後の後片づけまでを、新聞社事業部の連中にアゴで使われながらこなす、まさしくなんでも係と呼ぶにふさわしい内容だった。
       バックネット裏に設置された事務局に詰め、グラウンドからの照り返しに目を細めながら、中学生の野球を見守るのだが、じつはゲーム