食べてみよう!

01.12.18 Tue.

カレーの国のお殿様

 11月末に3日間・仕事で名古屋出張にいってきました。前回の名古屋出張のメインは「ひつまぶし」。初ひつまぶしに感激して帰ってきました。

 しかし、長らく名古屋支店に駐在したとある部長さんは
味噌カレー煮込み(うどん)を食べてきたか?あれは旨い!一度食べてみるべきだ」
といたくご執心です。
 食べるの大好き!な私はお昼に味噌カレー煮込みうどんをもちろんリクエストしました。

 連れていかれたのは地元チェーンの居酒屋でした。店中味噌煮込みうどんの張り紙があり、力を入れている様子でした。この名古屋特有のうどんは、土鍋に鶏ガラ出汁のスープと八丁味噌・生うどん(1センチ角)・油揚げ・ネギをいれて煮込みます。大抵は「これ、うどんが煮えてない」か「どろどろだよ」のどちらかです。しかし、出てきた味噌カレー煮込みうどんは違いました。まず、お店の女将さんが土鍋の蓋を取り去った瞬間は、直径2センチはあろうかという気泡がはじけまくり、まさに地獄の釜を開けたかのようにぐらぐらに煮たっていました。ここで一瞬引きましたが、沸騰が収まってからまずつゆを一口飲みました。ほのかに八丁味噌を感じますが、カレーとの相性がとても良くおいしいのです。かといってカレーうどんとも違い、「味噌カレー煮込みうどん」なんですね。もうびっくりしました。支店の方の噺では「味噌カレー煮込み(うどん)はここの店にしかない」らしいです。味噌煮込みうどんに対する考えが変わった一品でした。

 2回の名古屋出張で「味噌煮込みうどん」が好きになったのか、ダイエーで「すがきや 味噌煮込みうどん」を購入して帰りました。すがきやはあっさり味で美味しいです。

 その次の日のお昼は「カレーうどん」でした。ここも特徴のあるカレーうどんで、口当たりはマイルド、しかし後から辛さがジンワリとやってくるのでした。うどんはやはり1センチ角のもので、食べ応えがあるのが名古屋なのかもしれません。

 そして今回一番以外だったことは「名古屋のひとは、あまり、きしめんをたべないらしい」「ひつまぶしは地元のうなぎやさんではポピュラーではないらしい(むしろハレの食べ物らしい)」ということでした。

味噌カレー煮込みうどんの「さくらや 上小田井店」

カレーうどんが名物「若鯱亭 ジャスコ小田井」

01.11.24 Sat

 珍しく両親・姉一家・ふうちゃん親娘・私たち夫婦の大人8人+幼児1人勢揃いして、食事に出掛けました。
 場所は根岸(JR鶯谷駅そば)にある豆富料理の「笹の雪」。なんでも義兄が先日食事をしてきたらしく「とても美味しかった」と連呼していたのがきっかけで今日の食事会になったらしいです。

 いろいろ検討後「充分おなか一杯になります」との仲居さんの言葉を信じ、コース料理を注文しました。
 「小桶」という名の冷や奴からはじまり、前菜・小付(白和え)、名物の「あんかけ豆富」はここで登場しました。
 湯飲み茶碗程度の器が2つセットで一人前です。何故なら「宮様が一つではなく2つ一緒に出すように」と言いつけたのが由来です。洋辛子をあんかけに良く溶かし、豆富に絡めながらいただくと出汁と醤油がちょうどいい濃さでなかなかのおいしさでした。
 その後は、胡麻豆富・雲水(野菜の湯葉巻きが豆乳出汁に浮かんでいる)・蒸し豆富(豆富と豆乳入り茶碗蒸し)、追加した飛竜頭を食べ終えたあと、うづみ豆富(豆富茶漬け)、豆富アイスクリーム(梅ソースかけ)で終了しました。
 豆富自体が美味しいので様々なアレンジを加えても、それなりに美味しく出来上がっていました。ただ、味付けが少々甘めに傾いていたので、はっきりした醤油味が好きな私には物足りなかったです。

 お店で配布しているパンフレットには2種類あって、一つは階段や廊下においてあるA4三つ折りのもので、もう一つはテーブル上に置いてある名刺サイズの小冊子です。
 どちらにも「笹の雪」店名の由来と、あんかけ豆富を召し上がった宮様の事が書かれています。この宮様は前者では<上野の宮様>、後者では<輪王寺の宮様>と記載されています。
 また「笹の雪」の初代は『<上野の宮様>のお供をして京とより江戸の根岸に来て』(パンフレットから抜粋)店を開き、店名も宮様が付けたものです。
 徳川幕府時代、京都の朝廷が幕府に対して謀反を企てないように天皇家から人質を差し出さしていたのです。表向きは上野寛永寺の宗主でしたが、実際は人質でした。天皇の直ぐ下の弟(親王)か妹(内親王)が差し出され、一生を上野の山で過ごしたのでした。この方々が現在でも上野輪王寺の一般人が入れない墓所で眠っているのです。
 私は大学時代博物館学を履修しており、夏になると実習を兼ねたアルバイトがありました。その年は台東区教育委員会が上野寛永寺(いうなれば上野公園全体)を初調査するとのことで毎日石碑や石塔、墓石を測量していました。輪王寺調査の日にとりまとめ役の助手さんがこのことを説明してくれました。調査票には墓碑も記入するので、墓所に入り込み碑文を読んでいくと若くしてなくなった内親王などもいて、過酷な時代だったことが伺えました。
 江戸で食べられる数少ない京風味が豆富だったのかもしれないと思うと、宮様がおかわりしたのも納得がいくものです。