ガウディの生い立ち(1852-1926)
誕生日 6/25(水曜日)
タラゴナのバイスカンプで出生の説、レウスとイウドモスの間に
位置するカルデレラで出生の説、レウスで出生の説と色々あり、
実は専門家によって説が異なっていて、実際こところは詳細には
知られていません。
翌日6/26に教会で洗礼を受ける。![]()
ガウディは、五番目の子供で、兄弟のなかでも一番長生きした。
幼少の頃から、リューマチ疾患を患い、同じ年頃の友人と
なかなか同じように遊んだり出来なかった。
移動するにもロバに乗っていくか、ひどい足の痛みのため
動きもままならず家でじっどしていなければならなかった
学校も欠席しがちであったガウディであったが、
そんな毎日を動物や植物、家の周辺にある石などを観察して
過ごした。
彼は生涯リューマチに悩ませられ、医者からも野菜を主食とする
食事療法をとることを勧められたりもした
時には午後、徒歩でバルセロナに位置する教会へと出向き
そこで少しお祈りを捧げるなどして過ごしていた
*学生時代
ガウディはフランセスクベレングエル幼稚園に入園。
レウスにある一軒家の屋根裏部屋が教室で、その当時の
逸話がある
幼稚園の先生が、鳥が空を飛べるのは羽があるからだと
子供達に説明をしたときのこと。
ガウディはすかさず主張したという。
「僕のおうちで飼っている鶏にも羽があるけれど、
それは飛ぶ為ではなく、速く走れるように羽を使っているよ」
既に幼い時期から、人並みならぬ鋭い観察力を示した。
*11才
小学校入学。たちまち彼の知性は頭角を現し始め、中でも ![]()
幾何学の分野では群をぬく勢いであった。
おそらくこの頃から彼のキリスト教信仰が芽生えはじめ、
土曜の午後には決まって教会へ通った
*16歳
建築を学ぶためバルセロナに移住。
大学に入る前に州立建築学校に入るためのコースを履修しました。
そこでは、3つの自由課目を通らねば成らず、さらに科学部の属する
6つの科目も学ばなくてはなりませんでした。
全て履修し終えた後、建築高等技術学校に入学できました。
技術学校では、入門科、準備科など他4科目が待っていました。
州立学校では、授業は度々欠席しがちでしたが、図書館には足しげく
通う熱心な生徒でした。建築を学ぶ一方で、哲学・歴史・経済・美学なども
勉強しました。多様な建築スタイルとは、美的な思想によるものではなく、
社会的政治的環境から成るものだと考えたからです。
ガウディは秀でた学生ではなかったものの、建築の基本的知識をしっかり
習得した充分に良く出来る学生でした。
成績がそんなに優秀でないとはいえ、2科目は非常に評価がよかったようです。
ひとつは設計図の課目、もうひとつは建築全体のもしくは部分の発案を
学ぶ課目です。
授業内で、墓地の入り口を設計するテーマが出されたとき、
ガウディが描き始めたのは、その環境に合いそうな霊柩車と
数人の嘆く人だったのです。先生はこの図を前に、大ばか者か、
はたまた天才児を相手にしているのかと思ったそうです。
ガウディには一生、このような形容詞がつきまといました。
結局、入り口のところがかかれていなかったので、この図を提出しても
不合格がついてしまいました。![]()
ですがその年の9月、設計図で大変優秀な成績をとりました。
またさらにバルセロナ州議会堂の中庭を設計するプロジェクトでも
好成績をあげたのです。そこで優秀賞の候補として案を提出しましたが、
審査の結果、不適当だと評価されました。
1878年2月11日、建築技術高等学校の学科長は、ガウディを含む4人の
学生が建築家の免状を持てるよう、学校長に関係書類を提出しました。
ガウディは、周囲からとても優れた感じのする建築家であったと言われていました。
つまりもっと以前から、もう建築家としてみなされていたのです。
勉学中は度々住まいを変えていました。
科学部で学んでいた頃は、バルセロナのモントカーダ広場付近に住み、
翌年にはエスパセリア通り、1872年にはサンペドロのモンジュイックに移り住み、
後にカデナ通りに引越しました。ずっと父親、従兄妹らと一緒に暮らし、
生涯独身でした。母親は、彼が建築を学び初めてすぐの1876に亡くなっています。
ガウディは中世の書物や復興していたゴシック芸術、東洋の建築図そして自然物の
有機的形態の中に、創造する際の刺激を求めました。
厳密なスタイル、厳格さや整然さを伴った形は、19世紀初頭に到来していた
アールヌーボーの風潮をも、打ち破るほどでした。
ガウディは当時、芸術が推移していき、その容貌が独自のスタイルを持ち始めていることを
感じずにはいられませんでした。
またヨーロッパ他国のアーティストに、大きく影響を及ぼしました。
*人柄と外見
ガウディは、とても気難しい性格をしていました。
自身でも、この性質は自分で抑えることが出来ないほどだと言っていたそうです。
常に、社会のとりわけ労働者階級の人々が抱える問題について悩み、
いつも一般市民の側についているような人だったのです。
金髪で、青い眼、すっとした顔立ちに白い肌・・・といった外見を
していたせいか、周囲から北欧人だと言われることも多かったそうです。
けれども、ガウディはその度ごとに、“いいえ、私は地中海生まれです。”
と誇りをもって応えていました。
ガウディの父親は、学費を支払うため家の財産物を売り払い、ガウディ自身も
バルセロナの工事現場で働かざるを得ませんでした。
学生時代の最初の仕事は、先生とともに図面をひくことでした。
モンセラット修道院教会の一部を担当するなど、順調にそのキャリアを
積み上げていきました。
人々は、そんなガウディのことをいつしか“ダンディー”と呼ぶようになりました。
それは、いつも格好の良い、流行の服装をし、社会的地位の高い人に囲まれ
非常にたくみにデザインされた名刺を持ち、あごひげを生やしていたからです。
カタルーニャのナショナリズムが台頭し、ガウディもナショナリズムに関するたくさんの
活動に参加し、とても熱心に支持していました。
カタルーニャゆかりの地に何度となく足を運び、いつのまにか故郷の古い建築物について
多くの知識をもつようになっていたのです。
偉大な働き者
19世紀末のバルセロナは、繊維産業の発展とともにさらに盛況し、
裕福な階級の人々は、アーティストや著名な知識人に囲まれ、
ブルジョア階級はとても華やかな時代を過ごしました。
この時こそが、青年建築家ガウディに、実に多くの
チャンスを与えることになったのです。
それでも、彼は自分もその出身である、恵みの少ない労働者階級の
人々との絆を大切にするような人間でした。
それもそのはず、彼にとって一番大切で最もやりたかったこととは、
これら労働者たちを、過酷な工場労働から救うことだったのです。
常日頃から、肉体労働者の生活を少しでも改善したいと願っていました。
やがて1878年、パリで開催された万国博覧会で
ガウディは素晴らしい作品を発表しました。
既製服製造者が使用する労働者用軍手を、ショーウインドーに飾ったのです。
このことで世に名を知らしはじめ、資産家エウセビ・グエルと出会います。
後にバルセロナにあるジベルト薬局を設計し、また建築家マルトレルと共同で、
グエル邸宅をの設計を手掛ける事になります。
このマルトレルとの関係が、ガウディがサクラダファミリア教会の建築指揮をする
きっかけとなっていきました。教会建築の当初は、古きよき恩師、フランシスコの
指導のもとで制作を行なっていました。
ところが、マルトレルとその教会設立側との間で意見が衝突し、
マルトレルは、当時彼の助手として働いていたガウディを
その建築監督者に指名したのです。
もちろん、ガウディはすぐにそれを承諾しました。
こうして1883年、公式にサクラダファミリア教会の建築監督者として
就任し、その残りの43年間をこの教会にうちこむことになったというわけです。
CONTINUE・・・