富 山 城

  富山城は、『三州志』に天文年間、水野越前守勝重が築城したと記述され、「安住の城」と呼ばれ、天文年間、神保三代の居城であったといいます。『福王寺文書』に、「神保在城号富山地」とあり、永禄の頃、神保長職が富山城にあって、上杉謙信と争い「自落」し増山城に退いたという文書が残っています。富山城に在城したという神保長職は、増山城、富崎城、高山城等の拠点を有し越中半国を支配する、越中を代表する国人でした。下の写真は富山城の復興天守閣です。

 永禄三年(一五六〇)に、上杉謙信に攻められ神保富山城が落城して以後、富山城が歴史に登場するのはその十二年後です。元亀三年(一五七二)、加賀一向一揆が富山城を占拠した時、越中に出陣した上杉謙信は、新庄城に着陣し、さらに西に進んで、稲荷砦を築城したことが知られています。一向一揆軍は、富山城にあって鼬川西岸に布陣していたようです。富山城が本格的に城として認識されるのは、天正九年(一五八一)頃、神保長住の時代からです。天正七年(一五七九)には、神保長住が飛騨から越中に入り、天正九年(一五八一)には富山城に入りました。しかし富山城で争乱が起き、神保長住は罷免されて、佐々成政が越中一国の領主となりました。この頃の富山城もどのような規模であったのかはよく判りませんが、総構えの遺構は、四ツ谷川から鼬川沿いの海岸寺にかけて築かれていたようです。

 天正十二年(一五八四)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が覇権を争った小牧・長久手の合戦には、織田信雄方であった佐々成政が前田利家と争い、9月8日には富山城から1万五千軍の勢が末森城に向けて進発したと言われます。佐々成政は翌年、秀吉に降伏し、肥後に転封になります。

 慶長十年(1605)、前田利長は、前田利常に封を譲り、新川郡二十二万石を隠居領として、富山城を改築してここに移り住みました。慶長十二年(一六〇七)には、富山城の修築が行なわれ、能登・羽咋郡菅原村百姓に、富山城修築の材料伐採を指示しています。しかし、慶長十四年(一六〇九)三月、鼬川端から出火した火炎が、富山の町を焼き尽くしました。大火の後、前田利長は魚津城に仮住まいし。そして九月に高岡城を築城し、ここに移りました。

 寛永十六年(一六三九)、前田利常は、長子光高に譲位し、加賀百二十万石を三分割しました。次男利次は、富山十万石の領主として富山に入りました。しかし、当初は百塚に築城する予定であったのが財政難でこれが築けず、加賀藩領であった富山の旧城を借用して移ったのです。万治二年(一六五九)、富山藩は加賀藩と領地交換し、富山を富山藩の領地としました。前田利次は、富山城や城下を抜本的に改め、寛文元年(一六六一)よりその工事に着手しました。慶長十四年(一六〇九)の大火以降、損壊したままの富山城は、総外郭は補修せず、新たに総曲輪として堀を広げ、街路を整備し、そして現在の富山町の輪郭が出来あがりました。上の写真は、現在の市街地と比較したものです。

 現在の富山城は公園となって市民の憩いの場となっています。