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老人ホームに来るまで

自己紹介突然の入院

自己紹介

1970年日本歯科大学を卒業、時代はバブル真っ盛り、おかげで株で少しばかり儲けさせてもらったこともあった。当時大学は全共闘の影響が強く、その煽りで我が校も技工士学校問題が持ち上って、その結果として大学側は体育会に力を入れることになった。そういう時代背景もあって体育会の会計渉外企画立案を一手に握って活躍。冬の大会に出るためラクビー部を作る。その他個人的にヨット部に参加、一年のときからやっていた空手をあわせて3つのクラブを掛け持ちした。ヨットは全日本ハーフトンクラスで6位、江ノ島清水レースで1位、の時もあったが鳥羽レース参加前日に伊勢湾で座礁もレースそのものは無事で、三浦まで帰り着く。

その後1週間で開業計画を推進、そして開業に至る。この間約9年間横須賀の海上自衛隊衛生隊第3課に在籍、最後は1尉で退官しました。この期間に練習船かとり、で世界一周をしております。母親が伊豆高原でペンションをやっていた関係で診療所がある横浜と父親(平成2年心筋梗塞により死亡)がいた東京の目黒を行ったり来たりしていました。

最後の年は虎ノ門病院近くの東京プレスセンタービルに勤務したこともありました。その時はあの安部辰三代議士の姻戚関係の直近に位置し、直ぐ上の先輩が衆議院選に出るわ、勤務先の先生はガンで亡くなられるわでそのストレスもあったのでしようか、私も鼻から出血したり眼底出血を起こしたりで大変な時代でした。安部派の派閥関係でいろいろあった時代です。それから今回の発病へと続きます。

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突然の入院

時は平成12年3月の31日であった。始めは救急車で伊東の安部脳神経外科に担ぎこまれた。そこでいろいろな夢を見た。流動食を鼻から採りながらそこに一年間入院していた。

そこにいたのがゼロックスの医務室にいた看護婦の猪狩さんだった。かつて吉信ちゃん事件と言う世の中をちょっと騒がした誘拐事件があって、その時に声紋鑑定と言う新しい手法が用いられたが、それで有名になったのが当時ゼロックスの研究室にいた鈴木某だった、うちの大学を出ているとはっきり言ったのを記憶している。今ではすっかり有名になってしまったが、彼は僕の患者だった。

 それから中伊豆リハビリテーションセンターに移った。此処での経験はその後おおいに役に立った。中伊豆の看護婦はこの病気をc・v・  ・と呼んでいた。麻痺は両足の膝と下の頤骨の顎を開く筋肉麻痺があって全く口が開かなかった、足の麻痺もあって4つのツメの付いている大きな歩行器と言うかステッキと言うかそれに?まってもずるずるっと落ちるありさまで、当然車イスのご厄介になることになった。
僕の場合これを幸せと言ってよいのか不幸せと言ってよいのか、非常に難しい判断なんだけど伊東市の福祉課で電動車イスその他をくれることになった。ご承知のように私の住んでいるところは大室山と言うことでもお分かりになるように坂につぐまた坂といった按配でとにかく坂だらけである。この病気になって2階にも上がったことがないという有様だから伊東市の福祉課が電動車イスをくれてもなんの不思議も無いばかりか、かえって感謝しなくてはいけないぐらいのものである。ところがこの電動車イスに乗っていると全く運動をしなくなってしまうのである。私の場合水を飲んでも太ってしまうと言う体質のため電動車イスに乗ることは太って最低血圧の上昇を招くから体に良くない。おまけに右手は完全麻痺のため右側は手足とも全く動かないし、その上翌年の4月から高齢者保険が始まるのでそれまでの約1年間なにをするでもなくリハビリと作業療法と言語療法に明け暮れる毎日でした。

 そうこうするうちに電動車イスが届きました。ところが電動車イスの欠点はバッテリー切れが突然起きること。当時まだバッテリー車イスはあんまり普及していなかったこともあって車イスが動かなくなると馬鹿の一つ覚えのように電池を交換しました。そのバッテリーが充電中であるなしにかかわり無くとにかくバッテリーは交換されなければならない、しかも「バッテリーが切れて困るのは貴方なんだよ」と言うお小言が必ず付いて回った。
 次に今の車イス・左手だけで漕げる特殊な車イスが出来るまで4ケ月待たなければならなかったこれで車イスに乗って高齢者医療を受けるまでほとんど何もせずに1年待たなければならなかった。

 その間顔面神経麻痺はほとんど表れないと言うより、私の場合は口輪筋の乾燥こわばりが現れないのである。この他、私の場合麻痺は口が開かないということにも来た、これは看護婦が言っていたことであるが25年間看護婦をやっていた経験でも口の開かないケースはなかったと言っていたから珍しいケースにちがいない、文献をあたろうにも此処は病院でそんなものはないし仮にあったとしても口が開かないのだから相手に伝えようがないのである、それで諦めた。きっとこういうケースの場合脳の障害も重くて残されてないのだろうと勝手に都合良く解釈して諦めることにした。

 中伊豆の開口器というのがこれまた原始的と言おうか漫画チックと言おうかちょうどアイスクリームコーンを逆さまにしてその表面にネジを切ったような形を思い浮かべて頂けば良い、この器械で前歯の1・1にあてて回転させて下顎をこじ開けるのである。これをやるのが全く歯のことを知らない毎日変わる介護の人達である。始めの日はワソフトレーザーなるものを耳の穴辺りに当てて神経か筋肉かどちらだか分からないが顎を開きやすくした。実際にその実験をやるのは看護婦であった。そして1の上下距離を3ミリぐらい開ける、この時ノギスか定規があればなーと思ったのだけど、此処は病院だからということと誰独りとして開口した距離を測ろうとする者がいないのでやめた。もちろん誰もノギスも定規も持っていない、今にして思えば、言えば誰かが持ってきてくれたと思うのだが当時はそれが分からなかった。
 始めの3日間は詳しく言うと誰も記録を付ける者がいないので今となっては分からないことが多い。開口器によって口が3ミリ開はデイズニ―歯ブラシの幼児用・ライオン社製が3ミリぐらいだ。こうやって約3ミリぐらい開けると後は割り箸を使ったりして3ミリ開けたりしましたキャンデーのスチックを使って0・5ミリ開けたりした。其の時に歯根膜を傷つけない様柔らかい木の材料を使うことが大事です。その点で割り箸とかキャンデーのバーなどはうってつけだと思います。後は歯ブラシの柄とアイスクリームバ−のサンドイッチ構造にしました。目標をカレーライスのジャガイモを食べられる幅に置きました、すると大体3センチぐらいになります。このくらい口が開く様になると口を開けるのに少しの痛みと他人の力が必要になります。
 この時介護の人が物分りの良い人だったらあまり問題もないのですが、そうでないときは少し痛みを我慢しなければならないのです。このことによって、継続は力なりと良く言われていますが、全くそのとおりだと思いました。ここに大きな秘密が隠されていると私は思います。全く顎が開かなかった者が参考文献も方法も確立してない所で一応無痛的に問題無く顎を開けられて一命を取り止めたことの意義は大きいといわざるをえない。

 おっと、大事なことを忘れていました、口を開く時おたふく風邪の様に顔から顎にかけてホットタオルを巻きますがこのときに伸びるのは腱、でもなく、神経でもなく、筋肉が伸びるのだとリハリビの先生が言っていました。確かに温めると体の関節部はのびる様です。それだからと言う訳ではないですがこの頃所謂固まる前に歩行器を早いうちから使い始める風潮が見受けられるようになって来た。その点無批判な電動車イスに飛びつくのは考えものだなーと思った次第。
 これは後日談になるのであるが食べながら話しをする所謂る会食と言うヤツで口の開きが少し開きが悪くなったせいもあって会食を楽しむということがなくなった。

今私の回りの人々は70歳はまだ若い方で80歳台はザラと言う施設の中ではあまり話すことも無いのであるが、私のように若年、でもなければ老人でもない者の行く所は今のところ存在しない。法的には44歳から老人だからこうして老人と一緒にいるのである。始めは中伊豆リハビリの中にあるさわらび寮に入って焼き物でもやろうかと考えたのであるが、ところが伊東市の福祉課から電話がかかってきて今いっぱいだから暫らく待ってくださいとのことした、と言うことで私は行き場所を失ってしまいました。
 以後老人施設のぞみ・友人がそこで働いている石川病院・中伊豆リハビリテーションセンターなどに患者として入院していたのでその間に見聞きしたことについて思いつくままに書いてみましょう。


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