ロシアの英雄達

どこの国にも、その歴史や文化・スポーツ等の分野で大きな功績を残した人たちがいますよね。ロシア人は彼らをнаш герой”すなわち、「我々のヒーロー」といって尊敬し、愛しつづけています。ロシア人のヒーロー達を知ること。それはロシア・ロシア人を知る大きなヒントになるのではないでしょうか。

 

 1. A・C・プーシキン(1799〜1837)     

 ロシアを旅行していると、「プーシキン広場」「プーシキンカフェ」「プーシキン美術館」「プーシキ町」等々いたるところで「プーシキン」の名を冠した所を見かけることと思います。日本ではトルストイ・ドストエフスキー等に比べて圧倒的に知名度が低いプーシキンですが、でも本家ロシアでは「プーシキンはロシア文学そのもの」とまで評される程、偉大でかつ国民にとても愛されている詩人・作家なのです。プーシキンは、モスクワ貴族の長男として生まれ、12歳の時にサンクト・ペテルブルグの貴族寄宿学校に入学します。在学中ら多くの詩を書いて、ロシア詩壇の新星として注目されます。しかし、彼の書いた自由主義的な詩が皇帝の怒りに触れ、現在のモルドバに左遷(流刑)にされます。彼が追放を解かれるのは6年後の1826年のことです。

 プーシキンは当時サンクト・ペテルブルグ一の美女といわれ皇帝からも目をかけられていたナターリア・ニカラエブヤ・ゴンチャローヴァと1831年に結婚。しかし1837年には、彼女につきまとっていた近衛将校ダンテスとの決闘で命を落とします。彼の死については、「詩人の口に封印」をするために皇帝の後押しを受けて殺人が仕組まれたものといわれています。

 代表作は、「ボリス・ゴドノフ」(1825)、 「エフゲニー・オネーギン」(1831)、「スペードの女王」(1833)(以上3つは代表的ロシアオペラになっています。)、 その他「大尉の娘」 「青銅の騎士」等があげられます。

 

 2. ピョートルT世  

   ロシア最初の皇帝。ネバ川のほとりにサンクト・ペテルブルグを建設し、首都をモスクワから移し、ロシアの近代化につとめるます(1712年)。

   ロマノフ家二代目ツァーリのアレクセイ・ミハイロビッチとその二番目の妻の間に生まれる。10歳の時に政変の結果即位するが1694年まで摂政政治が続く。1697年ヨーロッパの先進的な軍事技術を学ぶため、ピョートルもお忍びで大使節団に同行。アムステルダムでは造船所で自らハンマーを手にして働いた。帰国後、ピョートルT世は貴族高官の顎鬚を自らの手で切り落とし、伝統的なロシアの衣装を禁止し「洋服」の着用を強制するなど、風俗慣習の刷新を決意。また行政・軍政・教会改革を行い強い絶対主義国家の確立を目指した。

 

Q 「皇帝」という称号はいつから使われるようになったの?

    21年に及ぶスウェーデンとの北方戦争は、1921年のニスタットの和平でようやく終結をみた。この条約によってロシアはバルト海の全沿岸を獲得し、念願の「ヨーロッパの窓」を手に入れることができた。勝利を祝い、元老院はピョートルに「皇帝」の称号を授与し、ここに皇帝が統治する「ロシア帝国」が誕生する。

 以降歴代のロシア帝国君主は今までの「ツァーリ」の称号とともに、この「皇帝」の称号もあわせて用いるようになった。

  

  Qサンクト・ペテルブルグの建設

  1703年ピョートルT世は31歳の誕生日を前にして、フィンランド湾に注ぐネヴァ川の河口近くに新しい首都を建設することを決意した。当時、この辺りは湿地沼地でわずか数件の漁師の家があるだけであった。ピョートルT世は非常に強引さなやり方でこの地に首都を建設した。材料も労働力もすべて強制的に調達された。ピョートルT世は毎年4万人の農民を数ヶ月間この地で働かされることを命じた。しかしこれらの労働者の間から飢えや病気(主にマラリア)で死ぬものが次々に出た。首都建設の犠牲になった人数は約50万人ともいわれる。

 貴族や商人は気候が悪く文化的設備も全くないペテルブルグに移り住むのを嫌ったが、1712年ピョートルT世はこの地に遷都すると同時に貴族と同数の商人・職人を移住させた。

 

 4. クトゥーゾフ将軍

    ナポレオン戦争における総司令官。1812年9月7日モスクワの西約110キロに位置するボロディノ村における大激戦の後、「モスクワを失っても、ロシアを失う訳ではない。軍が撃滅されればモスクワもロシアも滅びるのだ。」と強引に主張して、モスクワを放棄してモスクワから軍を撤退させた。ロシア軍撤退の翌日、ナポレオンはモスクワに入るが、20万人の市民の殆どがモスクワを離れており、その直後から1週間続いた火事で町の8割が焼失。期待した食料も住居も殆ど失われてしまったナポレオンは、せまりくる飢えと寒さを懸念し、1ヶ月余りで撤退を命じる。これを追ったクトゥーゾフの攻撃もあり、フランス軍がロシアを脱したとき、かつて60万を超えたフランスの大軍はわずか3〜5万人になっていた。これらの軌跡についてはトルストイの「戦争と平和」の中で見事に描かれている。 

4. イワン4世(雷帝)  

  ロシア史上初めて「ツァーリ」として戴冠した君主。ロシアのツァーリの中でも、最も謎めいた存在といえる。きわめて賢明な内政改革を行う一方、恐怖政治を敷きツァーリの裏切り者を次々と処罰した。ツァーリの権力を強化するかと思えば、突然首都を去って退位したいと言い出す。毎晩教会で祈りをささげながら、他方では高位の聖職者を拷問したり殺したりもした。唯一の後継者であった息子を発作的に撲殺し、リューリク王朝を断絶に導いた人物でもある。

4. セルゲイ・ラーダネジスキー(1319-1392)

    モスクワ郊外のセルゲエフ・パッサートにある三位一体聖堂を創った人。モンゴル・タタールの支配下にあるロシアにおいて諸侯に団結を呼びかけた。クリコボの戦いに際し、モスクワ公ドミトリー・ドンスコイに祝福を授けた。彼は慎ましい生活を送り、自ら畑を耕し、川から水を汲んでいたと逸話が残っている。

 6. アレクサンドル・ネフスキー

    古代ロシアにおける第1の大国ウラジーミル大公国の君主。卓越した軍事指導者であり外交官。スウェーデンとドイツ騎士団の侵入を撃退して、外国勢力によって国家が分断されることを免れた。彼はイワン雷帝期には、ロシア正教会によって聖人にまで祭り上げられた。今でもロシアを旅行していると「ネフスキー」の銅像やその名を冠した地名に出くわす。それは彼がいかにロシアの歴史において英雄と目されているかを語っている。

 7. M.V.ロモノーソフ(1711-1765)

   モスクワ大学創立者。化学、天文学、文学等多岐の分野で偉大な功績を残した学者です。ロシア語文法を簡素化し、近代ロシア文語を創り上げたのも彼です。プーシキンは「ロモノーソフ自身が大学だ」と評したとか。貧しい農民の家に生まれ、勉強したい一心で家を出、歩いてモスクワへ行き学校へ入学。大学創立後は貴族以外にも広く大学の門を開いたそうです。

 3. ユーリー・ドルゴルーキー(「長い手のユーリー」) (1090 (?) - 1157).

   モスクワ創始者。彼によってモスクワ・クレムリンの最初の城塞が築かれた。ドルゴルーキーの名は、長い手で囲みこむように、周辺の諸国を統一したという意味からつけられたニックネームである。

Q なぜモスクワが首都になったの? 

   年代記の1147年にはじめてその名をあらわすモスクワは、13世紀末にいたるまでウラジーミル大公国の1辺境の町にすぎなかった。その後その有利な地理的条件に助けられ急速に発展を遂げていく。