米コロラド州の高校で、また銃による衝撃的な事件が起きた。
2人の在校生が銃を乱射し、ほかの生徒や教師ら23人を殺害した。犯行後、ともに自殺しているのが見つかった。
2人は薄ら笑いを浮かべながら、逃げまどう生徒らに銃弾を浴びせたという。背筋の凍るような、むごたらしい情景だ。
犯人らは自分たちが受けた「いじめに対する仕返し」を口走ったり、黒人生徒らを狙ったりしたという証言がある。
人種偏見をうかがわせるようでもあるが、動機や事件の背景については、捜査による解明を待つしかあるまい。
それにしても、なぜこうも米国の学校で乱射事件が続くのか。
この1年余でも、昨年3月、アーカンソー州の中学校で11歳と13歳の少年が父親の銃を持ち出して乱射し、教師と生徒計5人が殺された。その後も、ペンシルベニア州の中学、テネシー、オレゴン、バージニア各州の高校へと飛び火している。
今度の事件では、連射銃や爆弾のようなものが使われた節もある。無法な銃弾にさらされる米国の学校の現状は、異常としか言いようがない。
一連の事件の背景には、だれでも簡単に銃を手に入れることのできる米国社会の仕組みがある。教育の荒廃などがあるにしても、そこに大きな問題があることを改めて指摘しないわけにはいかない。
市民が武器を持つ権利を憲法で定めている米国では、2億6000万の人口とほぼ同数の銃が国内にあるという。銃による犯罪や事故で、毎年1万人以上が死んでいるという統計もある。
護身用として普通の人が寝室にライフル銃を置き、車で買い物に出る女性が座席下に短銃を忍ばせる光景を目にするのは珍しくない。州法で銃を携行する権利を認めているところが少なくないのだ。
しかし、自らの安全を守る手立てとしてその所持を認めるには、それがやたらに使われないよう、厳格な管理が前提とされるべきなのは言うまでもないだろう。
にもかかわらず、銃の製造や販売、購入の規制は、ほとんど進まなかった。
そうした予防措置の立ち遅れが、少年らによる乱射事件の続発を生む素地になっているのではないか。
子供がたやすく銃を手にすることが自由な社会の証明だとは、到底いえまい。
さすがに米国内でもこのところ、銃犯罪の被害者らを中心に、銃を規制すべきだという運動が広がってはいる。
2月にはニューヨークの連邦地裁で、銃の乱売について製造企業や販売業者に責任があるとする評決があった。シカゴ市など五つの自治体も、銃製造企業に対して、銃による負傷者の救命治療費などを請求する訴訟を起こしている。
しかし、メーカーや全米ライフル協会などの抵抗は根強い。メーカーを相手とする訴訟の禁止法案を議会に働きかけている。「犯罪は銃が悪いのではなく、人間の不正な心に問題がある」という言い分だ。
名古屋市の高校生、服部剛丈君が留学先のルイジアナ州で射殺されてから7年になる。米国を愛する人にとっても、どうしても理解できないのが、なぜ、銃の規制が遅々として進まないのかということだ。
今度の事件を深刻に受け止めた米国民が、こうした現状をどう打開するか。そこを見守りたい。
朝起きて、テレビをつける。画面には、新聞の紙面が映っている。「音声」のボタンを押すと読んでくれるし、記事を印刷することもできる。
テレビを通して、新聞とこんな風に触れ合う日が、やってくるかもしれない。
2000年から始まるテレビ放送のデジタル化がもたらす変革である。
デジタル衛星放送(BS)がまず放送を開始し、身近な地上波テレビも東京を中心に試験放送を始める。郵政省の計画では、2010年ごろには、いまのアナログからデジタル方式への転換を終える。
デジタル化によって、映像や音声は格段に美しくなり、チャンネル数は飛躍的に増える。そればかりか、文字や静止画、図形など、これまで主に新聞や雑誌が伝えていた情報を、鮮明に、しかも瞬時に送り込めるようになる。費用も極めて安い。
受像機の買い替えや付属装置の購入など、視聴者側の条件が整うことが前提とはいえ、映像や音声に文字と図形を組み合わせた新しい番組を楽しめることになる。
このデジタル化に備え、郵政省はいま、放送法の改正案を国会に提出している。
「テレビジョン放送」の定義を変え、動かない文字や図形なども放送の対象に含めようというものだ。一見、当たり前の改正で、単なる事務手続きのように見える。
だが、そこには、憲法で保障された「表現の自由」に照らして、どうにも気がかりな問題点がひそんでいる。
放送法とは何のかかわりもなかった新聞の記事が、テレビで放送されると、同法の適用を受けることになる点だ。
放送法には、「政治的に公平であること」という規定がある。活字メディアと違って、限られた電波の枠を利用する以上、特定の主張や意見を述べるのは好ましくないという考えに基づいている。
違反すれば郵政大臣から番組の停止を命じられたり、ときには免許を取り消されたりする。1993年、選挙報道をめぐって、テレビ朝日の幹部が国会に証人喚問されたのは、この規定が根拠だった。
戦前、新聞や雑誌は新聞紙法、出版法によって言論統制を受けていた。自由を奪われた言論が、どれほど国民を誤った道に導いたか。その反省があればこそ、憲法は「表現の自由」を重視したのだ。
もちろん、何を書いてもいいわけではない。読者への責任を果たし、その信頼を損なわないため、新聞界や各新聞社には倫理綱領がある。自由な言論を守るには、自らを律することが欠かせないからだ。
放送法改正によって、その規定が新聞記事などに適用されれば、政治や行政が報道内容に介入する余地を与えかねない。
放送のデジタル化は、放送、通信、活字媒体の相互乗り入れや融合をもたらすメディアのビッグバンである。放送法が制定された50年前には想像もできなかったことだ。電波の希少性も現実味を失った。
ならば、放送法の「公平原則」をこそ、見直すべきではないか。米国では、活字メディアにはない規制をなぜ放送だけが受けるのか、数十年にわたる議論の末、80年代にこの原則を廃止した。
日本では、公平かどうかを判断する当局が、放送事業の免許権を握っている。そのあり方自体、論議されるべきだ。
いったん傷ついた自由は、なかなか回復できない。国会は、改正が持つ意味をしっかり見据えてもらいたい。