「資本主義は最悪のシステムだ。これまで試されたすべてのシステムを別にすれば」。米国の経済学者ポール・クルーグマン氏の言葉である。(注(1))
ウィンストン・チャーチルの有名なせりふ「民主主義は最悪の政治形態とされてきた。これまでに試されたすべての形態を別にすれば」をもじったものだ。
冒頭の文章はこう続く。
「20世紀末のいま、市場経済に代わるものがあるとは、だれも信じまい。私たちが望みうるのは、市場経済の無慈悲が人びとにもたらす打撃を和らげることだ」
だれもが弱者になりうる
社会主義計画経済が崩壊し、市場経済には競争相手がいなくなった。世紀末は政治、経済、軍事とも米国のひとり勝ちである。小さな政府、自己責任、健全な競争社会といったキャッチフレーズが躍るのは、時代の潮流と無縁ではあるまい。
今年2月、「日本経済再生への戦略」を小渕恵三首相に提出した経済戦略会議は、そうした思想を正面から打ち出した。
「弱肉強食の世の中になるのでは」という人々の不安を意識したのだろうか、最終報告では社会福祉、年金、失業対策などセーフティーネット(社会の安全網)の必要性にも多くをさいている。
安全網がなければ空中ブランコで思い切った演技を披露できないように、心おきなく競争に参加できない、というわけだろう。そこでは、政府が全面的に生活を保障する「大きな政府」型でなく、自己責任を前提にした「小さな政府」型の安全網が提唱されている。
来るべき時代の市場を私たちはどう築き、安全網をどう張ったらいいのだろうか。望ましい姿を志向するうえで、欠かせない視点を考えてみたい。
市場は、そこにゆだねればすべてが解決する万能の神ではない。といって、その欠陥を批判するあまり、時代遅れの規制の温存に一役買ったりしたら何にもならない。大切なのは、市場の限界や危険性を承知したうえで、セーフティーネットを「何のため」「だれのため」に張るのか、という出発点にいつも立ち戻ることだ。
企業社会でも、既得権でも、官僚組織のためでもない。国民の暮らしを守るために張るのだとの目的を確認しておきたい。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条が原点だ。そのうえに、生活や老後の安心、弱者の保護、いざという場合の支えなどが重なる。
市場から落ちこぼれた人や弱い立場の人に恩恵を与えるのではない。「市場自体がそれなしには動かない」ものであると認識し、時代にふさわしい形に張り替えていかなければならない。
その際、「弱者」の概念を固定化してはならないと思う。
第1に、だれもが突然、それまでの生活を断たれ、「弱者」になりうるからだ。大企業や大銀行の破たんは、戦後の日本で会社が担ってきた安全網が簡単に破れることを露呈した。
第2に、「農民は保護しなければならない」「高齢者は貧しい」といった固定観念が、既得権の擁護に利用されたり、世代間の受益と負担を不公平にしたりしかねないからだ。
下のグラフを比べてほしい。預貯金に生命保険や有価証券などを加えた貯蓄額を世代別に見ると、60歳以上の勤労者世帯は30歳未満の6倍もある。「高齢者にもっと負担を」という意見が出るゆえんだ。
しかし、60歳以上の貯蓄額の分布を見ると、ちらばりが大きい。豊かな老人もいれば、貧しい老人もいる。そんな当たり前のことを忘れると政策を誤ってしまう。
財源危機の中で必要かつ十分なネットを張るには、従来の発想や手段を変えなければなるまい。例えば、福祉の増進には、利用者が生活する身近な自治体、つまり実際のニーズがあるところに資金や人材を集中させるのが効率的だろう。財政面や課税面の地方分権が欠かせない。
「がんばった人が報われる社会を」というのが戦略会議をまとめた学者や経営者たちの旗印だ。それは手厚すぎるセーフティーネットを排する理由ともなる。
確かに、行き過ぎた結果平等は経済社会の活力を奪う。努力と創意の勝者がやる気をなくす制度は好ましくなかろう。
許容範囲は国々で異なる
だが、「公正さ」とか「勝者の果実がどこまで許容されるか」という範囲は、国によって異なる。手っ取り早く株価を上げるため人減らしに走った経営者が巨額の報酬を得る。米国のようなことが、日本で許容されるだろうか。
ピュリツァー賞作家のダニエル・ヤーギン氏は、市場経済が人々の信認を得て持続するかをはかる基準として「成果を上げているか」「公正さが保たれるか」など五つを掲げた。(注(2))
私たちは、人びとの「安心」と「信頼」を強調したい。自己責任とインセンティブ(経済的刺激)ばかりが幅をきかせる経済社会は、効率的に見えても、持続性、安定性の面で支障をきたしかねない。
効率と公正、機会の平等と結果の平等。そのバランスは容易ではないが、日本に合った道を探り続けていくしかないのだ。
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注(1)「THE ACCIDENTAL THEORIST」邦訳は「グローバル経済を動かす愚かな人々」(早川書房)
注(2)「市場対国家」(共著、山岡洋一訳、日本経済新聞社) 5つの基準は「経済成長、雇用などに成果をあげているか」「成果の配分、弱者や恵まれない人たちの社会参加などで公平さ、公正さが保たれているか」「文化や心地よい安心感を維持できるか」「環境を保護できるか」「年金、医療のコストをどの世代が負担するかという人口動態の問題を克服できるか」
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