「いのちの電話」に苦境を訴えてきたその男性は、40代だと言った。バブル期に建てた家のローンが、払えなくなったという。
「自分が死んだら保険金が入る。家族あてに遺書は書いた。それで何とかローンを返すことができるし、家族も楽になる。いまから飛び降りる」
電話の向こうの声は泣いていた。
「お父さん、大変ね……」。ボランティアの相談員は、男性の気持ちをゆっくり解きほぐそうと応じるうちに、思わずもらい泣きをしてしまった。
男性からはその後も1、2度電話があった。しかし、それからあと、どうなったかはわからない。
「いのちの電話」は、活動を始めて28年になる。これまで、中高年の男性からかかるのは珍しかった。それが、昨年あたりから目立つようになった。多くが、失業や倒産による苦悩を訴える内容だ。
「電話の向こうに、中高年の男性を取り巻く、ただならぬ社会状況を感じます」と、スタッフの1人は言う。
そんな実感を裏づける数字を、警察庁が発表した。昨年1年間に自殺した人は初めて3万人を超え、過去最悪となった。
とりわけ4、50代の男性を中心に、経済・生活問題が原因とみられる自殺が前年より7割、勤務問題をめぐるそれが5割増えた。長引く不況と雇用の悪化が、働き盛りの世代を追いつめている。
日本のどこかで、毎日90人もの人がみずから命を絶っている。この現実は、緊急事態と受け止めなければならない。
リストラや倒産が引き金となって自殺に走る人には、経済的な悩みのほかに、仕事や地位を失った喪失感があるという。
喪失感は、仕事以外には趣味もないような人にとくに大きい。その責任を個人にのみ押しつけるわけにはいかない。
中高年世代に仕事人間であることを強いてきたのは、ほかならぬ日本の社会であり、会社だった。
一人ひとりの悩みに対応できるカウンセリングや診療態勢の充実は、職場の内外を問わず、直接的な緊急の課題だ。
中高年世代にはいまも、精神面の診察を受けることを、社会的生命を失うかのように感じる人が多いという。「心がかぜをひいた」――そんな感覚で、抵抗感なく治療を受けられる社会的な雰囲気をつくっていくことが欠かせない。
サラリーマンの「精神安定剤」と言われた終身雇用は危うくなった。景気が回復してもリストラはなくなるまい。会社一筋ではなく、趣味や地域活動など社会との多様な接点や関係を持った、しなやかな生き方を模索していく必要がある。
行政は、雇用保険の期間の延長や職業訓練制度の充実など、解雇や倒産に追い込まれた人々の再出発を支援する態勢の強化に力を入れてもらいたい。
逆説めくけれども、自殺しようとする人は「死ぬほど助かりたい」と叫んでいるのだという。そうしたサインを、家族や友人が見逃さないことも大切だ。
自殺は自立した個人の選択の一つだとする見方があるとはいえ、やはり痛ましい。冒頭の40代の男性にしても、その後立ち直ってくれたことを願うばかりだ。
社会、会社、家族、そして自分自身。できることから始め、悲劇に歯止めをかけなくてはならない。
Send feedback to newsroom@emb.asahi-np.co.jp
記事に対するご質問、ご意見には住所、氏名、電話番号を明記して下さい。