主張 象徴天皇でいけないのか

【君が代の「君」】
 日の丸、君が代を国旗、国歌と定める法案の審議が国会で始まった。その中で、君が代の歌詞の「君」が天皇を指すのであれば主権在民に反するといった論議が起きている。しかし、わが国の長い歴史を見た場合、「君」が国民の統合の象徴たる天皇であっても、主権在民と少しも矛盾しない。一人でも多くの賛同のもとに法案が成立することを期待したい。

 六月二十九日の衆院の代表質問で、民主党は「君が代の『君』の政府解釈は硬直的で、歴史的広がり、世代間の理解を得るよう解釈すべきだ」と主張した。「日本国および日本国民統合の象徴であり、日本国民の総意にもとづく天皇を指す」(小渕恵三首相)という政府解釈に対し、「君」を天皇としない方が国民に受け入れやすいということであろう。

 一部のマスコミでも「『君』が天皇では、日本国憲法の原理である国民主権とは相いれない」など、歌詞と主権在民が矛盾するかのような論調が見られる。

 しかし、こうした論は日本の歴史を無視しているといわざるをえない。日本は古代から天皇を戴いてきたが、それは西欧の国王などと違い、国民を支配し国民と対立するような存在ではなかった。天皇が直接国民を統治した時期はほとんどなく、国民はごく自然に「統合の印」として天皇を戴いてきた。そうした国柄だったのである。

 だからこそ戦後、新しい国のあり方として主権在民や民主主義が強く打ち出されたときも、これと矛盾なく象徴天皇が残され、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という憲法第一条が生まれたのである。

 古歌としての君が代の「君」には恋人などの意味もあった。しかし、国歌としての明治以降は天皇の意味であり、君が代も「天皇を象徴として戴く日本の繁栄と平和」を祈念したものだった。天皇による支配や統治を表す歌では決してないのである。

 それでもなお「君が代」を否定するのなら、こうした日本の国柄そのものへの「ノー」であり、それなら憲法一条の可否を論じるべきだろう。

 「まだ論議がつくされていない」として法制化に反対する意見もある。もし論議がつくされていないとすれば、こうした歌詞の「解釈」ではない。外国に行ってその国の国旗・国歌に礼をつくせない日本の青少年をどうするのか、教職員組合などによって君が代斉唱が阻止されることがあって良いのか、といった点なのである。