(どうせ何かがぶつかっているだけだろう)
  そう、これもいつものことだった。皆、それぞれ荷物をかかえている。一人では
持ち切れない荷物を抱えている人もいるだろう。それがたまたま自分に当たっただ
けで、そう大した事ではない。そうこうしているうちに、いつもの電車がホームに
すべり込んで来て、やがてごく当たり前の日常が、僕を包みはじめた。

  会社に着いたのは、七時半、といったところだった。二十九歳と言えばそろそろ
中堅どころになりつつあるのだから、こんなに早く出社しなくても良いのだが、一
つには上司が旧弊な人で、何かにつけて「近頃の若いやつはいつも楽をしおる。わ
しの若い頃は……」という、繰り言を聞かない為、そして、もう一つには、

「おはようございます。六条さん。」
「ああ、おはよう」

  彼女の名は、綾咲渚。女子高を卒業して、春に入社したばかりで、まだ十九歳だ。
  本人は大学に進学したかったらしいが、この御時世で、大して勉強した訳でもな
いのに大学に行ったからといって、今後の身の振りが有利になるどころか、かえっ
て不利になると親に説得(本人曰くなかば脅迫)されたからだそうだ。その事に常
に不満を持っていて、何かのきっかけがあるたびに僕にぶちまけるのだが、この歳
になってしまうと、彼女の言う事も以上に親御さんの言う事も解ってしまうので、
ただただうなづいているより他ない。

「六条さん、相変わらずお早いですね。」

  屈託の無い、音楽のような澄んだ声で、椅子に座った僕に話かけて来る。僕はい
つものように彼女を見上げていた。オールディーズと呼ばれる四〇歳トリオが着る
と、たちまちゴーゴンズに変身し、見るものを次々に石に変えていくピンクの制服
も、彼女が着ると、清楚な高校の制服の延長という感じで、本来の穏やかな好感を
見るものに与える。

「綾咲君こそ、毎日おつかれさま。」

  さも先輩づらしながら、いささか他人行儀に応える。勿論、彼女と僕の関係は、
会社の同じ部署にたまたま巡り合わせた先輩後輩以上の関係ではない。第一、それ
以上になりそうにもなかった。とりたてて美人と言うわけでは無いが、明るく、澄
んだ瞳と、何より、十九歳という溢れんばかりの若さを屈託無く振りまく彼女は、
社内のみならず、営業に来る社外の人たちの間でも、抵抗感を呼び起こす事のない
好評を持って迎えられており、真剣なものからやましい遊び心まで入れれば、彼女
をなんとかしたいと思う男性は、少なくとも二ダースはいるだろう。そのささやか
な社内の華と、僅かの間でも二人だけで話せるというだけで、僕の心はいつもささ
やかな満足感に包まれるのだ。

  しかし、その幸せは、儚いものだった。
「おはよ〜すっ。」
「あ、竜岡さん、おはようございます。」
「渚ちゃ〜ん、おっはよ〜。」
  二分もしないうちに社員達が次々と出社して来たのだ。昨日の朝礼で、部長がま
た、「最近の若いやつは……」などと御託を並べてくれた効果はてきめんだった。
やがて、彼女を中心に小さな会話の輪が出来上がっていった。たった二言で今日の
幸せはもう風前の灯火になりつつあった。

  皆の中にまじって話をする
  自分の席で仕事を始める
  寂しさを体であらわす
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