作品名:『Twin』(15)
  製作  : 98/01/17(21KB)
  作者  : あきよ  氏
  形態  : 長編区切(恋愛)

   Twin15



 お盆が過ぎた後の夏休みは駆け足で過ぎ去っていった。
 家の前の海水浴場にはクラゲが姿を現し始め、少なくなった水着姿の人々を威嚇
するようにその存在を誇示している。お盆直後に遊びに来た親戚の子供たちを連れ
て砂浜に行った時などは、防波堤の近くに沢山のクラゲが打ち上げられていて思わ
ず嘔吐感をもよおしたものである。子供たちは気持ち悪いと言いながらも棒切れを
拾ってきては盛んに突っついたり突き刺したりして無邪気で残酷な遊びに熱中して
いた。
 八月下旬になると、関西へ帰る親戚と示し合わせたかのように熱帯性低気圧が襲
来した。小遣い日前と言う事もあって部屋の中でごろごろとする毎日が続いた。い
や、寝ていた訳ではなくて、残っている宿題を片付けていたのだ。涼気が手伝って
か作業は順調に進んで丁度夏休みの終わる三日前に空白はなくなった。
 そして何もする事のない時間が残った。



 朝起きると久々に太陽が顔を覗かせていた。枕元の時計を見ると十一時をまわっ
ているのだから、朝と言う表現は些か適切ではない。ぼさぼさになった髪の毛を無
理矢理ゴムでまとめると洗面所に向かう。階段を降りてすぐに人影と衝突しそうに
なった。人影はこけそうになったあたしの両肩を掴み、強引に正しい姿勢へと戻す
のだった。それは東京に出ている筈の兄だった。
「おう、笛子。今頃起き出したのか。ひっどい面だなぁ」
 いつのまに帰ってきていたのだろうか。と言うよりも会社はどうしたのだ。
「ああ、今週は休みなんだよ。お盆が忙しかったんでね。二週間遅れの帰省って訳
だ」
「ふむ・・・冷蔵庫のアイス、食べないでね」
「ただいま」
「おかえりなさい」
 美代ちゃんあたりに言わせると、あたし達兄妹の会話は少々変らしい。会話に脈
略がないと言うか、突然、関係のない話題がころころと出てくるのだから、第三者
が同席していると混乱してしまうのだ。もっとも、あたし達は別に意思疎通に困っ
ている訳ではないので、小さい頃からずっとこの調子である。まぁ、長年兄妹やっ
ているのだから、いちいち言葉に出さなくとも考えている事は大抵通じるのだ。
(・・・双子の場合も似たようなもんなのかなぁ)
 蛇口を捻ると生暖かい水が流れ落ちる。数瞬の間をおいてから両手で器を作って
水を集め口内をすすぐ。次いで念入りに顔を洗い、恐らくは顔面に付いているだろ
う畳の跡を消した。別段、寝相が悪い訳ではないのだが、あたしは横へ、横へと移
動してしまう癖があるらしく(そういうのを寝相が悪いと言う人もいる)、特に夏
場はひんやりとした畳の感触を求めてずるずると移動してしまうのだ。
(髪の毛は・・・う〜、今日はいいや。特に出かける用事もないし)
 顔面を拭いた湿ったタオルをそのまま頭に巻きつけた。これから気温が上がる事
を考えるとこれが一番である。考えてみると今年は髪を伸ばしてから初めての夏だ
った。中学生までは校則と部活動のおかげでショートで過ごしていたあたしだが、
高校に入った事をきっかけに髪を伸ばし始めたのである。最初は美容室に行く回数
が少なくて済むと単純に喜んでいたのだが、実は伸ばすほうが余程手入れが必要に
なり、こまめに美容室に通う羽目になったものである。一度ならずショートに戻そ
うかと悩んだものの、女が髪を切るのは失恋と相場が決まっているらしく、何かと
聞かれるのも嫌だったし、陽司くんの中のあたしのイメージを固定したい為、結局
は長いままだった。
「お〜い、笛子っ」
「なぁに?」
「お客さんだよ」
 誰じゃい。ぺとぺとと裸足のまま洗面所を出て玄関へと歩いていく。そこには兄
と談笑する女の子が立っていた。短い髪の毛。と言う事は香月かしら。
「あ、笛ちゃん。おっはよぉ」
「み、み、み、美代ちゃん!?」
 あたしは素っ頓狂な声をあげてへたり込んでしまった。



 しかし。まさか。本当に切ってしまうとは。
 常日頃彼女の柔らかそうなふわふわの、それでいて流れるような軽いウェーブの
かかった髪の毛をこよなく愛していたあたしとしては自分の髪を切り刻む事以上に
重大な事件だった。
 いくら彼氏の為とは言え・・・
「うふふ。似合うかなぁ」
「う、うん・・・」
 でも前の方が良い。喉まで出掛かった言葉は永遠に閉じ込められた。恐らくは美
代ちゃんだって一代決心だったに違いない。それに彼女自身が気に入っている様子
なので、あまり下手な事は言わない方がいいと思う。
「で、彼氏にはもう、見せたの?」
「うん」
「反応は?」
「超イイだって。えへへ・・・」
「あ、ノロケやがって〜」
 当人達は非常に仲がよろしいようなので、あたしとしても安心する事が出来た。
同時になんだかんだ言っても上手く付き合っている美代ちゃん達が羨ましくもなっ
てくる。
 そうなのだ。あたしはと言えば陽司くんと二人で海に行ったりしておきながら結
局のところ惨敗だったもの。最後の最後まで鍵を握っていたのはやはり香月だった
のだ。
「そういう笛ちゃんはどうなったの? 中小見くんと仲直りは出来た?」
「ううん・・・何かこう、気まずいと言うか会い辛いと言うか」
「駄目だよぉ。笛ちゃんらしくないじゃない。いつもだったら当たって砕けろって
飛び出していって、見事玉砕してくるのに」
「あたしゃ、特攻隊か?」
 そう言えばお盆の間にやたらと流れていた終戦記念番組とやらを見続けていたお
かげで、アメリカ軍の船に体当たりするゼロ戦の映像やら、あたしとたいして歳の
変わらない特攻隊員の顔なんぞがリアルに脳裏に蘇ってきてしまった。
 いや、それはさておき。
 彼女に言われなくとも最近のあたしが『らしく』ないのは重々承知している。い
つの間にやら慎重になったと言うか考えを巡らすようになったと言うか・・・
「う〜ん、ホント、なんでだろ?」
「笛ちゃんがね、慎重になったと言うのは違うような気がする。多分、恋に対して
臆病になっていたんじゃないかしら」
「お、臆病? あたしが?」
「うん。だって笛ちゃん、初恋だったでしょ。その上、笛ちゃんの片思いから始ま
っているんだし。そういう時ってイケイケで突き進んじゃう場合と、消極的なまで
に慎重になってしまうんだって」
「自分で言うのもなんだけど、あたしは前者だと思っているんだが・・・」
 そうなんだよな。あたしってばいつのまにやら性格が変わってしまったかのよう
に振る舞っていたのだ。多分・・・香月が絡んできたからだと思う。それまでのあ
たしと陽司くんの関係はごく普通の、と言うのもちょっと悲しいので仲の良い友達
だった筈である。そして二人の関係が急加速するに従い内容は複雑化して、ついに
は空中分解してしまったのだ。
「それなんだけど・・・本当に中小見くんとは終わっちゃったの?」
「う」
「だって、この前の城址公園での一件は香月さんが苦しんでいるから兄としてそう
いわざるを得なかったんじゃないかしら」
「そ、そっかなぁ・・・」
「そうだよっ。中小見くんだって自ら望んで言った台詞じゃないよ。妹思いだから
出ちゃっただけ。まぁ、妹思いと言ってもちょっと度を越しているけど」
 もしも美代ちゃんの想像が真実ならば、あの時の陽司くんの台詞は本意ではなか
った事になる。まぁ、確かに色々と悩んだ末の言葉とあたしにも分かっているつも
りなのだが。
 そう言えば夜中に香月が来た事を、美代ちゃんには話していないんだっけ。あた
しは一つ一つ思い出しながら説明した。
「じゃあ・・・香月さんとは仲直りできたんだぁ。だったら尚更、中小見君とだっ
て仲直りできるんじゃないの? これだけお膳立てがされているんだから、あとは
強気の一押しだよ、笛ちゃん」
 美代ちゃんは両手で握りこぶしをつくって力説する。まるで自分の事のように真
剣に親身に考えてくれているのが良く分かる。あたしとしても、応援してくれてい
る美代ちゃんの為にも、様々な苦しみの狭間から這い上がってきた香月の為にも、
自分と陽司くんの関係をここらでスッキリさせたいと思うようになっていた。
(新学期は気持ちよく迎えたいもんね・・・)
 あたしは大きく頷いた。



 夏休みの最後の日。あたしは美代ちゃんと一緒に定食屋「なかおみ」へ向かって
歩いていた。本当は自分一人で来るつもりだったけど、邪魔はしないからと言って
半ば無理矢理付いて来ているのだった。
 何の約束もしていない。いや、電話くらい出来たのだが、あたしは敢えてそれを
しなかった。いくら何でもとは思うけれど、先日の陽司くんの態度からして、会う
事すら断られてしまうと言う可能性を捨て切れなかったのである。どの道、電話口
で済んでしまうような軽い内容ではないのだから、直接出向いていって話をした方
が早いのではないか。その日を夏休み最後に設定したのは念の為である。しかも午
後2時丁度に到着するように家を出た。ランチタイムの後片付けも終わって一休み
している頃だから、話をする時間くらいは十分にあるだろう。
 駅から城址公園の中を通って海沿いの道路に出る。快晴と言う事もあってか時期
外れの海水浴客がまばらに砂浜に点在していた。道路のアスファルトは直射日光で
熱くなっていて、サンダルの底が溶けているんじゃないかと錯覚させる。
(そう言えば、この道だったよなぁ・・・香月と初めて会った日は。あの時はてっ
きり陽司くんと思ったり、オトコノコと思い込んだりして・・・今にして思えば香
月が愉快そうに笑い転げていたのも分からなくもない、か)
 当時の事を思い出しては口元が緩みそうになる。あれからまだ二ヶ月程度しか経
っていないのだ。短い期間ではあるが、様々な事が起き過ぎた非常に濃縮された二
ヶ月である。そして全てが転がり始めた場所がようやく見えてきた。
「見えてきたよ。いよいよだね、笛ちゃん」
「そ、そんな焦らせないでよぉ・・・ただでさえ心臓が爆発しそうなんだからぁ」
 表の看板には準備中の札がかかっていた。店内は明かりが消えており曇り硝子を
通して覗き込む事は出来なかった。それでも何か見えないかと懸命に目を凝らして
いた美代ちゃんもついには匙を投げた。
「誰もいないみたいだね。・・・裏に回るの?」
「そうするしかないんなら、そうするわ」
 気を取り直して裏手に回ろうとした時だった。悪寒があたしの全身を走り廻る。
やがてその正体が、あたしのお尻を撫で回す手だと言う事が分かった。刹那、あた
しの体は小さく回転し、不敵な手を掴むとあっと言う間に相手の背中へと自力では
不可能な角度へと捻じ曲げたのである。柔道の合間に師範から習った痴漢撃退法そ
の三である。
「うわわわわっ。ちょ、ちょっとタンマ。ボクだよ、笛子っ!」
「へ?」
 見ると手の主は香月だった。あたしは慌てて彼女の手首を開放した。香月はその
反動で地面に尻餅をついた。
「な、なんで香月があんなコトすんのよぉ〜」
「いやぁ、可愛いお尻だなぁって思って。つい」
と小さな舌をぺろっと出してみせた。どう見ても悪戯に成功した子供の表情だった。
「つい、じゃな〜いっ!」
 しかし相手が女だと分かるとあたしの怒りも急速に萎んでしまった。いや、正確
には脱力したと言うのが正しいかもしれない。香月はあたしに対して悪ふざけをす
るが、今この時ばかりはあたしの緊張をほぐしてくれたので、彼女の行為にほんの
ちょっとだけ感謝している。
(よかった。香月はいつも通りの香月だ)
 彼女は陽司くんと同じく心配の種だった。一応、仲直りしていたとは言え、この
ところ全然会っていなかったのだから。ひょっとするとあの夜の香月はあたしと陽
司くんの事だけを考えた末の偽装工作だったのではないだろうか、と心の隅で思っ
ていた。でも今の彼女を目の当たりにすると、それは単なる杞憂に過ぎなかったと
安心した。
 香月は手首を擦りながら立ち上がった。あたしが本気で掴んだから手首に赤い輪
っかが浮かび上がっている。こればっかりは香月の自業自得なのでどうしようもな
い。
「あたた・・・笛子って握力、強いんだね〜」
「・・・言わないで。それより、香月。その・・・いる?」
「陽司? うん、いるよ。呼んでこようか?」
 あたしが頷くと香月はひらりと回れ右をして裏手の入り口をくぐろうとした。し
かしその必要はなかった。あたし達の声を聞きつけたのか、既に陽司くんが小さな
玄関で靴を履いていたのだった。
 喉が鳴る。
 覚悟してきたとは言え、いざ、目的の相手が現れると体が固くなってくる。それ
でもここまで来てしまったのだから八割方虚勢をはって、彼が出てくるのを待った。
 そう言えばなんであたしはこんなにも緊張しているのだろう。ちょっと前迄のあ
たしと陽司くんはすごく自然に近付く事が出来たのに、今日に限って何をするにし
てもギクシャクしてしまいそうな、あたしに何かが触れれば氷細工が崩れるように
その存在が儚く消えてなくなりそうだった。
 やがて彼が立ち上がった。二三度爪先ととんとんと軽く叩いて履き心地の調節を
しながら、あたし達の前に現れたのである。
「・・・事前に報せてくれれば、迎えに行ったのに」
(陽司くんが絶交宣言するから電話できなかったんだけどなぁ)
 いつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべる陽司くんに対して、愛想笑いを作る事
が精一杯だった。



 陽司くんはあたし達を砂浜の方へと誘った。彼の家の前で立ち話をするのは、隣
近所への手前もあるので、あたしとしてもその方が気が楽だった。天気の話題など
当たり障りのない会話を交わしつつ、テトラポットの並ぶ一角へと進んでいく。
 少し離れたところでは小学生くらいの男の子達が網を片手に忙しく動き回ってい
る。フナムシでもおっかけているのか、それとも波打ち際まで接近した魚を狙って
いるのか元気のいい掛け声が青空の下に響き渡っていた。
 陽司くん、あたし、美代ちゃん、そして香月。数の上では男女平等とは言えない
混成集団である。当事者であるあたしと陽司くんはともかくも、美代ちゃんと香月
は最初遠慮して少し離れたところに移動しようとしたけれど、あたしが引き留めた。
二人とも気になるからここまで付いて来たんだし、自分自身も陽司くんだけでなく、
彼女たちにもきちんと話を聞いてもらいたいと思っていた。
 陽司くんが振り向き、勢いよく頭を下げた。
「この間はごめんっ」
「へ?」
「城址公園で随分と相田さんにひどい事、言っちゃったでしょ。自分が何を言って
いたのかよく分かっていたんだけど、あの時はああいうしかなかったんだ」
「う、うん・・・それは、もう気にしていないから、陽司くんも気にしないで。ね」
 意外な先制攻撃から話は始まってしまった。機先を制するつもりが、先に主導権
を奪われたのである。面食らってしまったあたしとは対照的に、横では美代ちゃん
と香月が安堵の表情を浮かべている。
「僕はあれからずっと相田さんの事を考えていたんだ」
 何も言えずにいるあたしに追い討ちをかけるように彼は口を開いた。
「なんで相田さんを傷付けなきゃいけなかったんだろうって・・・目の前に香月が
いるのに言うのもなんだけど、その、正直言って香月を憎みそうだった。そりゃ、
香月は僕の大事な妹だけど、昔、相田さんが言ったように、なんでそこまで、相田
さんを自分を犠牲にしなくちゃならないんだろうって思ったりもした」
 一同の視線が香月に集まる。だが、当人はまったく意に介さず、寧ろさっさと話
を続けちゃえと小さく頷いていた。あれだけ依存していた陽司くんにここまで言わ
れてしまうと、流石の香月もどういう反応を示すか少々不安だったが、内心はとも
かくも外見上は平然としているので、陽司くんは話を再開した。
「色々と考えているうちに、僕は自分が明らかに後悔している事が分かったんだ。
直ぐに謝りに行こうって・・・でも取り返しの付かない事を言ってしまったから、
もう一度きちんと話したくても、相手にされないんじゃないかって思って、だから、
偶然でもなんでもいいから次に相田さんと会う時にちゃんと謝ろうと・・・そして
・・・そして」
 小さく深呼吸。二三度、彼の胸が動いて新鮮な酸素を補給した。
 次に息を吸い込んだ瞬間、伏せ目がちだった顔をあげた。日差しが眩しいのか瞼
が僅かに細められていたが、今度は迷いのない表情だった。
「そして僕の気持ちを打ち明けようって決心したんだ。今まで僕は自分から積極的
に何かを行う事はなかったけど、その・・・相田さんを失いたくないから、相田さ
んが好きだから・・・」
 瞬時に体温が上昇したような気がした。同時に体中の力が抜けたみたいで、砂浜
にしっかりと立つ自分の両足がひどく不安定な棒切れのようだった。彼の言葉によ
ってあたしは幸福感に酔いしれつつあった。
 もう、なにが、どう、なっても、いい。
 今なら殴られようが蹴飛ばされようが多分、あたしは笑顔を絶やす事はないだろ
う。
 美代ちゃんは握りこぶしを作って、もう一声、と陽司くんの背中を見えざる手で
押しつつある。一方、香月は笑っていた。あたしにはそれが苦笑いのように見えた。
ぽつりとやっと言ってくれたかと、呟く。
 逆に陽司くんの視界にはかの二人は入っていなかった。その瞳は真っ直ぐにあた
しを射抜いていて、一切の挙動を封じ込めていた。
「だから、相田さんっ。付き合ってくださいっ」
 とどめは彼の告白、今まであたしが言おう言おうと思って声に出せなかった言葉
を固有名詞だけ入れ替えてぶつけられてしまったのである。
 頭がくらくらするのは残暑のせいでも直射日光のためでもない。まさに今、自分
の目の前に立つ一人の人間の言葉によるものだった。
 何度か視界がぶれて滲んできた。写真の上に水をぶっ掛けたように映像は歪み、
ぼやけ、最後にはシャッターが下りてきて丁度彼の首から上だけを隠してしまった。
(そんなに涙腺が緩い方ではないんだけどなぁ・・・)
 頭の一角だけはいたって冷静に自分を評価していた。とは言っても理性とか思考
とはまったく異なる何かが自分の体を支配しつつあるのが分かる。ちょっとでも気
を抜けばその場に崩れ落ちるか、大好きな陽司くんの胸めがけて飛び込んでしまい
そうだ。
 彼は、陽司くんはあたしの返事を待っているに違いなかった。何か言わなければ
いけないと思考を巡らせるけど、それは底無し沼のようでいつまでたっても良い言
葉が見つからなかった。
(まずはお礼から言うべきかなぁ・・・イエス・ノーだけじゃ簡単すぎる気がする
し)
 どうこう迷っているうちに、ぽろっと言葉が転がり出た。
「ごめんなさい」
 あたしを含め、一同あっけに取られた表情を浮かべた。



 最初に騒いだのは美代ちゃんである。まるで我が事のように憤慨していた。
「な、何、言ってんのよ、笛ちゃん! 中小見君は笛ちゃんに付き合ってって言っ
てるんだよ。笛ちゃん、ずっと中小見君の事、見てたじゃないの」
「言い間違いにしてもちょっと酷いよ、笛子」
 香月も非難めいた視線をあたしに向けた。
 そして陽司くんはあたしの言葉を聞き間違えたのではなかろうかと首を傾げてい
る。
 もう一度、同じ台詞をあたしは繰り返す事にした。
「陽司くん、ごめん・・・あたし・・・陽司くんとは付き合えない」
 今度こそ陽司くんはあたしが何を言っているのかを理解してくれたようだった。
同時にその言葉の真意を測り兼ねて、問い掛けてくるのだった。
「な・・・なんで? やっぱりこの前の事・・・」
「違うの!」
 思わず大声を出してしまった。テトラポットで遊ぶ子供たちが何事かと一斉に振
り向いたが、そんな事はどうでもよかった。
「うまく言えないけど・・・駄目なの。あたし、陽司くんと付き合えないの」
「待ってよ、笛子」
 間髪開けずに香月が割り込んできた。
「ボクに遠慮してそんな事いってるの? だったらそれは笛子の考え過ぎだよ。確
かにボクは陽司を取られたくないって思っている事を否定しない。でも、それはボ
クの中のブラコンがそう思わせるのであって、笛子が言ってくれたように、このま
まじゃいけないって思っている事もまた事実なんだ。それに・・笛子だって大事な
友達なんだ。ボクの為にそんな事を言われたんじゃ、ボクは笛子の顔を見れなくな
っちゃう!」
「遠慮・・・じゃないよ。あたしはそんな事で諦めたりしないって」
 事実、香月のいかなる工作にも屈せず、あたしは陽司くんにモーションを掛け続
けていたのだ。いくら香月と仲良くなったからと言っても、それを理由に恋を諦め
たりなんかする筈がない。それは恋敵である香月自身が一番良く知っているのだ。
「・・・じゃあ、なんで? なんで断るんだよ」
 香月は腕組みをしてあたしの目の前に立った。納得の行く答えを言うまでは一歩
も引かないつもりである。全く同じ外見の人間が前後に重なる。あたかもあたしか
ら陽司くんを守かのようだった。
「今の陽司くんは好きじゃないから。ううん、好きは好きなんだけど、それは友達
としての好きで、恋愛の好きじゃないんだもん」
 あたしが好きだった陽司くんとは?
 それは強い優しさをもった彼だった。自分の夢にまっすぐな彼であり、誰にでも
打ち解け親身になれる彼だった。学校で見掛ける彼は全てにおいて完璧だった。
 でも香月が絡んだ彼は醜かった。
 兄妹? 双子?
 そんな事はどうだっていい。消極的で自己中心的な考えの彼は、彼でなかった。
単純なあたしにしてみれば卑屈にさえ見えたのだった。それを彼は香月への哀れみ
で他人だけでなく自分自身の目からも巧みに隠しつづけているのだった。それがあ
たしには耐えられなかった。香月に対する思いやりが悪いんじゃない。香月を言い
訳にして、彼自身が香月に依存しているのが許せなかったのだ。
「ど、どこが悪いの? 直すよ。そんな所はすぐにでも直すから・・・」
「そこが嫌なのっ。あたしの好きだった人はそんな事を言わなかったよ。彼は優し
かったけど何かの為に自分のスタイルを捨てるなんて事はしなかったもん。あたし
よりも背が小さくて力だって弱かったけど・・・ずっとずっと大きくて堂々として
いたわよ」
「そ、そんな・・・」
 陽司くんは絶望の表情で膝をついた。慌てて香月がそれを支えて再びあたしを見
る。
「笛子」
「・・・」
「・・・なんでもない」
 視線を背けると香月は双子の片割れを支え直して、歩き出した。時折、陽司くん
は砂に足を取られて転びそうになるが、その都度、香月が体勢を変えてゆっくりと
確実にあたし達から遠ざかっていった。
 取り残されたあたしは妙にすがすがしい気分だった。ここ最近、あたしの心の中
を支配していた闇が一気に取り払われたような気分である。
「ホントに・・・あれでいいの?」
 いつのまにかあたしの直ぐ横に美代ちゃんがいた。小さな手があたしの袖口を掴
みながら震えている。
「あたしだったら・・・ううん。あたしと笛ちゃんはタイプが違うからこんな事言
っても意味ないね」
「ごめんね。こんなところまで付き合わせておいて、こんな結果にしちゃって」
 それには何も応えてくれなかった。



 新学期早々、あたしは中小見君に呼び出された。断るべきか迷っていたけど、相
手が香月であると分かると即座に席をたった。香月はあたしを連れて屋上に出た。
そこは授業の合間なので人気はまったくなかった。
(二三発、殴られるか、引っ叩かれるかなぁ)
 それならそれでも良いと思っている。香月の分身を徹底的に打ちのめしてしまっ
たのだから、その程度の報復なんて喜んでうけてあげる。
「陽司さ・・・結構、ショックだったみたいだよ。傍目にも笛子の方が陽司に想い
を寄せているとしか思えなかったし、まさかボクもああいう結果になるとは予想で
きなかったなぁ」
「もう謝らないわよ」
 別に開き直った訳ではない。昨日、きっちり謝ったんだから必要以上に同じ行為
を繰り返すのは相手に対して不快感を与えるだけと思っている。
「そんなんじゃないって。同性としてちょっと見直しちゃったな、ボクは」
「え?」
「ボクは笛子の言っている事もよく分かるしね。悪いトコ直すからだなんて我が分
身ながら格好悪いと言うか、情けないと言うか・・・あれじゃあボクだって白けて
ただろうなぁ。百年の恋も冷めるとはこの事かな」
「・・・じゃあ、陽司くんの分身としては?」
 香月はあたしを一瞥すると屋上の四方に設けられた金網に寄りかかった。
「複雑だね。陽司を苦しめたから許せないってのもあるし、逆にあれだけはっきり
言ってくれたから感謝しなきゃなとも思うし。ただボクは・・・笛子との友情を変
えるつもりはないよ」
「香月・・・」
 不思議なものである。陽司くんと仲良くなればなる程、香月とは険悪になってい
たのに、今では全く逆になってしまったのだから。なんだかんだ言っても陽司くん
と香月は表裏一体なのかも知れない。
「あは。陽司の事はもう心配しなくてもいいよ。明日はちゃんと学校に来させるか
ら」
「ほ、ホントに? 一応、当事者として心配してるんだけどな」
「だって、明日は体育の授業があるじゃないか。いくらボクでも男子に混じって着
替える勇気はないよ」
 思わず吹き出してしまった。もし、そうなったらクラスの男子どもはどういう反
応を示すのだろうか? 不謹慎だが考えてみると面白くてたまらない。
「あっ。想像しただろ!」
「だ、だってぇ〜。香月が変な事言うから」
「・・・まぁ、笛子なんかよりもボクの方がプロポーションいいから、男子は喜ぶ
だろうなぁ」
「何よ、その発言。ムカツク」
「これでオアイコでしょ」
 にやりと冷笑を浮かべる香月にあたしは言葉に詰まった。しかし彼女の表情はす
ぐに綻んだ。いつものクセと分かっていても心臓に悪い。香月はまぶしそうに太陽
を見上げた。あたしはと言うと海岸線を見ていた。小さな定食屋がある辺りである。
(未練・・・あるのかな)
 そして意図的にあたしは視線をずらすのだった。
「にしてもどうしよっかなぁ・・・妹としては陽司を立ち直らせて欲しいって頼み
たいんだけどさぁ、女としては放っておいた方がいいのかなとも思うし」
「あたしなんかじゃなくても香月がついていてあげればいいじゃない」
「う〜ん・・・双子揃って笛子に依存するのも悪くないかなぁ」
「ちょ、ちょっと! 冗談でしょ」
「冗談に決まってるじゃん。ボクにしてみれば陽司を一人占めにするいい機会だし」
「・・・」
「いや、だから冗談だってば〜っ」
 あんたのは冗談に聞こえないんだってば!

<了>