作品名:『出逢い(1)』
  製作  : 96/12/08(14KB)
  作者  : アキレウス  氏
  形態  : 長編区切(ストーリー)

 不思議なものだ。そう、思わずにはいられない。

 師走も近づいた小雨の降る日の事だった。
 その日、私は古くなった掃除機を買い換える為に、二〇年前に培った世界的知
名度のお陰で観光客収入を得てかろうじて成り立っている派手な電気街の裏手に
ある、とある現金問屋に向かって自転車を走らせていた。

 いや、正確には、その裏手にある小さな郵便局に向かってというべきだろう。
その時の私には手持ちが無かった。皆、医療費に巻き上げられていたからである
。一人暮らしの身は、病気をしているという肉体的精神的苦痛より、無柳のまま
無くなっていく現金のほうにより肌寒さを感じるものなのだ。ともかく、病身を
推して自転車を漕ぎ続けた私は、素敵なほどくすんだ電柱の似合う問屋街の中に
ひっそりとたたずむ局に到着した。こんなところでも一応自転車の鍵を掛けてい
くあたりが、数年に渡る東京生活で培った智恵だ。鍵を無くしてしまって盗まれ
るよりも悲惨な目に遭った事も無いでは無いが。

 貰い物の黒いマフラーを心持ち直しながら既に何度も利用している局内に入り
、勝手知ったる自動支払い引き落とし機の前に立った。赤茶けた皮のジャケット
とぴっちりとしたジーンズを着て、髪を短く切った女性”に見える”人影が支払
機の操作をしていた。わざわざ”見える”と区切ったのは、この周辺特有の地理
柄からポニーテールの男性というものが少なく無く、これまで幾度と無く恥ずか
しい思いをしていたため、観察眼に自信を失っていたのである。だが、どうやら
この時は私の予想は外れてはいなかった。あくまで生物学的にだが。

 とりあえず買い物に必要な額と、薬代に変わった当座の生活資金を引き落とす
と、気の早い年賀状買い物組と、安すぎる簡易保険金利を巡ってトラブルを起こ
しているおばちゃん達を素早くかわしつつ郵便局を出た。眼前には、代わりばえ
しない、妙に曇り空と黄昏がはまってしまう木目たっぷりの問屋街が広がってい
る。ダンボールを満載したリヤカーがきいきいと音を立てながら引かれていく音
。小型のバンに無造作に積まれたコンパック。太陽から見放された有印良品たち
の前に良き飼い主がみつからん事を。

 昭和三〇年代の資料映像もかくやと思える問屋街の、迷惑なまでのバンと自転
車の往来を文字通りすり抜けながら、目的の個人売り現金問屋に行き着く。いつ
ものように無愛想な社長が無愛想に用事を聞いてくる。私は、よそ行きの声を使
って、電力、メーカーなどの願望を暫く並び立てつつ、特にイエダニに効果のあ
る掃除機を、と注文した。程なくして、希望商品候補の品番と定価、売値がぼそ
ぼそとした声で呟かれつつ、最高値のついた商品のカタログを引っぱり出され、
私に渡す。”これにしろ”という意味である。

 私は、悩んだ顔をしながら、他のは、ありませんか? と口に出して言う。い
くらなんだって選択肢が狭すぎるからだ。ぼそぼそと消えて行く社長の背中を目
にしながら、私はひさしぶりに自分がマスクをしているのに気がついた。道理で
声が出しにくいはずだ。しかし、風邪への影響を起こさない為に、数日間風呂に
入っていない事がマスクの下にはっきりと表れている以上、取るわけにもいかな
い。

 鼠色のジャンパーを着た社長に、おそらく機嫌が悪くなったのであろう、別の
カタログを投げつけられた私は、暫くカタログを見比べる事にした。すると、黒
電話から懐かしいジリリリリという音がする。社長は無言で受話器を受けると、
なにやら潰れた某大手パソコン卸売業者の処理品整理関連の商取引について、さ
きほどまでのぼそぼそ声はどこへやら、強圧的なまでの元気さで受話器ごしの相
手を怒鳴りつけ始めた。聴いて聴かぬふりをしながらカタログチェック。これも
礼儀のうちだ。

 と、そこへ、元日本船舶理事になりそこねたような初老の紳士崩れがやって来
た。社長の取引先の一人だ。それほど回数を来たわけでも無い私でさえ知ってい
るのだから、おそらく頻繁に取引を重ねているのだろう。国体ジャンバーのよう
な鮮やかにくすんだ緑と白のものを着込んだ紳士崩れは、甲高い声で電話中の社
長の邪魔をするが、社長は眉一つ聳えただけといった感じ。思わす口元が緩むの
をマスクで隠しつつ、既に何度見ても同じカタログを見比べるふり。

 ふと、気がつくと、国体ジャンパー氏は一人の女の子を連れていた。黒髪をざ
っくりと短く切り、慣れた茶色の皮のジャンパーを羽織った少女。ロックバンド
のヴォーカルのバイト姿、といった感じである。きょろきょろしているところを
見ると、おそらくここに来るのは始めてなのだろう。ここは、一般の人は殆ど存
在すら知らないままで終わるのが普通の場所だから無理も無い。

 彼女を見たとき、私は既視感を感じた。
 が、思い出せない。なんだったか。

 とりあえず様子を見ようと、カタログに隠れながら国体ジャンパー氏と社長の
やりとりを聞くことにした。暫く聞いていくと、事情が徐々に読み込めてきた。
国体ジャンパー氏は、BSチューナー内蔵テレビを売ろうとしているのだが、値
段の都合上皮ジャン少女はなかなか渋っている。そこで、実際に販売している社
長に説得をさせようという魂胆なのだ。しかし、実際のところ喋っているのはジ
ャンパー氏だけで、社長はただ頷いているだけである。とはいえ、大人二人に説
得されているまだあどけなさを遺した皮ジャン少女は、自身の財布とカタログを
見比べて逡巡するばかり。

 目元まで緩んでしまうやりとりを聞きながら、私はある決断をした。
 これにします、と声に出して、結局最初の高いほうを買う事にしたのだ。
 社長はやはり眉一つ変えず、私の差し出した現金を無造作に受け取り、領収書
を書く。効果はあった。現金が目の前で授受されるのを見て、勢いづいたジャン
パー氏の決断を促す声の中で、少女は、ついにチューナー内蔵型のテレビを買う
決断をしたのである。全く、我ながら見事な誘導だ。単純極まりないが。

 国体ジャンパー氏は、恐らく五百円と違わないはずの儲けの為、というよりは
彼の善意の勝利にほっと胸をなで下ろしていた。しきりに、良い買い物をした、
良い買い物をした、と、まるで孫の合格発表のお祝いのごとき高いテンションで
繰り返す。一方、皮ジャン少女のほうは、自身の選択に誤りが無いと思いつつ、
いささか膨れっ面である。その姿を見て、なんとなく可哀想に思った私は、社長
からおつりを受け取りながら、
「でも、確かに一人暮らしの身に取って一万円は大きいよね。」
と、助け船を出した。

 その時、彼女の顔に浮かんだあけっぴろげな安堵と信頼を示す鮮やかな瞳を、
私は忘れる事が出来ない。無理解者の大衆の群の中から自らのパトロンを見つけ
たルネッサンスの芸術家の如く、
「そうですよね〜、ほんとにそうですよね〜、そう思うでしょ?」
と言いながら真っ直ぐに私のほうを見ながら近づいて来た。
 この時、私は、彼女との距離がわずか四、五歩分しか無い事に初めて気がつい
た。それに気がついたということは、私と彼女との間の精神的距離が、一気に縮
まった事を意味していた。この時声を掛けなければ、一瞬すれ違ったまったくの
赤の他人、という事になっただろう。それが今や、一人暮らしの共通戦線を共に
張る同志だ。

 だが、私は、正直に言って、ここまで無垢に示される信頼を、そのまま受け取
れるほど素直な人間でも無かった。
「でも、まぁ、不必要なもの、でも無いしね。あとで後悔しても仕方ないし。」
 しかし、彼女は、一度与えた信頼を簡単に取り消すタイプでは無かったらしい。
「そうですよね。わたしもそれで悩んだんですけれど....、やっぱり一時安くても
後で後悔するし....」
 わたし、というのが一歩間違うと「あ」になるような、少し低めのトーンのはっ
きりとした活動的な声。てきぱき、という印象がぴったりだ。しかし先ほど逡巡し
ていた時も国体ジャンパー氏と会話はしていたのである。声に気がつかなかったの
だろうか? それとも、他人から一歩近づいただけで、こんなにもいろいろな事に
気がつくものなのだろうか?

 この時、私の頭の中に既視感の正体が石火の如く駆けめぐった。
 郵便局だ。私の前に現金支払い機を操作していた、生物学的な女性。

 私は自らを恥じた。なんという無礼な事を考えてしまっていた事か。
 私の前にいる彼女は、”立派な”あどけない女性では無いか。恐るべき、他者へ
の無理解。もし私が彼女に声を掛けなければ、私にとって彼女は”生物学的な”女
性という事で全て終わっていたのである。恐るべき、偶然の糸。アナール学派にか
かれば、この事すら「必然」となるのだろうか? そんなばかな。

「兄ちゃん、掃除機持ってって来れ。」

 振り返ると社長が倉庫から掃除機を軽々と持ち上げて来た。まったく、この小さ
な身体のどこにそんな力があるのだろう。社長にして見れば、既に商議も終わった
個人客など、とっとと帰って欲しいだけなのだろう。頭ではそう思いながら、さも
うかつそうな顔を装いつつ、荷台の不安定な自転車に荷物を降ろす。領収書を受け
取り帰還進行方向に向いた。冬の北風が冷たく頬をなぶる。

「あれ、自転車なんですか?」

 また振り返ると、右肩に取手付きの十七インチBSチューナー内蔵テレビを抱え
た皮ジャン少女が立っていた。私は正直少々げんなりした。まったく、なんだって
人が病気で苦しんでいる時に健康な姿を見せつけてくれるのだろう?

「そうだよ。え〜と....きみは?」
「史穂だよ。及川史穂。」

 まるで客観的に自分の名前を言う。

「じゃなくって、ん〜と、しほ、さんは何で帰るの?」
「わたし? そりゃあもう、もちろん電車で。」
 いかにも普段敬語を使ってなさそうな中途半端なアクセントが、妙におかしい。
「駅までは?」
「もちろん歩いて。」
 さらっと言ってくれる。このあと「ほんとは単車があればね〜」などと言ってく
れれば完璧にはまったのだろうが、そうはならなかった。もっとも、
「このあと、バイトなんで、大変な事になってるんですよ。」
では、大して変わらないのだが。

 そう言った後の、手持ちぶさたな様子の彼女を見て、なんとなく、このまま帰り
づらくなってしまった私は、
「じゃあ、駅まで一緒に行く?」
と、冗談のように声をかけて見た。
 すると、彼女は満面に笑みを湛えて、
「うんっ! そうしましょ〜っ!」
と勢い良く頷き、嬉々として側に寄って来た。

 困った。
 体調悪いからそのまま帰りたかったのだ。ただでさえ重いもの持って、バランス
悪いのに。しかも、相手が歩きとなれば、まさか女の子を相手に騎兵と従者をやる
訳にもいかない。こんな態度されては、いまさら「やっぱりよした」なんて言えな
いじゃないか....
 さらに追い打ち。
「助かります! だって、駅までの道、わかんないんだもん。」
 良かったのか、悪かったのか....

 かくなる訳で、私達は黄昏間近の電気街の裏街道を進む事になった。最初、彼女
のほうから近づいてきておきながら、ひとけが無くなる道に進むに連れて次第に無
口になって、警戒するような目つきをし始めた。私は苦笑しながら、見通しが良く
なり、JRの高架が見えてくるのを待つしか無かった。私が何かするとでも思って
いたのだろうか? それとも、この警戒には何か奥があったのだろか?

 少なくとも私は、あまり”女”を感じさせない彼女に手を出す事は無かった。そ
れ以前の問題として私は自分でも困っているくらいの常識家であったし、そもそも
その危険があるようだったら当初から接近を避けていたろう。この手の事に関して
は、私は臆病なのだ。疑似公園を所狭しと滑っているスケボーの群たちのほうが、
よほど勇気があるだろう、善悪は別としても。

 ともかく、事態を飲み込むようになると、うって変わってやたらと良く喋るよう
になった。新たに開けた近道に、ひどく驚いている風でもあった。おかげで私はこ
の電気街の大家という、ひどく大げさに聴こえる称号を貰ってしまった訳だが、考
えてみると自転車でも無ければこんな裏手の道に通じる機会はまず無いのであるか
ら、あながち外れた見解という訳でも無い。

 彼女は、私に、
「それにしてもぜんっぜん都会人らしく無いですね。」
とも言った。自覚しているので別に驚くに当たらないが、こうまで直接的に言われ
てしまえば、では”都会人”というものについて聞いてみたくもなる。すると、
「んとね〜、キムタクみたいな人」
と、姿形に似合わず案外平凡な答えが帰ってきた。いや、逆の考え方をすれば非凡
なのかもしれない。何れにしても、少なくとも、マスクの下に無精髭を隠していた
り、バランスを崩して”女の子”に自転車ごとぶつかってしまうような男は全然”
都会的”では無いそうだ。

 こんな調子で、彼女は駅につくまでの二〇分程度、体育会的敬語と同級生向けタ
メ口を交互に混ぜ合わせた独特の言語体系を駆使して、ほぼ一人でしゃべり続けた
。その脈絡の無さに辟易しつつも、私は彼女の開放的な、表裏の無い性格に素直な
好感を持った。不思議と、年齢や出身といった、俗的な事は聞く気にならなかった
。聞く暇を与えてくれなかったというものあるが、謎を残したままの瞬間の出会い
というものも面白かろうと思ったからである。そもそもの謎は、彼女が如何にして
あの店の存在を知り、如何にして帰れもしないのにあの解りづらい場所にいたか、
というところまで遡ってしまうのだから。

 そうこうしているうちに、スノボーの群と献血の脇を通り過ぎて、電気街の窓口
の雑多な人混みが見えて来た。ここから先になると、さすがに自転車で二人横並び
というのは邪魔だ。まして、軽装ならいざ知らず、二人ともかさばる持ち物を持っ
ているのでは。大通りに接続出来る道まで来たところで、私は、
「じゃあ、ここから先は解るね。」
と、切り出した。

 その時、一瞬だけ彼女の顔に浮かんだ、如何なる言葉を用いても真に形容する事
の出来ない、不可思議な表情を、私は今でも思い出す。何か、胸を締め付けずには
おかないような、よるべの無い翳りを帯びた瞳を。

 だが、それは本当にほんの一瞬だけのことで、まばたきをした後の彼女は、さき
ほどまでの、うるさすぎるほどのあどけない少女そのものだった。二〇分もの間、
文句一つ言わず両手に抱えて持っていた、一緒にいた私がその存在を失念してしま
うほどだったBS内蔵テレビの取手をしっかりと掴み直しながら、
「はい。もうわかりますよん。」
と笑顔を見せた。

「それじゃ、がんばってテレビでも見てくれ。」
「違います。わたしこれからバイトだっていったじゃん。」
全くもって良く解らない言語体系だ。
「それじゃ、僕はいくから。」
「ありがとうございました。え〜と....、そのぉ....、マスクのひと。」
....革マルみたいな言われよう....
「....一応、一柳薫っていう名前があるんだけれどなぁ....。」
「え〜!? なんかぜんっぜん似合わない。はっきりいって名前負けしてるね。」
こ、こいつは....
「....ともかく、ん〜と....」
あれ? そういえば名前を聞いたはずだったのに、思い出せない。
「だから、史穂です。及川史穂。」
思い出した。たった二〇分前の出来事を忘れるとは....。

 そっちこそ名前にそぐわないじゃないか、と言おうとしたところで、突如、
「あ! もうこんな時間だったんだっ! それじゃ、おじさん、今日はどうもあり
がとございましたっ。まった会おうね〜っ!」
と言いながら、笑顔を満面に浮かべつつ右の手のひらで思いっきり私の肩をどやし
つけるように叩くと、一二キログラムの精密機械を持っているとは思えないスピー
ドで雑踏の中に消えていった。

 あとには、呆然としたままの私一人が残された。
「....まだ、二〇過ぎて一年しか経っていないのに....おじさんかぁ。私も年を取
ってしまったものだ....」
溜息混じりに思わず”おじさん口調”で一人ごちてしまう。
 右肩に抱いた痺れるような感覚に、今更ながらに気がついた。
「あの怪力娘....、少しは加減しろよ....」
誰にするとでも無い苦笑を浮かべたまま、もう一度ゆっくりと反芻するように呟い
てみる。
「おいかわ しほ....、か。」
 戯れの出会いにしては、いささか印象が強すぎる子だったな。

 その日、私の風邪はさらに悪化した。

                              〜 続く 〜