作品名:『声』 製作 : 96/11/13(5KB) 作者 : おじゃ 氏 形態 : ショートショート <声> 「さあ、行こうよ」 朝、そんな声で目を覚ました。人の気配はなく、窓を見ると、 チラホラと赤く色づいた木の葉が舞っている。もう秋なんだなぁ と実感した。 「みんな君を待っているんだよ」 どこからともなく、そんな声が聞こえた。 私は今、病院のベッドに寝ている。こんな声が聞こえるよう になったのは、ちょうど1週間前だった。私は、車の後部座席 でうとうと転寝していた時である。 「行こうよ」 脳裏を過ぎるような声が響いたと思うと目が覚めた。見渡した 時には、既に病院のベッドに寝ていた。それからである、どこ からともなく声が聞こえるようになったのは。 今日は妹が見舞いに来てくれると言っていたのだが、正直言っ て余り来て欲しくはなかった。何も無い白い空間に、体の殆ど を包帯で埋め尽くされ、腕1本動かす事すらままならない、そ んな私を見て欲しくないのだ。せめて、もう少し状態が良くな るまでは。 半年が過ぎた。一向に包帯は取れず、最近は毎日のように強 い衝撃が体を襲うようになってきた。その衝撃は例えようもな く、ただ強い衝撃としかわからない。それがくると、決まった ようにあの声が聞こえる。 「さあ、行こうよ」 私はいったい何をしているのだろう。しかし、深く考えはじ めると1日があっという間に過ぎ去ってしまう。何もかもやる 気が失せ、視点は窓の外を眺め続けていた。木々が寒さの前に 果てていくのが、最近の視界にあった。 「みんな待ってるよ。行こうよ」 最近は、声に耳を傾けないようにしている。声を聞く度に、 体の何かが消えてゆく感じがするのである。 やがて妹も、母も、父も、友人も、誰1人として面会に来な くなった。白い部屋には、私一人が残され、生命維持であろう 機械の音も止まり、風の音だけが響いていた。 冬まもう来ていた。 寒い日差しの中、白い部屋で1人寝ている私は、1人の誰か に出会った。名も知らず年齢も分からないが、性別は男のよう だ。彼は言った。 「僕はそろそろ行かないと・・・君は行かないのかい?」 紛れも無くいつも耳にしている声だった。私は同様を隠せなかっ た。 「さあ、君も行こうよ」 彼は下を指差した。私は、恐る恐る下を見た。確か、ここは病 院だった筈なのに、下には草原が見えるではないか。 『!』 何故、下を見れるのだ? 私はその疑問に対して、答えを導き 出す事ができなかった。彼は、私の腕を掴むと飛び出した。 「さあ、行こう」 私は、疑問の答えを導き出す義務は、既に無かったようだ。 ただ、飛べばよかった、そう彼は言っていた。 私が気がついたときは、見知らぬ大地だった。建物は無く、 草原というわけでもない。どこかの果てた広野と例えれば合っ ているかもしれない。私を連れ出した彼は、どこにもいなかっ た。 冬なのに、寒くも無い。ふと体を見た私は、包帯が無いのに 気がついた。夢なのだろうか。 「切符を拝見します」 うろうろと歩き回っていると、後ろから声が聞こえた。振り返っ た私の目には、1つの改札があった。急いで服にあるポケット を順々に探したが、切符のような物は一切持っていない。第一、 買った憶えすらない。 「切符が無ければ、この先には行けませんねぇ。諦めて下さい」 私には一体何の事だか検討が付かなかった。なぜここに改札が あるのか、この先には何があるというのだろうか。目を細くし て遠くを見詰めたが、何一つ見えなかった。 「この先には、何もありません。無があるだけです」 私には、さっぱり意味が掴めなかった。無がある、その言葉自 体がよくわからない。私は切符を持っていないという事は、無 に行かないでいいという事になる。しかし、行ったらどうなる のか、全くわからない。 「そうだ、あなたの前にきた方は、ここを通過なされましたよ」 彼はすでにこの改札を越えて、あの無という所に行ってしまっ たようだ。私はとてつもなく寂しい感覚にあった。 「そうですねぇ、切符をお売りしてもよろしいのですが、お買 いにになられますか?」 兎に角、あの無という所に行かなければならないのは確かだっ た。私は値段を聞いた。 「そうですねぇ、値段だとちょっと値が張る物ですから、1円 でどうでしょう?」 安い、私はそう思った。即座にポケットに手を入れ、財布を取 り出して中身を見た時、思わず目を疑った。全く金銭が入って いないのである。落としたわけでもなし、使った記憶もない。 「仕方がないですねぇ、それではあちらに行くことはできませ ん」 考えてみれば、なぜ財布を持っていたのだろう。ポケットの中 には色々な物が入っていた。 「おや、何か落としましたよ?」 私は下を見たが、塵どころか、落ちた形跡すらない。 「ほら、下ですよ。そう、もっと、もっと下です」 私は屈み込んで地面に目をやった。 「ほら、もっと下、早くしないと見つからなくなってしまいま すよ? あなたの大切な思い出が」 地面だと思っていた足元は、まるでくり抜かれたように無くなっ ていた。私は悲鳴を上げる暇なく、その真っ暗な空間へと落下 していった。 いつものように、目が覚めると白い部屋が目に止まった。何 か、思い出せない何かが私を呼んでいるようで、気になって仕 方が無い。しかし声が聞こえるわけでもなく、そんな気がする だけ・・・。 今日も妹が来るというのだが、着替えは十分にあるし、花も 誰かが飾っていったらしい。何の用事があるのだろうか。 うとうと眠っている間に、妹は椅子に座ってくつろいでいた。 「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」 今日は私の誕生日だったようで、すっかり忘れていたのが幸い してか、とても嬉しい。 私はすでに包帯姿ではないのだ。人の回復力というのは凄い もので、見離されていた私でも例外ではなく、こうして動くこ ともできる。ただ、病院から出ることだけは許されていない。 外に出られないのは非常に苦痛で、1人で出るのは怖い。だか ら、たまに他の病室に行って、耳もとで囁く事がある。 「行こうよ」と・・・。