作品名:『まちあわせ』 製作 : 97/04/03(13KB) 作者 : D−SYS 氏 形態 : 短編(恋愛) 『まちあわせ』 浩介は、ふと視線をあげた。 なんの変哲もないファーストフード店の二階。目の前にはさめた紅茶、窓 の外には静かに春の雨。手元の文庫は海外ミステリ。いつもと同じく、平穏 で静寂な時間。 とはいっても、このハンバーガー屋の二階が、いつもの浩介の指定席だと いうわけではない。ここは、浩介が滅多に来ないような私鉄沿線の駅前なの だ。いつもと同じく、というのはこの落ち着いた心境と、待ち合わせの気分。 手元には種類こそ違え、文庫がある。そんなところだ。 浩介はいつも通り、予定時刻より5分前に現場に到着していた。そして頼 んだ紅茶が今はさめている。待ち人は遅刻しているのだ。 これも、別段いつもと変わったことではない。もう、余念も付き合ってる 恋人は、いつも待ち合わせに遅れてくる。まぁ、大したことではない。そう、 浩介は思う。 たかだか、10分や20分のことだ。時には、極まれにだが一時間遅れる こともある。しかし、真奈美が来ないと云うことはない。だから、待つ事へ の不安はなかった。視線を文庫に戻すが、どうにも気持ちが入って行かない。 こんな時もあるものだ。 目が字面を追いかけて行くが、台詞も描写も全然頭に入ってこない。それ こそ、音声化しても意味が通らないのと一緒だ。浩介は、別段苛立つでもな く、柔らかな雨の降る窓の外を見つめた。 浩介はよく知らないが、この近くの美術館で、真奈美の今注目してる展示 が行われるらしい。ここでの待ち合わせを指定してきたのも真奈美だった。 いつもなら、そう、あと10分もすれば真奈美はやってくるだろう。悪びれ ない落ち着いた様子で、しかし、視線を合わせれば軽く謝って。 真奈美も、浩介が時間にうるさくないことを知っている。友達にそんなこ とを話すと、『お前は舐められているのだ』と警告されるが、本当に気にな らないのだから、仕方がない。映画やコンサートなどで予定が押していれば そうでもないが、特に制限時間や予定が決まってないデートで、あくせくし てもしょうがない。浩介はそう思っていた。 付き合って四年になるせいか。もうすでに、互いに互いのこともよく判っ ている。真奈美だって、こんな風に信頼して気楽に遅刻が出来る。それ一つ 取ってみれば、たしかに怠慢や怠惰、緊張感の欠如かも知れないが、同様の ことは浩介だってどこかでやっているのだ。 それが、真奈美は『待ち合わせ』、浩介は……自分では判らないが別の所。 それだけのことだと思う。それは、たしかになれ合いとも感じられたが、一 種独特の居心地の良さがあることも確かだった。食事をしているときでも、 目線だけで語り合うことが出来る。と、いっても、醤油を探していたり、小 皿を取ったりというレベルのことだが。 それはそれで、心地良いのだ。 居酒屋に入る。二人とも、なんとはなしに今日は日本酒と決めている。2 5になる浩介と、24の真奈美はどちらも普段は余り酒を飲まないが、それ でもいける口で、たまには居酒屋に行くこともあるのだ。 とりあえず、お刺身。 いいね。 刺身がやってくる。浩介が小皿を目の前に二人分、置く。真奈美が何も云 わないで、醤油を注ぐ。浩介は、刺身はわさびが多めの方がいい。だから、 刺身の皿はそう行った方向になる。ふたりで、日本酒の冷やを飲む。空いた ら、注ぐ。 そのあいだも、別の話をしている。最近の友人の噂。一緒だった高校の思 い出、会社の話。あまり、緊張しないでどんなことでも話せる。それに、料 理の好みも酒のことも判ってるから、特に二人で話し合わなくても、注文で きる。 注文は主に浩介の役目だ。 春になったけど、湯豆腐食べようか? いいね。 それと、あたし。あのね、こないだの…… うん、軟骨だろ? さっき君がトイレ行ってる間に頼んだ。 さんきゅ。 なんだか、少しだけくすぐったいような。穏やかで、落ち着く時間。それ でよかった。それが自分には似合っている。真奈美のことも、友人が云うよ うになれ合いではないと思う。これでいい。真奈美のことを十分好きなのだ。 外は相変わらずの雨。浩介は雨が嫌いではなかった。もちろん、冬の凍り 付くような氷雨には並行するが、夏の夕立や春雨。露の鬱陶しささえキライ ではない。こうして雨のさなかに少しだけ天から光が射し、灰色の世界を穏 やかに染め上げる。それは、とても美しいと思う。 そんなことを考えたり、文庫を読んだりしていれば、待ち合わせの時間な どあっと云うまに過ぎてしまうものだ。浩介はそんなことをぼんやりと考え た。 気に留まったのは、黄色い色だった、黄色い色……それに、細かい模様が プリントされた布。そのハンバーガー店の面した道を挟んだ向かい側には、 小さな公園があり、二階の窓際に座った浩介からはよく見えた。膨らみかけ た桜のつぼみが春雨に濡れている。 そのなかを二つの黄色い布がよぎった。 イスラム系? アラビア系? 浩介にはよく判らないが、そんな雰囲気を 持った二人の女性が歩いていく。日本人で云ったら、高校生くらいなのだろ うか? どうも年齢の見当が付かないが、20にはなっていないだろう。 どこのものだかわからないが、日本製の安っぽい薄手のワンピースに浅黒 い肌。髪の毛を見せないように、ぴっちりと大ぶりのスカーフのような布を 頭に巻いている。 不思議な光景だった。 まるで雨に彩られたような世界の中を、二人の少女は笑い会いながら、そ れでも静かに歩いていく。黄色いスカーフを巻いて。 その光景を、浩介は凝視するでもなく、呆然と眺めていた。 ……始めは判らなかった。その光景を見て、自分が何を感じているのかが わからなかった。ただ、胸の中の何かがふくれあがって、思考を停止させて しまったのだ。そして、視界の中からその少女達が去っても、呆然とした思 いは去らなかった。 一体何だったのだろう? 何が起こったのか。 自分は何に、こんなに驚いているのだろう? そう、そうだ。 驚いているのだ。 自分は驚いているのだ。 何に対して? それは…… その時。ぼーっとしている浩介の向かいの席に、真奈美が腰を下ろした。 「ごめんネ。いつものことで」 真奈美は静かに云った。もともと、余り表情に出ない達なのだ。友人には よく、人形のようだ。と、評される女性だ。そこそこ整った目鼻立ちのせい で、余計にその印象が強くなるのだろう。 浩介もその事をよく知っていなかったら、今の台詞で怒っていたかもしれ ない。結局二十分遅刻した上で、無表情に悪びれないと来ては。 しかし、浩介は真奈美のことが、少なくとも多少は判って居るつもりだっ た。向かいの席に腰を下ろすとき、視線を外すクセ。紅茶を飲むうつむき加 減の顔には、少しだけの微笑みの色。淡いが、それで十分な量の幸福。それ でいい。 浩介にさえ判れば、それでいいのだ。べつに、真奈美が太陽のようでみん なに好かれなくてもいい。浩介は真奈美のことが好きだし、それがこの場合、 重要なのだ。 「朝御飯、食べそこねちゃった。チーズバーガー食べちゃうね」 自分で買ってきたのに、そんなことを云う。毎回遅刻してくるけれど、そ れなりに悪いと思ってるに違いない。だからそんな台詞も出てくるのだろう。 「うん」 浩介も言葉少なに答えた。いつもなら、もう既に四年も付き合ってる二人 なのだから、真奈美の食事が終わるまで、浩介も文庫でも読んでいるのだ。 しかし、今の浩介はそんな気分にはなれなかった。先ほど見た、黄色いスカ ーフの二人の少女のことが気にかかっているせいか。窓の外にぼんやりと視 線を向けたまま、とりとめもなく思考を続けている。 さっき掴みかけたと思った『なにか』が、真奈美が現れたショックで消え てしまったのか。浩介の頭の中は、まるで外の春雨にでも塗りこめられたよ うに、混沌と灰色に曇っていた。 「どしたの?」 「ううん、なんでもないんだよ」 真奈美の言葉にも、どこか心有らずと云った返事をしてしまう。 ……なんの驚き? 自分は何を驚いたのか。 それは……つまり、不自然だったのだ。 なにが? 黄色いスカーフが? それもある。 ほかには? なにが。 全部だ。うまくいえないけれど……。そう、そうなんだ! 全部なんだ! 全部に違和感があった。違和感。 違和感なんだ。 いつのまにか真奈美はバックを置いてどこかへ消えていた。チーズバーガ ーは食べ終わっている。トイレにでも行ったのか。浩介は心の中に生まれた 『理解』を追いかけていた。 ……つまり、こう云うことだ。 自分は二人のイスラム圏の少女に違和感を抱いた。 それは、彼女たちが外国人で、普段見かけないからだ。 しかし、イスラム圏の人々を普段見かけない訳じゃない。自分の住んでる 町はたしかに、東京郊外だけどそこまで外国語圏の人々が少ない訳じゃない。 じゃぁ、なんで違和感がここまであるのか? それは、彼女たちが『少女』だったからだ。 なぜだか判らないけれど、自分は、イスラム圏の人間というと、浅黒い肌 で髭を生やしたたくましい男か、小太りのがたいの良さそうなおばさんしか 思い浮かべることが出来ない。というか、そんなことすら考えつくことがな かった。 イスラム圏? そう訊くと『その言葉から何を連想できるか?』という、 問いすらも考えつかなかった。ただ、漠然とそんなイメージを抱いていただ けだ。その人々が、少女の姿を持って……しかも、日本製のワンピースなん か来てあらわれたから、違和感があったのだ。 不思議なことに、いままでイスラム圏の日本在住者が、普段どんな格好を しているのかなんて、気にもしなかった。というか、そんな人々が『僕の目 に触れていないところに』存在するなんて気が付きもしなかった。 ただ、漠然とイスラム圏と考えて、そうでなければ街で典型的な叔父さん やおばさんとすれ違って、ああ、そうなのだ。と、考えるともなしに、考え ていただけだった。 でも、よく考えれば当たり前だ。 かれらだって、ごく普通の人間で、生活しているのだから、年頃の少女が 居るのも当たり前で、ワンピースを着てるのも当たり前で、二人で笑いなが ら春雨に当たるのも、当たり前なのだ。 なんの不思議もない。 なんて不思議な。 それは夢幻的な感覚だった。理屈で云えば、何を馬鹿な思考を。と、いう ことになるだろうが、その時の浩介はそう思わなかったのだ。ほんとうに、 浩介はそれを不思議に思った。そう、いままで、そんなものが存在すること を、想像することさえしなかったものを見せられたのだ。 理屈で考えれば、存在はあたりまえだ。同じ人間なのだから、いきなり成 人の姿で生まれるなどあり得ない。しかし、いままでそんなことも考えたこ とのない浩介は、その感覚に惑乱されたようになっていた。 ああ、そうか。 そうだったのか。 なんて……なんて……不思議な。 なんて愚かなんだろう。自分は。 浩介は、静かに自分の告げた。なんて愚かな……それが偽らざる感情だっ た。考えてみれば、こんなにも当たり前のことを。自分は今まで気が付かな かったのだ。じぶんも、まわりも。みんな普通に生きていて、それぞれで… …そう、言葉にはうまくできなかったけれど、浩介はそんなことを考えてい た。 ああ、こんな当たり前のことが。判らなかったなんて。 浩介は半ば陶然と嘆息した。 不思議な安らかさ、感動に似たものが胸の中にあった。そんな簡単で、誰 にでも判ることが判らなかったなんて。そう思った。 では、あとどれだけの『当たり前』のことに、自分は気が付いていないの か? それは、そう。もちろん、たくさんのことに気が付いていないに違い ない。 自分は愚かなのだなぁ。 なんの痛みもなく、苦しみもなく。素直に胸の内で浩介は呟いた。躍起に なって知ろうとしても、それは指の間からするりと逃げていくような『当た り前』なのだろう。知ろうとして知っても、それは『知識』にしかならない。 でも、いま胸の中に生まれているのは、知識ではなくもっと暖かいものだっ た。捕まえたいけれど、捕まえたとしても、長い間その手に掴んでいること はできないもの。 一瞬の桜の花の香りのように、ふれあって溶け去っていくもの。 「まった? 行こっか」 真奈美が帰ってきて、小さなバックを持ち上げた。 「うん」 浩介も立ち上がり、トレイを所定の場所に帰す。狭い階段を浩介は真奈美 の背中を見つめながら降りていった。外は雨……傘を持ち歩く習慣のない浩 介は、特に気にかけることもなくここまで歩いてきた。といっても、駅から 駅前のハンバーガー屋までのあいだだが。 浩介が、雨の中に歩き出そうとすると、後ろでばたばたと傘を開く音がす る。バックの中にでも閉まっていたのか、真奈美がお降りたたみの傘を広げ る音だった。 真奈美が目線で促す。 ……入って。いっしょに歩こ。 そう云っているのだ。 浩介は真奈美の隣で、駅から美術館への道を歩きだした。胸の中にはまだ さっきの思いが渦巻いている。そのせいか、春の雨もひときわ優しく見えた。 隣を歩く真奈美は、浩介より頭二つ低い。こうすけは、真奈美の手からそっ と傘を受け取ると、真奈美の肩が全部はいるようにさした。細い肩には、細 い皮ベルトで吊られたバック。ジャケットは淡いオーキッシュブラウン。髪 が肩のラインで揺れている。 「あのね……」 浩介は口を開いた。さきほどの、不思議な感動を伝えたい。自分が何を見 て、何を感じたのか、真奈美に知って欲しかった。しかし、そこで言葉がつ かえてしまう。なにを、どんな風に説明すればいいのだろう? イスラム圏 の人にも少女はいる? そんなこと、ごく当たり前で常識的なことではない か。 そんなことをわざわざ云ったって、伝わるわけがない。判って貰えるわけ がない。浩介は昏い気持ちになった。そう、これは共有できない思いなのか? しかたがないのか。 「なに?」 真奈美が浩介を見上げた。やはり、その顔には表情が乏しい。事務的にさ え聞こえそうな声だった。浩介は途方に暮れた。そのあとの言葉が出てこな いのだ。 「ううん……なんでも……あ」 浩介は小さく開けた口を途中で凍り付かせた。そして、怪訝そうな顔をし た真奈美の前でゆっくりとその顔には微笑みが昇ってくる。幸せそうな、満 たされた微笑み。 ……そっか。本当に自分は愚かだったのだなぁ。 そんな簡単なことにも、四年も気が付かなかったなんて。 「あのね? いま、ハンバーガー食べたあと。口紅、塗りなおしたんだよね?」 浩介は尋ねた。 「え? ……あ、あ」 真奈美が珍しく、僅かに表情を崩した。視線をさまよわせて、口ごもる。 「うん。そうだよ。食事のあとは、塗り直すの」 浩介は何だか判らないままに、とても満たされた気分だった。『当たり前』 で『簡単な』こと。それを捕まえるということ。瞬間に真摯であること。 そんなことが脳裏をよぎる。その一言のあと、すっかり元の無表情に戻っ てしまった真奈美が、なんだか無性にいとおしかった。じぶんの馬鹿さ加減。 そんな簡単なことに四年間も気が付かなかった愚鈍さには、多少忸怩たるも のはあったけれど、それもこのいとおしさには勝てないようだった。 「そうだよね……」 自然に微笑が漏れてしまう。 「どうしたの? そんなこと」 真奈美の返事。相変わらず感情のでない声だったが、そこに僅かな照れが 混じっているように聞こえる。でも、もしかしたら錯覚かも知れない。それ でも…… 「ううん。なんでもない。……そう、なんでもないんだ。なんでもないって ことに、やっと気がついたんだ」 「え?」 真奈美が再び浩介を見上げる。その表情には訝しげなものがあった。真奈 美にしてみれば、いつもの浩介らしく見えなかったのかもしれない。 「真奈美って可愛。大好きだな。って」 浩介はそう云った。記憶にある限り……ここまでストレートな言葉を云っ たことはないはずだ。そんな台詞が今は何だか、自然に云えてしまった。 「もう!」 真奈美の頬が見る間に紅潮する。助けでも呼ぶかのように視線は前方を泳 ぎ、バックの紐を右手でぎゅっと握っていた。その様子が浩介にはたまらな く可愛らしく見えた。 そして浩介は当たり前のこと。真奈美が自分のことを好きだと云うことに も、やっと気が付くことができた。 おわり