作品名:『まほう』 製作 : 97/01/31(10KB) 作者 : D−SYS 氏 形態 : 短編(恋愛) 『まほう』 魂が凍り付きそうなほど寒い夜だった。僕の自転車はポンコツで、夜の街 を走ると心臓に悪いキィキィという音を立てるのだ。 寒いだけに空は澄んで、月が映画のセットのような僕の街を煌々と照らし 出している。……午前三時の寝静まった街を。 僕はコンビニでの深夜バイトを終え、家に帰る途中だった。自転車でわず か十分の距離が今夜はヤケに長く感じられる。 坂を上り、交差点を抜ける。街道を左に曲がって、住宅街に入れば、車の 音も聞こえない静かな、僕のよく知っている町並み。僕の家の近く……のは ずだ。 なのに何故こんなに、今日は気持ちが沈むのだろう。 理由は明白だ。僕にはよく判っている……彼女にふられたからだ。 しかし、よりによって、何で今日……この寒い夜にその事が思い出される のだろう? ふられたのは、もう半年も前のことなのに。とっくに、その傷は僕の中で は過去のこととなり、最近では忘れていられるようになっていたはずなのに。 それは……それは確かにふられた直後は落ち込んだ。八つ当たりもしたし、 厭世的にもなった。世の中で自分ほど馬鹿で愚かしくて、哀しい人間はいな いと思った事もあった。彼女のことを憎みさえした。 でも、それはみんな過去のことで、痛みはあっても、既に鈍く、当時の力 はないはずだった。僕は新しくこの街でコンビニのバイトを始め、真面目に 通っているし、なかなか気さくで真面目な好青年で通ってるんだ。 過去なんて、行ってしまえ! お前にはなんの権利もない。僕はいまでは立ち直って、彼女のことなんか 忘れ去って居るんだ。まだ……そのぉ……新しい彼女は出来てないけど。 いや、彼女なんてもう、要らない。女の子に自分の幸せの全責任を預ける なんて、間違っているのだ。そんな他者の存在のあるなしで容易く決定され る幸福など、真の幸福からは程遠い。僕は僕自身で構築できる幸福を模索す るのだ! 僕はそう、少々テツガクテキな思考をしながら自転車をこいでいた。僕は あの失恋から立ち直るために、そっち系の本を読み漁ったので、失恋のこと を思い出すとを考えると多少理屈っぽくなってしまうようだ。 そんなときだった。 僕が常夜灯に青白く照らし出された電柱の下に人影を見たのは。冬の凍り つきそうなアスファルトに、一人の女の人が、ぺたんと座り込んでいる。ま だ若い感じの女の人。 ……通り過ぎよう。気にしないで、家に帰ろう。 僕はそう思った。 僕は原罪、少々テツガクテキな気分ではいたが、それはテツガクな気分な わけで、善人やお人好しな気分ではない。それに、彼女は多分酔っぱらいな のだろう。こんな時間に、こんな場所で泥酔とは、迂闊なヤツだ。 しかし、僕は快調に(キィキィうるさく)彼女の前を通り過ぎ、そして戻っ てきた。なぜなら彼女に見覚えがあったからだ。僕はそのうつむいた女の人 が僕の方を見上げた瞬間、彼女が誰だか判ったし、彼女の方はそもそもの始 めから僕が誰なのか判っていたと思う。 「先輩、こんな所で何をしてるんですか?」 「それが今週の問題です☆」 すっとんきょうな返事をした女の人は、僕のバイト先の先輩で桐生彩子と いう人だった。たしか、僕よりも一つ年上の23。多少面長の、整ったと云 える顔立ち、凛々しすぎる眉毛に愛嬌があるといえばあると云えた。 そこに先輩はにやにやとしか言い様のない笑いを浮かべていた。 彼女はどこかとぼけた性格で、ギャグセンスがぶっとんでいる。はまると お腹の皮がよじれるほど周囲を笑わせるのだが、通常はただの『変人』とみ なされていた。 一部女子高生の昼間のバイトのあいだでは、『彩子』をもじって『サイコ』 なんてあだ名されているらしい。十分に美人路線なのだから、大人しくして いればバイト先ではアイドルなのだろうが、夏の暑い日に、うっとりと『鍋 焼きうどんってイイね』なんて呟くモノだから、距離を置かれている。 僕と彼女はそんなバイト先で気が合う方だったけれど、今までバイト先の コンビニ以外の場所で会ったことなんか一度もない。彼女の家が何処だかも 知らないし、彼女も僕のことなんか知らない。そうだとばかり思っていた。 プライベートは全然無関係のハズだったのだ。だから、何でここにいるの かも、偶然なのか、待ち伏せなのかも判らなかった。 彼女は非番で、今日はバイト先には来ていない。彼女はいつもバイトには 男っぽい格好で来ている。ジーンズとデニムシャツ。オーソドックスな服装 の彼女だって十分に綺麗だったけど、今日はプライベートのせいか、いつも よりも女の子っぽい装いだった。 おとなしいタイトスカートに黒のタイツ、ウールのセーターにコート。そ んな服装のせいか……気のせいでなければ、見たことのない薄化粧のせいか、 先輩はとてもたおやかに見えた。 「なに、すっとぼけたこと云ってるんですか?」 僕はそう云いながら自転車を降りた。おりてみると、顔に当たる風がない ぶん、いくらか切れるような寒さにも耐えられる。 「今日は寒いんだから、こんなところにいると凍え死んじゃいますよ」 たしょう説教じみてるかも知れないが、まぁ、しょうがないだろう。胸の 奥が高鳴る。心臓の音が少し早くなり、そのかわりちくりと痛んだ。 (寒い冬は、腕を組む幸せのためにあるのね) ああ、もう! うるさいほどの追憶。何かにつけては、別れた彼女が脳裏 で思い出を囁く。 「うん、まぁ、そうなんだけどね」 先輩は不思議なものでも見るように、僕を見つめていた。こうしてみると、 先輩は年上のくせにあどけない顔立ちをしている。美人タイプかと思ったが、 そうでもないことに気が付いた。黒目がちの瞳が潤みながら僕を見つめている。 桜色の唇が、キスをねだるように艶やかに見えるのは、僕の精神状態のせいな のだろうか? 寒い冬のせいと云うことにしたい。 「ぷはぁ☆」 「な、なんですか? 先輩。酒でも飲んでるんですか?」 「ま、そうだ。ビールだよ。ビィル」 雰囲気をぶちこわすように、盛大にに崩した笑顔で先輩はそう云って、傍ら にあった缶ビールを指し示す。教えられるまで気が付かない僕は、結構なオポ ンチ野郎だ。酔っぱらって潤んだ瞳にドキドキするなんて……まったく。 頬が火照るのを止められない。まったく。高校生でもあるまいに。 「や。四条くん、こっちにきたまえ」 「はいはい。送ってくくらいならやりますよ〜」 わざとやる気のない声を出した。ちょっとドキドキしそうになった自分を ごまかすために。降り積もってきそうな、あの、すこし鈍くて、少し痛いよ うな、沈んでいく感覚を忘れるために。先輩の唇が彼女を思い出させるよう な気がした。でも、それは先輩が悪い訳じゃなく、きっと、僕が悪いのだ。 「いや、そじゃなくて……う〜ん」 先輩は僕に近寄ってきた。僕は反射的に身を遠ざけようと腰を引く。先輩 はビールの匂いがした。なんだかそれは、香水の香りがするのよりもずっと 罪深いような気がして、僕は少しうろたえる。 先輩は、ちょっと苦笑いのような表情を浮かべた。寂しそうで、優しそう で。胸を突かれるようなその瞳に、僕の動きが止まって…… 気が付くと先輩は僕の頭を撫でていた。……撫でてくれていた。なんだか、 よく判らないシチュエーションだった。誰もいない深夜の街角で常夜灯の青 灰色の明かりに照らされながら、僕は先輩に頭を撫でられていた。そして僕 は何だかよく判らないままに、泣いていた。 「泣きそうな顔、してるね」 「うん」 やっぱり、つややかな声がそう云った。 「頭、撫でたいなって、思ったの」 「うん」 僕は鼻声だった。赤くなってるであろう鼻が冷たい空気に痺れるように痛 い。そんな僕に、先輩は何をいうでもなく、ただ優しく、根気強く頭を撫で てくれていた。 たった半年……180日はなれていただけで、女の子の指の細さを忘れて しまっている自分に気が付いて溜息がこぼれた。 切ない気持ち。胸がいっぱいで、何も言葉にならない。こんなのは、ズル イ。そう思ってみても、先輩の優しい指先には抵抗できそうになかった。 本当の僕は、ちっともあの失恋から立ち直っても抜け出してもいないこと に気がついて、先輩がなんでここにいたのかも、どうでも良くなってしまっ て、泣いた。声もなく、寒い夜の月に照らされて、ただ、泣いた。 心の中に冷たい川が流れ始めて、胸が痛くなってザラザラとかきむしられ るようだった。流れ始めた川は止まることなく、心の奥深いところまで突き 止めていく。 自分が忘れ去ったと思っていた思い出は、実は心の中のおもちゃ箱に押し 込まれた、こわれたテディベアのようなものだった。 片腕がもがれ、なかの詰め物がはみ出していたが、大事な大事なものだっ たのだ。そのくるくると丸い瞳にはいろんな過去がこもっていた。 (一緒にいてくれるって約束してくれるなら、あなたを見つめてる) 始めてのデートも、さようならを云った常夜灯の青白い光も。 (好きだったよ。本当に。ありがとう……さよなら) その涙で、本当の意味で僕の恋は終わった。 ぼくは臆病で不正直だったから、いままで流すはずのこの涙を棚上げして いただけだったのだ。思い出の彼女は、やっと僕に優しくなって……僕はボ ク自身を許せるようになって、やっと本物になれたような気がした。 或いはそれさえも幻想だったかも知れないけれど、この上なく特別な涙だ ったのだ。 先輩は、なんだか少し寂しそうに微笑んでいた。 僕のことを元気づけようとしていているのか、それとも何か哀しいことが あったのか。それは僕には判らなかったけれど、悲しげな微笑みさえもがい とおしかった。……こんなときに、可愛いとか、好きとか……都合のいい台 詞が言える男って、いるのかな。頭の片隅で自嘲気味の呟きが聞こえる。 僕はコートの袖で涙を拭った。 「すいません。変なところで泣いちゃって……ごめんなさい」 「ううん。イイんだよ」 「先輩には、なんだか感謝しなくちゃ」 僕は照れくさくて、視線を背けた。胸の奥には感謝の気持ち……いとしい、 抱きしめたいという気持ちがないまぜになっていた。 先輩は、何でこの時間にビールなんか飲んでいたんだろう? よく見ると、右足のヒールが折れている。今日、先輩はデートだって、誰 かが云ってなかったっけ? 先輩が一人で、誰もいない深夜の街で座り込んでいるのは何故なのか? 辛くないはずはないのに、人に優しくできるのは何故なのか? それを僕は 訪ねることが出来なかった。 「一つめは、今日みたいな月の夜に、ここにいてくれたこと」 僕はゆっくりと数えるように云った。冬の道路の上を、まるで特別な言葉 が囁かれるかのように月の光が照らし出している。 「二つめは、僕が気が付かないでいたこと、忘れたつもりになって隠してい たことを、許してくれたこと」 先輩の腕が、ふわっと僕の手の上にとまった。マニキュアはほとんど透明 に近いパールピンク。それが、なぜかくっきりと心の目に焼き付いた。 そんな些細な女の子の仕草が、抱きしめたいほどいとおしい。恋ではない し、愛でもないと思う。同情されただけ……そして感謝しているだけ。 なのに、なんでこんなに身体が震えそうになるのだろう? 「それで、ふたつ。かな、四条君?」 先輩の顔は見えなかった。僕の胸の中にあったから。そうしてみると意外 に小さな身体は僕のコートの中にさえすっぽり収まった。 「ええ……ふたつです、けど。それが、どうしました?」 僕は先輩の背中に回した腕に力を込めて良いのかどうか判らずに、ぎこち なく身を固めて訪ねた。抱きしめたい……そう思う。 その僕の困惑を察したかのように、先輩の顔が僕の方を向いた。寒かった のだろうか? 先輩の手が僕のコートの背中のあたりをぎゅっと握りしめて いる。先輩の瞳の中にあったのは、すこしだけの恐怖。好意。傷ついている 優しさ。残りのものは天空より深い闇の中にあって僕には判らなかった。 「これで……みっつ……ネ?」 それでも背伸びをした先輩の唇が、僕のそれに重なって……。甘い香り…。 赦される実感。 そして僕の魂は永遠に先輩のものになった。