作品名:『おい』
  製作  : 96/11/13(5KB)
  作者  : おじゃ  氏
  形態  : 短編(ショートストーリー)

<おい>

「おい、風呂の水が溢れるぞ。早く止めなさい」
「はいはい、今すぐ止めますから」
健三は、何かあるごとに、光子と呼ばずに「おい」と呼んでいる。光
子は「おい」に関して何も文句を言わないが、淳子はいつもそれにつ
いて口答えをするしていた。
「ねえお父さん、なんで夫婦なのにお母さんの事をおいって呼ぶの?
 光子って呼ばないの?」
「おまえには関係ないだろう、おれの勝手だ」
「じゃあ、なんで私の事をおまえって呼ぶの? 淳子って呼んでよ!」
「・・・おまえはおまえだ」
そんな会話が毎日のようにあった。

 ある冬の日の午後、光子が倒れた。淳子は急いで高校から戻り、父
の会社に連絡をいれると、すぐに光子の収容された病院へ駆け付けた。
母は昔から貧血を患っていたようで、健三もそれを知ってか、病院に
は来なかった。
 淳子は、椅子に腰をかけると光子の顔に目をやった。まるで数日間
何も食べていないくらいにやつれた顔をしている。
「ごめんね、心配かけちゃって・・・」
「お母さんいいの。私・・・ちょっと驚いただけだから。そうだ、つ
 いでだから、もう少しゆっくりしていて欲しいの。着替えとか持っ
 てくるから、ね? 私、家の事やっておくから」
「いいのよ、いつもの事だから心配ないの。点滴が終われば元気もで
 てくるわよ」
「駄目! 年中忙しいお母さんなんだから、倒れた時くらいは療養し
 なくちゃ! じゃあ私とりあえず荷物持ってくる」
そう言うと、淳子は部屋を出た。ドアを閉めると、その場で崩れるよ
うにしゃがみ込んで涙をこぼした。
「・・・馬鹿・・・身内にも言わないで・・・」
部屋に入る時に医師の口から、告げられたのである。幾度となく貧血
を起こし、時には意識を失い、昏睡状態の時もあったのだと。もしも
こんな事が続くようでは、命の補償はない。倒れる前から、すぐにで
も入院しなければならない身体だったのだ、と。

 淳子が戻った時、健三は寝そべってテレビを見ていた。その、まる
で何も無かったような雰囲気が、淳子には耐えられずにいた。光子の
部屋に入ると、ふわっとした空気が外に逃げた。淳子がこの部屋に入
るのは2度目だった。淳子がまだ小さかった頃、そして今日。ふと、
タンスの中のアルバムが目に止まった。
「お母さん・・・」
 病院の中で撮った写真だった。決して外での写真はなく、家の中も
しくは病院なのである。淳子はそのアルバムを片手に、健三の所に行っ
た。
「お父さん、これ・・・」
健三は、淳子の顔と、手に持つアルバムを見るとその場で起きあがっ
た。
「・・・そうか、医師から聞いてしまったのか・・・。まだ早いと思っ
 ていたけれど、淳子もそんな歳になっちまったんだなぁ」
健三はそのまま光子の部屋へ行き、荷物をまとめてると、淳子の所ま
で戻ってきた。
「おい、いくぞ」
淳子は涙目で頷いた。

 病院まではタクシーを使った。健三が予め手配していたらしく、家
を出た時にはすでに待機していたのである。戸惑いながらも淳子はそ
れに続いた。車中、健三は昔の話をした。
「あいつな、昔からあんな感じで倒れていたんだ。ある日、おれが初
 めてその現場に立ち会った時、あいつは言ったよ。気にしないで、
 私は一生懸命生きているから、って。でもな、おれはそんな母さん
 を見て、思ったんだ。おれを見てくれている、おれはあいつの幸せ
 をつくらなければならないんだって」
「嘘・・・お母さんいつも悲しい目してるじゃない! お母さんの幸
 せって何? 私、わかんないよ!」
淳子は感情を表に出して泣き崩れた。健三はそっと抱きしめて言った。
「・・・おれは不器用だから、その時の気持ちをおまえに伝える事が
 できないけど、その時は一生懸命だった。おまえが産れてきた時、
 あいつは意識不明の重体になり、必至にうわごとを言ってた。健三、
 健三って・・・。表から見守るのは簡単だ、誰にでもできる。でも
 な、誰にも、守られている人にすら気がつかれないように見守る事
 は、容易な事じゃあないぞ」
そんな話絶対嘘だ、そう思いこんでいた淳子だった。

 待合室に待たされた2人は、話もせずにソファーに座っていた。到
着する少し前に、光子の容体が悪化し、緊急手術が始まっていたので
ある。手術は長時間に及んだ。

 幾年が過ぎ、淳子が高校を卒業する頃、順治は2歳になっていた。
あの時の手術が帝王切開だったという知らせを聞いたのは、手術が終
わって光子が逝った後だった。その時、未熟児だった順治も、健やか
に育ってくれている。健三は相変わらずの毎日のようだが、淳子は、
それに対して口答えする事もなくなっていた。
「おい、順治が漏らしてる。はやくいてやりなさい」
「もう、お父さんもたまにはやってよね!」
「こら順治! ちょっと待ちなさい!」
『いつも見ていないようで見ている、何でもわかっているようで何も
 しない。不器用でも、私を見ていてくれていたお父さんと、一緒に
 すごせて幸せだった。倒れた時に介抱してくれて、いつでも隣にい
 てくれていたお父さんだから・・・』
淳子に宛た光子の手紙は、あのアルバムの最後のページに入っていた。
きっと読んでくれますように、と書き記して。
「おい、おまえもたまには息抜きしてこい。彼氏くらいはいるだろう?」
「もう、お父さんったら・・・!」
前言撤回ね、そう言おうと思ったが、思い切り飲み込んだ淳子だった。