作品名:『柵(しがらみ)』 製作 : 98/03/05(8KB) 作者 : アキレウス 氏 形態 : ショートショート 「う、うううううわぁっっ…………!!」 「大丈夫です、大丈夫ですよ……」 突如として息が荒くなった患者の肩に優しく手を置きつつ、耳もとでそっと囁く。 「さぁ、目の前に見えているものを私に伝えて下さい……」 虚ろな、焦点の合わない目を向けて来る患者の口元に意識を集中する。 「………………光、台地、……、子供が、……、何人か………?」 ぽつり、ぽつりと声が洩れ出て来る。 それは次第に意味のある言葉を為しながら、この風采の良い患者の、数十年に渡っ て奥底に固く閉ざされていた、そしてそれ故にこそ強力な記憶となっている部分へと 聞くものを誘ってゆく。 「女の子が……鬼になった、皆が……、いたずらを、しようと……、逃げてしまおう と、……、力の強い男の子が……、皆に薦めて……」 「あなたは、どうされたのですか?」 優しく、甘い声での誰何。 「……、私は、……、そこから、……、逃げて……、止めること、……止められなか ったことが…………心残……」 『嘘だっ!!』 「……!?」 「お前が、お前こそがあの暴力的な餓鬼そのものだったんだ!! 都合良く事実を書 き換えているようだがそうはいくか!! 例え全ての人がお前の現在の経歴と地位と 偽善に戸惑わされていようが、仮面の内側は全てお見通しだ!!」 「わ……!? わたしが……!? う、うわわぁぁぁぁぁ!!」 激烈な口調での詰問を続けながら、医者は備え付けのスイッチをぐいっと捻る! 「……!? ば、ば、あ……、『こ、これはっ!』 ……! うっ!!」 「これが現実だ! 残虐で獰猛な、幼少の頃のお前だっ!」 「……!! ぐぇっ!」 激しく嘔吐を始めた男の汚液の処理を手招きで助手に命じながらなお続ける。 「そうだ! 如何に閉じようと操作しようと、中身までは、事実までは何も変わりは しないんだ! さぁ! 目の前の事実を直視しろ! 一言漏らさず伝えるんだ!!」 「……、い、嫌、嫌だ……」 「言わないなら私が言ってやる! お前は周囲皆に命じてその女の子を置き去りにし たまま家に帰った! 翌日、女の子は学校に姿を見せなかった! その翌日も、その 翌日もっ!」 たたみ掛けるように厳しく事実を突き刺し続ける。 「…………」 河原、水に濡れ、あちこちの痣も露に裸のまま横たわった身体。 「そして数日後に、女の子の遺体が川縁で見つかった! 変わり果てた姿になって! 変質者にかどわかされ、さんざん慰みものにされた後で!!」 焦点の合わない、恐怖に張り付いた双瞳。 「……あ、あれは……」 「変質者が悪いとでも言いたいのか!? お前のせいで無いと言いたいのか?! 『 自宅から数キロ離れた交差点で一人でいるところ』に追いやったのは誰だ!? 変質 者の前に彼女を無防備に晒させたのは誰だ?! 今更言い逃れる余地があるか!!」 焦点の合わない、双瞳。 「…………!!」 「そうだ! お前は紛れも無く共同正犯だ! 殺人者だ! お前はその純潔と、将来 を奪うのに力を、いや、お前自身の手で奪ったんだ!」 「……ち、ち……」 「違わない! お前は殺人者だ! どんなに偽善ぶった面をしても、その事実だけは 何も変わりはしない!! 例えお前がお前自身から逃れようとしても、私だけは一生 、この柵から逃さない! 逃れさせない! 殺人者、血も涙も無い殺戮者めっ!!」 警察署、手錠、留置場、非難、非難、罵倒の大合唱。 「い、やだ、やだ……、やだぁぁぁ!! そんな……、そんなのはやだぁぁっ!」 突然患者は激しく手足をばたばたとさせ始めた。 怪力の助手に両腕を押さえさせながら、一転して、再び甘い声で医者は囁く。 「忘れたいですか?」 「わ、わ……ぁぁぁぁぁあああああっ!」 幕間事に蘇る罪の記憶に頭をぐらぐらとさせながら患者は身を捩り続ける。 「忘れたい、ですか?」 「わ、わすれる、わすれたい! こんなの、こんなのいやだぁぁぁぁ!!」 医者は、幼児退化した髭面に染み込む涙の道の出来た顔にかすかな冷笑を向け…… 「……ん、んっ……」 患者は、うつつに戻って来た感触を確かめるように大きく瞼を震わせ、頭を振る。 「……如何ですか? 御気分は……」 「……、ああ……、良く解らないが、とても……こう……、爽やかな心持ちだ……」 ゆっくりと身を起こすその顔は、憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。 「……、もう、終わりなのかね?」 年相応の、落ち着いたバリトンに戻っている。 「はい、全て、滞り無く終了致しました。」 「そうか……、ん〜……」 大きく伸びをする患者を見ながら、医者は虫も殺さぬ穏やかな笑顔を向けた。 「何やら身体が軽い、急に若返ったようじゃよ……」 愛用の丸眼鏡の下にしまわれた瞳はとても澄み切っていた。 「それはおよろしうございました。」 無邪気な子供の頃のように、患者は短刀直入な物言いで訊ねる。 「教えてくれんか? 一体、この私に何をしたのかね?」 「それは御約束に反します。が、一言で言うなら、柵を取り去っただけですよ。」 要は記憶を消してしまうこと。最初に、医者は、そう助手に説明した。 内容と現在の自分の行為規範が真っ向から対立する場所に関する記憶は、非常に 強いニューロシナプス群を作っている。しかも、通常の知識記憶などと違い、まる で連結しない飛び地に押し込められながら、異様な程の回路が秘かに作られており 、ちょっとした事があるとすぐにその部分の記憶が蘇生してしまう。 これは無意識下で操作、封印する事は可能であっても、内容自体はかえって鮮明 になり、しかもその構成内容とは直接関係の無い負の記憶も連結させ、深化させて しまい、回路自体が自性的に消滅もしなければ上書きが起こるわけでも無い。 「それが、しがらみそのものであると?」 「そういう事だ。で、まず最初に、回路の存在位置をはっきりさせる為に、」 「意図的に記憶を蘇らせる?」 医者は助手の若い頬を頼もしく眺めつつ、子供っぽいはやりには些か苦笑した。 「まぁ、そういうことだ。後は君も知っての通り……」 「微電流放電措置で連結部分を遮断すると。」 再び苦笑しながら、医者は次の患者を呼ぶように手を左右に振った。 やがて治療は秘かな話題を呼んでいった。法外な料金そのものは変わらなかった ので、患者の絶対数が増えるという事は無かったが、功成り、名遂げた名士達が、 山の中腹にある医者の診療室を真夜中にお忍びで訪れる光景は、ふもとの近隣住民 の間でささやかな噂や憶測を呼ぶようになっていた。 俯き加減だった患者達が、自信を持って揚々と帰路につくのを傍らで眺めつつ、 自らの行いの尊さに酔いしれていた助手の元に、衝撃が襲った。 『京都医師会理事A氏、患者数十人を殺害! 末期患者への医療拒否!』 「こ、これは……!?」 紛れもなく、あの髭面丸眼鏡の患者だった。 その他にも訪れた患者の中で、暴行を加えたり、殺人教唆を行うなどの罪で、次 々と逮捕されて行く姿がしたり顔に報道される場面を、助手はただ呆然と眺め続け るしか無かった。数日、そんな光景を見せつけられ続けた助手は、ついに尊敬する 医者の元へ向かった。 「ああ、そのことね。」 まるで事もなげに医者は言った。 「え?」 「解らないかな? 前非、つまり、柵があるからこそ、その痛みを味わいたく無い からこそ、人は前の行為を繰り返さないように努力するんだよ。」 「……、と、いうことは……、まさか……」 「そういうこと。柵が無くなれば、罪の意識も無くなる。当然、より行動が本能に 忠実になるという事だよ。」 瞬間、かっとなった助手は思いきり医者に殴り掛かった。 が、実に簡単に左拳だけで受けとめつつ、医者は酷薄な冷笑を浮かべた。 その鈍い光を見て、助手は激怒と己の力の無さ、極悪事に手を貸した事への後悔 がどっと押し寄せ、いまにも崩れ落ちそうになりつつ、必死に声を揉みしぼった。 「……、多くの罪を新たに作り上げて、あなたはそれでも平気なんですか!?」 しかし医者は、助手の呪詛の声をあっさりとはねつけた。 物凄い力で助手の拳に爪を食い込ませながら、微かに苦々しく口の端を歪める。 「君もやはりまるで馬鹿だね……」 「?!」 「解らないの? そこまでの地位に付くまでに彼らが何をしているのかと言う事が 。そして、痛みを味わいたく無い為に、彼らがどのくらい責任転嫁、自己弁護をし 続けているか、そしてそれがあたかも真実であるかのように振る舞っているか、そ してそれが真実になっているか!!」 まるで助手を患者の総体であるかに見なすような静かだが激烈な口調で続ける。 「彼らの中で操作された記憶の中の柵と、彼ら自身の行動に、彼らが折り合いをつ け続けている限り、彼らは何時までも同じこと、そう、同じことをしてなおのうの うと生きているだろうよ! そう、一生、全く同じように、巧妙に、表に出ないよ うに画策しつつ、周囲に傷をつけまくりつつ、自己弁護の怜悧で安楽な殻の中に埋 没しながら!!」 助手は全く血の気を失いながら、残っていた力をかろうじて声帯に乗せた。 「でも……、彼らからお金を貰って……、新たな犠牲まで強いて……、それで!」 「ああ、これかい?」 医者は酷薄な優しさを込めて助手の瞳を直視しながら、あっさりと続けた。 「『正義』の執行費用だよ。」