『睡蓮の夜』
   製作:96/06/29
   作者:D−SYS  氏
   作品形態:短編

 夏の夜はまだ宵ながらあけぬるを 雲の何処に月やどるらむ


 梅雨のあけた晴れた星空を見ながら、水元の方に歩いていくと大きな大き
な公園があります。それはこのあたりでさえも有数の広大な緑地、みやこの
東のはずれ。
 水元公園と呼ばれる所です。

 そのあたりは、都内でありながらもう田舎の風情で、高い建物もなく街灯
ばかりが真っ暗になった道の両側に立っております。夏の宵はまだ浅いよう
に見えて深更を回ったのでしょうか、中空に煌々と明るい満月がかかり、土
手の道には人影とてありません。

 木々の影が誠に暗いのです。水銀灯の光で照らせばてらすほどに、それら
の闇はより一層濃くなるようであります。しかし、恐怖はありません。私は
東京の生まれなのです。
 ですから、東京の闇の深さはよく知っております。この街では光も闇も、
同じ卵から生まれた兄弟なのです。ですから、恐れるには当たりません。

 それにあんなにも美しい月が出て居るではないですか。
 あれこそ、ギリシヤの詩人がアフロデテとたたえた青白きかんばせなので
しょう。何処か遠く突き放すような光さえも、私には心地よいのです。

 私は初夏の風を受けて、水郷地帯の土手を歩いて行きます。公園とは云っ
ても、そこは杜となんら変わるところはありせん。先ほど右手に見えた神社
は、このあたりでは坂井の社と云われております。坂井……境なのでしょう、
もとの名は。

 ああ、何という心地よい風なのでしょう。あたりは静かで、木々のほのか
に甘い香りが大気に満ちています。午後に少し降った雨に濡れた草の葉や、
黒々とした石などもしっとりとしてまことに風情があるのです。

 私はしみじみとその風を感じ、しっとりと湿った下ばえの土手を、さくり、
さくり、と歩いていくのです。
 私の薄手の上着を心地よい風がふわりとめくるので振り返ると、そこには
一人の女性が立っているのです。

 よくは判りません。よくは判りませんが、白い少女です。
 僅かに傾げた首は問いかけるようで、夜色の髪が月明かりに揺らめいてお
ります。白い長い服は洋服だか和服だか私には判別できませぬが、それでも
その少女によく似合っているのです。

 大きな瞳で私をじっと見つめているのです。それは本当に美しい瞳で、あ
まりにも深く澄んでおりました。忘れられない瞳、……そんなものがあると
したらこれなのでしょう。しかし、私はその印象的な瞳と出会い、奇妙な感
触を覚えたのです。どこかで、感じたことがあるような苦しさを。

 そのせいでしょうか、ほんのり桜色に染まった唇が何か言葉を紡ぎ出すま
で私は耐えられなくなり、先に言葉をかけてしまったのです。

 こんばんは、よい月だね ――そう声をかけたのです。

 いらえはありました。

 今年もまいりました。……去年と同じように

 少女は私にそう云ったのです。私はさして不思議とも思わないで頷いてい
るの自分に気が付きました。少女の表情はおだやかで、私に何か悪いことが
できるそれではなかったせいなのでしょうか。
 私は少女を何処かで見知っているのだろうか? がえんじる声が胸の深奥
でいたします。私はこの少女を知っているのです。この少女とともに過ごし
た季節があるのです。

 今晩はいっしょにいられるのだね?
 はい。水辺を歩き、あなたの隣にいましょう

 少女は微かに微笑んで私にそう告げます。私は刹那、圧倒的ないとおしさ
にかられます。私はこの笑顔をしっているのです。気の無さそうなふりをし
て、いつも無表情な少女でした。感情を表にあらわさない少女でした。
 そして微笑むときは、いつもこうやって控えめに笑う少女でした。まるで
私のことを認めて、安心させるように微かに笑う少女でした。しかし、私は
そこまで思い出してもこの少女のことが判らないのです。思い出せないので
す。名前も、私との関係も霧の奥深くにあるようにつかみ所がないのです。

 私と少女は、いつのまにか貯水池の縁までやってきています。月の明かり
が漆黒の艶やかな水の表面に映って、それは幾億もの細い銀糸となってたゆ
たっております。
 その朧気な明かりに照らされた少女の顔にはなんの表情もうかんではいま
せんでしたが、ほんの少しだけ私には哀しそうに見えたのでした。

 よい夜、よい風
 ええ、あの日と同じです

 短いいらえが水に溶けてゆきます。……あの日とはいつのことか、私は少
女に尋ねることが出来ません。
 遠くでほうほうとなにかの鳥が低い声でないております。

 私は君のことを知っている
 ええ、私も。……でも、私の名前は思い出せないでしょう?

 そうなのです。私はこの大人びた少女の名前が思い出せないのです。彼女
は私にとって大切な人だったはずなのです。何故と問われれば答えることは
出来ませんが、そのことだけは判るのです。かけがえのない…そう、その言
葉の意味通り、二人とはいない。この世にたった一人しかいないひとだった
のです。
 私は胸の奥につかえたような不安に突き動かされるように、少女に問いか
けます。

 いつまで、一緒に歩けるのですか?

 少女は振り向きません。わたしより半歩ほど先を歩いているのです。私の
場所からは横顔しかみえませんが、その表情にも変化はありません。ただ…
…僅かに歩幅がずれたような気がいたしました。

 最初の朝日が差し込むまで

 少女のいらえは明確です。迷いも未練もありません。ですが、その言葉は
私の心に半ば恐慌に近い感情を芽生えさせました。夏の夜は短いのです。も
う数刻で最初の鶏声が宵をやぶるでしょう。
 そうしたら、この少女は去ってしまうのでしょうか? 無愛想で無口なこ
の美しい少女は、私の前から消えてしまうのでしょうか?
 それだけはいやだったのです。私はこの少女を失いたくないのです。失っ
てしまったら、私がどうなるかはっきりと判ったのです。

 そう、数刻前にあったばかりの少女は、いまや私にとって他にない重要な
存在になってしまったのです。いくらも言葉を交わしてはいない、私に向か
って僅かに微笑んでくれただけのこの不思議な少女が。
 そばにいると安心するのです。口数も少なく、ただ黙々と前を見て歩く少
女の揺れる黒髪や華奢な肩の稜線を見ているだけで、胸が締め付けられるよ
うに愛おしいのです。
 なぜ、こんなにも心がざわめくのか私には判りません。そして、何故こん
なにも冷静な声が出るのかも。

 そうですか。朝日が差し込んだらいってしまうのですね

 わたしはそう呟きます。疑問を口にしたわけではありません。理解してい
ることをただ形にしただけ、そう思います。ああ、私の胸の内はこんなにも
騒いでいるのに、なぜこうも冷静な取り繕った声が出るのでしょう?

 少女は答えません。無言で水辺を歩いて行くのです。
 蒼い明かりが世界を照らし、このあたりの大気はまるで水の底のようです。
すべてが緩やかな初夏の風に包まれて心地よく、甘やかな疼痛が胸を締め付
けます。
 少女は水辺に東屋を見つけます。四方に柱を立て、簡単な屋根を張り、な
かには木の長椅子が置いてあるだけの簡素なものです。私たちはそこまで歩
いて行くと、腰を下ろします。

 少女は背筋を伸ばして、やはり無言で私をうながします。その瞳は水面を
見つめてるのでしょうか。墨よりも黒い、濡れたような美しい瞳です。
 私は喉がつまったようになります。哀しくて、辛いのです。

 その横顔を見ているだけで、胸が潰れそうです。……理由も判らずに、哀
しくてただひたすらに、熱いものが繰り返し心をひたすのです。どこでかは
判りませんが、私はこの少女とであって、恋をしたのでしょう。それは百年
の恋、身を切られるような辛さと、春の木漏れ日のような至福。
 思い出せないのに判るのです。どんなに私が大切に思っていたか、――こ
の少女の横顔が教えてくれるのです。


 私の名前をおもいだせましたか?

 少女は遠くの何かに耳を澄ますようにしながら、私に尋ねます。私は静か
に首をふります。私は少女の名前が判りません。それが哀しいのです。


 私の名前を思い出せたら、夜が明けても、夏が終わっても。あなたとずっ
と一緒にいましょう。

 少女は私にそう云いました。私はいかようにしても思い出す、そう決心を
かためました。少女の名を思い出すことさえ出来れば、朝が来てもこの少女
と共に歩けるのです。初夏の夜は月が照らしそれは気持ちのいいものですが、
紅葉の秋を、冬枯れの路地を、この少女と歩くのはどんなに豊かなことでし
ょう。

 ですから私は記憶を手繰りました。小学校にかよっていた幼い時分を、中
学の思い出を。高校生活の輝かしくお昏い記憶を。
 私はすこしだけ思い出すことが出来ました。それは、ほんの僅かな幻。先
ほどまででしたら気のせいと片を付けていた、遠い映画の一幕のような幻影
です。


 ……君と桜を見たことがないだろうか? 
 漆黒の夜だった。ただ、桜の花だけが雪のように舞っていた。

 はい。一緒に歩きましたね。あれは墨田の桜でした。

 彼女はやはり言葉少なく、そう答えました。
 私の胸はその瞬間、それだけで喜びでいっぱいでした。……私にも思い出
すことが出来るのです。すくなくとも、記憶の端には手が届いたのです。
 私はさらに記憶をたどるために集中しました。となりの少女は私の方を見
つめています。その顔はやはり無表情で、頬になんの色も浮かべて居ません
が、それでも真剣に私を見つめているのです。


 花火にも行きました……ね?。
 ……あれはたぶん、浅草でしょう。あなたの手を引いて歩いたかと思いま
す。あなたは紺紫の浴衣を着ていました。

 はい。…はい、私は朝顔の浴衣を着ていました。あなたにはぐれないよう
に手を引かれていたのです。

 少女の言葉は平坦そのもので、それはそれは冷たいものでしたが、私は歓
喜しました。さきほどよりも、少しだけ詳しく思い出せたのです。あの時少
女は小さなうす桃色の巾着袋を浴衣に合わせ、とても愛らしく見えたのです。
 二人で人混みのなかを歩き、そして……靄がかかります。その先は思い出
せません。


 初日の出も見に行きませんでしたか? 横浜に。私はあなたと今と同じよ
うに腰掛けに並んで座っていたのではありませんでしたか? 寒い風が吹い
ていました。あなたは白いコートで、二人で赤く染まる海を見ませんでした
か?

 はい。あなたは私にもたれかかって、西洋船の汽笛がなってから朝までの
少しだけ……眠りましたね。
 わたしはその寝顔をあなたが目が覚めるまで見ていました。

 少女の表情と声は相変わらずでしたが、そのなかに僅かな色を私は見いだ
しました。期待と、寂しさと、きびしさと、哀しさを。
 少女にもたれて眠ったこと、……何故そうなったのか? どうやってそこ
までいったのか、そんなことは何一つ思い出せないのですが、もたれたこと
は色鮮やかに思い出せるのです。まるで、そこだけは記憶から残すことを誰
かが許してくれたように。

 冬の寒さのなかで、少女の髪が香りました。わたしは疲れて、少女にもた
れ掛かりました。少女は何か、私に優しい声をかけてくれたようです。それ
は世界で一番優しい音楽。私はいとおしい気持ちで一杯になり、それでも浅
い眠りに引き込まれました。

 あとすこし、少女の名前はもう喉まで出かかっているのです。あと、ほん
の少しだけ…そう、きっかけさえあれば思い出せるのです。この大事な、い
とおしい少女を失わないで済むのです。
 自分でも、なぜ、この無表情で無口な少女をここまで大事に思っているの
か判りません。確かに黒くて澄んだ瞳、涼しげな眉、うす桃にそまる唇は美
しいのです。
 しかし、こんなにも寡黙な少女にここまで思いこむのは不思議です。それ
に、数刻前にあったこの少女と、私は以前一緒に過ごしたことがあるという
真実です。不思議です。一緒に過ごしたことがあるのなら、なぜ思い出せな
いのでしょう? そんなにも大事に思っていたのならなおさらに。
 しかし、それが真実であるのは判るのです。なによりも私の心の奥底にい
る誰かがそれを教えてくれるのです。

 その時、私を恐怖させる鬨の声がしました。そう、鶏声です。
 最初の鶏が鳴いたのです。夜明け前の初夏の風のなかに。
 ……あたりはまだうす暗く月がほんのりと照らしてはいますが、あと数十
分で最初の朝日が差し込んでくるでしょう。目を凝らせば東の空はすでに濃
い紺色に染まりつつあります。

 ああ、思い出せないのです。私は絶望的な気分で心の中をまさぐります。
そこに必ずあるはずのものが無いのです。私はこの少女のことを知っている
のです。私はこの少女の瞳の色を知っているのです。この少女の手の温かさ
を。
 抱きしめたときの淡雪のような柔らかさを。耳元で囁かれた優しい言葉を。
涙に濡れたあの哀しい夜に、星の明かりのように私を慰めてくれた言葉も。
桜色に染まる唇も。


 私は君のことを愛していました。最初の口づけは降誕祭の晩に。雪よりも
かろく、それでも手が震えました

 そうです。あのときは二人とも子供でしたね。……でも、私もあなたを…
…あなたのことが……


 少女の声はかすれて聞き取れなかったのです。
 私の心の苦鳴を無視するように最初の朝日が水面を照らしました。まるで
カンバスの上を筆が滑るかのように、黄金と白の初夏の夜明けが世界を開け
染めていったのです。

 時間が来たようですね

 少女の声は私の胸に突き刺さった刺のようでした。
 いつのまに立ち上がったのか、徐々に青みを増していく夜明けの涼やかな
風の中で、少女は白く揺れています。私の胸は板のようです。呼吸が出来な
いほど堅くなって、苦しくてたまらいのです。


 判らないのです。思い出せないのです。ほんとうにそれが哀しいくて、も
うしわけなさで胸が痛い。でも、……それでも、なおあなたが居なくなるの
は嫌なのです。どうか一緒にいて下さい

 私は少女に告げました。自分の頬を伝うものが判ります。恥ずかしいとは
思いませんでした。そんな余裕など無かったのです。ただ、目の前の愛おし
い人が去ることに私は耐えきれなかったです。私は彼女が居なければ声を上
げて泣き叫んでいたかもしれません。
 彼女は私の言葉を聞くと、少しの間だけ無表情に口を閉ざしていました。

 そして、……そしてその黒い大きな夜色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙を
流し始めたのです。
 彼女は白くてたおやかな手を小さく握って、静かに泣きました。どんな少
女も、これより静かに、そして哀しそうに泣くことは出来なかったに違いあ
りません。私はそれが変わってあげられるものなのなら、どんなにか変わり
たいと願ったでしょう。
 その涙をとめることが出来るのなら、どんな代価でも支払ったに違いあり
ません。しかし、私は身動きひとつできませんでした。


 少女の真珠のような涙を見ながら、稲妻のように閃くものがありました。
私は、少女の涙に胸を締め付けられながらも、それでも私は正解にたどり着
いたのです。
 とうとう思い出したのです。少女の名前を。
 ……しかし朝日は既に昇り、私は手遅れでした。

 名前とともに戻った記憶が、私がまたも手遅れだったこと、間に合わなか
ったことを私に無理矢理教えました。

 少女はぽろぽろとこぼれ落ちる涙を無理にこらえたような表情で、私にい
いました。

 思い出せましたか? 最後にした約束も?

 無理矢理な微笑み。頬にはまだ涙が残っているのです。しかし、少女は私
のために……私の為だけに微笑みました。
 あの日も、最後の日も少女は私のためにこんな表情で笑いかけました。私
はこんな笑顔は見たくなかったのです。でも、私が愛したのはこの少女で、
彼女はそう……透明な微笑みをしてしまう少女でした。

 はい。思い出しました

 私の声も震えていました。

 思い出しました。あの七夕の約束も。
 ……あなたは私に云いましたね。私のことで泣いてはいけない、と。
 私が居なくなっても、涙を流してはいけない。……そういいました

 自らの言葉が胸をえぐるようでした。少女は確かに私にそう云ったのです。
あんなに大好きだったのに、二人の道がわかたれる日が来るなんて思いもよ
りませんでした。

 ええ、そしてもうひとつ約束しましたよね。私のことは思い出してはいけ
ない、と。忘れてしまってと。

 少女は微笑みながら云いました。涙を無理矢理にこらえた、困ったような
笑みでした。私はこの笑顔をしっているのです。気の無さそうなふりをして、
いつも無表情な少女でした。感情を表にあらわさない少女でした。
 そして微笑むときは、いつもこうやって誰かのために笑う少女でした。

 貯水池には睡蓮がつぼみを付けていました。もうすぐ、夜が明ければ花が
開くのでしょう。……睡蓮の花が開き、眠りが覚めるのでしょう。
 私が全力の力を振り絞って、動かした右腕は彼女に振れることが出来まし
た。初夏のこの夜にだけ、思い出すことの出来た少女に。
 …きっと朝日が昇りきれば、白い光の世界になれば、私は彼女のことを忘
れてしまうでしょう。彼女が居たことさえも、今晩の不思議な出会いさえも。

 それが判っているからこそ、私は彼女のことを忘れないで居るために彼女
に触れたかったのです。私の手は彼女のすべらかな頬に触れました。
 やわらかくて優しい頬でした。
 彼女は私の堅い手を、白くて小さな両手で守るように包み込みました。
 祈るように目を伏せると、桜色の唇を私の指先にそっと触れて……


 ……そして、きえました。

 きえたのです。朝露のように。
睡蓮の見た夢のように……。
 わたしは……私は、また目覚めるのでしょうか。睡蓮の花が開ききるとき
に。そして来年の同じ日まで。心の奥底に溜まらない寂しさと哀しさをため
ながら、変わらない日々を送るのでしょうか?

 もう、数瞬で私はこの晩の記憶をなくすのでしょう。そして来年の初夏の
晩になっても彼女の名前はやはり思い出せないのでしょう。いまはこんなに
も判っているのに。
 今あの時に戻れたら、けっして間違いなどしないのに。

 私はいつでも、夜歩きが好きでした。月の照る道を歩くのが好きでした。
彼女の白い横顔が好きでした。いまは、いまだけは桜色の唇の触れた指先と
……彼女の無口で、それでいて拗ねたような最初の笑顔を感じていたいので
す。

 七月の最初の朝日を浴びる、その時までは。


                          暗転