作品名:『自由意志』
  製作  : 97/01/25(10KB)
  作者  : 瞳夢  氏
  形態  : 短編(ショートストーリー)

「ただいまぁ!」
 誰もいない家の中に、子供たちが元気に駆け込んでいく。
 その家は真っ暗で、中には誰もいなかった。
 当然である。両親はまだ家の外だ。
「ほらほら! 電気つけて! 真っ暗でなにも見えないわ!」
 女が、でっぷりとした身体をドテドテと動かして家の中に入っていく。
 そしてその後ろから、ヨタヨタとした足取りで玄関に倒れ込む男が一人。
 駆け込んでいった子供の父親であり、女の夫である。
 名を、佐伯一郎と言う。
 この日家族は、日曜を利用して遊園地に出かけたのであった。そしてたった今、
帰ってきたのである。
 家の中に引き込む家族を尻目に、佐伯氏は心の中で毒づいた。
『まったく……この家の主人を誰だと思ってるんだ?』
 このところ、彼は疲れ気味であった。平日は毎日夜遅くまで仕事、土曜は何だか
んだと上司に理由を付けられて休日出勤。そして日曜は、子供たちにせがまれて遊
びに引きずり回され、休む暇など全い日が続いたのである。
 年にしたってもう若くない。無理は禁物であることを重に実感する。おそらく医
者に行けば、酒もタバコも止められるだろう。
 しかし現実は厳しい。こんなに疲れているのに、その身体を引きずって、明日ま
た出勤しなければならない。そして夜遅くまで残業して……。
 気が遠くなりそうだった。
 抜け出したい……こんな生活……。
 そんな感情が、常に身体の中を駆けめぐっていた。それがストレスという名の悪
魔である。悪魔は、どこかで祓わねばならない。さもなくば、どんどん身体の中に
蓄積され、やがては爆発してしまう。
 少なくとも、病院でそれを祓うことだけは避けたいものだが……。
 佐伯氏は一人台所に向かい、ビールを呑んだ。それが、今のところ、彼の唯一の
悪魔祓いなのである。しかしそれが、また別の悪魔を呼び込むことになることは、
分かっているつもりだった。
「ほらほら、あなた! 行儀悪いからやめてちょうだい!」
 妻がやってきて、ビールを取り上げてしまった。
 この女も、彼にとっては悪魔の亜種である。
 佐伯氏は渋々、なにも言わずに風呂に向かう。
「お風呂ちょっと待って。子供たちが入ってるから」
 子供たちが上がった後は、湯の量も少なく温度も低い。言ってしまえば子供たち
だって、悪魔の亜種なのであった……。


 そしてついに、佐伯氏の身体を、蓄積された悪魔が蝕み始めたのは、翌々週の日
曜日のことだった。
「これからはパソコンの時代よ!」
 と妻に言われ、デパートの電化製品売場に連れてこられた。佐伯氏はパソコンな
どは使えもしなかったし、覚える気もなかった。そして何より、彼はキーボードア
レルギーだった。彼は昔から、何か流行り事があると、それのアレルギーになるタ
チだったのである。
 そして妻は、一緒にパソコンを選んでくれるのかと思っていたら、一目散にブラ
ンド品売場に駆けていった。
『やれやれ。デパートになら一人で来ればいいのに……。人が稼いできた金で何を
買うのやら』
 佐伯氏はまた、心の中で毒づき、ふと、思いついた。
『そうか。荷物持ちにさせる気だな?』
 そんなの、まっぴらご免だった。
『一人で帰ろう……。そうだ。構うもんか』
 しかし、このとき、佐伯氏は自分の足が既におぼつかない状態であることに、気
づいていなかった。
 自分では普通に歩いているつもりでも、周囲から目に見えてふらついている。
 売場に並んでいる冷蔵庫に身体をぶつけたのも、冷蔵庫の置き場所を店員が間違
えたせいだと思い、自分からぶつかりに行ったのだとは全く思わなかった。
「あの……お客様、大丈夫ですか?」
 見かねた店員が声をかける。
「え? あ、ああ……大丈夫だよ。……心配いらない……」
 口調も呂律が回っていない。彼が酔っぱらっていないことを証明するものは、そ
の赤くない顔だけだった。
「よろしければ、そちらでお休みになってはいかがでしょうか」
 親切な店員は、ベンチを指さして言った。
 そこで初めて自分が疲れていることに気づき始め、
「……そうか。そうだな。そうするよ。ありがとう」
 と言って、そのベンチへ腰を下ろした。
 周囲の客が、何かあったのかとジロジロ眺めるが、それを追い払う気力もないこ
とに気づいたのは、我知らずベンチに倒れ込む三秒前だった。
 次に意識が戻ったのは、救急車の中。それも、数秒間だけだった。


 ぼんやりとして、すべてがどうでもよくなっていた。
 まるで、夢なのかうつつなのか、自分でもよく分からない状態だった。
「気づきましたか?」
 医者に言われ、ようやく自分の意識が戻っていることに気づいた。
「……ここは?」
「病院ですよ。あなたはデパートの六階で倒れたんです」
「そうか……そうだったのか」
 ぼんやりと言い、起きあがろうとした。
「ああ! 起きないでください! 無理はだめです。それに、点滴中ですよ」
「え?」
 見ると、左腕に針が刺さっており、そこからチューブが延びていた。
「ご家族は?」
「ああ。妻が一人。子供が二人います。妻はここにはいないんですか?」
「ええ。倒れたときは一人だったそうです。デパートには、奥さんと二人で?」
「そうです」
「じゃあ、奥さん、今頃心配なさってるかも知れませんね。電話しましょうか?」
「お願いします。番号は……」
 自宅の番号を言った。もしかしたら、デパートで自分を捜しているか、でなけれ
ば救急車に気づいて病院に向かってるかしているかも知れないが。
 数分後、さっきの医者が戻ってきて、
「家には誰もいないようですね」
 子供たちは遊びに出かけたのだろうか。
「念のため、あなたが倒れたデパートへもかけてみました」
「妻は?」
「デパートにおられましたよ。救急車のことにも気づいてなかったそうです」
 口振りからすると、妻は自分のことなど心配してなかったのだろう。
 その瞬間。佐伯氏は、今の生活が本当にいやになった。
 この世にほんとに悪魔がいるのなら、安楽と引き替えに命を差し出しても構わな
い、という気にさえなった。
 そもそも、疲れるだけの人生など、何のための人生か分からないではないか。
 家族のために生きるのだ、と言っても、自分のことを思いやってもくれない家族
など、それはもはや家族であって家族ではないのではないのではないか?
 不意に、医者が口を開く。
「ほほう。あなたはそんなに今の生活がイヤですか」
「え? わたし、何か言いましたか?」
 思っていたことを我知らず喋ってしまったらしい。
「ええ。命と引き替えにしてでも安楽が欲しい。あなた今、そう言いましたよ」
「それは……お恥ずかしい。今のことは、忘れてください」
 佐伯氏はわずかに照れ、そして押し黙った。
 それ以上、医者も何も言わなかった。
 数分間、ずっと二人は黙ったきりだった。
 突然、医者がおかしなことを言い出した。
「佐伯さん……でしたね。私の頭の中に、一つのプランがあるのですが、お聞きに
なりますか?」
「え?」
 佐伯氏の了解も得ず、医者は勝手に話し始めた。
「蒸発って言うのはどうでしょう? あなたは病気が治り次第、ここから消え、ど
こかで安穏な生活を送る。生活費については、私が仕事を紹介しましょう。なぁに、
楽な仕事ですよ。ただ毎日ぼーっとしていればお金が入る。そんな仕事です。
 ちょっとした『お仕置き』ですよ。今までいかに自分に頼っていたのかを、家族
に思い知らせるんです。
 三年ほど蒸発して、ふらっと帰ってみるんです。そしたら、奥さんや子供たちも、
少しはあなたのことを思いやってくれるかも知れませんよ。
 どうです? いい考えでしょう!」
 その口調が、実は佐伯氏の心の中を見透かした言い方であることは、既に彼も気
づいていなかった。
 ただ、毎日安穏と生活ができる。その言葉が、頭の中をグルグルと回り続けてい
た。
「どうしました? この話に乗らないのですか?」
 医者に言われ、ハッと我に返った。
 そして、
「乗ります! いえ、ぜひやらせて下さい!」
 後で考えてみると、それは結婚して初めての、家族への反発だった。


 一週間後、佐伯氏は病院から消えた。
 家族が捜索願を警察に出したことは、病院の医者から聞いていた。
 しかし、名乗り出る気は毛頭なかった。
 何せ、今の生活が実にすばらしいものだったからである!
 医者が紹介してくれたのは、小さなアパートの管理人の仕事だった。
 決して贅沢の言える収入ではないが、何もせずにいられるだけで、佐伯氏にとっ
ては最高の贅沢だった。
 会社にも、FAXで退職届を出した。代表番号を使ったから、今頃会社中の噂に
なっていることだろう。そう考えると何だかおかしかった。
 テレビや雑誌を見て、ふて寝する。毎日その繰り返しだった。アパートには、人
間関係も近所づきあいもなく、住民から苦情が来ることもなかった。
 二、三ヶ月目にはさすがに怠慢な生活にも飽きがきたが、ジョギングでも始めて
みようかと考えるくらいの精神的余裕は、身体に戻ってきていた。
 ただ、こうして一人で生活してみて初めて、分かったことは、家事や炊事という
ものが意外と面倒くさい仕事であることである。
 今までの苦労を考えると、それも確かに楽な仕事である。
 しかしそれは逆に、退屈な仕事であることを物語っていた。
 外食やインスタント食品は楽だが、身体のことを考えると、そんなものにも頼っ
ていられない。洗濯もしなければ、汚れた服もたまってしまう。
 結局、すべて自分でやるしかないのである。
 そうこうして、一年が過ぎ去った。
 その頃には佐伯氏はすっかりホームシックにかかっていて、最近では『家に帰り
たい』と、年中つぶやくようになっていた。
 その気持ちが頂点に達したとき、佐伯氏はついにそのアパートを出ようとした。
 が。
「やあ。ちょうど、差し入れでもと思っていたところだったんですよ」
 まるで、申し合わせたかのように、例の医者がやってきた。
 仕方なく佐伯氏はアパートに戻り、彼を家に上げた。
 そして、家族と会おうと思っていることを打ち明けると、
「駄目です!」
 真っ向から否定された。
「なぜです? そんなの、私の自由でしょう?」
「あなたは言ったはずですよ。今の生活はイヤだって。だから私は今の生活を用意
してあげたんです。三年間はここにいてもらいます!」
 三年間と言う時間に、何か意味があるのかは分からなかった。だが、医者の口か
ら発せられる言葉に、強い意志のようなものを感じた佐伯氏は、彼にそれ以上逆ら
うことができなかった。
 残りの二年間は、彼にとって苦痛以外の何物でもなかった。これなら、前の生活
の方がまだマシだった。つらくても、家族があったのだから。
 抜け出したい……そればかりを考えていた。
 しかし抜けだそうとすると、都合よく医者がやってくるのである。
 策をごろうじてもみたが、無駄だった。
 そして、佐伯氏にとって、待ちに待った三年目の朝がきた。
 彼は布団から飛び起きると、片づけも何もせずにそこを出た。
 医者は来ない。
 うれしさで飛び上がりそうになりながら、彼は家族の待っているはずの自宅へ向
かった。


『ドンドンドン!』
 力強く玄関のドアを叩き、
「今帰った! 開けてくれ!」
 と叫んだ。
 そして、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
 しかし、そこに待ち受けていたのは、絶望であった。
「あの……どちら様でしょうか……」
 そこには痩せこけた、疲れ切った女がいるだけだった。
 それが自分の妻であることは分かったが、しかし、こんなに痩せているとは思わ
なかった。三年前の太った身体はもうない。
『たった三年で……!?』
 佐伯氏は信じられない、と言う風に、首を左右に振る。
 まさか、自分のことを忘れられているとは、夢にも思わなかったのである。いや、
忘れられていると言うより、顔が分からなくなっている、と言うのが正解のようだ
った。
「ご用がないのでしたら……申し訳ないのですが、お引き取り願えないでしょうか」
「いえ! あの……」
 佐伯氏は言葉を換えることにした。「ここに、一郎という男が住んでませんでし
たでしょうか」
 すると女は、心の底から悲しそうな表情をし、
「一郎は……私の夫でした。でも、彼は三年前に姿を消したのです。私も八方手を
尽くしましたが、結局見つからなかったのです。今では、この家には私一人が住ん
でいます」
「一人!? 子供たちは!?」
「…………。長男は、一年前に交通事故で死にました。次男は、不良の喧嘩に巻き
込まれて、殺されました……」
 その口調はまるで、童話の語り部が台本を読むかのような口調だった。
 佐伯氏はがっくりと肩を落とし、茫然自失のていで虚空を見つめるのだった……。
 その様子を電柱の陰からこっそりとのぞきこんでいた医者が、ニヤリとほくそ笑
んだことは、誰も知らない。

                                    終