ヨオロツパ文明と日本

  明治以来、日本人のナイーブな魂はヨーロッパ文明の重圧に押しつぶされてきた。そのヨーロッパ文明の正体はキリスト教である。

  キリスト教というのはおかしな宗教で、本来絶対神がこの世に現れたりしたらおかしいのに、神が一人子イエスをこの世に遣わしたのだなどという。それで、イエスは神かというと、神とイエスと聖霊は三位一体だなどと訳の分らぬことを言う。 
  論理的には全く理解できないが、このイエスが神であったということから、キリスト教社会では理想に対する考え方が普通と全く異なってきている。本来、理想はあくまで理想で実現不可能なものだから、現実は現実として肯定するしかないと考える。ところが、神の子イエスがこの世に現れたということは、この世に絶対が一度は実現されたということであり、理想も実現しうるということを意味する。そうなれば、人は理想の実現に向って絶えず努力せねばならなくなる。

  ヨーロッパの都市は理想の都市を狙って造られていると思う。建物も永遠に続くことを建前として造られている。だから傷んでもなんとか補修しようとする。戦災で壊れても昔のままに復元しようとする。日本の建物のように初めから数十年の寿命を想定しているのとは全く違う。日本のビルは本当は地震を考えてヨーロッパよりも丈夫にできているのかもしれないが、見たところいかにも仮設という感じしかしない。ヨーロッパの建物は、中味は穴あき煉瓦で造ってあったとしても、なぜか堂々と感じられる。これは日本人のひがみのせいだけだろうか。

  理想と比べたとき、現世は不完全であり、人間もまた不完全である。神からは否定される存在である。でありながら、究極的には理想に近づきうるものである。ただし、そのためには永久に存在し続けねばならない。日本人が考えるように死んだらおしまいの人生では駄目なのである。existenceという言葉は当然のごとく永遠の存在を意味している。かりそめの存在は本当の存在ではなく、無である、少くともヨーロッパでは(実は私はこのことが永い間分らなかった)。
  その一方で、アメリカ人に見られるような極端な現実肯定はどこからくるのか。絶対には到達し得ぬことからの開き直りなのか。そうではなく、現実が理想への行程であるのなら断片的には理想を含んでおり、全く否定されるべきものではないということだ。これはカトリックからプロテスタントへと展開したことによる大きな変化であるが、キリスト教自体にもともと含まれていたのだと思う。カトリックでは現世はあくまで否定される存在であるが、教会の中では理想が実現されており、建物も、何百年かけてでも石造りの完璧なものを建てようとした。実は石造りでも完璧ではない。石も風化する。しかし、痛んだところは補修して永遠に存在させる。

  おかしなことだが、本来神の国を尊び現世を否定したはずのキリスト教が現世肯定にまわってしまったのだ。日本人は現世しか信じないが、であるが故に、この世の栄華を尊ばない。この世は所詮儚いもの、諸行無常と諦めている。だから、外交でも詰るところ己の利益を追求することに徹底できない。日本人にとってこの世とあの世とは断絶している。ヨーロッパ人はこの世を否定したが故に、逆にこの世をあの世とつなげててしまった。そして、理想への行程としてこの世に意味を持たせてしまった。
  しかし、その意味はあくまで行程ということであlり、すべては中間物になってしまった。この結果起った重要なことは、人間も目的のための道具に成下がってしまったということだ。人間が持っていたはずの全体性は失われ、単なる歯車になったのだ。組織のなかの歯車とよく言うが、ヨーロッパ文明では、少くともその継承者たるアメリカでは、本質的に人間は歯車なのだ。いかに自分の個性を主張してみたところで、人間は均一ではなくばらつきがあるというだけのことにすぎない。いろいろな機能が必要なので、人間もいろいろなのが必要ということにすぎないのだ。本質的に人間は理想に近づいていくための機能を持っていれば存在を認められるだけなのだ。

  大事なことは、ヨーロッパの理想へのあくなき行進がずっと続いており、かつ、それが世界を支配しているということだ。ヨーロッパの(正確にはイギリスの?)支店たるアメリカが先導となり、この極東の島国はおろか、アフリカの新興国も太平洋の孤島も有無をいわさずこの流れに取込まれているのだ。

  最近は、画一的にヨーロッパ化するのでなく、もっと民族性を活かすべきで、それが真の国際貢献だというふうによく言われる。それに賛成するのはいいが、それすら世界のヨーロッパ化の一環であることに気づかねばならない。すなわち、多様な文化を取込み、それにより、ヨーロッパが枯渇せずずっと主流たりうるというわけである。実際、このような発言をするのは大抵一見寛大な欧米人なのではないか。
  多様な文化は、そのままでは現地には残るがヨーロッパのものにはならない。柔術も、柔道になり、さらにjudoになることによりヨーロッパのものになった。すなわち、国際化ということだが、国際化というのは、現状では、ヨーロッパ化というべきところを当り障りのないように言換えているだけであることを認識せねばならない。いまさら、ヨーロッパ人は柔道の本質が分っていないとか、カラー柔道着はいやだとか、つべこべ言ってもはじまらない。今や日本人もjudoしか知らないのである。
  すなわち、国際化により古来の柔術は死に絶えたのである。もしかしたら、一部に残っているかもしれないが、所詮主流にはなり得ないのである。こうして世界のヨーロッパ化が進むのである。
  ヨーロッパ化とは、既に明らかであろうが、世界をユートピア実現への飽くなき行進とすることである。この世界では人は永遠に死ぬことがない。しかし生きながら死んでいる。

(H11.3.21)