趣味

  新聞に「數學者・隨筆家」藤原正彦氏へのインタビュウが載つてゐた(H11.1.22、朝日新聞夕刊)。
  英國の數學者について、「……數學の能力は當り前、それが文化的基盤に乘つてゐる。こちらの歐米についての教養なんて、とてもとても。シェイクスピアをこつちは飜譯でチョボチョボ、向うは全作品を血肉にしてる。」

  當り前である、イギリス人だつたら。日本人が源氏物語を諳んじてゐるやうなものだ。おつと、これはをかしい。
云ふのなら、「日本人がビイトルズのメロディをほとんど知つてゐるやうなものだ。」
「日本人ならだれでも炭坑節やソーラン節を歌へるやうなものだ。」
「日本人が漢字を何千字も讀めるやうなものだ。」
彼らは恐らく學校でさんざん習ふのだ。また、諳誦させられるのではないか。
源氏物語も日本人の血肉になつてゐるのだらうが、直接的ではない。あるいは、より體に染みついてゐるといふことかもしれない。

  シェイクスピアの話に續いて、「その上で、フィールズ賞の學者が、「漱石の『こころ』の先生の自殺と三島由紀夫の自殺について……」なんて聞いてくるんだから。」

  どうといふこともなささうだが、何か引つかかる。自分の人生と教養が分離してゐる感じがする。だから、シェイクスピアとか漱石とか、絶對的な權威とおぼしきものが出てくると弱い。シェイクスピアだらうが何だらうが、自分が飜譯でチョボチョボ讀んでおもしろくなければおもしろくないでいいのである。英詩の韻律のよさは分らない、五七調や七五調しか分らなければ、それでいいのである。他人がなんと云はうが、自分自身レベルが低いと思はうが、自分の現實を肯定し、見つめることからしか自分の滿足は得られない。本物は出てこない。ソーラン節が好きならそれがその人の教養であり文化なのだ。文化はいい惡い、高い低いの問題ではない。
  シェイクスピアを血肉にしてゐる人はなぜ尊敬に値するのか。社會的背景が異なるから趣味が異なるだけではないか。くどいが、漢字を血肉にしてゐる人とどこが違ふのか。
ソーラン節より、漢字より、シェイクスピアの方が上等だと云ふのか。單に傳統と趣味の問題だ。また、たとへ自分の趣味はレベルが低いと思つたとしても、好きなものは好きだと認めるしかなく、自分が興味ないものをいくら追求しても何も出てこない。自分の好きなことを追求することから始めるしかない。

  自分自身が何をしたいか、何が本當に樂しいかを考へるのが大事なのである。自分自身が本當に興味を持つてゐない、自分と關係のない議論をいくらしても自分のために何の役にも立たない。人のためにも勿論ならない。

「英國は、十九世紀までに繁榮を極めた。富、成功、地位、名聲といつたものを手に入れた。そして人間を本當に幸せにしてくれるものは、さういふものぢやない、といふことを知つちやつたんですね。米國人を「まだまだ若い」といふ目で見てゐる。」

  米國は若いのではなく、ピュウリタン思想が彼らを驅り立ててゐるのだ。彼らは自分が選ばれた人間、救はれる人間、永遠の命を授る人間であることを證明しなければならない。神に選ばれるほどの人ならば、現世でも役に立つであらう、それならば金も儲る筈である。結局、選民の證明は金しかないのだ。英國はピュウリタン思想を産んだが受容れなかつた。

  それから、富ではなく趣味が人間を幸せにすると云ふのか。さうではなく、人が生きて、富を追つたり、趣味を追求したり、樣々なことをして、それをおもしろいと思ふだけだ。富を追ふのがおもしろいと思ふ人がゐるのならひても別に構はない。趣味に生きる人がゐても構はない。自分の好きなこと、やりたいことをやるだけだ。それしかない。

  さういふ意味では、富を追ふのも趣味の一つだ。勝手におやり下さい。
ただ、そのことが自分に好ましくない影響を及してしてきたら、戰はねばならないだけだ。
實際のところ、富を追ふといふ思想が世界を支配してをり、我々は否應なくその中に卷込まれてゐる。その中で生殘るために我々の生活は歪められてしまつてゐる。
一番問題なのはさういふ状況にあることを認識してゐないことだと思ふ。

(H11.1.24)