百姓道と武士道−忠臣藏から

  NHKの大河ドラマで忠臣藏をやつてゐる。番組名は忘れたが。忠臣藏だととにかく見られる。昔から、歌舞伎でも映画でも、必ず客が入るさうだ。
  なぜ人氣があるのか。憎い仇を討つたといふことがいいのだらうか。また、横柄なお上の鼻を明したのも利いてゐるだらう。と輕く思つてゐた。それもあるかもしれないし、その方が大きいのかもしれないが、我慢に我慢を重ね、努力に努力を重ねてようやく本懷を遂げた、といふことが自分の氣持に何かしつくりあふものがあるやうな氣がしてきた。以前當つた「おしん」も似たやうな所があるのではないか。

  武士道の觀點からすると、昔から批判があるやうに大石のやり方は不合格で、江戸組が主張したやうにすぐにも吉良を襲ふのがまつとうなやり方だらう。それで返討ちにあつたとしても、少くとも武士の一分は立ち、名譽は守られる。馬鹿な田舎侍とあざけられることはあつても。
  「葉隱」に、武士道といふは死ぬことと見つけたり、とあるのは正にこのことで、生きるか死ぬかの時、早く死ぬ方を選んでおけば、犬死と笑はれることはあつても、最低限、卑怯者と罵られて生き恥をかくことはないといふことだ。すなはち、家名には傷をつけないですむ。
  しかし、著者の山本定朝自身、疉の上で死んでゐるやうに、これは單に心構へとして云つてゐるのである。思ひ切つてやりたいことをやれ、失敗しても腹を切れば最低限の名譽は保證されるので何の心配もいらない、といふことだ。
  薩摩の田中新兵衞のやうに、嫌疑をかけられただけで腹を切つて見せるのは、潔さの極致であり、なにか惹かれる所があるのは確かだ。しかし、これは所詮あだ花であり、一般の生き方にはならない。
  まともな日本人の生き方は、武士よりも百姓の生き方、いふならば百姓道が基本になつてゐる。百姓道と云つたのは、永い米作りの傳統から良きにつけ惡しきにつけ日本人に染みついた生き方のことを假にかう呼んだ。忠臣藏は百姓道の典型と思へる。勿論、武士道へのあこがれはあり、赤穗浪士も潔い切腹の死を賜るが。

  大石は、名譽もさることながら、徹底的に實利、現實の效果を尊ぶ。これは正しく百姓の米作りの思想だ。米作りは、原産地(?)インドなどではともかく、日本では普通一年に一囘しかできず、絶對に失敗は許されない。失敗したら飢死にしかない。その土地土地で苗代、田植、稻刈りと嚴密なスケジュールができてをり、それに則つて各々が綿密に計畫して進める。このスケジュールといふのは、その土地の氣候、水利などから永年の經驗により割出されたものだらうが、おそらく、それから外れれば收量の減少を招き、極端な場合は收穫できなくなることもあるのだらう。
  日本人にはこの米作りの思想が染みついてゐる。近代的な會社でもやつてゐることは全く同じである。だから、大前提の「氣象條件」が變化してしまふとおたおたして、經營者が「圓高さへなかつたら」などと云ひ譯して濟むと思つてゐる。
  これに對して、歐米は基本的に狩獵社會の傳統を殘してゐるやうに見える。永い農業社會の傳統があるにもかかはらず。おそらく、農業のやり方自體も日本とは異なつてゐるのだらう。日本人が百姓をやつていなくてもそのやり方が染みついて取れないやうに、歐米人には狩獵時代のやり方が染みついてゐる。基本的に、狩りの時だけ働いて、後はその蓄へで暮さうといふ意識が強いやうに見える。また、リスクを承知でいろいろやつてみて、駄目ならさつと轉換する。
  日本人は生活の糧を得ることに關しては賭けるのが嫌ひで、米作りのやうに確實な道を好む。また、失敗の判斷ができず、一所懸命頑張つて傷を廣げたりする。この「一所(一生)懸命頑張る」といふのは日本人の習性になつてゐる。とにかく頑張つて耕したり草取りをしたりしてゐれば、それなりに收穫が増える。しかし、狩では、まづは戰略が問題で、表面的な努力と收穫は比例せず、寢て待つてゐた方が獲物が多いこともある。

  日本人はずつとこの百姓道で歐米の眞似を一所懸命やつてきて、それなりに所期の成果を擧げてきた。この「眞似をする」といふのも日本人の習性である。隣の大百姓の眞似をして、苗代を作り、田植をすれば、ちやんと米ができる。ヨオロツパでは眞似をしない。眞似をするといふことは文化的に征服されることであり、自分あるいは自分たちの民族の存在が無くなることである。血統は續いても文化的に征服されたら民族としては滅亡である。たまたまよく見えようが惡く見えようが、自分は自分であり、自分のやり方は絶對に變へない。變へられない。例へば、あるパン屋が、隣の町のパン屋がえらく評判になつた時、しかし自分のパンの味は絶對に變へないと云つてゐた。その點、日本人はどうなつてゐるのか。一見大きく變つてしまつたやうにも見える。しかし、肝腎の所は全然變つてゐない。明らかに歐米文化の植民地になつてゐるのに、歐米文化が殆ど身に付かず、中味は昔のままである。
  海でほかの民族と隔てられてゐるせいか、また、他民族の侵入も今までの所ないせいか、海外文化を受入れてもそのままでは受入れられず、必ず自分で消化できる形でしか定着していかない。なかには本格派を氣取る連中もゐるが、異國情緒が多いか少いかの違ひでしかない。その結果、何が入つてきても、例へば、「中華風」日本料理とか「西洋風」日本料理とかにしかならない。日本には日本料理しかないのである。豚カツもカレーも日本料理の一部である。西洋風日本料理用の「醤油」がウスタァソオスである。西洋の文學も、飜譯されて日本文學あるいは日本語文化の一部になつてゐる。なかには本國でよりも賣れてゐる作家もゐる。

  海で隔てられて、と書いたが、日本の場合、外國文化が陸續きでどんどん押寄せてくるのではないのに、自ら好んで取入れてゐる。自ら文化的な屬國になつてゐる。そして和魂洋才などとうそぶいてゐる。確かに、洋魂にしろ支那魂にしろ、全く取入れられてゐない。キリスト教は、殆どあらゆる宗派が日本に入り込んでゐるが、單にエキゾチシズムを滿足させてゐるだけである。神道のキリスト會派といつた程度の存在ではないのか。本人は眞面目に神を信じてゐるかもしれないが、その神とはどんな神なのか。本當にキリスト教の神なのか。八百萬の神の一人ではないのか。
  少くとも私は、絶對神といふのは理窟では一應理解できても、感覺的にはとても受入れられない。信じるための素地が全くないからか、神を信じるなどとはとても照れくさくて云へない。さういふ人を見てもお高く止つてゐるとしか思へない。そもそもそんな必要がないのだ。この世には神も佛もないといふ絶望の先にしか絶對神の思想は現れない。個人の問題ではなく、民族としてさういふ嚴しい世界を生延びてこないと、絶對神の生きる環境、必要性は出てこない。必要のないところに眞劍味はない。本人は眞面目なつもりでも、呑氣なお孃さん藝といふか、付け燒刄でしかない。いざとなればぼろが出る。

  洋魂の中樞はキリスト教にある。日本人は洋魂を拒んで和魂を維持したのではなく、洋魂が理解できないから和魂でいくしかないのである。キリスト教から生れた科學も從つて理解できない。
  技術は、科學の成果を利用はするが、本質的に實用を目的としたもので科學とは別物であり、日本人もある程度はものにしてゐるが、科學を理解してゐる人は少いのではないか。病膏肓に入つたやうな最近の物理學はむしろ馴染みよいのかもしれないが、古典物理學を本當に理解してゐる日本人はどれ位ゐるのだらうか。
  私は技術者のはしくれだが、正直云つて古典物理學を理解できてゐない。そもそもちやんと勉強してゐなかつたのだが、仕事の上で必要になつたときに必要な部分をおさらひしたけれども、本質的に理解できたとは云へない。時間が無かつたのも確かだが、必要なことさへ分ればいいといふ態度だつたのがやはり原因だらう。つまり、科學自體をやるといふ必要性がないのである。

  日本人は、ヨオロツパで生れたものをすべて取入れたわけではなく、向うで一定の評價を得てゐるもの、日本で役に立ちさうなものだけを輸入した。だから輸入品=いいものになつた。向うでは試行錯誤でいろいろやつていいものだけが殘つたのだが。大戰後もアメリカの低俗な文化が怒濤のやうに流れ込んできたやうに云はれてゐるが、結局日本人は自分に役に立つものしか取入れてゐない。
  それだけ日本人はしつかりしてゐるのか。さうではなく、ただ海外文化の心髓が理解できず、眞似できるところ、すなはち形だけ眞似してゐるのである。およそ精神が關はつてくると全く齒が合はない。

  アジアでもこれほど精神の能力のない、無邪氣な人種はゐないのではないか。それといふのも、そんなものの必要がなかつた。明治までは海に守られて何の困難もなかつたし、唯一戰つた先の大戰も、民族滅亡の危機には全然ならなかつた。
  と一應云へるが、實は、アメリカは日本人を骨拔きにして、ヨオロツパ文明圈に完全に、とまではまだいかないだらうが、組込んだつもりかもしれない。ある外國人から、まさか骨を拔いたとは云はないが、日本はほかのアジア諸國と違つて我々と全く變らない、違和感がないと云はれたことがある。しかし當の本人は全く骨を拔かれた記憶がない。日本人には拔かれるやうな骨がもともとないのだらう。それほど日本人といふのはどうしようもない子供なのか。

(H11.8.16)