ヨーロッパは個人主義の世界と言はれてゐる。しかし、日本サッカー監督のトルシエと中田英寿の食ひ違ひの話を聞いていると、本當にさうかと疑ひたくな る。中田の方がプレーで力を出せばいいと個人主義的で、トルシエの方がチームの和やリーダーシップを重んじる樣に見えるのある。 ヨーロッパは個人主義を理想としてゐるのではない。彼らも同じ人間、我々と同様、全體に繋りたいと藻掻いてゐるのである。しかし、現實はなかなかそれを 許さない。他人は信じられず、自分の面倒は自分でみるしかない。そもそもカトリックの救ひが疑はれだしてからは、自分の救ひは自分で確保しなければならな い。 つまり、決して理想と思つてゐる譯ではないが、現實がさうなつてゐるのである。個人本位で生きていかねばならぬ状態に落込んでゐるのである。個人主義は 生きていくための必要惡にすぎぬ。 しかし、今日の糧を確保し、自分だけの救いを確信したからといつて、それで人間、心安まるものではない。やはり、暖かいつながりが欲しい。であるから、 社會のため、全體のためといふのが前面に押出されるのである。 日本人はどうなのか。日本人は、初めから救はれてゐる。日本では、佛教による死者の弔ひと先祖の祀りの組織ができてをり、人は安心して死ねる。肉親の法 事といへば遠きを厭はず郷里に歸る。歸るにつけて色々とほかの理由を言ふかもしれぬが、やはり法事だからなのである。勿論、十三囘忌とか三十三囘忌とか、 年數が經つていけば段々と施主とその家族だけのことが多くならうが。 魂は知らぬ。しかし、子孫の祀りは確保されてをり、死んでも人との繋がりが斷たれることはないのだ。であるから、何の憂ひもなく死ねる。 ヨーロッパ人はリア王の世界に住んでゐる。他人は一切信用できぬ。誰も助けてはくれぬ。のたれ死にしかない。リア王の様に不幸な人は、といふのではな い。人間、すべて、さうなのである。たまたま優雅に暮してゐても、一皮剥けばみな同じ、荒野にひとり屍を晒すしかないのである。 (H14.1.5 土) |