「元漫画家」青木雄二氏の「ナニワ資本論」の新聞連載が終った(平成10年12月26日)。
(H11.1.2)
この人は一貫して唯物論を主張しており、最終回ではそのことを念を押して、
「われ思うゆえにわれ在り」ではなく、
「われ在りゆえにわれ思う」が正しいといっている。
物質があってはじめて精神作用も起りうるという意味であろう。
物質がすべての根源であり、精神は物質の作で生じた幻のようなもので、
死んでも魂が残るとか、あるいは霊魂の力とかいうようなことはあり得ない。
青木氏は言う。
「心の中で何かを思うことによって机を1センチでも動かすことができるでしょうか?」
青木氏が強調しなくても、大部分の日本人はそのように考えている。私もそのようにしか考えられない。
ただし、日本人の場合、「唯物論」というほどのものではなく、
正確には、即物的思考というべきだろう。
つまり、精神とか、神とか、抽象的なことを考える能力が一切なく、
この目で見えるものしか信じない、というより理解できないのである。
そのため、観念論の抽象的な議論はとっつきにくいが、唯物論には親しみやすいのである。
しかし、そこで止まってはだめなのである。
物質は誰が造ったのか。また、物質が従っている物理法則はどこで決ったのか。
そこまで追求しないと、神頼みの代りに物質頼みしているだけである。
神は目で見えないからその存在は信じられないが、
物質は目で見えるし触れるからから存在しているのは確かだと、
物質を信仰しているだけである。
だから、日本の「唯物論者」は幽霊を怖がったりする。目に見えたものはやはり存在するかもしれない。
唯物論というのは、キリスト教のような、絶対神ではあるが人格を持った神を信じないというだけで、
物質を存在させ支配している自然法則を信じている。
つまり、神が肉体や人格を失い、抽象化され、自然法則に変っただけである。
ヨーロッパでは、永い間神が支配してきたが、カトリック教会が崩壊し信じる力を失っていった。
そこで思いついたのが唯物論で、絶対神信仰の新しい形態にすぎない。
すなわち、唯物論はキリスト教の一変形にすぎない。
逆に言えば、キリスト教は神秘思想でもなんでもなく、科学を生んだ母胎だということだ。
絶対神がすべて支配しており、自然も、また人間も、勝手な行動はできないというのがキリスト教である。
ギリシャ神話のゼウスは運命の女神には手も足もでなかったが、
絶対神は自然の法則も人間の運命もすべて決定する。
この思想のもとに科学も生れた。
八百万の神のもとには科学は始らない。個々の現象に対する合理的な解釈はなされても、
あるいは、実用上重要な発明はなされても、すべてを司る原理などという発想は出てくるすべもない。
日本人は、本人は「キリスト教徒」だとか「唯物論者」だとか、あるいは「科学者」だとかいっていても、
中味は昔ながらの素朴な「かんながらの道」から一歩も出ていない。
神道はあの世のことは一切論じない。分らないから何も言えないのである。
せいぜい、死ねば黄泉の国に行くのだろうというだけである。
しかし、いざなぎの命が黄泉の国のいざなみの命から逃げ帰った時に入口を大石で塞いでからは
生者は黄泉の国へは入れなくなった。
神道においては、死んだものは生者の心の中に生きているという意味で生と死は連続であるが、
互いに往来はできず、その意味では断絶している。
だから、明治に土葬が禁止され火葬が強制されても、大して抵抗なく受入れられた。
キリスト教では未だに土葬であるが。
要は、日本人は死んだらおしまいだということだ。
死後の世界とか、救いとか、言葉としては言っていても、誰も本気で考えてはいない。
本当は死んだらおしまいだと思っている。
だから、死ぬのは怖い。それで、仏教が入ってきて成仏を約束するとみんな飛びついた。
しかし所詮表面だけである。本当は死んだらおしまいと分っている。
キリスト教徒の場合も同じである。
日本には、元々、神々はいても神はおらず、物に即してやってきた。
だからすべて形を重んじる。形のないところに真実はない。
お宮に参ってもかしわ手を打たねば参ったことにならない。
墓参りに行ってもそれなりに拝む形式がある。
形しか信じないという意味で、唯物論は日本人にはなじみやすい。
キリスト教とか、観念論とかは、精神を云々するので、日本人には理解しがたい。
しかし、唯物論は、精神は物質の作用によっていると言っているだけで、精神を否定しているわけではない。
というより、むしろ、精神を肯定するために、従来の神の代りに物質を持出してきただけではないのか。
魂は永遠と考えてきたが、神を信じる力を失った以上、一度すべて破壊してみただけだ。
破壊してみてもやはり精神は存在するということだ。
ヨーロッパでは「存在」というとき、永遠にということを念頭においている。
そのうち消えてしまうようなものは存在したとは言えないのだ。
進化論が未だに問題になるのもこのことが関係している。
もし、ある類人猿が人間に進化し消滅したとすると、その類人猿は存在しなかったことになり、
さらに、人間もそのうちまた新人類に進化していくとすると、人類も存在しなかったことになる。
結局、なにもかもかりそめのものになり、守るべき文化も何もなくなってしまう。
これがヨーロッパの進化論に対する本質的な危惧である。
日本人なら、たとえわが魂は消えても、自分が存在したという事実は消えないと考える。
ヨーロッパ人は永遠の命を欲する。
あるいは、永遠に自分の足跡を残さねばならないと考える。
この違いから風俗、文化、すべてが違ってきている。
これはどちらが正しいとかいうことではなく、最後は趣味の問題になるのかもしれない。
いずれにしても、この違いをよく考えないといけない。