自然淘汰

  ピンカーといふ人が書いている。「(自然淘汰は)目のように複雜な器官が進化してくることを説明しうる、唯一の道なのだ。~か自然淘汰かの二つしか選擇肢がないのは、目のような機能をもつ構造が、物質の偶然の配列として存在しうる確率が極めて低いからである。(中略)この矛盾を解決するのが、自然淘汰である。現在、目がよく見えるのは、その目の持ち主が、競争相手より目がややよく見え、それゆえに増殖で競争相手を上回ることができた先祖たちの長い系列に連なっているからである。」(スティーブン・ピンカー著、椋田直子譯、言語を生みだす本能、下卷191ページ、日本放送出版協会、平成7年)
  引用の前半では、目ができた過程が自然淘汰で説明できるやうに言つてゐる。しかし、後半の説明は、目が既に出來てゐたとして、その機能の發逹を自然淘汰で説明してゐるのみである。肝心の目の發生には触れてゐない。既にある器官の機能の變化よりも、器官が如何にしてできたかが問題である筈である。自然淘汰は根本的に既にある器官や機能の發逹の説明にはなるが、水晶體とか虹彩とか、複雜な器官が如何にしてできたのかまで説明できるのか。

  「ある器官が發逹すると、とくに目的がなくてもくぼみや隙間ができることはある。人間の背骨がS字型に曲がつてゐるのはその例だ。しかし、さうやつてできたくぼみに偶然に、レンズと角膜と虹彩が集まつてゐて、しかも、像を結ぶやうに配列されてゐる、などといふことはありえない」とピンカーは書いてゐる。あり得ないことが、自然淘汰によつては起るといふのはなぜか。一度にはあり得ないが、長時間かけて小さな變化の積み重ねで起るといふのか。

  進化論者のいふことを聞くと、「時間」といふ言葉に騙されてゐる樣に思へる。それともうひとつ、「微小變化」といふ言葉と。「目のような機能をもつ構造が、物質の偶然の配列として存在しうる確率が極めて低い」と書いてゐるが、すなはち、偶然には起りえないと一旦は認めてゐるのである。それにも拘らず、時間をかけて少しずつ變化すれば、極めて低い確率の事象も起ると言ふのか。宇宙の年齢のスケールで考えても(そんなものが人間に分るのか疑はしいが)、極めて確率が低いといふことではないのか。一瞬にして行はれる、といふのと、長い時間かけて行はれるといふのと、どこが違ふのか。人間の時間感覺からしたら大いに違ふかも知れぬが、~から見たら何の違ひがあるのか。一瞬の間にも~は無限の仕事を行へるし、宇宙の年齡といふのも~にとつてはほんの一瞬かもしれぬ。あるいは、微小の空間にも全宇宙が存在してゐる。
  一度の變化は僅かだから偶然に起り得て、その積み重ねなら、起り得ない樣なことも起り得ると言つてゐるのだが、僅かの變化といつても、有限の變化である。例へば、ある細胞が光を感じる樣になり、かつ、それが中樞にまで傳達され、認識される樣になるといふのが最も原始的な目であらうが、こんなことが偶然に起るといふのか。それが次第に複雜化して目になつていつたのだとして、例へば、最初のレンズの発生とかは、やはり偶然起つたのか。完全なカメラは偶然には出來ないが、簡單なカメラなら偶然に出來るのか。如何にして偶然から、あるいは偶然の積み重ねでその樣な変化が起りうるのか、その道筋を具體的に説明しないと、單に~の手を認めたくないといふ感情論になつてしまふ。~の代りに、譯の分らぬところを自然淘汰の呪文で切り拔けているだけである。

  感情論と言つたが、實際、さうなのである。前掲書の引用箇所の少し手前に、「(ドーキンスの著書に~學者ペイリーの引用があり、ペイリーが言ふには)目を考察すれば、見えることを目的に設計されたように見えることにいやでも氣付かされる。人間の作つたカメラに驚くほどよく似てゐることだけ考へても、そのことに氣付かずにゐられない。時計に時計作りが、カメラにカメラ作りがゐるやうに、目にも目を作つた存在がゐるはずだ。それがすなはち~である。現代の生物學者も、ペイリーの問題提起のしかたには贊成する。贊成できないのは答だけである。ダーウィンが史上最も重要な生物學者なのは、自然淘汰といふ純粹に自然的なプロセスによつて、「極めて複雜、かつ完璧な器官」が作られうることを明示したからである。」とある。
  「純粹に自然的なプロセス」といふ言ひ方に、~を認めてはいけないといふ氣負ひを感じる。ところで、ダーウィンは自然淘汰で複雜な器官が作られると明示したのか。不勉強で分らぬが、作られたのではないかと考へただけで、何も明示してはゐないのではないか。
  遺伝子頻度の變化や小さな突然変異の積み重ねで、種が變化したり、新種が現れたりするといふのは、何も進化論などと構へるほどのものでもなく、單に種の變化の歴史がさうだつたのだらうと言つてゐるだけである。それが~の手で行はれたのか、偶然といふ~の采配だつたのか、そんなことは科學の與り知らぬことではないか。しかし、どうしても偶然だと言ひたいのなら、その確率くらゐ計算したらどうだらう。

(平成12.7.20)