自然淘汰  その二

 進化論は、生物がすべて一時にできたわけではなく、單純なものから變化していろいろな種ができたと言つてゐるだけで、その變化が如何にして起つたかについては何も触れてゐない。
 進化は自然淘汰により起るかのごとく言つてゐるが、生物に新しい器官ができるとか、器官の機能が變化するとか、或は新種ができたとかしたとき、その變化が殘るかどうかが、自然淘汰により決るといふだけで、變化そのものがどのやうにして起るかは一切説明してゐない。進化或は變化の機構そのものについては、實は、何も言つてゐないのである。
  要するに進化論といふのは殆ど實體のない議論で、例へば、~が生命を創造したとき一瞬にしてすべてが終つた譯ではなく簡單なものから逐次創造した、といふことと何ら變はりはない。

 歐米では進化論は哲学的に問題視される。チェスタトンは進化論は思想を破壞する思想だと言つてゐる。進化論を押し進めると、人間は進化の連鎖のなかのひとつに過ぎず、今後人間がさらに進化して別の種になることになる。進化の過程で消滅してしまつた類人猿の樣に、人類も消えてしまふのではないか。ヨーロッパ人にとつては、存在とは永久に存在するものを言ふ。消えてなくなるものは存在とは呼べない。人類も永遠の命など望むべくもないかげろふに過ぎぬのか。
 それこそ~のみぞ知るである。人間は少しずつ變化はしていくのかもしれないが、別の種になる譯ではなからう。ただ、突然變異で別の種ができて、人間を滅ぼして仕舞ふことはあるかもしれない。しかし、さうなつても、人間が存在したことを~は忘れないだらう。人間は覺えてゐなくとも。
 ヨーロッパ人にとつては、進化論でほかの動物と人間との間に一線を劃せるかどうかといふことも問題である。しかし、あるとき、類人猿をもとにしてかどうかは知らぬが、萬物の靈長たる全く別の存在たる人間ができたと考へれば、問題にはならない。「できた」といふのは、偶然により、といふことだが、偶然すなはち~の手といふことである。物質の作用に過ぎないと進化論者は言ふだらうが、物質は~の創つた法則に從つてゐるだけであり、物質すなはち~なのである。
 それにしてもなぜヨーロッパ人は人間を特別な生物と考へたいのか。つまるところ、動物の肉を食つてゐることを正當化したいだけではあるまいか。動物も魂を持つてゐたところで困ることは特にない筈である。ただ、その肉を食ふといふことになると、われわれは殺人者になつて仕舞ふ。それがしかし人間存在が惡であることのひとつの證左だと思ふ。日本人はつきつめて考へないからそんな認識はないが。一方ジャイナ教徒は、蟲を殺したらいけないから耕作もしないといふが、しかし結局誰かが殺蟲しながら耕した土地でとれた野菜を食べてゐるのである。

 それにしても、日本人は進化論をなぜ「科學的」だと思ふのか(つまるところ、科學を眞理あるいは論理的の同義語と解してゐるのであらうが)。科學は假設を立て、實檢により檢證していくものである(ただし檢證は、通常、必要條件のみで、十分條件までは行はれない)。進化論はなるほど假説を立てたやうに見える。しかし、そもそも假設とは言へないのではないか。例へば、哺乳類は、みな同じやうな骨格を持つてゐることなどから、共通の祖先から進化してできたのではないか、と考へることができるといふやうなことであり、そもそもこれは檢證は出來ないのである。史實が實はああだつたとかかうだつたとか言つても、檢證はできないのと同じである。檢證できないことは假設ではない。歴史であつて科學ではない。しいて言へば哲學である。
 科學でないにしても學問であらうとするのなら、種の變化が實際どんな機構で起つてきたと考へるのかを明らかにすることが必要だらう。突然変異だとかなんたせとか言つてゐるが、例へばどんな原因で突然変異が起つたのか。また、突然変異で新種が出來たとして、個體が一匹だつたらどうして子孫を残せたのか。全く同じ突然変異が二個以上の個體に起つたのか。

 生物が單細胞のものから出發して變化してきたといふのならさうかもしれぬと思ふ。しかしその機構が偶然の積み重ねであるといふよりは~の手によるといふ方がまだ筋が通つてゐる。
 人間の存在が永遠でなければならぬとは思はない。魂が永遠でなければどうだといふのか。代々の積み上げで地上に~の國を造らうといふ目論見がつぶれて仕舞ひ、自分の存在理由がなくなつてしまふといふことか。この世は流轉し、確かなものは何ひとつない。いや、ひとり~のみは永遠である。

(平成12.8.3)