| 大橋巨泉
タレントの大橋巨泉の文章が朝日新聞に載つてゐたが、どうも氣に食はない。次の樣なことを書いてゐる。「何事も、個人の自覺と責任において行ふのが基本の歐米と、リーダーに引つぱられないと出來ない日本。たかがスポーツと言ふなかれ。このメンタリティーを克服しないと二十一世紀の國際化時代に、日本は生残れないと思ふ。ほかのファンの自由な觀賞をを妨げるといふ立派な理由があるのだから、ボクは(プロ野球の)私設應援團は禁止すべきだと信じてゐる。」
この手の論調は、この人に限らず、よく見られる。今マスコミを賑はしてゐる、「文化的」なことをいふ人は殆どさうだらう。昔流行語にもなつた「進歩的文化人」といふやつである。なぜか知らぬが、自分だけは日本人の集團から拔け出してゐる。そして、高所から見下ろして、日本は未開だと嘆く。しかし、自分だけは未開を卒業し歐米式の?養を身につけてゐるつもりであるから、決して自分自身の問題だとは思つてゐない。氣樂な稼業である。
そして、最後は憂國の情もだしがたく、日本を叱るのである。日本が生残れなかつたら、自分も飯が食へなくなるから心配なのだらうか。
明治以来の歐米をお手本にした追ひ付き追ひ越せ、富國強兵と全く變つてゐない。自分といふものを見失つてゐる、といふより全く自分がないのではないか。人が言ふことをすべて鵜呑みにして、といふのは、歐米から輸入された思想はすべてむかふで試験済のものばかりだから悪いはずはないと信じ込んでをり、眞劍にものを考へたことがないのである。そして、現實が合はなければ現實の方が遲れてゐると叱咤するのである。
何か主張していても、歐米からの輸入だから間違ひない筈と思つてゐるだけで、本心から主張してゐるのではない。主張すると言ふのは、本來、間違つてゐる可能性を残しながら暫定的に言つて見るといふことでしかないはずである。發言し、行動して、過ちが分れば修正していく。それしかない。しかし、進歩的文化人は決して過たず、修正もしない。そもそも自分と全く關係のないこと、全く興味のないことについて法螺を吹いてゐるだけなのである。
歐米は「何事も、個人の自覺と責任において行ふ」といふが、それはあくまで建前であつて、現實は歐米といへども必ずしも個人が確立されてゐる譯ではない。リーダーに引つ張られてとんでもないことをしでかすことがあるのは、ナチスの例を擧げるまでもなく明らかであらう。
日本人は當然個人の自覺は弱い。しかし、?を持たぬ日本人が歐米流の個人を確立するといふのは、どだい無理である。さらに、歐米流の個人主義自體がもはや行き詰まつてゐるのではないか。
といふより、もともと個人主義といふのはそんな明るいものではない。中世の?會を頂點とした共同體が崩壞したとき、放り出された個人は自分以外何も頼るものがなかつたといふ結果をいつてゐるに過ぎない。
しかし、ヨーロッパでは、?會の代はりに國家といふ共同體を造つた。それ故に個人が完全には確立しないのか、確立しないのを國家が補つてゐるのか、恐らく兩方であらう。
これが「國際化」といふことである。中世は世界はひとつで、都市とか貴族や?會の領地とかはあつたが、國はなかつた。近代國家はなかつた。それが、いくつかの國に分れて競ふ樣になつたのが國際化といふことである。日本がひとつだつたのが本州、九州などに分れて競爭するやうなものであり、分れてももともとひとつといふ連帶感は當然殘つてゐる。
當のヨーロッパは、支店のアメリカの成長や植民地アジアの經濟発展に對抗するため、國の垣根をいくらか取除いてECとして團結しようとしている。とは言つても、ヨーロッパではいつの時代でも地方はそれぞれその獨自性を守つて來た。それは今後も變はらないだらう。
(平成12.8.16) |