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賣春は惡か
たまたまある雜誌で賣春の是非をを論じる文章を見かけた。斜め讀みしたが、何を云ひたいのかさつぱり掴めなかつた。筆者は全く昏迷に陷つてゐるとしか見えなかつた。だから、反論も何もない、根柢から解すしかない。
そもそも賣春は惡であるか否かと議論することがをかしい。もともと、性行爲自體が惡なのである。更に云へば、人間存在自體が惡なのである。
キリスト教ではさうなのである。吾々日本人はキリスト教徒ではないが、ヨオロツパキリスト教文明の支配下にあつて、その敷いた路綫の上を走らされてゐるのであり、有無を云はさずその教理を押しつけられてゐるのである。
キリスト教では、人間を二面から捉へてゐる。人間は神に到逹する可能性を祕めてをり、その極限としてイエスがある。しかし、現實の人間は惡である。神性を備えた人間ではあるが、生きていく以上、パンも必要であり他人と關はらざるを得ない。その瞬間に人は惡人になつてしまふ。
私が地上を歩けば、蟻を何匹か踏んでゐるかもしれない。これはあまりにも些細な例へかもしれないが、生きるといふことは本質的に他人を押しのけることになるといふことである。ヨオロツパでは侵掠や戰爭の絶え間がなく、民族皆殺しとか、えげつないことが頻繁に起つてゐる。當人は自分たちが生延びるためにやつたことで惡いと思つてゐないのかもしれないが、日本とは桁違ひの惡が行はれてきた。日本人は、自然に惠まれ、外敵の侵入もなく、そこそこに生延びてこられた希にみる幸運な民族である。そのため、人間の惡を認識しないできてしまつた。
カトリツクは人間を神性の面から律しようとし、神と人間を仲介するものとしての教會が中心になつて社會を構築しようとした。惡である人間は、惡であるまま、教會を通じて神の愛により救はれる。教會で神の前で結婚した場合のみ種族維持のため性行爲も許される。
「愛」のない性行爲は許されるか、といふ議論もあつたが、根本的に教會で結婚した場合のみ性行爲は許されるのである。愛があればとかなければとかいふものではない。
また、愛と性行爲は別である。人はみな隣人を愛さねばならぬが、愛したからといつて性行爲を欲するわけでも許されるわけでもあるまい。愛とは神の愛で、夫婦愛、家族愛、友情、すべて神の愛に通じるものであり、性行爲につながるものではない。夫婦のみ性行爲が許されるが、愛があるからではなく、夫婦であるからである。
神の愛といふ極限に至る過程のひとつとして、男女間の愛もあり得るが、愛に性行爲は必須ではない。性行爲に心のつながりは必須であるが。
オランダやドイツでは賣春が合法化されてゐるのはなぜかといふ疑問も提出されてゐた。倫理的、宗教的に惡であつても、國家の法律で處罰するかどうかは別問題である。英國では男色を禁止する法律があつたが、數十年前に廢止された。しかしキリスト教では惡であることは依然變りない。飮酒も、囘教國では禁止されてをり、またアメリカで禁止されたこともあるが、カトリツク國では法律で規制はしてゐない。ただ、飮んだくれてゐたら社會的に制裁されるといふだけである。
兩國の場合、現實に行はれてゐるのなら、闇に放任しておいてはいけない、きちんと制禦した方がより惡くならないであらうといふやうな發想ではあるまいか。
日本人には、元來、人間が惡であるとか、性行爲が惡であるとかいふ發想はない。賣春もそれ自體惡であるとは誰も思はない。善惡で物事を判斷しようなどとは考へてゐない。そもそも、惡といふ發想がない。善とか惡とか、そんなことは全く考へない。ただ、見苦しいことはしたくない、また、見たくもない、といふことだ。逆に云へば、見苦しくなければ何をやつてもよいといふことである。
賣春は昔からあるが、あくまで裏の世界の存在でしかなかつた。また、「買春」の方も、やはり、表向き認められたものではなかつた。江戸時代の郭は精一杯美化しようとしてはゐたが。
最近の傾向として、段々おほつぴらになつてきたいふことがあり、それがこのやうな議論を呼び起したのだらう。しかし、單に人間が露惡趣味になつてきてゐるだけで、本質的な變化とは思へない。
露惡趣味といふのも、詰るところ、キリスト教の愛だの善だのとなじみのないものを押しつけられた苦しさから出てきたものであらう。しかし、最近の場合は、苦し紛れの開き直りといふより、開き直りのポウズに自己陶醉してゐるだけのやうに感じられる。
「愛」のない性行爲といふ議論は、正確には、心の通はぬ性行爲とでもいふことであらう。日本人にはそもそも愛などあり得ないから。日本には、戀はあつても愛はない。友情はあつても隣人愛はない。
この手の議論の根柢には、性行爲のやうな肉體行爲は、精神や魂とは無關係といふ發想がある。しかし、キリスト教のいふ純粹の精神が、パンなくして生きられぬ人間にはうそ僞りであり極限値でしかないやうに、魂と切離した純粹の肉體といふも架空の話でしかない。
性行爲は、男の場合、女の魅力と快感への期待とからそこに導かれる。女に魅力を感じるのは、根本的には性慾が原因であらうが、それだけかといふとそれだけではない。また、快感にしても、肉體が原因ではあるが、それを感じるのは魂である。
痛みでも、誰かにさすつてもらつたり手を握つてもらつたりするだけで隨分和らげられるものである。性行爲においてもこのやうな現象が起つてゐるのではないか。早い話が、自慰によつては深い滿足感は得られないだらう。
ヨガでは、性交において女もなにかある物質を發散してゐるといふ。それを男も吸收することにより疲れることなく逆に精力がつき、また深い滿足も得られるといふ。本當になにかを出してゐるかどうかは分らぬが、云つてゐることは間違ひないと思ふ。
日本人は善惡ではなく美を基準として生きてきた。省みて己の姿が清く正しければよい。惡く云へば「みえ」をはるといふことでり、消極的な表現では「恥」をかきたくないといふことである。神を持たぬ吾々は今後もこのやうな生き方しかできないであらう。
賣春について云へば、當然見よいことではない。では賣春を行つた人はすべて惡いか。銀行員にも、まじめな人もいようが、法を堂々犯して恥ぢぬ輩も澤山ゐる。賣春婦にもいろいろな人がゐるであらう。
日本人の生き方の弱點は、一旦崩れたとき、恥をかいたときの立直りができないことである。できないわけではないが、お手本がないのである。恥を恥とも思はぬ人は得をして、惱む人はなかなか立直り方が分らぬといふ傾向がある。
「葉隱」は、いくら失敗しても腹さへ切れば、馬鹿とは云はれても卑怯者と云はれる恥はかかずにすみ、最低限の名譽は保たれると説いて、日々堂々と生きる智慧を與へてくれた。しかし、恥をかいたときの身の處し方は教へなかつた。腹を切つても一旦かいた恥は雪げない。それ以上の恥はかかないが。捕虜になつた日本軍人は米軍に從順で協力的だつたといふ。このやうな場合の身の處し方のお手本がないので、どうしていいか分らないのだ。
結局一旦恥をかいたらお仕舞なので、人々は恥を恥と感じないやうになつてきた。少くともそのやうな人しか生きにくい世の中になつた。日本人から恥の感覺をとつたら何が殘るか。單なる野蠻人である。恥を恥と感じながらも強く生きることはできないのか。
ヨオロツパ世界では、わが姿に勝手に惚れてゐても、氣分だけでは他人には通じない。絶對的な基準に照らして正しいと主張しなければ、お互いに俺の方が正しいと云ひ合ふだけになつてしまふ。といつても、實際はやはり俺が正しいと云ひ合つてゐるだけである。そしてやはり結局強い方が勝つ。ただ違ふのはお互いに自分の後ろには神がついてゐると信じてゐる。その效果として、失敗してもへこたれぬ強さを持つてゐる。
また當人たちは神の國を地上に實現しつつあると信じてゐる。しかし少なくともプロテスタント以降は、狂信的に救ひを追求した結果、この世を地獄にしてしまひつつあるのではないか。
(平成11.11.7) |